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素朴な疑問

1103アネモネ:2003/12/04(木) 13:18
愚鈍凡夫さん

>振り返って、それでは仏教で説かれる「菩薩」とは何なのか。そして、「菩薩道」とは如何なる道なのか、それを考えるきっかけとして、女史の実例を取り上げているということだと思います。

そうなんですね。

>個人的見解として、人が自分の足で歩んでいこうとすることを援助することは、「宗教」にとって忘れてはならないことではないかと思います。

同様に思います。仏教かキリスト教か…といったことではなくて、「宗教」という立場にたってみる議論だろうと思います。

>ただ、こういった問題の難しいところは、決して強制があってはならないと言うことだと思います。そういった活動をしている人が、していない人を責めるのは間違っていますし、また、していない人にある種の脅迫観念や悲哀を与えることも間違っているでしょう。

確かにそうだなあと、大事なご指摘だと思いました。
人権思想の基本は、人は幸福に生きる権利があるということだと思います。だから幸福に生きられない、生存権さえ脅かされている人に、援助を差しのべる。そのようなことは相互扶助の精神として、日本の社会に構築されてきたものだっただろうと思います。たぶん、そこには仏教が果たしてきた役割も大きかっただろうと思いますね。
しかし戦後の個人主義思想によって、相互扶助の秩序は崩壊しつつあり、そこに新たな不幸もあるものなのでしょう。日本においては、人知れず心の閉塞感や孤独を抱えている人は潜在的にたくさんいるだろうと思われますね。
そこをできるだけケアしていくとき、まず福祉政策が求められるわけですが、たいてい福祉は後手後手の政策になりがちで、個人の援助活動のほうがきめ細かく先行している場合が多いでしょうね。
だけど、その慈善活動の実践が強調され過ぎては、確かに逆に人を追い詰めるようなことにもなりかねませんね。日蓮の良観批判がそこにあったという一面もあるのかもしれませんが、結局、信仰の強制と同じで、そこに新たな不幸が生まれる場合も考えられます。
ましてや教団信仰であっても、そこに入ってしまった人といういのは、なんらかの苦しみの渦中にいる人が多いわけで、むしろ心のケアを求めている側である場合も多いものでしょう。そのような人に、布教活動であれ慈善活動であれ、何かを強制し追いつめるようなことになってしまってはいけないのかもしれません。
ちなみに、私の知る限りのキリスト教会では、強制ではなく気がついたら信仰活動を通して自然に慈善活動に参加していたみたいなことが多かったです。気負うところはほとんどなかったと思います。
まあ恐らく教えを通して、それこそ無作の心というのでしょうか、気がついたら人を慈しむ心が培われていたとなっていくのが望ましいことかもしれません。
しかし難しいですね。それでもやっぱり、こんなことを書いている今も、どこかで人知れず援助活動に勤しんでいる人がいることを、私は心に留めておきたいと思いますね。


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