「汝らに伝えた第一の事柄とは、余が経験したことであって、聖経にいうとおりにキリストは
我らが罪の為に死し、かつ葬られて、三日後に聖経にいうとおりによみがえり、ケファスと及び
十二人に現れたことである」 *ケファス−ペテロのこと
3 tradidi enim vobis in primis quod et accepi quoniam Christus mortuus est pro peccatis
nostris secundum scripturas/4 et quia sepultus est et quia resurrexit tertia die secundum
scripturas/5 et quia visus est Cephae et post haec undecim/(Vulugata)
猟奇殺人の歴史は古い。15世紀フランスの侯爵でジャンヌ・ダルクの部下だったジル・ド・レー(Gilles de Rais)は、農奴の子供を数百人、ただの娯楽のために殺した。16世紀にはドイツのPeter Stubbeなどが知られている。かれは子供を襲い、切り裂いて食べた。恐るべきことにStubbeは自分の子供の体を切断し脳を生で食らった。(The A-Z Encyclopedia of Serial Killers Harold Schechter)
魔女とされた女性を生きたまま公衆の面前で火あぶりにするといった非常に残酷な事件が西洋には多いのは、聖書の影響が大きいだろう。聖書では"悪"とされるものを神が裁くという話に満ちている。イスラム原理主義の指導者オサマ・ビン・ラーディン氏のように、信仰を守るためには手段を選ばなくてもかまわないという考えが、一神教を旨とする人々には一般的だったためだろう。
ただ、漢の高祖の妻呂后が若い妾に嫉妬し、高祖の死後、その妾を囚人に輪姦させ、手足を切断、目をつぶし目鼻を削ぎ落として生きたまま便所の壺の中に入れたという話がある。日本のような宗教戦争のおきたことがない多神教国でも、キリシタンへの処刑は逆さ吊りにして脳の血管が破裂するまでじわじわと苦しませて殺害したということもあった。
こうした点から考えると宗教は人間の残酷な行為の原因ではなく、正当化の理由や意味付けとして使われており、すべての人間はもともと残酷な性質を持っていると考えたほうがいい。ルソーは「エミール」のなかで、人間の本性は無垢で善良なものであり、その天性を素直にのばすことが教育だといったが、これは人間に対する認識を根本的に誤っているものというべきだろう。
19世紀 スティーブンソン(Robert Louis Stevenson)は「ジキルとハイド」を著したが、人間のこうした矛盾した性質は、地元名士として成功しながら30人以上の少年を殺害し床下に埋めていたゲーシーのみならず、どんな人間にも備わっているものだ。実際に猟奇的な殺害に至る人間は稀だが、両者の違いは残酷な狂気を抑えることができるかどうかという点にしかない。
カナダの人類学者エリオット・レイトン(Elliott Leyton)は、「原始社会では殺人の対象が知らない人間になることは極めて稀だった」としているが、現代になって目立って増えている快楽殺人(Lust Murder)は概して明確な動機がなく、犠牲者は大部分が犯人とはまったく面識がない。
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