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戦争を考える

85犀角独歩:2005/11/24(木) 09:09:55

―84からつづく―


「謝って欲しい。被爆し、殺されたすべての人達のために謝って欲しい」、2人は嘆願します。もし一言でも謝罪の言葉が、開発・投下・撮影した張本人から聞ければ、この2人の60年の苦悩は癒されたのだと思いました。ただ、癒されたかったのだとも思えました。しかし、この科学者は「わたしは謝らない」と何度となく、繰り返しました。「文句があれば日本軍へ言え。我々は「パールハーバーを忘れない」とまで言いました。

エノラ・ゲイの機長もそうでしたが、彼らは国家の命令を忠実に守った英雄であるというまったく被爆者が感じる人間像とは正反対の自画像を形成しています。彼らが謝るはずはないわけです。この軍に関与した経験のある人間の精神構造と実際に戦争被害に遭った一般市民の間にある大きな溝が、わたしはいま、ここでの議論でも同じようにあると思えます。

アグニューは「よく「罪もない市民が殺された」というが、戦争をしている国で、罪のない人間などいない」と広島の地でこの男は語りました。原爆投下を指示していったアメリカ人の間には色濃い人種偏見がそこにありました。いまのイラクもそうですが、彼らは常に有色人種に向けて原爆を使い、劣化ウラン弾という放射能被害のある武器を使ってきたわけです。有色人種、罪ある一般市民という感覚へのエスカレート、惨状を威力ととらえる感覚は原爆投下を肯定し、世界最大の悪魔を、その国最高の英雄へと祭り上げてしまう倒錯した人間心理もここにありました。たぶん、熱烈なアメリカの愛国者からすればトルーマンも、ティベッツも、そして、このアグニューも、もっとも平和と国を愛した英雄なのでしょう。しかし、日本人は、なにより、被爆した方々がこれら人間を、悪魔と思っても英雄と思うことはないでしょう。

不殺生戒を考えるということは、このまったく価値を正反対に見る会話なのだとという点を、わたしは考えているわけです。

ここのところの議論は、要は自衛隊(員)、軍(人)への、わたしの罪悪視に対する発言に対する過剰反応が、結局のところ、その根底にあるのでしょう。わたしは朝鮮半島、中国の日本の戦争被害者の声を聞いてきた経験から、日本の軍隊に対して、彼らがどんな思いを懐くかをある程度、客観的にわかります。彼らにとって、日本の自衛隊は、結局のところ、原爆を投下した機長・ティベッツへの我々の視線と何ら違わないと言うことです。自衛隊員が最も平和を愛する人々だとは彼らは思わない。かつて自分の国土を陵辱し、身内を殺した殺人者の延長戦としてしか、映じないでしょう。しかし、軍経験は英雄へと、転訛されるまったく正反対の心理構造の反比例がここにあります。

不殺生にを‘借りて’平和を訴える人は、まったく正反対になる決して相容れない二つの精神構造を熟知したところから考えています。しかし、自衛隊肯定者3人の発言を見る限り、これら軍人を英雄視するというまったく逆の心理構造から意見を発しているのだと思います。ここで起きることは、反対者への怒りと侮辱です。英雄崇拝は、その栄誉を貶すことを許さないという崇拝者によって護られ、反面、護ることによって弱者を陵辱している構造には気付けない社会構造を形成していきます。この点は戦争肯定がもたらす群集心理なのであろうと思います。この点は、しかし、E・フロムによってドイツ・ナチスの心理分析『自由からの逃走』(東京創元社)に詳しく、また、S・ミルグラムの『服従の心理』(河出書房新社)に詳しいわけです。

自衛(軍)隊経験者とその崇拝者という関係は、実のところ、カリスマ崇拝と群集心理と同一の心理構造によって支えられているという点は、わたしは看過できないわけです。しかし、残念ながら、ここで分析されるような心理下にある人々は決して自分を客観的に見ることはできない。できないどころか、常にエスカレートしていくポテンシャルが働いているということも、分析者達は知っているわけです。まあ、長くなりますので、続きは追って記すことにします。


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