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素朴な疑問

1086三吉:2003/12/03(水) 07:58
<親鸞・・・開悟とほぼ同義>
蛇足です
ほぼねぇぇぇ、うーむぅ。どれくらいをほぼといわれているのかわからんが汗。
たぶん、真宗にさほど関心のない人に真宗はそもそも理解不能な奇異な仏教観を持っていると感じられるのではないかと思う。で、自分の立場から、「正定聚」は開悟と同義と感じると言われるならば、「なるほどね」という感想しか抱かないのだが、つまり主観ならばね。客観的事実として「ほぼ同義」ならば、疑問がむくむくと起こる。
「即時」に「正定聚」なのであるが、続きがある。「必至滅度」と。必ず滅度に至る。
で、私は「滅度」が「開悟」とほぼ同義だと思うのだが、真宗派のスタンダードでは、「正定聚」は生きているうちで、滅度は死後になる。二種の利益があるんだと言われる。生きているうちに「正定聚」。死んだら、「滅度」と。この二つが一体なんだという解釈は「異端」説と激しく批判されるのたが・・・親鸞は「この世あの世」で二つを分けていない。
滅度は親鸞に拠れば、静かではない動的である。滅度=弥陀になることで、弥陀になるとは、あらゆる姿・形・手段もってみんなを仏道に入れようとするハタラキにほかならない。
「正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなわちこれ無為法身なり。無為法身はすなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり。法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種種の身を示し現わしたまうなり。(略) 『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと(顕浄土真実証文類四)」

※元々経典では、「正定聚」は浄土に生まれた後の益なのだが、親鸞は「即時」と現在にもってきた。後代弟子たちは、「正定聚」は現在。「滅度」は死後と分けた。なんで真宗の「還相」解釈は混乱している。


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