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素朴な疑問
1127
:
三吉
:2003/12/08(月) 07:45
<しかしそうなると、新約聖書の成立は4世紀以降のことになるということになります。
偶然といえるかどうか。羅什が生きた時代でした。>
現在の形で纏められたのは、そうなるのかもですが、イエス運動が「キリスト
教」化したのは、パウロですので、「救世主思想」としては、イエスの死後に
弟子になったパウロの廻心をもってキリスト教は成立したといいうるかと思い
ます。
つまりパウロは、肉体をもったイエスよりも、瞑想であったキリストに価値を置いた。
キリストに対する信の強調路線が一方で深くキリスト教に刻まれた。
もういっぽうで逆に信仰のみのパウロ主義を批判したマタイ教会は、「愛の実践」をパリサイ人以上に求めます。信仰だけでは救われない。愛の実践は神の意思であり、実践するものだけが救われるのであると説きます。
そしてマタイの愛の実践も観念的であったので、律法を完全に守るということでは
パリサイ人は凄く真面目でいっしょのことを言うてるにもかかわらず、彼らに批判
的でありえたし、パウロ主義の後継者たちの「病癒し」はイエスの伝統を引くもの
でもあるのにイエスの実践と切り離して批判しえたのも観念的であったからです。
外部の私からみますキリスト教とは「パウロ的信」と「マタイ的な愛の実践」の二つを
含むように思います。
ここの議論の流れでいえば、「愛の実践」が「菩薩道」に近似した概念にな
りますが、「実践してないやつはだめ」という意識があれば、「裁き」(キリ
スト教概念−「裁くな」から)になりますので、「実践」はあくまでしたい人
がすればよいというスタンスがええと思います。
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