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素朴な疑問

1065犀角独歩:2003/12/02(火) 17:52

「いわゆる小乗に属するとされる部派のジャータカ文献などの仏教文学にも、自分を犠牲にして他者を救うという利他行が述べられていて、その意味で大乗の源流といいうるのではあるが、現実の教団の一般的な優勢としては、阿羅漢中心のエリート主義にかたむいていたのである。
 これに対し、大乗仏教では、すべての人々がブッダ(覚者)になりうる素質をそなえていると考えた。ブッダとなりうる素質が自己にそなわっている人々を菩薩(ボーディ・サットバ)という。(ジャータカなどでは、釈尊の前世を「菩薩」と呼ぶ。)そういう人びとは同時に他の人びとを菩薩にして、そうしてさらにさとりを開きしめたいと願うとされる。観音、文殊、普賢などの菩薩はすでにブッダになる能力をそなえていながら、しかも成仏しないで衆生の救済を続けていくと考えられる。
 このころになると、そういう菩薩の他にも、阿弥陀仏、弥勒仏、薬師如来などのブッダが崇拝されるようになった。これらの仏・菩薩は従来の仏典に登場してこなかったのである。われわれ日本人に親しい仏・菩薩の名は、大乗仏教の経典のなかではじめてあらわれたのである。そして、経典自体の崇拝も盛んになった。エリートではない修行僧や一般の信者は、仏塔、仏、菩薩、大乗経典などの超越的な対象にひたすら帰依することによって救済されることを願ったのである」(P40)

中村元編『仏教語散策』(東書選書)から引用。以上の続きの結論は、殊に具体的な活動をせず、宗教、あるいはその団体の中に埋没して是とする人にとって、強い警鐘となっています。

「きわめて難解な空理空論に没頭するものがおおぜい出てきた。もちろん高級な知的行為として、それはそれでよかったのだが、大多数の一派民衆の心は次第に仏教から離れ…インド国内では仏教は急激におとろえ、大乗仏教は中国、日本、チベットなどの外国のみでもてはやされるようになった」

同様に、経論釈にしかあらわれない架空の菩薩を延々と論じることは分権的な正確さを追求するうえで必要なことは言うまでもありませんが、己心に菩薩“界”を観る蓮師の在り方や、さらに実践の糧として菩薩“行”を考える篤志の模索が必要不可欠なのだとわたしは考えます。


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