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素朴な疑問

1132三吉:2003/12/09(火) 16:58
顕正居士さん ご無沙汰しております。
デビュー当時、多大なるご指導ありがとうございました。

一見、南伝は、イコール初期仏教に見えるし、信仰上南伝の人はそう主張されるけど、実は、南伝も「釈尊に仮託した別の宗教」で大乗とその点は変わらないというのが私のスタンスでございます。(信仰上、私にとってはそうだというのは南伝・大乗ともによいと思います。)
第一、経典は大乗伝承の阿含のサンスクリットは、1C後半です。現存パーリ仏典が纏められたのは5Cです。伝承ではパーリの注釈をスリランカ現地語でしてたのを、ブッダゴーサがパーリに書き換えたとなってますが、おそらく(つまり根拠なく私の想像では)仏典のパーリ化も同時期です。でヨーロッパでさえ、パーリに比べ、漢訳阿含に古層がみられるときづいているそうです。
第二、「釈尊の史的な人格」をありのままに問題にしなかったのは、たぶん大乗誕生前です。32相などの神格化など。その後、クシャーナ朝の世界的性格は、大乗を発展させ、部派をも変質させました。仏像など。
第三、史的イエスは、パウロには意味を持ちませんでした。霊的なキリストとの出会いがパウロをイエス運動弾圧側から改宗させました。つまり「キリスト」とは、「法身」です。「生身より法身」という法華寿量品と同じことをパウロはし、キリスト教が生れたと言えます。つまり、キリスト教もまたはじまりから「イエスに仮託した別の宗教」であります。(パウロ以前は、イエス運動)
第四、そもそも正典化も聖典でもいいのですが、つまるところは「史的な人格」より大事な「宗教的なエトバス」の実体化ではないでしょうか。

蛇足。「正典の中のイエスの言葉はほぼ正しい伝承」とのことですが、色々な研究があり、例えば「イエス・セミナー」は、『五つの福音書』(1993)で、約500あるイエスの言葉のうち、本当の言葉を13、それに類することをイエスが言ったが77で、後は、イエスが言ったは疑わしい、言うはずがないだそうです。厳しく見るグループでは20%足らずです。

蛇足2  有名な「自灯 法灯」が釈尊の言葉かどうかはともかく、これを語る直前、釈尊は自分が教団のリーダーなどではそもそもないと語った上で「自らを灯火にし」でございます。この言葉が、史的釈尊の表明であるならば、釈尊の人格を仏教の中心にそえようという弟子の尊敬の念は釈尊の期待を裏切るものかもしれません。とはいえ、尊敬の心が悪いわけではありません

あいかわらずの暗愚でございますので、斯様に考えております。
ご無礼は宥恕願います。


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