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素朴な疑問

1094五月雨:2003/12/04(木) 00:17

人が善い行いをすることは大切だと思いますが、それを殊更に菩薩道と絡めて強調す
ることは必要なことでしょうか。仏教徒だから、菩薩道があるから「善行」をする、
しなくてはならないというような論調は、本末転倒しているように感じるのです。
仏教徒でなくても、菩薩道を知らなくても、人としての「善行」があるべきではない
でしょうか。
人として、人を思いやる気持ちの中でそれは自然と自ずから施せると思うのです。

議論の中で用いられている「常不軽菩薩品第二十」に著された常不軽菩薩の行いが、
何故に人を救うに転化したのかも疑問に思います。そのまま読めば常不軽菩薩は自らの手で衆生を救っていませんよね。

「常不軽菩薩品第二十」には、常不軽菩薩がいままさに死なんとする時、威音王仏が説いた法華経の二十千万億の偈を聞いて六根清浄を得、
広く人のために法華経を説いたと書かれています。
そしてその常不軽菩薩の姿にそれまで謗っていた人々までもが、皆信伏随従したと説かれています。
この「信伏随従」は自発の意思ではないでしょうか。
いままで自発的に謗っていた人が、自発的に随ったという意味で、常不軽菩薩が人々を救ったということではないですね。
なのに、常不軽菩薩は人を救う菩薩の代表格になっています。
そして、その人を救う菩薩の常不軽に自らの姿を重ねながらの考え方は、これは富士門系で言う“地涌の菩薩”を
“常不軽菩薩”に置き換えているだけではなかろうかと私は思うのです。


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