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素朴な疑問
1092
:
犀角独歩
:2003/12/03(水) 18:37
―1091からつづく―
さらにその批判は法華経にも及びます。
「『法華経は大衆的な信仰の書である。「マハーヤーナ仏教のあらゆる特徴を、長所も短所も含めて知るために『法華経』を読むにかぎる」(ヴィンテルニッツ)という批評はいかにも適切である。…サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手によって書かれたものであることがわかる。…
いつの頃か『法華経』の原型にあたる特殊の信仰形態を持ったひとつのグループが存在していた。彼らは『この教えを信仰し、宣伝に協力するものは、すべての苦しみから逃れ、病気も治り、火にも焼けず、水にも溺れない』と言って信者を集めた。その信仰の強さを示すために、自分の体に油をそそいで火をつけるものさえあった。その執拗さに耐えかねた人々がそれを非難すると『法難だ』と叫んで、ますます結束を固くした。そして、自分たちで『法華経』という名の経典を作成した。一般の人々、ことに仏教の正統派の僧侶たちは大いに迷惑して、国王・大臣・僧侶・一般市民に訴えた。しかしこの狂信グループは「命もいらぬ、教だけが大切だ」と叫んでますます活動を続けた。こうしてグループは発展し、『法華経』も新しい章節を書き加えて、現在見るような形が成立した。…
インドでは『法華経』を中心とする学派は遂になりたたなかった。この経典は『文芸の作品のうちでもっとも手ひどく考へることを拒絶する種類のもの』(和辻哲郎)であるから、インドの仏教哲学者たちは『法華経』をあまり重要視していない」(同 P177)
さらにまた羅什師、智邈師に及びます。
「クマラジーヴァ(羅什)…彼の翻訳は厳密な意味で必ずしも信頼できない。…ところが天台智邈は南岳慧思の教えを受けて<十如是>ということを言い出した。…そしてこの十如是と空・仮・中の三諦とにもとづいて天台の教義を作りあげた。しかし『法華経』がサンスクリット本からの翻訳である以上、智邈の解釈はまったく成りたたない。そのうえ、ここに用いた空・化・中の三諦の説もインド仏教の資料に対する誤解から来ている。したがって、天台の教義なるものはまったくの無知と誤解のうえに築かれたものと言えよう」(同 P188)
と痛烈な分析を開陳しています。
しかし、その教学上の批判とは裏腹に
「日蓮宗の特色はその熱意と実行力にある。日本山妙法寺の人たちはその真剣さの故にガーンディに愛された。原子核兵器の実験反対にもっとも熱意を示しているのも、日蓮宗の人々である。排他性・宗派性から脱皮して人類平和のために努力する人々の姿は尊い」
とも記しています。この“脱皮”の意味は重要であると考えます。
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