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素朴な疑問

1078アネモネ:2003/12/03(水) 04:08
(つづき)
>ここで着目したいのは菩薩が身を捧げたのは、仏・法ではなく、畜生界の虎であったという点です。…わたしは、ここに菩薩道の遡源を見たいと思うわけです。

このことは、大変重要なことだと思います。つまり法華経一経だけでは知り得ない菩薩道の源流がここにあるわけですね。

>ところが現在の信仰者は、菩薩道と言いながら、その布施を捧げるのは、仏・法、あるいは教団、指導者に対してです。不信の人々にはただ法を弘めてそこで終わってしまいます。

私は、そこに菩薩を見る思いは全くないです。

>いかなる慈善行為のなかにも菩薩道は生きていると考えます。

私もそう思います。例えば電車で席を譲る。困っている人に親切にする。悲しみの中にいる人の心に向き合う…こうしたことだって小さくとも立派な菩薩行だと思います。
法は道に置き換えられると、教えてくださいました。私は、子供の頃からの宗教との関わりを振り返って、その時々で教えられたこととは、実は道徳心や倫理観や良心というものだったのではないかと思うのです。
道徳というと、教科のひとつと捉えてしまいがちですが、しかし、字に従うならば、徳の道ですから、まさに宗教の目指す精神性や人間性だと思いますね。徳を積むのが菩薩行であるならば、まさにそこに道(法)があるものだと思います。
世間の善行の中にこそ、菩薩行があると思いたいところです。まあこれは、私の信条的願望ですが。

>神仏を求め、あるいは求めずとも、悩める人・苦しむ人のために、実際の行動をしようとする心が菩提心の原型になっているという意味です。

本当ならば、神仏を求める人が率先垂範で菩薩道の模範を示してしかるべきだと思うんですね。ところが実際には、神仏を求める人の中よりも、かえって求めてもいない人の中に、悩める人・苦しむ人の為に尽くす菩薩を彷彿させる実践行動が見受けられる場合があるわけですね。ところが一方の徳の道を説くはずの神仏を求めさせる教団は、菩薩行だといっては布施ばかりを要求するわけです。そんな信仰活動で生活と時間をきりつめている信仰者は、自分と観念上の仏と法のことで精一杯で、本当の菩薩行であるところの利他行どころではないのが現実でしょうね。その現実を、マザー・テレサを通して突きつけられるとき、ことのほか反発してしまうのが、これも日蓮系の悲しいザガに思えてなりません。この点は、悲しいかな、極楽寺良観を厳しく批判した教祖日蓮にも起因するものなのではないでしょうか。まあ、しかしこれは、菩薩が何であるかがはっきりしていない段階では、私の個人的観測であって、正当な批判にはなり得ないかもしれません。

>教団・指導者に自分の利益を願って散財をするより、支援を必要とする人々に、その罪過を手向けることのほうが、わたしはよほど菩薩の精神に適うと思うものです。

仰るとおりだと思います。
教団・指導者に自分の利益を願って散財をしたのは、菩薩行をした気になったという自己満足か気休めでしょう。それでも、教団そのものが集めた布施でもって慈善活動をしているというならば話は違ってきますが、慈善活動そのものを否定するような指導からして、そのような見識も意識もまるでないものと判断されますね。


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