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素朴な疑問
1080
:
アネモネ
:2003/12/03(水) 04:09
(つづき)
>不軽菩薩は、法華経不信の人にも礼拝
むしろ、不信にこその礼拝であったというコンセプトの物語ですね
そのように読み学ぶことが重要ですね。この精神はとても崇高な教えだと思います。
>> …裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れがあった
>これは実に興味深い話であると思いました。
差詰め、日本で言えば「清貧の思想」と言ったところでしょうか。
もっと噛み砕けば、「心は錦」…でしょうか。
日蓮さんの生き方の中には、そんな清貧の思想が強く見られますね。時代的限界もあって、今の私としてはもはや日蓮さんを絶対視は出来ませんが、しかし、そういうところは本当に今でも敬愛しますね。もっと言えば、私の知る、石山の僧侶に日蓮の「清貧の思想」や「心の錦」を見ることが出来なかったというところですね。
>中世キリスト教の悪い面ばかりを取り沙汰してきたものでした。
実際には仰るとおりだったと思います。裕福故に神の国に招かれないのではないのかという不安や恐れといった、富裕層の善意も、やがては慈善活動よりも免罪符という形で、聖職者に利用されてきた歴史のほうが大きいですね。結局、古今東西、それが人間の欲望の真の姿なのだろうと思います。だからこそ、そこに陥らない心の錦を持った聖職者が尊く求められるわけですね。今の時代も、潜在的には全く変わらないと思います。
>しかし、ここ10年、多くのキリスト者である聖職者との交流を通じて、彼らの社会活動を見聞し、そして共に歩むなかで、その評価を大きく書き換えてきました。
魔女狩りから慈善運動への変遷、それを日本仏教も見習わなければいけないと考えています。
もともと、日本仏教によって慈善運動の精神は社会的に生かされていたわけですからね。そのことを思い起こす必要があるでしょうね。
>>法華経成立の背景もどこか似ているようにも思われますね。
>これはちょっとわたしには解せないのですが、どのような意味で仰っているのでしょうか。
言葉足らずでしたね。何で読んだのか教わったのか、その根拠を示せませんが、法華経を創作した人々というのは、商人であったと記憶しています。その信仰によって、富を得て、その報恩のために、宝塔を立て経典を奉ったと聞きました。富の還元ということの、具体的な還元先が違ってはいますが、その志がどこか似ているようにも思えました。
>南無妙法蓮華経は、聖典に帰命し、それを本尊視するものである、これが題目本尊であるわけですから、実に類型をなしていると思えます。
別のスレッドで、「神の名」ということについてレスをしましたが、神の名と題目は、何か共通点を見る思いがします。
>象徴の病が取り沙汰されるのは、健全な精神を封殺し、人間が生み出したものにかえって人間が呪縛されてしまう不健全さを指摘してのことです。
本当に仰るとおりです。人間が幸福に生きるための信仰のはずなのに、信仰によって精神が病んでしまっては、意味がないですね。
>人間は自分たちが生み出した神仏(とその概念)に支配されることなく、健全な精神状態で生きること、その前提からの仏教再考であるべきですね。
賛同いたします。
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