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素朴な疑問

1079アネモネ:2003/12/03(水) 04:08
(つづき)
>また、このような菩薩道は、なにもわたしがここに記すまでもなく、日本仏教のなかでもかつて営々と培われ実践されたことでした。この点については『創価学会の功績を考える』のスレッドで、『現代宗教研究』第37巻掲載の『日蓮宗のビハーラ活動 ― その理念と意義』を紹介しました。また、このような活動は他教団でも広く認識、実践されているところです。

先ほど書きました聖徳太子の功績として紹介したことは、まさにこのことだったのですね。ここはとても重要なところだと思いますので、そのときの独歩さんのレスを、ここに再度紹介しておきます。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/r733
日本の仏教徒は、このことに目を向けて菩薩道とは何かを通して、仏法を鑑みる必要があると思います。

>ただし、アネモネさんが菩薩の蓄財を戒めるのはやや意味が違うかも知れませんね。
仏法名目で財貨を募り、それを着服する横領詐欺行為を糾弾してこのことと拝察いたします。

民衆救済の為の蓄財というのも、現代では、もしかしたら必要かもしれません。
一般民衆は、常に天災や飢饉や戦争の被害に巻き込まれ脅かされている存在なわけですね。そのような時の救済のための蓄財ならば、それも菩薩行といえるかもしれません。
平安時代の米の備蓄という「義倉」の習慣とは、そのような精神に基づくものであり、また実際に多くの民が「義倉」によって天災や飢饉から命を守られたと聞きます。
ところが鎌倉時代になってからは、そのような仏教精神を置き去りにした御政道により、「義倉」の習慣はすっかり忘れられてしまい、天災や飢饉が起きれば民衆はたちまちのうちに生命の危機にさらされてしまっていたわけですね。
日蓮の「立正安国論」はまさにそのような背景から書いたものだとも聞いたことがあります。そのような意味で、日蓮の諌暁という行動原理もまさに菩薩精神に基づく行いだったと思います。さらな行いとしての形は違いますが、極楽寺良観も菩薩精神に基づく行いをされていたと思いますね。私は、民衆のためには、両方必要だろうと思います。

>「神仏に仕えるはずの集団と人間が莫大な布施・献金を着服する。これを中間搾取といわずして、ほかになんと言えばよいのであろうか。それら集団と指導者は、神仏と信者の中間に立ってすべてを持ち去るのである」(拙書『あなたは違う方向に歩いている』前書)

痛切に鋭い指摘ですね。信者は、迷える人々で、迷える人々だからこそ、それが善行だと言われれば、言われるままに従うわけです。そのような善意の布施や献金や供養や財務のお金を、信者がどれほど大変な苦労を経て得たものであるか。その庶民的感覚からして、指導者はわかっていないだろうと思いますね。

>菩薩道はジャータカに見られるものの、それはシャキャムニと遡源できるものではないと思えます。後世の新たな展開であったのでしょう。けれど、人類の秀でた精神活動である菩薩道が、仮にシャキャムニに由来するものでなくとも採用すべきであるというのが、わたしの考えです。

というと、もしかしてもしかすると、「仏の慈悲」ということも、後世の解釈なのでしょうか。いや、お釈迦さまに慈悲がないということではなくて、菩薩と同じくお釈迦さまに慈悲を見い出したのは後世の人なのだろうか…といった疑問です。

>シャキャムニは自身が仏陀(覚者)である自覚はあったでしょうが、自身を崇めさせたり拝ませたりする考えは元よりなかったでしょう。

仏陀(覚者)である自覚を持ちながら、自分を崇めさせなかったということは、非常に大事なポイントだと思います。言い換えれば、仏陀(覚者)を崇めたところで、仏陀(覚者)にはなれないということですよね。だからこそ、本尊とすべきは自灯明と法灯明ということであり、そのための八正道という実践方法が求められるのだろうと思います。…という理解で間違いではないでしょうか。


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