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素朴な疑問
1108
:
犀角独歩
:2003/12/04(木) 17:29
アネモネさん:
たくさんのレス、有り難うございます。
やや宿題のように溜まってしまいましたが(笑)突っ込んだ議論は、また、pundarika でお願いします。すべてにここでわたしが返しますと、さらに場所を取ってしまいますから。
それでも、このスレッドに特に関係のある点についてだけは記させていただきます。
> 日蓮の諌暁…菩薩精神…極楽寺良観も菩薩精神…民衆のためには、両方必要
さすが。二極志向でお考えになりませんね。
そうなのです。「日蓮か良観か」などという択一はまったく必要ありませんね。
> 「仏の慈悲」…後世の解釈なのでしょうか
これは難しいご質問です。資糧手放しで記すと碩学の叱責を買いかねません。
どなたかにお応えいただければ有り難く存じます。
ただし、わたしは仏を慈悲の体現者であるとする見解には賛同します。
であれば、憎悪からの脱却はまた仏教の大きな課題であるという命題も成り立つと思うからです。
> 本尊とすべきは自灯明と法灯明…そのための八正道という実践方法
概ねこの整理には賛同です。
ただし、わたしはそもそも本尊が果たして必要かという点では懐疑的です。
繰り返しでくどくなりますが、本尊と法はそもそも関係がなかったわけですね。
ですから、本尊というまでもなく、法灯明・自灯明であるとわたしは思っています。
八正道は永遠不動の実践論であると、もちろん思います。
> もともと、日本仏教によって慈善運動の精神は社会的に生かされていた
まったくそのとおりなのです。
それがいつの日からか、実践を欠いたお題目だけになってしまった。日蓮本仏圏では顕著であると嘆いているわけです。
けれど、以前も触れましたが、石山信仰をされていた大正皇后はハンセン病救済活動をされていたことは夙に有名なことでした。また、どなたかが投稿くださっていましたが、石山僧のなかでも同様の活動をなさっていた方がいました。
古いわたしの記憶では、40年ほど前、両親の、創価学会員である知人がハンセン病施設を訪ね、熱心に折伏をしていた体験を、直接、聞いたことがありました。
子供心に「感染しないのかと恐れおののきながら聞いていたものでした。(実際に罹患されたご経験をお持ちの方にはたいへんに失礼な記述である点、お詫びします)しかし、その体験を訥々と語るその方の確信を今でも、わたしは思い出すことができます。けれど、不思議なことに、その方の顔も性別も思い出せないのです。ただ、その人のハンセン病の方々を何とか救いたいという一途な気持ちだけが記憶されているのです。それでも話の断片、施設の灰色の壁のこと…、医療その他が行き届かないこと…、など思い出されるところがありながら、その方がどなたであったか、どんな方であったのか、杳として思い出せません。そんなことから、わたしにとって、その方の存在は、見(まみ)えることができた生身(しょうしん)の菩薩様のように記憶されてきました。ここのところの議論で、埋もれたそんな記憶が思い起こされました。
石山信仰が仏教紛いかどうか、しかし、そのよう教義的な考証は別にしても、この信仰圏でたしかにハンセン病救済を実践する尊い“菩薩”様がたしかにお出でになったのです。
それがいつの日から個人の現世利益、集団利益と拡張、指導者翼賛という愚行に堕落してしまったことを嘆くのです。
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