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素朴な疑問

1105犀角独歩:2003/12/04(木) 14:32

盛ん議論が進んでいますね。
喜ばしいことです。

空き缶さん:

有り難うございます。
ノーマライゼーションなどともに重要な視点ですね。

愚鈍凡夫さん:

アネモネさんが賛同される点、わたしもまったく同様に思います。
それと同時に、ここが宗教に係る掲示板であれば、補足しておきたいことがあります。
愚鈍凡夫さんの言葉をお借りして記せば、

一つの信念体系にあるものは「決して信仰への強制があってはならないと言うことだと思います。そういった宗教をしている人が、していない人を責めるのは間違っていますし、また、していない人にある種の脅迫観念や悲哀を与えることも間違っているでしょう」

むしろ、この点から出発して、独善的な排他主義に陥った歴史を有する学会を含む石山系集団=日蓮本仏圏の注意を促し、未来を考える資糧として、浅見定雄師の「何を信じているかではなく、何をしているかで宗教の真価が問われる」という点から、素朴な疑問として、なぜ、日蓮本仏論者はボランティアに無関心なのかと問うたところでした。

アネモネさん:

上述の「なぜボランティアに無関心か」という点についての分析、まったく同感です。
この原因はまさに独善と偏見、そして、他者蔑視という差別にその原因があるとわたしも思います。詳しくはまたレスさせていただきます。


三吉さんの該博な知識に基づく、批正を有り難く拝読しています。
紹介した書の記述は、渡辺師が創価学会に対する嫌悪感から勢い、日蓮・天台・法華批判にまで筆の勢いが及んだと見られます。その後、柔軟姿勢に変わっていったのも事実でした。


さて、これはかなり思い切った憶測ですが、渡辺師が法華経創作者の姿を素描するのにモデルになったのは、むしろ、戦後、日本社会で席巻した創価学会の姿であったのであろうと。

渡辺師の記述内容はもちろん絶対のものではあるわけはありません。研究が進み、日々書き換えられる点も多々あろうかと存じます。それを十分に加味しながら、けれど、そこに指摘された法華・日蓮信奉者への批判は、それでもわたしは真摯に受け止めていきたいと思っています。

日蓮を理解するために、天台を学ばないとよくわからない。ところが、法華経に書かれているところを理解しようとすると、天台の解釈は邪魔になります。これがわたしの経験則でした。


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