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戦争を考える
94
:
犀角独歩
:2005/11/24(木) 11:12:30
> 英雄視しているわけではないのです。反対者への怒りと侮辱というつもりもありません。
では、あなたに限り、字句通り、承っておきましょう。
しかし、武器を握る軍人・軍隊と丸腰の市民ではそこに決定的な力関係の相違があります。この官・軍:民をあなたは同一視点から論じているように感じたわけですが、わたしはここには決定的なヒエラルキーがある点から批判している違いがあります。
> ただ、視点が違うことを書いてみたかった。
わたしの視点からすれば、84、85に書いた如くです。
まさに視点が違います。
> 国家を考えたとき、自衛隊の存在は否定はできない
できないでしょうね。
しかし、これは国民という自分が納得せざるを得ないのですが、仏教徒いう自分は受け入れられないダブルバインドがあります。
> 仏教徒としてそれを考えてはいけない。考えること、それ自体が既に「不殺生戒」を犯すことになる
考えてはいけないというより、むしろ、この点は良心的兵役拒否といった範疇に入る個人的な観点ではないでしょうか。
元来仏教は全体主義ではありません。国家全体を考えるようにはできていません。各人が各人の修行によって、平安を得、欲望を滅していく方途を考える個人に帰される教えです。しかし、中国における仏教受容は、ここに涅槃経、その他鎮護国家経典の存在価値を求めたわけです。ここで政教(王仏)は一致が計られたわけです。「殺」の肯定が仏教世界に持ち込まれました。国家正法護持のための「殺」は肯定されるにいたります。日蓮はこの系譜を引いています。そのために先の大戦では、戦争翼賛の肯定理論となったわけです。日蓮の家から出た一人として、わたしはこの過ちを繰り返す如何なる言説・行動も賛成できません。何故ならば、この戦争は数百万の被害者を出し、何ら保障すらなかったからです。せいぜい、保障されたのは軍人とその遺族ばかりでしょう。しかし、真の被害者に対しては、日蓮仏教関係者も、何より国家も何らそれに報いることはなかったからです。国家は国民に多大な被害を与えた当事者であった。それを支えた原理の一つに日蓮があったという現実を直視し、その過ちを2度と繰り返さないよう歴史的教訓としたいからです。
> 国家の安全保障を守るのか
これは、仏教の問題ではなく、国政の問題ではないでしょうか。
> 仏教徒としての国家論はいかにあるべきか
先に記したとおり、日蓮主義の罪科を考えるとき、わたしはこの主義者として、矜持があれば、この問題には触れられないという選択をせざるを得ないという思いがあります。故に西山茂師が本化のお立場から、「丸腰平和論」を言う気持ちはわかります。
仏教徒にある国家論とは非暴力、不殺生、不戦ということです。
仏教は国政実務ではありません。日本には国教はありません。故にこの問題を「仏教徒として」という枠組みで質問をすることは、はじめの一歩で躓いていると、わたしには思えます。
ただし、仏教徒も国民です。ですから、その国民という立場から考えるという二重性を実は日本という‘装置’は強いている結果の質問と言うことになるでしょう。
たとえば仏教徒というのを図式化すれば
仏の教え―<信仰者としての自分:国民としての自分>―政治―国家
という中間点に立っています。日蓮で言えば、日蓮仏教を原理主義的にとらえれば、この一切を一つのものにくるみ込み、政教一致、王仏冥合、富士門流でいえば、国立戒壇とやることになります。しかし、ここに大きなダブルバインドがあるわけです。純粋に「日蓮の教え」に基づこうとすれば、戦前の日蓮主義のようにならざるを得ない。また、富士門下的原理主義となれば、顕正会のように憲法改正・日蓮正宗国教・国立戒壇建立と言わなければならない。しかし、これは国家・国民の立場からすれば、両方ともNGです。
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