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死刑制度についてひと言お願いします
1874
:
無精髭
:2008/08/07(木) 19:55:26
>>1873
お返事を戴けたので、安心致しました。
なんか、シェンロンさんには謝ってばかりですね(笑)。面目ないです。
私が誰かにレスをつける場合、その人の主張や考え方にケチをつける気など毛頭なく、
単に自分の理解力不足を露呈しているだけなのです。恥を忍んで―――否、
厚顔無恥に自分の疑問をつい口に出してしまい、やっぱり止めておけば良かったと
後々後悔する質です。疑いの念からふっと我に返り、自分を客観視してみますと、
「俺ってなんかピントがずれているというか、何本かネジが足りない感じなんだよなぁ」
と、しみじみと思えてきます。書いたものなんかを見返しても、同様です。そんな
自分を楽しんでいる、もう一人の自分も確かにいるにはいるんですけど。もちろん、
人の反応を見て面白がっているということではありません。全てにおいて、それとは逆です。
私は、他人の考えは無条件に尊重されるべきものであると考えております。その上で
レスをつけさせて戴いておりますことを、是非とも皆様には知って戴きたく存じます。
そもそも、食指の動かぬものに関しては、私は非常に冷淡な人間ですので、自分にとって
無価値であると思われたコメントには絶対にレスをつけません(他にもひとえに私の
力量不足が原因で、レス困難なケースなどもございますが)。
きっとネット以外でも、空気の読めない奴だと思われているのでしょうねぇ。当人の方は
至って能天気なんですがね(笑)。普段は、のほほ〜ん、としておるつもりなんですが、
他人から見れば、すっごく無愛想に見えているのかも知れません。難しいな、人間関係。
あと、意識についてどうたらこうたらと言い訳がましいことを申しましたが、これを話すと
長くなるので省略させて戴きます(皆様にとってはむしろ好都合でしょうし、私にとっても
恥ずかしいことなので)。意識には自己においてしか実例が存在しない為に、他人のそれと
比較しようがないことも忘れて、ああだこうだと、全く御見苦しい限りです。どうも申し訳
ございません。
この度の私の不祥事で、過去、シェンロンさんにやたら絡んでいた何某さんを思い出しました。
すると、その人と自分がごく自然に重なりまして、性格だけでなく意思伝達を目的とした文章力
についても、色々と反省すべき点が多いな、と思いました。何かにつけ、すぐに感情を荒立てる
お方だったようですが、私は決してそんなタイプではないのですが、すぐにくよくよする所
なんざ、どっちが感情的やねん、と自分で自分に突っ込みたくなりました(笑)。
大体私の文章が乱れるのは(元々、へっぽこなんですが)、著しく思考が混乱している時です。
そのせいで、議論の眼目などを見失うことがよくあります。或いは、これまたその時の意識の
問題なのですが、思考停滞に陥った際に、無理矢理文章をひねり出すことで思考を押し進めよう
とすると、どうも文章がイかれてしまうことが多いようです。
と、まぁ、私は上に申し上げたような人間なので、適度に距離をとってお付き合い戴ければ、
人畜無害であること請け合いですので、もしまた私がうっかり気に触るようなことを仕出かしたり、
しつこいまでに食い下がったり(?)、突拍子もないことを抜かしたりしても、余り気に
なさらず(情況によっては無理な相談かも知れませぬが)に、どうぞ道化が一人下手な芸をして
悦に入っているとでも見做してやって下さいませ。微笑ましく見守って戴けましたら幸いです。
・・・ほんと、付き合いにくい人間で御免なさい、です。
1875
:
無精髭
:2008/08/07(木) 20:04:05
我ながら、言い訳が長いですねぇ。お返事戴けたので、調子に乗ってしまいましたよ。
このまま調子に乗り続けて、疑問を垂れ流したり自説を展開したりしては、
シェンロンさんの当惑する顔が目に浮かびますので、差し当たり私の個人的な意見は封印致します。
急かすようで悪いのですが、今は入江さんのレスを待ちましょう。
因みに、
>>1870
の訂正の指摘箇所ですが、アンカーつけ間違えてます。
正しくは
>>1868
です。
1876
:
紫煙狼
:2008/08/07(木) 20:22:10
少し遡りまして…。
私が「同害報復」の原則を徹底するとこうなる!という例を
>>1845
で提示しましたところ、
「それは過剰報復である」というご指摘を頂きました。。。が、なぜそれが「過剰報復」なのか
の理由に言及されたものがありません。それが「やりすぎ」なのは自明でしょうが、
自明を噛み砕かないことには、同害報復と過剰報復の境界線は見えません。境界線よいずこ?
おそらく、直接被害者以外に間接被害者が受けた害まで同害で報復しようとしている点が、
やりすぎなのではないでしょうか?つまり「同害報復の主体は被害者(サイド)」ではなく、
同害報復の主体は「直接被害者に限定」しなければ過剰報復となるのでしょう。
ならば「直接被害者VS加害者」の構図で裁判をする限り間接被害者の感情が充足される訳がない。
まして実際の刑事裁判は「直接被害者(の代弁者)VS加害者」ではなく「国家(の代弁者)VS加害者」
なのですから、この判決で直接・間接の被害者感情が充足されないとしても、至極当然の理でしか
ないのではないでしょうか?それが解っているから被害者(サイド)は、せめて国家が下すだろう
加害者への処罰が少しでも重いだろうことを願い、そこに自己の恨みを投影させるより他に
道は残されていないわけです。こんな歪な有様を「同害報復の原理」で説明するのは無理でしょう。
そう考えると、たとえ加害者に死刑が言い渡されたとしても、それは同害報復の原理に基づくもので
はありえないし、また、そうであってはならないわけです。
1877
:
無精髭
:2008/08/07(木) 20:59:52
>>1876
つまり、入江さんは御自身の信念に反して、同害報復論者ではないということですか...(絶句)。
私も、入江さんは普通の意味で同害報復論者かと思っておりました。
多分、Kenさんもそうなんじゃないかな。
・・・「同害報復」については、まだ色々と調べる必要がありますね。
1878
:
入江
:2008/08/08(金) 10:59:14
すみません、時間がなくて読み込めないので少しだけ。
同害報復は相手を一人殺したら自分一人が殺される、
相手の親と子を殺したら自分の親と子が殺される、という状態で
それ以上を望んだら過剰報復となると思います。
そういう意味では私は過剰報復論者になるんでしょうか?
無精髭さんに絶句されてるのはスタンスが怪しいせい???
しばしば感情と論理をごっちゃにするのが私の悪い癖なので
いっぺん長考してきます。
ただし、被害者の「恨み」っていうのはどうなんでしょう?
被害者にしてみれば奪われた人権の回復がそもそもの切なる願いなわけで。
回復不可能ならせめて加害者の人権も同じく奪われなければ不公平だと思う、
そのシンプルな考えが「恨み」などというマイナスイメージそのものの言葉で
括れるものだとは思いません。
1879
:
紫煙狼
:2008/08/08(金) 12:11:57
(昨日は途中で力尽きて寝てしまいました(笑))
「入江さんは同害報復主義者ではない」は半分正しいですが、半分正しいでしょう。
処罰するための同害報復主義を厳密に「全く同じ被害を与える」と考えれば、
加害者の関係者に累が及んでしまう点で第三者を巻き込む過剰報復となるでしょう。
おそらく入り江さん自身の解釈から言えば「(全く)同(じ被)害」を与えることは汎用
的ではなく不可能な場合も多いので「同(程度の被)害」を与えることで代替する…。
という理論なのだと思います。実際、過剰報復との指摘を下さったのは入江さん
ご自身ですから。
つまり「被害者サイド被害の総和と同程度の害を加害者に報復として与える」が
過剰報復を防ぎつつ「加害者処罰によって善と悪の平衡を保つ」という方法論なワケです。
そうしますと、人間一人が受け止めきれる被害の量には限度がありますが、人間一人が
与えうる被害の量には限度がありませんから、発生した被害の総量と同程度の害を
加害者に全て受け止めさせることは不可能です。それ故、加害者の死だけでは平衡が
保たれない事を理由に、少しでも加害者が受ける害の総量を増やすために「絞首刑では
生ぬるい!」とか「残虐な苦痛を与えてから殺せ!」という発言が出るわけです。
一言で言えば「いかなる方法によって少しでも多くの苦痛を加害者に与えるか?」が
「同程度害報復」の課題であり目的であるわけです。
そして「そのような考え方自体が残虐で非人道的ではないか」という批判をかわし、
自己の罪悪感を軽減する手法として「目的刑論の一般予防論説」を利用するのです。
それが「刑罰による犯罪抑止効果の有無を問う」という論争を巻き起こすのです。
1880
:
紫煙狼
:2008/08/08(金) 12:56:19
しかし、それはあくまで「被害者感情に根ざすと苦痛を与える事が重要に成る」のであり、
国家は必ずしもそのような視点で加害者を処罰するわけではありません。国家が加害者を
処罰する最大の目的は「治安の維持」ですから、国家が加害者に与える苦痛を増やすと
すれば、それは感情論よりは単純(純粋)に治安の維持を容易にすることを目的とする
「一般予防論説的犯罪抑止効果期待型厳罰化指向」と考えられるでしょう。
従って、国家は死刑を存続させることが必要であり、犯罪者に対する罰を厳罰化することに
吝かではないが、刑罰の残虐化には同調できない。なぜなら「残虐な刑罰を禁止する」という
憲法上の定めは「犯罪被害者という一部の人」の要求ではなく「国民の総意」としての要求で
あり、それは尊重し守る義務を負うものであるからです。そのためなら、諸外国から死刑廃止を
迫られたところで、無視を決め込む覚悟もあるし、死刑存続が国民大多数の要望であることを
理由に「日本国民は死刑がなくなれば凶悪犯罪を容易く発生させる国民性を持つ」という
誤解が生じることも厭わない訳です。
ある意味、国民思いで好感をもてますね(^^)
私自身も諸外国云々が日本国内の法制度を変更させるとしたら「内政干渉」だと感じるし、
死刑を廃止する理由が「世界諸国の流行」だとすれば「ミーハーではない!!」とむしろ
怒りを感じます(笑)死刑が廃止されるとすれば国民の大多数が死刑に懐疑的になった結果
でなければ、一度は目的が達成されても「世界各国の流行」を理由に死刑を復活させる可能性が
排除できませんからね。。。
1881
:
紫煙狼
:2008/08/08(金) 15:17:17
さて、同類犯罪の発生を予防する目的を除外して(つまり既に発生してしまった犯罪に限定して)
加害者の処遇を考えるならば、「治安維持」を目的とする国家は「加害者の無力化」に成功すれば、
「同一加害者による被害拡大の防止」さえ可能であれば、それ以上の目的を刑罰に織り込む必要は
全くなく、終身拘禁で用は足りるわけです。(故に死刑囚も、みだりに執行されたりしない。)
従って、実際に死刑が宣告され、執行される理由、執行する理由を国家側から見ると、
むしろ「防止・予防効果」以外に死刑を積極的に採択する正当な理由はないのですね。
本来的に被害者感情慰撫充足という側面は国家が下す刑罰には含まれないわけです。
これを不適切な表現に置き換えるなら、国家は防犯キャンペーン、防犯アピールのために
加害者を殺害し「みせしめ」にするわけです。「みせしめ」以外の理由はないのです。
これを前提とすると「みせしめ」は「処刑」の正当な理由足り得るか?と疑問に感じます。
同類犯罪発生予防のために「みせしめ」が必要ということは「同類犯罪発生助長未遂罪」ですよね?
「同種の犯罪が発生した」と言えない限り、これは未遂罪でしかない。また同種の犯罪が発生しても、
かならずしも、影響の有無を明確に因果関係付けることは不可能であるにもかかわらず、
犯罪者の命を奪う事を正当化する唯一の理由が未遂罪というのは行き過ぎではないでしょうか?
1882
:
紫煙狼
:2008/08/08(金) 15:55:25
>>1878
>相手の親と子を殺したら自分の親と子が殺される
これが即ち過剰報復であると入り江さんがご指摘くださった状態ですよ(^^;
加害者は自分ですが、自分の親と子は犯罪と無関係な人間であり、
この犯罪と無関係な人間を処刑することが「過剰報復である」わけです。
だいたい、相手の親と子を殺したら、殺した張本人の自分ではなく、
自分の親子を殺されるということは自分の罪に対する罰を親と子に
肩代わりしてもらえるということで、もはや「報復」ですらあるのやら怪しいです。
あと、被害者の切なる願いであれ何であれ、自分以外の他者が不幸を味わう事を
願う気持ちは全て「恨み」という言葉に私は一括します。そして「恨み」という
言葉を使わざるとしても「不平」や「不満」でしかありえません。
どちらにせよ本質に変わりはありませんので、謝罪撤回をするつもりはありません。
しかし、私が納得いく言葉で、あなたも納得できる言葉があるなら、
表記を変更することにこだわりはありません。ご一考ください。
1883
:
無精髭
:2008/08/08(金) 22:17:03
入江さん
>>1878
無精髭さんに絶句されてるのはスタンスが怪しいせい???
入江さんのスタンスを怪しんだつもりはございませんよ。絶句と申したのは、
シェンロンさんのご明察に蒙を啓かれた思いがしたからです。他意はございません。
入江さんは「恨み」という言葉をマイナスイメージに直結させて理解していらっしゃるようですが、
たとえ「人権回復への切なる願い」といった感情発露の根底に「怨恨感情(ルサンチマン)」が
行動原理として働かざるを得ないのだとしても、別にそれはそれで認めてしまっても好いのでは
ないかと思います。それが反社会的・非道徳的な感情であったとしても、事件の被害者であるのは
他の誰でもないこの私であるということを宣言する、その根本の動機となるものであることに変わり
はないのですから。「何故他の誰でもなくこの私が犯罪被害に遭わなければならなかったのか?」
という思いは、シェンロンさんの
>>614
にある、
>憲法とは国民が国に対して要求したものであり、憲法13条には生命の権利が明記されています。つまり、国民は生きる権利を国に要求し、国はこれを守る義務があるわけです。
>ここで、殺人事件が発生した場合、本来なら憲法13条の生命の権利を侵す行動を許した責任が国にはあるのです。従って、国は「国が義務を履行するのを妨害した」犯人に対し、訴訟を起こすのです。
>(検察官は国家の代理人であり、被害者の代理人ではありません。)そして、憲法99条の通り、国民の要求を尊重するために、憲法13条の「公共の福祉に反しない」範囲内で死刑を執行し、生命の権利を危険から擁護するわけです。
という国家的見地・若しくは国民総体的な立場からは説明できないし、捉え切れるものではありません。
つまり、それは端っから第三者的言説によっては到底含み込めないような、人間存在の暗部についての
(例えば不特定多数の社会成員の内で偶然に犯罪被害に遭ってしまった人などがする)代弁に他なりません。
ですから、そのような怨恨感情をそもそも人類は克服できるかどうか(大げさですが)が問題なのでして、
入江さんは一貫してそれに「NO!」を突きつければ宜しい訳です。怨恨感情はその意志が向かう本当の目標が
成就されなければ、断じて克服されない(消失しやしない)のだ、と。この現実を無視した死刑廃止論など
無意義・無意味であり、砂上の楼閣である、と言い切れば宜しいのです。絶対に、そういったスタンスを変えては
ならないでしょう。でなければ、同害報復論者の名が廃る、というものです。
日野OL不倫放火殺人事件スレッドで、Jackal氏に執拗に食い下がった入江さんなら、必ずやシェンロンさんに
一泡吹かせてくれるだろうと(失礼っ)信じております。
因みに、こちらの過去ログを読み返せば分かりますが、Jackal氏も「同害報復論者」のようです
(ちょっと特殊なんですけどね)。
1884
:
無精髭
:2008/08/08(金) 22:20:28
シェンロンさんも御自身の経験から、決して自らの力では「恨み」を克服できないと悟ったが故に、
制度的にそれを乗り越えようという意図を以って、色々と模索されていらっしゃるのだと思います。
加害者の家族についての考察に関しては、別スレですが、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/60
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/65
が参考になります(シェンさん。無断転載の程、ご勘弁)。
これを見ればお分かりになりますように、仮にシェンロンさんが犯罪被害者となった場合、
その怨恨感情が向けられる先は、専ら加害者本人に限定されると言います。いわば、
加害者の家族までその対象に含む同害報復の原理とは方向性が逆でして、加害者の家族や
恋人や知己の立場になって考えることで想定された、加害者を中心とした関係者間の愛が、
自らの怨恨感情を相殺するように意図的に仕組まれるのです。しかし、それでも怨恨感情が
解消される訳ではなく、心の中には相も変わらず渦巻いてはいるのですが、シェンロンさん
にとって公におけるその発露を禁じるという正にそのことが、法的・公的な「赦し」という
別の側面を私たちに見せるのです。
1885
:
無精髭
:2008/08/08(金) 22:22:11
シェンロンさん
一言で申して、
>>1879-1881
には「ドラマ」を感じました。死刑制度の是非を問う者たちは、
立場の別なく、お互いの立たされているのがどんな場所であるのかを、その大作を読んだ後
では一人残らず思い知らされることでしょう。如何に、脆弱且つ不安定な足場で議論をして
いるということを。死刑廃止論者を偽善者と罵る阿呆は、こぞって自らの毒気に当てられる筈。
>>1879-1881
はリアルタイムで接したシェンロンさんの書き込みの中では、
最大級の感動を呼び起こしました。(まぁ、熱しやすく冷めやすいのが私の欠点でもありますが...)
1886
:
紫煙狼
:2008/08/09(土) 00:15:11
>>1885
最大級のお褒めのお言葉、素直にありがたく賜ります(^^;テレ
ただ、ここまでの
>>1879-1881
を以って即刻、死刑を廃止しなければならない理由になるかと言うと、
これは全然別の問題であって、あくまで刑事裁判において被害者は第三者の立場であると言うことを
明確にしたつもりです。
現在の刑事裁判は「国家の代理人である検察官」と「加害者の支援者である弁護人」の言い分を、
これまた「国家の代理人である判事が裁定する」という被害者不在の形態であり、制度上第三者の
立場である被害者は国家が復讐を代行してくれるものと依存せざるをえないという実状を浮き彫りに
する意図で、読みやすくも面白くもない文章を長々と書き連ねたわけです。
では、なぜ刑事裁判において被害者は第三者の立場であるか…。
(この状態が歪であると言う論拠による国民の声が被害者参加制度を実現させるわけですが)
被害者が刑事裁判で第三者に過ぎない本当の理由は「個人VS個人」の係争は民事裁判によって
解決しなければならない。というのが司法制度の根本であるからなのだと私は解釈しています。
加害者が被害者に与えた被害の補償は民事裁判によって解決しなければならない。
つまり被害者は「加害者に下される刑事罰の重軽」ではなく「被害者と加害者の直接対決」である
民事裁判の判決によって感情慰撫されなければならない。刑事罰はあくまで「犯罪を犯したと言う
行為=国家に対する暴挙」を咎めるための物であり、それは必ずしも被害者が存在するか否かさえ
必要としないものなのです。
一例として挙げるのであれば、児童ポルノ漫画が判りやすいと思います。児童と思しきキャラクター
の露骨で過激な性描写がある図画を販売すると「猥褻図画領布等」という罪状で刑事処罰の対象と
なりますが、見たいと言う人にだけ見せて両者合意の価格で販売しても、購入者がそれに触発されて
現実世界で妄想を実現させようと犯罪行為を犯さない限り、被害者は居ないはずでしょう?
それでも猥褻図画の販売は即ち刑事罰の対象となるのです。
1887
:
紫煙狼
:2008/08/09(土) 01:04:08
このように、民事裁判と刑事裁判は本来的には全く別個のものとして扱われなければならないのです。
その証拠に時折「刑事無罪・民事敗訴」というのがあります。刑事罰には問われないが民事賠償を
言い渡されるケースも平然と存在するのです。
つまり、被害者は最初から刑事裁判に期待してはいけないのです。被害者の感情は民事裁判によって慰撫
されるべきものであり、刑事裁判は犯罪を犯すと言う「国家に対する暴挙」を国家が断罪するための手続き
なのです。これを勘違いするから「日本の司法は被害者に厳しく加害者に甘い」というトンチンカンな
発想がわきあがるのです。
もちろん、民事裁判は結局「お金で解決」ですからね。「お金なんていくら積まれても許せない」と言う
感情が残るのは私も激しく同意いたします。しかし、だからと言って民事においても刑事においても
被害者は当事者、中心核であると言う認識は幻想か勘違いに過ぎないのです。被害者が刑事判決の重軽に
一喜一憂するのは感情的には理解できますが、それでもやはり間違いなのです。それを突き詰めると、
「刑事罰は国家による復讐の代行である」という認識は蜃気楼に過ぎず「同害報復」という言葉を
刑事裁判に持ち込むこと自体「前提の時点で既に論理的に間違っている」のです。
被害者が「加害者が未来永劫苦しみますように」と願うのは勝手ですが、被害者が「加害者に死刑を」と
要求する権利は、我々のように事件とは全く無関係な第三者と同じレベルでしか許されないのです。
「民事訴訟による損害賠償の請求権を国家に阻害されない限り」被害者は刑事裁判において証人以上の
存在足りえないのです。
従って、刑事裁判の判決理由に「社会に与えた影響、著しく大きく」は正当な理由足りえても、
「被害者を苦しめた事まことに許しがたし」は「なぜか通用してしまっているが理由として不適切」と
結論付けることができます。これはただ「国家が被害者を利用している」に過ぎないのです。
(加害者に重罰を与えてくれるなら、利用されることを厭わない被害者の心理につけこんでいます。)
こうなると、本来終身拘禁で用足りるはずの刑事罰を「みせしめ」として利用するために、
「被害者感情」まで持ち込んで「一般威嚇効果」のために命を奪われる加害者も、
元はといえば自分が悪いとはいえ、人身御供、イケニエでしかないではないですか。
それゆえ、まず最初に私は死刑制度自体を「正義ではなく、国家による偽善」と考えるわけです。
1888
:
Ken
:2008/08/09(土) 06:34:49
民事事件の判決は強制力がないですよね。そこんところも刑事罰と違うと思いますけど。
1889
:
無精髭
:2008/08/09(土) 21:19:13
>>1888
確かに判決自体には強制力がないですね。でも、強制執行という手があるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%9F%B7%E8%A1%8C
http://www.courts.go.jp/sendai/saiban/tetuzuki/kyoseisikko.html
http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B0%91%E4%BA%8B%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E6%B3%95_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0_%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%9F%B7%E8%A1%8C
手続きはめんど臭そうですけれども。
上のように、一々基礎資料的なソースを挙げるのは、正直申して気が引けるのですが...。
それで、私が暗に申し上げたかったことは、判決の強制力が債権者の申し立てによって国家に
発生するとき、民事裁判の対立構図が刑事裁判のそれに酷似して来やしないか、という
ことなのです。今の法律って、こんなんで大丈夫なんですかね? ちょっと心配気味。
1890
:
無精髭
:2008/08/09(土) 21:32:49
>>1889
いやあ、やっぱり大丈夫かも(笑)。たとえ犯罪被害者サイドが、あらかじめ民事判決の
強制力が法的に確保(確約)されているという事実を念頭に置いて、民事訴訟を起こすの
だとしても、
>民事裁判の対立構図が刑事裁判のそれに酷似して来やしないか
という疑問は、とんでもなく的外れであること甚だしく、我ながら正気の沙汰ではないですね。
刑事罰に、ほんのちょっと似るって程度ですか?
まあ、何はともあれ、
>>1889
は早計でしたよ。前言撤回いたします。
1891
:
無精髭
:2008/08/09(土) 22:14:33
刑事と民事、同害報復などについてシェンロンさんの議論にかなりの部分で重なる理論を展開している人がいました。
http://209.85.175.104/search?q=cache:sXmOOh5RZScJ:www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/anarchic_society4.htm+%E6%B0%91%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%80%80%E5%90%8C%E5%AE%B3%E5%A0%B1%E5%BE%A9&hl=ja&ct=clnk&cd=4
↑元のページが無くなっていて、キャッシュしか残っていません(と言う風に言ってしまっても良いのですか?)。
スクロールする際、非常に読み難いです。
で、ちょっと引用。
>被害者が犯罪者から損害賠償を受けるには、法廷外の示談による和解か、あるいは上述のように民事紛争としての
>不法行為法に基づく金銭請求をする必要がある。これは上記の刑事手続きとは基本的に独立したものであり、
>被害者の立場は国家によって行われる刑事裁判に対して後回しにされている。そしてこの事実は、多くの被害者の
>もつ刑事裁判制度への不満を生み出しているのである。
>これを受けて2007年には、フランスやドイツで実施されている附帯私訴の制度の導入がなされた。附帯私訴は、
>現在は刑事事件の被害者の訴訟負担を軽くするために、犯罪者への損害賠償の民事訴訟を刑事訴訟と同時に行うことに
>なる。これによって、警察の収集した証拠の利用や、被害者の証言などを民事訴訟に利用することができるのである。
とまあ、ざっとご覧になれば、現在こちらのスレで取り上げているテーマについて非常に興味深いことが書かれて
あるのが分かります。ハッキリ申して、結論部分はどうでも好いのですが、ここ最近のシェンロンさんのお書き込みを
噛み砕く(?)のに、参考資料程度にはなるかと思われます。
最後に、上に挙げました論考に言及したブログのエントリも挙げておきます。
http://libertarian.seesaa.net/article/49020924.html
1892
:
紫煙狼
:2008/08/10(日) 00:35:01
>>1891
私が次に打つ手を先読みされていましたか(苦笑)
現状では民事訴訟での「金銭による被害回収(復権)」に大きな限界があり、それを解決しないことには、
被害者不介入の構図で、あくまで治安の維持のために言い渡される刑事罰で溜飲を下げるしかない。
この状況下で死刑は間違っていると言ったところで、他に被害感情を慰撫する方法が残されていない。
従って、加害者に下す刑事罰以外の方法で被害者感情を慰撫する制度の導入がなされないことには、
被害者は加害者を憎み、加害者の不幸・苦痛・死を願わずには居られない。たとえ相手が鬼畜にも劣る
凶悪犯罪者だとしても「他人の死を願い、それが成就されたことに喜びを見出す」のは強烈な業ですよ。
被害者にそこまでの業を背負わせる司法制度に問題が無いとは言わせないよ、と。
そこで、目的は少々異なるが附帯私訴を日本でも導入するべきではなかろうか?と思うのですね。
しかもこの場合の附帯私訴、つまり、刑事事件に関連する民事訴訟に関しては法的強制力と即効性を
与えるべきではないか…と思うわけです。具体的には、上記民事訴訟によって認められた賠償額は
「国家が一時的に立替」て即時に被害者側に支払う。そして国家は加害者から立替た分を国家権力を
動員してでも取り返すべきであると提案したかったわけですね。
なるほど、加害者が高齢で支払い能力が著しく低い場合などは、国家と言えども回収不可能でしょう。
そこにはやはり税収を割り当てるしかないと思いますよ?税収を割り当てるということは、
事件とは何ら関係ない人々に負担させると言うことですよね?反発を食らうのは目に見えています。
でも、その反発の正体って何だろう。「加害者を死刑にせよ!」と正義感という刀を振りかざし、
「被害者の気持ちを考えよ!」と叫ぶような「被害者思いの人道派」も、被害者を救済するために
税収が増えることには反対しますか?「加害者を死刑にするから金銭的補償は諦めろ」と言いますか?
ほらね、偽善が見えてきたでしょう?結局、被害者の気持ち云々を語って加害者の死刑を望む人々も、
金銭的に助け合う精神はございませんか。と、まぁ、私なんかは妄想しただけで腹立たしいです(笑)
では、国家が可能な限り加害者から立替え分を回収するには、加害者を殺してしまってはいけないのです。
生かして社会奉仕させなければならないのです。これを「強制労働」と表現されるのであれば私は
「一定条件下での強制労働に賛成します」だいたいね「懲役刑」が「強制労働ではない」なんて
「おためごかし」ですよ。だったら懲役囚にも「働かない自由」を認めるべきでしょう?そんな本末転倒
甚だしいことが許されるわけが無い。「犯罪者は労働を強制されて当然の立場」なんですよ。ええ。
労働を強制してはいけないのに生命は強制してもオッケーですか?それこそ、おかしいですやん。。。
と、まぁ、こういう風に締めくくりたかったわけですよ(苦笑)
1893
:
無精髭
:2008/08/10(日) 17:56:17
>>1892
私が次に打つ手を先読みされていましたか(苦笑)
何をおっしゃるw 貴殿は私などより、何歩も先を行っておられるではありませんか。
>>1886-1887
を読んで、民事裁判と刑事裁判の対立構図の違いを再認識させられた後ですからね、
別に先を読んだという訳ではなく、シェンロンさんがそこで被害者は自身の復讐感情を自身の責任で・
社会倫理に沿った上で・合法的に成就すべきという趣旨のことを仰っていて、やや被害者サイドを
突き放したかの観がございましたから、さてどうしたものだろう、と思い、その前提を踏まえた上で、
民事訴訟を犯罪被害感情慰撫の手段とする為の具体案について、ちょっと調べてみたに過ぎません。
まあ、Kenさんの短いお書き込みに触発されたというのが、実際のところです。
現行の民事訴訟の枠組みでは、被害者側の感情を完全には吸収し切れずにそれが漏れ出すことで、
結果として死刑存置論者(特に同害報復論者?)が正当化しつつ主張するところの、現状の刑事裁判に
おける被害者側の人権軽視に対する反発から、その権利拡張としての直接的介入を求める風潮が生まれて
くる訳ですが、今申し上げたような事情を鑑みれば、被害者感情慰撫という被害者主体の問題は刑事裁判で
扱えないから民事でやれ、という正論では、民事訴訟における現実的な問題点を解決してからでなくては、
死刑廃止も含め、とてもか弱き国民の理解を取り付けはしないでしょう。
被害者側やそれを擁護する立場であれば、何とか民事と刑事の両裁判を一本化できないものだろうか、
という妥協案が出てくるのは当然かと思われます。しかし、やはり被害者主体の改革となりますと、
両裁判の法的な垣根を取る事でそれを同一化するのか、それとも付帯私訴のようなもので複雑化するのか
(両者並行的に行うのか)ということが問われずに混同されたまま、国民の不満を充足してしまう
のではないかと思われます。すると、せっかくシェンロンさんにご指摘戴いた(そして以前より口を
酸っぱくして仰っている)刑事裁判と民事裁判の目的上の区別もまた曖昧になってしまうものと
思われるのです。その結果、死刑制度は何にも増して被害者サイドの感情慰撫の為にある、という
誤謬が再浮上・再肯定されてしまうこととなりましょう。となれば、今まで積み上げた議論が振り出しに
戻ってしまうのは避けられないと思います(もっと始末の悪い事態になるかも)。
これが私が
>>1889-1890
で申し上げた疑問、元い愚問です。
しかし、
>>1892
を拝見致しましたところ、シェンロンさんはやはり一貫して民事と刑事の区別を
厳守した上で付帯私訴導入を検討に入れておられるようだから、シェンロンさん個人の場合は
特に問題ないでしょう(こんな事申すのも偉そうで何ですが)。
まあ、付帯私訴制度導入については色々と批判があるようですが、それはまた別の問題ですね。
1894
:
無精髭
:2008/08/10(日) 17:56:55
Googleの検索結果を見ますと「付帯私訴」についての言及って意外に少ないんですね。
http://www.google.com/search?hl=ja&rls=DAJP%2CDAJP%3A2006-42%2CDAJP%3Aja&q=%E4%BB%98%E5%B8%AF%E7%A7%81%E8%A8%B4&lr=
死刑存廃について考える上でも看過できぬ要素ですので、両方の立場からもっと活発な議論が
行われていても良さそうなのですが。
1895
:
紫煙狼
:2008/08/10(日) 23:30:26
巷では「犯人が捕まった」という表現をよく耳にしますが。実は捕まった時点では「容疑者」でしか
ないわけですよね?もちろん現行犯や罪状を争わない刑事裁判は別ですが、その容疑者が事件の犯人で
あるか否かは刑事裁判の判決を待たなくてはわからないし、そうでなくてはなりません。
けどね?現実はどうなっているでしょう。初公判が行われる前に、既に被害者の憎しみの対象は容疑者に
向けられていませんか?そして、罪状を全面的に争う姿勢を容疑者側が取ろうものなら、盗人猛々しいと
ばかりに怒りを募らせていませんか?「まだ犯人と決まったわけではありませんから」とか
「真実は裁判の中で明らかに」なんていう冷静な被害者は非常に少ないと思われませんか??
もちろん、検察側だって犯行を実証できるだけの証拠なしには起訴しませんから、1000件中999件
以上の割合で「被告=犯人」なのでしょう。でも、刑が確定するまでは推定無罪の原則が貫かれるべき
ですから、この被告を相手取って民事訴訟を起こすというのは危険極まりないですね。付帯私訴のように
民刑同時進行で審理をするのは、こういった危険性を孕む訳です。
しかし、犯罪事件において最優先されるべきは被害者救済復権だとは思いませんか?
ならば、いっそのこと刑事事件に付帯する民事訴訟は「被告不詳」で行うことを提案します。
被害者が原告となって「犯人何某」を被告として民事訴訟を先に起こしてしまう。もし、犯人が何か
言いたいのであれば自首して口頭弁論で何でも主張すれば良いし、自首しないなら、民158,民159に従って
原告側の主張がそのまま認められ、国家は即時その判決に従い賠償を立て替える。
刑事罰以外に、自分が名乗り出ない間にとんでもない額の借金を背負わされることになりますし、
それを国家権力の監視下の下、強制的に徴収されることになりますが、この強制的な徴収は何も別に、
労働で支払う必要は無くて、大金持ちなら(支払い能力があるなら)金銭で支払うことを妨げません。
少なくともこれが「死刑以上に加害者の人権を蹂躙するもの」とは思えませんがいかがでしょう?
1896
:
無精髭
:2008/08/11(月) 00:52:02
>>1896
実に妙案ですね。
>民事訴訟を先に起こしてしまう。
という発想が素晴らしい。附帯私訴(日本の場合は「損害賠償命令の申立て」)制度を
本気で導入する気があるのならそれを出発点にして調整すべきですね。
附帯私訴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%84%E5%B8%AF%E7%A7%81%E8%A8%B4
>>1894
Googleの検索結果を見ますと「付帯私訴」についての言及って意外に少ないんですね。
「付帯私訴」よりも「附帯私訴」の方が、もっと検索件数が少ないです(多分)。
「損害賠償命令の申立て」なんかが完全一致する件数などは言わずもがな、です。
閑話休題。
にわかに話題が「同害報復」から外れてきてますけど...(笑)。
入江さんからレスがあるまではあまり議論を進めたくはないですし、
かといって入江さんを待つだけで議論を休止するのも何だか惜しいので、
このように脱線しておりますけれど...、アリですよね?
1897
:
無精髭
:2008/08/11(月) 02:06:55
>>1896
アンカーを付け間違えました。正しくは
>>1895
。
一応、私の現在の立場から希望を述べさせて戴きますと、
死刑制度廃止か、死刑(執行等)一時停止案か、の二者選一って
感じですかね。後者の場合は、国連決議に従うとかそういうこと
ではなく、日本が自発的・自律的に実行するという想定でお願いします(誰にだ?)。
どうしても死刑制度存置、これは譲れない、というのならば、当然
安楽死を指向したものでなければなりません。苦痛を極力排除することを
目的とした段階的投薬による死刑ですが、薬物の適正な選択と同時に
死刑用薬物の研究開発も行われるべきです。苦痛に対する心身の耐性に
関しての研究も大事ですね。それと見過ごされてはならないことに、
死刑執行前の段階における受刑ストレスとでも称すべき、精神的苦痛
(死への恐怖)が考えられますから、これを取り除く努力を怠っては
ならないでしょう。
もしかしたら、薬殺刑よりもっと苦痛の少ない手段だってあるかも
知れません。例えば過去に雑談スレでシェンロンさんは、脳科学の
成果を刑罰に活かそうといったご提案をしておられるようだし。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1047995308/920
私見では、科学なんだから野蛮というのはなんかミスマッチな印象が
ありますが、脳を弄るのはちょっとね...むごいような気も致しますが...。
脳科学がもっと進歩して実用化されれば、刑罰の意味合いもがらりと
変わるかと思われます。
まあ、以上のようなことまでしても、死刑存置に拘泥する以上は、
人道的であるどころか、断じて偽善と言う謗りは免れるものではないし、
専ら善良な市民が国家による合法的殺人に加担することからくる罪悪感を
打ち消す為だけに、あれやこれやと試行錯誤しているに過ぎぬ訳なのですが。
最後に笑い話なんですけど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%9B%E3%81%BF%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%BA%96%E3%81%AF%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%82%B2
なんてのもありました。不思議と現在でも記憶に残っております珍事。
1898
:
紫煙狼
:2008/08/11(月) 15:49:51
犯罪者に対する脳外科手術を罰と考えるか治療と考えるかで
受け取り方はずいぶん違うと思います。基本的にこのような手法は
行われるとしても当面、性犯罪に対しての適応すべきと思います。
例えば、宮崎某のように幼児への性愛癖が嵩じた結果、凶悪な犯罪に発展した…。
この幼児絵の性愛癖は責任能力の有無を別として明らかに病的なものです。
コレに限らず、性犯罪者の再犯率の高さは性欲を理性で抑制できないという
病気であると私は認識しておりますので、教育や罰としてではなく治療という
側面から脳外科手術もやむなしと考えます。
無論、性犯罪者から性欲全てを取り除くことが正しい姿かというと、必ずしも
そうではないかもしれません。人並みの性欲を残したまま、理性で抑えきれなく
なるほと激化しやすい性欲傾向を抑える事が可能であればそれが一番「治療」と
いう言葉にしっくり来ると思います。
ロボトミー手術による悲劇を繰り返さないためにも、また精神医学会の宣言の如く
精神異常に対する外科手術は導入には慎重を期すべきであるというご指摘には
全面的に同意するものであります。従って、脳神経回路の仕組みがより明確に解明
されるまでは、むしろ導入には反対であるというスタンスもご理解願います。
1899
:
無精髭
:2008/08/11(月) 19:15:58
>>1899
委細了解致しました。詳細なご回答の程、誠に感謝致します。
>犯罪者に対する脳外科手術を罰と考えるか治療と考えるかで
>受け取り方はずいぶん違うと思います。
全く仰る通りです。実は
>>1868-1870
では教育刑について、罪を自覚させたり社会的良心を芽生えさせたりする
―――最終的に社会への適応力を身に付けさせるというような解釈の下で科される(正当化される?)刑罰が
受刑効果を発生するのだとしても、結局、囚人における態度の変化は、洗脳と改悛のどちらによるものなのかが
分からない、というような趣旨のことを申し上げたかった訳でして、この度のシェンロンさんとのやり取りで
扱われた問題とも深く関わる問題であると思われました。幸いにもこれからの思考にとって大きな後押しとなる
であろうシェンロンさんのご意見を賜ることが出来ましたので、この件に関しては何とか、あながち私一人の
自己満足的な問題でもないという信念を持てましたし、思考停止を免れることも出来そうです。改めて、
お礼申し上げます。
洗脳というのは、刑罰が受刑者の内心を捕縛した上でコントロールするプロセスをも含んでいるという意味でして、
その教育効果も外部的に囚人の心理に働きかけることで得られるというふうに理解するわけです。私の場合。
改悛というのは、受刑者が自分の受けている刑罰の意味を理解し、現状はどうあれ刑罰に対して積極的に自分の
自由な意志との関わりを持たせ、全てにおいて受動的に責任を感じ取るという程の意味でして、受刑過程を通して
見ても刑罰の効果が受刑者においてまずは自己内発的に生じているというふうに理解するわけです。これも私の場合。
刑罰とはそもそも強制的なものであるべきですし、事実そうであることは百も承知なので、そういったこととは
また別のことを申したい訳です。
まあ、上記も「完全より程度の問題」に当て嵌まるでしょうから、現実の運用面を無視してあまり突き詰めて
考えてしまうというと、非常にナンセンスな訳ですが。教育には、ある種の洗脳的なものが手段として切り離せない
という背景もある(というか、必須)でしょうし。
この件に関しては、私自身、早くも執着心が薄れつつあることなので、あのまま等閑に付しておこうと決めていた
のですが、今回、チャンスとばかりに思い付きを書かせて戴きました。ご容赦下さいませ。
1900
:
無精髭
:2008/08/11(月) 19:20:26
>>1899
何か前後で、一見矛盾したことを申しておるようですが。。。それとまたアンカー付け間違えました。
今回の件には全く関係ありませんが、シェンロンさんのお考えは(死刑廃止論者にしては)ダブルスタンダードである
とのいわれなき(?)非難をされることが時折ございますようで。上でも誰かがそのように批判していたようですしね。
まあ、私に判断できることではございませんし、たとえそうだとしても、どうも私は節操がない為か、ダブル
スタンダードでも両面内包でも何でも好いやんけ、これって特に問題あるのかなあ、と思う訳ですが。簡単に申して、
物事を複眼的に捉えることや問題のレベルを区別することって、とても重要ではないかと思います。
>(前略)精神異常に対する外科手術は導入には慎重を期すべきであるというご指摘には
>全面的に同意するものであります。(後略)
私はこんなだいそれたこと思っちゃいませんよ(苦笑)。でも、
>例えば過去に雑談スレでシェンロンさんは、脳科学の
>成果を刑罰に活かそうといったご提案をしておられるようだし。 (
>>1897
)
これはどうにも書き方が悪かったな、と思っております。お許しを。
1901
:
無精髭
:2008/08/11(月) 20:03:35
>例えば、宮崎某のように(後略)
私の宮崎理解は、だいぶ大塚英志氏に毒されておりますから。。。あまり公言できるものではないです。
シェンロンさんはご存知のように、別のスレでは変なこと申した為に、ある方から顰蹙を買いましたからね。
大塚氏は吉本隆明氏との対談本『だいたいで、いいじゃない。』(文芸春秋刊)で宮崎勤に触れています。
boro氏の当事件に関するページを見ても分かりますが、大塚氏は一審の弁護側証人も努めたほど、宮崎と彼が
起こした事件に入れ込んでいる(?)人です。で、長いんですが(しかも対談なので言い回しがちょっとくどい)
ご参考までに引用させて戴きますと、
たとえば「殺意なき殺人」みたいな言い方ばかりされたんだけど、宮崎勤と付き合っていて思ったのは、
検察側が一所懸命あの事件を性犯罪にしようとしたっていうことなんですよ。宮崎事件がある意味で奇妙な公判
になったのは、弁護側と検察側が性犯罪か否かだけを争った点なんです。宮崎勤に性的欲望はあるのかないのか、
と。鑑定医がこだわったのだってその一点で、彼が多重人格だとか、初期分裂病(統合失調症)だとか、こんな
ことは法廷戦術上の問題であって、弁護側としてはおそらく分裂病あたりが裁判官向けの言語としては落とし
どころだろうみたいな。そういうところは、僕なんかには醒めた感じで見てとれた。むしろ弁護側がこだわって、
検察側もこだわったのは、彼には性的欲望があったのか、なかったのか、なんですよ。
(中略)
宮崎が主張したのは、たぶんその一点なんです。自分には性的な欲望というのがないんだ、分からないんだと。
でも、彼がそれは性犯罪じゃないといくら主張したところで、彼の情状酌量にはまったく影響しないわけです。
つまり彼は、殺したこと自体は認めているわけです。だから性犯罪であろうがなかろうが、もしかしたら欲望も
なしに殺してしまったほうが、もっとひどい犯罪ととられて、量刑がひどくなる可能性のほうが高いわけですよ。
けれども、彼が唯一執着したのはその一点で、とにかく欲望が分からないんだと。
たしかに男の子だから、彼も性的な欲望がなかったとは言わない。ただ、その欲望のあり方とか向き方という
ものが、検察側がつくってきた、つまり成人女性に対して欲望を抱くんだけれども、その欲望を成人女性が受け
入れてくれなくて仕方ないので幼い無力な女の子に向け、その欲望を満たすために殺して、殺したあとでそれを
陵辱したと、そういう性的な欲望と具体的な素材を前提としたストーリーに対しては、彼は一所懸命違和を唱える。
その違和のあり方というものが、なにか僕には非常に重要・・・・・・と言うのは変なんだけど、大事な問題だという
気がして、そこが彼の問題なんだろうと思うわけです。そこの問題が分かんないと、何で首を絞めたんだとかが
分からないと思うし、さらにその上で、女の子を殺してはいけないんだという場所に彼が至るためには、余計に
彼の中で欠けている欲望の問題を一回通過しないとだめなんだという気がしてしようがない。
因みに上掲書は、単行本が2000年7月に出たようです。
1902
:
無精髭
:2008/08/11(月) 20:19:38
>>1899
>改悛というのは、(中略)全てにおいて受動的に責任を感じ取るという程の意味でして、
「受動的」ではなく「能動的」と書いたほうが良かったかも知れませんが、
寧ろそういう意味を持たせる為に書いた訳ではなくて、全てをあるがままに
受け入れるスタンスを保って、強制されることに対しては一切反抗心を起こさない
ということをそこでは言いたかった訳でして、「無抵抗(に)」とか「反省的に」
と書いた方が良かったかも知れません。「能動的」に責任を感じ取る、という
イメージが浮かび難かったもので。
1903
:
紫煙狼
:2008/08/12(火) 00:03:12
えーー。わたくし、ウソをついておりました m(_ _)m
自分の記憶を頼りに、昔の書き込みを探していたら「別のハンドルネーム」で投稿していました(爆笑)
先日、サブハン・ダブハンはしていないと言いましたが、どうも別のハンドルネームで投稿した事が
あるようです。紫煙龍だけではないですね。(で、このリブラなる者が私なのですけれど)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1050423679/157
スレッドのメインテーマは幼児虐待でして、終盤、虐待と体罰の差に話が伸びています。
「悪いことをしたら罰を受ける」という認識に、そもそも大きな誤りがあるのではないか?と思います。
「体罰を受けたから、自分の行いが悪いことだと気づいた」という人は、本当に、そんなに多いのですか?
自分が親なり教師から説教を受ける中で、自分の行いが悪いことだと判ったのではないですか?
そして一つの区切りとしての体罰を「当然のこと」と受け入れることに納得しただけではないですか?
もし、自分が体罰を受けて痛い目にあって、それがイヤだからもうしない…のであれば、その体罰を行う
親なり教師なりが居ない世界では、同じ過ちを繰り返しますよね?無人島で自分より非力なものと二人きり。
貴方を罰するものは他にいない。それでも、皆さんは体罰が怖いからではなく、善悪の区別が付くから、
非力な相手をかばい、守りこそすれ、いじめ殺したり(異性であったなら陵辱したり)しないですよね?
大切なのは「その行い」と「悪いこと」のリンク付けであって、苦痛を与えることではないはずです。
罰の内容にもよりますが、罰を受けること自体は贖罪にも何にもならないのですよ。
たしかに、取り返しの付かない過ちは多数存在しますが、それでも、何とかして何らかの方法で、
自分の謝意を行動で人々に伝えようとする、それが悔恨であり反省であり償いなんですね。
永久に許されることのない罪であっても、それは永久に報われない努力であっても、
自らの罪を償うと言う意思の下、自ら行動を起こさなければ、そこには意味はないのですよ。
その気持ちを起こさせる教育があれば、罰(苦痛)は必要ないのですよ。その気持ちが起きないのであれば、
どんなに罰を加えても、誰の心にも安らぎは訪れないし、取り返せる過ちも取り返せないのですよ。
無精髭サンの言いたいことと言うのは、多分、そういうことなんではないでしょうかねぇ。
1904
:
Ken
:2008/08/12(火) 05:36:04
実際的には紫煙狼さんの案はうまく行かないんじゃないですかね。
刑事事件の被害全体をお金に換算するとすごい額になるんじゃないでしょうか。
それでそのお金を「犯罪者」から取り立てるわけでしょう。無理があるような。
刑務所の作業って金額にすればたいしたことないですよね。必然的に国庫負担が
非常に大きくなると思います。足りなくなったら増税して補填。
考え方としては犯罪被害の保険みたいな感じですかね。みんなで保険料積み立てといて
被害に遭った人に保険金を支給する、みたいな。不幸をみんなで分かち合うというのは
悪くはないと思いますが。
1905
:
紫煙狼
:2008/08/12(火) 14:55:31
>>1904
>刑事事件の被害全体をお金に換算するとすごい額になるんじゃないでしょうか。
>それでそのお金を「犯罪者」から取り立てるわけでしょう。無理があるような。
はい、私もさすがに無理がないとは思いません。しかし、それでは刑事訴訟後の
民事訴訟でも同様のことが言えますよね?つまり、被害者の復権は刑事裁判判決に
よってもたらされるべきという解釈でしょうか?それとも、被告不詳・被告不在で
先行して行ってしまうことが問題でしょうか?そのあたり、もう少し詳しくご指摘
頂ければ、私も考え直すべき点が明確になりますので、ご教授ください。
>刑務所の作業って金額にすればたいしたことないですよね。必然的に国庫負担が
>非常に大きくなると思います。足りなくなったら増税して補填。
刑務労働は教育の一環として行われるので、金額的に小額であるのは必然と思います。
ただ、国家に対する借金を返すための労働に関しては、教育の一環ではないので、
重労働でも何でもかまわないと思います。もちろん、最終的に完済できる例の方が
絶対的に少ないでしょうね。
どちらにせよ、被害者の復権をいち早く可能にすることを目的とするものですので、
他によいアイデアがあればお知恵をお貸しください(^^)
それにしても…なんだい?忙しいのかい?Kenさんにしては切れ味が鈍いなぁ。
遠慮しないでガンガンご指摘いただいていいのよ?その方がブラッシュアップできるから。
期待しているんだからね?>Kenさん(^^)
1906
:
無精髭
:2008/08/12(火) 21:43:43
>>1903
「幼児虐待死」スレッドでのご指摘のコテハンによる最初の投稿は
「2004/10/09(土) 」ですから、死刑制スレッドで「紫煙狼」が初登場
するよりも前ですね。内容はとても面白かったです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1213957664/32
↑「学校教諭を養成する学校で教育学を学んだ」という過去をお持ちの
シェンロンさんを相手に、教育について議論を戦わそうなどという気は
全然ないです(笑)。
>>1903
は、私へのレスとしては読解力1800%じゃ
ないですか。私の書き込みなんざぁ、文章力20%で好いです。
>>1905
いや、Kenさんは誘惑に負けてオリンピックを見てしまったので、
深慮する時間が足りなかったものと思われます(冗談)。
死刑廃止論者が存置論者を説き伏せる為には、死刑制度のデメリットを
指摘するだけでなく、死刑制度に替わる具現的な施策をも打ち出せなくては
ならないのかも知れませんね。死刑廃止論の多くが終身刑導入論に繋がる
のにも、そういった事情があるのでしょう。・・・まあ、何と申すか、
私にはよくわからない傾向です。
>>1904
みんなで保険料積み立てといて被害に遭った人に保険金を支給する
「不幸をみんなで分かち合う」と仰いましたが、こういう発想もなしに、
やれ存置だ廃止だと息巻いても、私はどうしようもない虚しさを感じますよ。
「被害者の身になって考えてみろ」とか仰る死刑賛成派の方が、被害者に
対して行為を伴わない(実質的でない)同情をするばかりで、実は物質的な
援助には躊躇していることも考えられますし、他方で死刑反対派の方が
犯罪被害者救済で異様にコストが嵩んでしまうことを知って、死刑賛成派に
鞍替えするなんてこともありそうです。存置(死刑制度)と廃止(終身刑)の
どちらがコストがかかるのかは、自明であるどころか、容易に答えが出ない
問題だと思いますけれども。
1907
:
無精髭
:2008/08/12(火) 21:51:00
>>1906
おかしな箇所が若干ございますが、お見逃し下さい。
私も、特に忙しいというわけではないのですが、集中してものを考える時間があんまりないです。
1908
:
Ken
:2008/08/13(水) 05:08:45
ぶっちゃけ、付帯私訴制度とかあんまり興味と関心がないんで、思いつくまま
書いてるだけなんで...。紫煙狼さんの「こうあるべきだ」というのはその通りかなあと
思っております。私が書いてるのは「でも実際のところはこうですよね」という
ような話でして...。
被害者側がなおざりにされている、どうにかせにゃならん、というのはおそらく
すべての人が同意できることだと思うのですね。それでたとえば対策として死刑を
含む厳罰化というのがあると思うのですが、ターゲットは被害者側だったはずが
なぜか加害者に摩り替わっているのが、変だというか直接的でないというか矛盾
しているというか。やはり被害者側に直接働きかけるようなのが筋ではないかと。
それで、紫煙狼さんが提案しているのは被害者側の損害を直接和らげることになるわけで、
その点では大変結構なのですが、やり方としては一番お金がかかる方法ではないかなあと。
被害者側には犯罪被害によって経済的苦境に陥るというのも実際ありますし、
まあ、それでもいいんですけどね。ただ、当初の目的は被害者のために何かすること、
犯罪被害から立ち直るたしすることですから、方法はお金以外にもいろいろあるかなあと。
いつも書いてることですけど、起訴や裁判の状況を被害者側に伝える、裁判や
報道で意見を述べる機会を与える、といったところはすぐに思いつくのですが。
あと、髭さんが紹介してくれた付帯私訴の解説記事ですけど、これリバータリアンの
人が国家という枠組みがなくなったらこんな制度も必要だよなあ、という感じで
書いてますよね。それで、紫煙狼さんも刑事裁判が被害者(市民)のためではなく
国家のためにある、というのが議論の出発点になってますよね。そういう観点で
考えると、国家が関わらざるを得ないような大掛かりな制度というのはどうなんすか?
そういう国家Vs.私人というような視点からの提案としてはいまいちかなあと思うのですが。
1909
:
無精髭
:2008/08/13(水) 21:08:08
附帯私訴で被害者や遺族の感情が癒されるかどうかは未知数ですよ。民事での
勝利だけでは癒されなかった被害者なり遺族なりが刑事判決に満足がいかない
として、世論や民間団体を通して加害者に対し厳罰を求めるということは
考えられるわけですし。シェンロンさんご提唱の代替刑が実施されたとしても、
同じ事態になる可能性はあって、もしかしたら犯罪被害者団体が中心となって
死刑を復活せよという運動が生まれるやも知れません。
それでも私は、附帯私訴制度は死刑を廃した後に導入されるべきだと思うのです。
附帯私訴に似た制度は日本でも今年中に施行される予定とのことですので、
こんな事を申すのはもう遅いかも知れませんが、いまだ死刑が極刑として
残ったままその制度が導入されることになりますと、今さっき申しましたように、
被害者や遺族が民事を超えて刑事にまでその発言力を強めるであろうことは
確実なので、そうなった場合の社会的影響の大きさを考えますと、死刑も
また、以前にも増して揺ぎ無い制度として国民に支持され続けるのでは
ないでしょうか。死刑が犯罪被害者等の感情慰撫として最良の手段である
という認識をとにかく覆してからでなければ―――その認識は犯罪被害に
遭った者が己の感情に対する認識を変えない限りはその者にとって真実だと
思いますし、本当は変える必要もなく、変えてしまうことは非常に酷なこと
とも思われますが―――死刑廃止など夢のまた夢なのかも知れません。
まあ、上記のような事は私の妄想なので、余り真に受けないで戴きたいのですが、
私が申し上げたい問題とは、遺族感情慰撫の為の手段として、加害者の死を
超えるものが他にあるだろうか、ということです。せっかく片付いた問題を
蒸し返すようで恐縮なのですけれど。しかし、「刑事裁判が被害者(市民)の
ためではなく国家のためにある」(Ken)というシェンロンさんの正論が
国民によって受け入れられ、当然視されなければ―――つまり国民全体の
良識とならなければ、私でなくとも犯罪被害の当事者が本心から問題を蒸し
返すことでしょうね。その遺族感情が社会道徳的にどんなに間違ったもの
であれ、その真の姿が怨恨感情であろうとも、私個人としてはそれを否定的に
捉えることで、犯罪被害者なり遺族なりと対立したいとまでは思わないです
1910
:
無精髭
:2008/08/13(水) 21:31:06
う〜ん。思考力が著しく低下しております。
>>1903
で問われている件については、とりあえずこちらでの議論が一段落した後にでも、
改めて別のところで議論してみたいものですね。
>罰の内容にもよりますが、罰を受けること自体は贖罪にも何にもならないのですよ。
この辺りは本当に重要ですよ。どんな時でも賞罰を考慮に入れて生きている人間、
つまりある種の功利主義者は、道徳的良心を持つ人間と言えるでしょうかねぇ。
まぁ都合により詳論は出来ませんが、道徳的な問題についてはシェンロンさんとは
アプローチの仕方が若干異なっているように感じますので、もしかしたら意見が
対立する部分もあるかも知れませんね。でも、そんな事は本質的な問題じゃないでしょうが。
1911
:
入江
:2008/08/15(金) 12:10:44
お待たせしているところ申し訳ありませんが、なかなか時間が取れません。
お話はどんどん先に進めてくださって構いません。
でもせっかく待っていただいているのが嬉しくて、ちょこちょこと書いてみました。
確かに完全イコールの同害報復で身体で支払えるのは一人分の生命しかありませんね。
親子持ってきたのは失敗でした。失礼しました。
同程度害報復を金銭でもって行う。これいいかな、と一瞬思いましたけど
ビルゲイツなら何人か殺しても日常生活に支障をきたしそうにないですね。
むしろ罰になるのか?ってなもんです。
逆に貧乏人は何人殺しても最終的には寿命でバックレられるし
圧倒的に貧乏な人のほうが多いから
国庫負担の意味では死刑の方が確実に安いので、導入はありえないでしょうね。
税金増やして被害者救済、実に聞こえがよろしい。でも、これもやっぱり偽善じゃないですか?
払えない人が第二第三の犯罪を引き起こす可能性のある制度って正しいんですか、と。
仕事が腐るほどある時代には強制労働も贖罪として有力だったけれども
失業者のあふれる現状において、犯罪者に仕事のパイを奪われるのは正直望ましくないと思われます。
…犯罪者なんかにゃ仕事を与えるのももったいない(これは完全な私見ですのでスルーでお願いします)
民事訴訟を先に行う。実に慧眼です。でも危険すぎます。
借金おっかぶせたいムカツク誰かをあらかじめ監禁しといて、
例えばその人に強盗された、強姦されたと泣いて出ましょう。
その人を民事訴訟完了まで監禁し切っておければ、
ウソ被害者は生涯遊んで暮らせるお金を得られますね。
あとは海外にでも高飛びして名前を変えれば国家相手の完全犯罪完了です。
あ、監禁じゃなくて殺して埋めちゃえば高飛びもいらないか。
洒落にならない制度ですよ、これ。加害者という名の被害者が大量発生です。
1912
:
入江
:2008/08/15(金) 12:11:04
>>1879-1881
は私も感銘を受けました。最後の5行がなければ完全に白旗揚げていました。
でも、「同類犯罪発生助長未遂罪」なる未遂罪は死刑に値しないと仰る。とんでもないことです。
であれば内乱罪および外患誘致罪が未遂でも死刑なのはおかしいですか?
国家に対する極めて重大な犯罪です。やろうとしただけで悪いんですよ。
「同類犯罪発生助長」は、言い換えれば、たった一つの犯罪から数多くの模倣犯を生んでしまうということです。
未遂であっても死刑として、みせしめとして裁くに十分値すると私は思うのです。
それは数多くの生まれ得る模倣犯を抑えるために必要な予防法であり、
かつ
>>1879-1881
で仰っていた国家としてのスタンスにも叶うものだと考えます。
恨みについては…ちょっと咀嚼させて下さい。
ルサンチマンという言葉について理解が足りないので調べて考えてみます。
個々人の言葉の使い方の問題なので、私が納得すればいいだけなんですけれどね。
ついでで済みませんが無精髭さん、
>日野OL不倫放火殺人事件スレッドで、Jackal氏に執拗に食い下がった入江さん
これ、私は逆だと思ってますけど(^^;
一人で頑張ってたのはJackalさんだった気がしますよ。
ああいう、言われてやっただけだからオレ悪くないみたいなスタンスは最高に嫌いなので(笑)
できるだけ公平であろうとちょっと丁寧にお話させていただきましたが。
そういえば「贖罪は自覚の問題」っていうこちらで今言われている話題ともリンクしますね。
私としては、自覚して反省しうる犯罪者と、死にたかったんだざまーみろって言い放つ犯罪者を
どう仕分けるかにかかってくるような気がします。現在の話題とずれていたらすみません。
第一級殺人だったら激しくみせしめに、第二級だったらひっそり絞首刑、第三級は無期懲役
みたいな仕分けは日本では難しいものでしょうか。
このあたりKenさんにお伺いしてみたいです。
1913
:
紫煙狼
:2008/08/15(金) 13:46:16
>>1911
>同程度害報復を金銭でもって行う(中略)ってなもんです。
刑事罰の代替として支払うのではなく、民事賠償として支払うのであり、
もちろん、国家の治安に対する犯罪として刑事罰にも服してもらいます。
よって、以下 >国庫負担の意味では(中略)正直望ましくないと思われます。
は、民事賠償のために働かせることと刑事罰として働かせることを履き違えられているので、
敢えて私から言及する必要を感じませんが。
>でも危険すぎます(中略)加害者という名の被害者が大量発生です。
これは詐欺罪ですよ?どちらにせよ、犯罪被害救済のために犯罪を利用するという理論は
保険金目当ての殺人や、保険金詐欺が横行している現状から、皆無とは言いませんが、
そういう犯罪も然るべく断罪すればよいだけではありませんか?
まして「お金がかかるから導入はありえない」ということは…。
被害者に国家が金銭的な助力をするのは財政的に困難である。
加害者を殺してやるから我慢しろ!ってことですね。
貴方の死刑論も被害者の立場は深く追求しないことで成り立つわけですね。
まぁ、時間はたっぷりあります(^^)
1914
:
Ken
:2008/08/15(金) 13:56:26
米国では処刑は一部の人には公開されてますけど、みせしめのための公開処刑は
さすがにとうの昔に禁じられてるんで...。
死刑は立派な制度で政府にもやましいところが何もないと言うのであれば、日本でも、
たとえば遺族とか、見たい人には見せればいいのと違いますか。
1915
:
紫煙狼
:2008/08/15(金) 14:07:05
>>1912
>「同類犯罪発生助長未遂罪」なる未遂罪は(中略)十分値すると私は思うのです。
なるほど、言わんとするところはわかります。私の表現がまずかったですね。
外患誘致や内乱は「その故意がなければ未遂も成立し得ない」罪です。この場合の故意は確信的な
故意を指し、過失や未必の故意などは含みません。過失で外患誘致してしまうなんて有り得ますか?
「外患を誘致すること」や「内乱を起こすこと」を目的として行動するから、未遂罪でも厳罰に
値するというのが適切な解釈ではないでしょうか?
従って「同類犯罪発生助長未遂罪」が厳罰に値するには「同類犯罪の発生を助長する確信的故意」が
成立要件とならない限り、厳罰に処すことはできないと思いますがいかがでしょうか?
そういう意味では「犯行上過失致同類犯罪発生助長未遂罪」ですかね(笑)
これが死刑に値するというのは価値観の違いですから言及する意味は有りませんが、
どちらにせよ、とにかく死刑にしたいだけですよね。誰を救うとか、そういうの、ないですよね。
ただ、悪者を排除して苦しめて殺すのが気分いいってだけですよね。理論武装の必要ないですよ。
むしろ武装すれば武装するほどウソが垣間見えてしまう。。。
時間はたっぷりあります。
1916
:
紫煙狼
:2008/08/15(金) 15:19:50
「時間はたっぷりあります」の真意が伝わるように補足しますね。
結論から言って「死刑は簡単には廃止されない」という事です。それは死刑賛成論の方が日本国民の大多数である、
ということとは殆ど無関係で、日本国は「死刑を廃止するよりも先に片付けるべき問題が山積み」ということです。
私を含め皆さんも、死刑云々より先に、まずは景気を回復させろ!とか、官僚による天下り先量産による膨大な
額に上る無駄遣いを何とかしろ!とか、ガソリンをもっと安く!とか、今この瞬間に自分が遭っている憂き目の方が
確実に間違いなく優先順位が高いわけです。
極端な言い方をすれば、じっくりと腰をすえてあらゆる側面から考えた結果として死刑に賛成している人は国民の
1割未満。同じく反対する人も1割未満。考えた結果としてではなく感じた結果として賛成する人が7割、感じた
結果として反対する人が1割。そんな配分でしょう?私が味方に付けるべきは、この7割の方々ですが、この方々が
死刑制度について何かを考え直す必要性が発生するタイミングは「凶悪な犯罪が発生したとき」もしくは、
「死刑執行された元死刑囚が冤罪だと判明した場合」ですからね、世論が死刑廃止に傾くなんて杞憂ですよ(笑)
既存の制度を変更するというのはね、これは大変なことですよ。
労力も必要だし、変更のためのコストもかかる。そこまでして凶悪犯を救う必要なんてありゃしないわけですからね。
死刑賛成の人なんてのは何も努力する必要はないわけですよ。代替制度を考える必要もない。そもそも、今の制度に
不満があるとしたら「もっと、どんどん死刑を執行するべき」とか「もっと死刑の適用範囲を広げるべき」なんて
話であって、死刑が廃止される不安に打ちひしがれる必要はないわけですよ。
それこそ、せいぜい「国連が日本の常任理事国入りの条件として死刑廃止を受け入れること…」なんて馬鹿げたことを
言い出さないように目を光らせていればいいだけなんですよ。あとは菊田某みたいな「ウザい糞厨房追い払う」とか
「出る杭は打つ」ために黙らせる程度の力配分で充分なんですよ。それで安泰なんですよ。その証拠に、街角で、
「死刑反対のための署名運動」と「死刑存続のための署名運動」ではどちらが多く見かけますか?ね?
つまり、死刑制度が存亡の危機に見舞われているわけでもなければ、そうなりそうな兆しもない今、
死刑反対の輩を叩き潰すための名論理を考える時間は腐るほどあるわけですよ。あせる必要はありません。
ならばこそ、底の浅い安易な死刑存続論・死刑賛成論ではなく、練りに練り上げ熟成された極上の死刑賛美論で、
アタシの腐った根性をひねりつぶしてほしいのですなぁ。。。
1917
:
無精髭
:2008/08/16(土) 00:45:50
入江さん
「ルサンチマン」という言葉に引っかかってしまったようですねぇ。深いですよぉ〜、この言葉の意味は。
もう既に色々とお調べになっておられるかと思いますので、野暮な説明は致したくありませんが、
皆様もご承知のように、「ルサンチマン」はニーチェ哲学の重要概念の一つですね。で、これは非常に
複雑怪奇・難解晦渋な概念なので、私如きにゃ〜体系的・整合的な解説は、正直申して絶対に不可能です(苦笑)。
もし根気がおありでしたら、ウィキペディアの「ニーチェ」の項目から「ルサンチマン」とか「道徳」などの
キー・ワードを拾い上げて、それらを手掛かりに色々と検索して見て下さい。本当は、それよりもニーチェの
入門書なり基礎的な解説書なりをお読みになった方が好いかも知れませんがね。しかし、原著に直接当たってみる
ことは余りお勧めできませんが...翻訳に余り良い物がない、ということも理由としてありますが。ニーチェも、
アフォリズム形式を多用しているとは言え、一応哲学ですから、非常に観念的ですし、言い回しは冗長だし、
だいたい態度が尊大すぎて鼻につきすぎる、といった理由から好き嫌いが分かれますのでね...。思想としても、
とてもじゃないですが、一般受けし得ない・悪趣味なものですからねぇ、入江さんのような御仁には、悪(?)の
道に染まって欲しくはないのですよ(冗談)。世の中には、公言できないような真理(正しいけど言っちゃいけない
こと)―――真実の認識というものがあります。それは同時に、現実にはあってはならないこと・個人ではやっちゃ
いけないことでもあります。はっきり申すと、そんなことをずけずけ言っちゃう変態なんですよね、ニーチェって。
まあ、ニーチェのことなどはどうでも宜しい(但し、私の拘る「同情」について、他の追随を許さぬような、
極めて穿った(毒のある)洞察が、彼にはありますが)。
私がルサンチマンと申したのは、今思えば軽率だったとも思われますが、しかし、シェンロンさんも
>>1882
で
犯罪被害者なり遺族なりが加害者の死を望むことを「恨み」と一括しておられますように、どんなに美辞麗句で
粉飾して見たところで、被害者感情の根底には社会道徳に反する、余りに私的な怨念と申すか、何かどろどろとした
黒ぉ〜いものも厳然とあるのが分かります、悲しいことに。「人間は感情無しには生きられない」と仰った方が
いらっしゃいましたが、正に至言でして、感情の中には社会性のあるものばかりでなく、恨み辛みや妬み嫉みといった
ごく個人的なものもありますので、そういったものも含めて「人間は感情無しには生きられない」のです。要は、
生きる為に必要なんです。その者のパーソナリティーやアイデンティティーはそれなしにはあり得ないと言って好いほど、
それらを背後から支えているものなんでしょう、きっと。とは言うものの、まぁ、絶対にそうだという根拠などはなく、
個々人が各々で自覚するしか確かめようがないのですが。私の場合、当て嵌まりますけど。
1918
:
無精髭
:2008/08/16(土) 01:17:30
ニーチェなら犯罪被害者のそのような復讐心を弱者による嫉妬心として位置づけるでしょうね。この場合、
犯罪者は(相対的に)強者になるというのが、ニーチェ哲学の最低なところですけどね。
被害者サイドは加害者に対して極刑を望むのは当然であるという、私にとっては何故だか良く分からない傾向が
世間一般的に認められているようなので、今度は死刑が自分たちの住む国では極刑だから被害者サイドがその判決を望むのも
同じように当然であるとされているようです。私たちは別に加害者への私的復讐を国家に代行してもらおうと思っている
訳ではなく(つまり怨恨感情など抱いてはおらず)、ただ加害者を厳罰に処することがこの国の正義であるからである、
と被害者サイドが言うのだとしても、やっぱり正義感よりも復讐心の方が本心であって、それを道徳とか常識を持ち出すことで
必死に覆い隠そうとしているのではないかという批判的解釈が成り立ってしまう以上、そのせいで自己の主張を偽善的に
正当化しているというふうに見られもするでしょうから、結局死刑制度を個人における復讐ではなく社会における正義なのだと
言い換えるのも、自己否定としては不味いやり方ではなかろうか、と思われるのです。
あと一つ、アドバイスになるかどうかはわかりませんが、これからもシェンロンさんと指しで議論しようとお考えでしたら、
シェンロンさんの死刑廃止論―――つまり死刑代替刑導入論を部分的に叩いてもあんまり効果ないですよ(笑)。
多分そんなことをしても、せいぜいがシェンロンさんに修正を加えさせる程度のことしか望めないでしょう。それでは、
シェンロンさんの持説をこちらから補足強化してあげているようなものです(笑)。批判すれば批判するほど、
シェンロンさんの死刑廃止論は磐石であるかの観を呈するでしょうね。そこで、入江さんが知っておいて損がないと
思われる論点を、あえてこの場に提供させて戴きたく存じ上げます。もうご存知でしたら、御免なさい。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/126-138
唐突ですが、私が本来大して興味もない(
>>1916
で言われているが如き人間です)死刑存廃問題に拘るのは、
刑罰全般に関する疑問を除けば、犯罪被害者や遺族の感情慰撫についての問題をどう考えたらいいのかという
ことに集約されます。思えば、犯罪被害の当事者に対する同情問題やF氏との短いやり取りも、それが要と
なっていたようです。。。
入江さん。シェンロンさんのきつい(笑)切り返しには一々めげないで、根気よくやりましょう。「継続は力なり」
私も含め、こちらのみなさんは全員気が長い人ですから。「時間はたっぷりあります」
1919
:
入江
:2008/08/27(水) 21:31:22
確かに死刑廃止になる頃には私は死んでいそうですね。
のんびり一つづつ考えていくことにします。
>極端な言い方をすれば、じっくりと腰をすえてあらゆる側面から考えた結果として死刑に賛成している人は国民の
>1割未満。同じく反対する人も1割未満。考えた結果としてではなく感じた結果として賛成する人が7割、感じた
>結果として反対する人が1割。そんな配分でしょう?
そう思います。この7割に、秋葉原事件が起きた直後に
「今のままじゃヌルいから、刑罰、ちょっと残酷にしちゃおっか?」
って聞けば、なんだかんだで8割くらいの人には賛成を得られそうですもんね。
それはなんだかあまりに衆愚政治なので望むところではないかな。
ただ、私の死刑賛成論にそこまで美しい理論構成はないです。
出来る限りシンプルであろうと努めているので変化がないといわれてしまうのでしょう(^^;
まぁ、ここで個性を出すには簡潔なのが一番ですから(笑)
というわけで、まず一件確認させてください。
前に書いたことですが、特段話題にあがっていなかったので。
「自覚して反省しうる大多数の犯罪者と、
死にたかったんだざまーみろって言い放つ少数の凶悪犯罪者は
同じ扱いをするべきか否か」
です。これを切り分けることは制度的にはそこまで難しく思われませんがいかがでしょうか。
ここでいう「扱い」は現行法上での話でお願いします。
私にとってはこの論点がスタートなので、ここで躓いているのなら走る前から棄権です…
お手数をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。
1920
:
紫煙狼
:2008/08/28(木) 02:24:24
>>1919
>「自覚して反省しうる大多数の犯罪者と、
> 死にたかったんだざまーみろって言い放つ少数の凶悪犯罪者は
> 同じ扱いをするべきか否か」
自覚して反省しうる大多数の犯罪者は、反省しうるのですから殺す必要はないですよね?
本人が「死ぬことでしか償えない」と思うなら死刑にならなくても自殺するでしょう?
死にたかったんだざまーみろって言い放つ少数の凶悪犯罪者は死にたがっているのだから、
殺してあげたら却って喜ばれますよね?喜ばせてあげたいですか???
津山30人殺し事件を見ても判るように、死ぬ覚悟が出来ている人間が犯罪を犯すとすれば、
死刑の有無は何の意味も持ちませんよね?「死刑で死にたい」という選択肢がなくなるだけで
自殺の覚悟を持って殺人に走る輩を思い止まらせる術も、反省させる術も我々にはないですよ。
むしろ、死刑さえなければ「自殺する勇気はないが死刑を厭わない犯罪者」は減るかも(笑)
途中経過(監獄内ですごす時間)に差は有れど、結局同じ扱いをするしかないでしょう。
現行法制上、無期懲役ってのは「死ぬまで仮釈放しない」という選択肢もあるわけですし。
逆に、何をやっても死刑にならない世の中を考えたら自分が死にさえしないなら、好き勝手に
凶悪な犯罪を犯すヤツが増えるだろう…って意見は根強いですよね。ただ、こういう人物は、
自分が犯したことが犯罪であるという自覚のある人間だから、逆にまだ矯正のしようがある。
別に殺さないってだけで、何も牢獄で安楽な生活をさせるツモリもサラサラありませんから。
長い時間をかけて矯正教育を施せば反省を引き出せる可能性は充分にある。
むしろ問題は宮崎元死刑囚のように「自分が犯した行為が犯罪である」という認識を持ち得ない人物。
悪いことをしたという意識がないから反省しない。かと言って、自分が死ぬのは絶対に嫌な犯罪者。
でも、実際に宮崎元死刑囚には死刑による犯罪抑止効果は全くなかったのですよね?
自分は死にたくないくせに、死刑判決が出てもおかしくない犯罪を犯す人物ってのが厄介ですね。
「自分は絶対に死刑にならない」って思うこと自体、不思議で仕方がないのですが、宮崎元死刑囚の
場合は「悪いことをしていない」ツモリだから、そりゃ、死刑になるなんて思わないわなぁ…。
で、宮崎元死刑囚は実際に処刑されたわけですが、処刑の恐怖を前に反省したかというと、
これまた、反省の「は」の字も引き出せなかったわけで、まさしくつける薬なし。。。
でも、そういう完全不良品だから破壊して構わない…という問題でもないと思うのですよ。
1921
:
紫煙狼
:2008/08/28(木) 02:43:15
入江さんね、前に「盲目の人に色を理解させることが出来るか?」って書いていましたよね。
表現が適切か不適切かはサテ置き、貴方のおっしゃるとおり、そりゃ不可能ですよ。
唯一の方法は「目が見えるようにしてあげる」ってことでね。
ここからは逆説的な話になりますが…。
幸せな家庭というものを味わったことがない者には、幸せな家庭を壊される辛さが判らない。
バナナの美味しさを知らない者には、バナナを取り上げられた悲しみや恨みが判らない。
生への執着がない者には、死の恐怖がわからない。
単に、家庭を壊したり、バナナを取り上げたり、命を奪ってみたところで、
実際のところ、何がどうマズかったのかわかる訳ないと思うのですよ。
まぁ、過去の経歴がばれたら決して実現しないだろうと思うような話ですがね、
酒鬼薔薇君も今やお年頃ですよ。もしかすると奇特な女性と恋に落ちるかもしれない。
上手くいけば結婚できるかもしれない。やがて子供が生まれるかもしれない。
確かに、彼に殺された子供達の事を考えると、そういう人生を彼が送ることは
我々の感情の中で決して快いことではないかもしれませんがね、
でも、彼が自分の行いを本当の意味で自覚して後悔して苦しみ始めるのは、
自分の子供を抱いて、親の愛情というものを自覚してからだと思うのです。
そして、自分が過去に行ったような犯罪が時折発生して、自分の子供が殺されたら…、
自分の子供が自分と同じ道を進み始めたとしたら、その恐怖におののき始めた日から、
その心配に身をやつし始めた日から、彼の本当の意味での贖罪の日々が始まるのだと
私はそう思うのですよ。
某宗教で「奪われたら与えなさい」ってのがあるでしょう?
あれってそういう意味だと私は解釈しているのですねぇ。。。
1922
:
無精髭
:2008/08/28(木) 20:57:00
>>1921
シェンロンさん...。
何で、それをもっと早く私たちに言ってくれなかったんですか!
「やけに宗教家的な発言じゃありませんかぁ」っていう皮肉も言えない位、
素晴らしい意見じゃないですか。
でも、現在のこの世にある全ての刑罰にシェンロンさんの思想が反映される
日が来る事はあり得ないだろうなぁ、と思う位、私はニヒリストな訳ですが。
1923
:
紫煙狼
:2008/08/29(金) 00:26:33
>>1922
抹香臭い話は嫌いなのさ(笑)
こういう感覚的宗教的な話というのは理詰めよりも拒否反応も誘発しやすいので、
可能な限り排除して話を進めないと「犯罪者が幸せになるのは正義に反する」って
絶対に言い出すでしょう?犯罪者は不幸な日々を慎ましやかに生きる程度の権利しか
持ち得ないってのが大半の人の意見でしょう?それが世間でしょう?
出所してきた犯罪者には石を投げる。刑事で裁けないロクデナシには石を投げつける。
犯罪者を出した家族は一族皆迫害を受ける、犯罪者の子供は幸せを掴む権利を奪われる。
それが皆さんの大好きな日本でしょう?そうやって治安を守っているのでしょう?
だから、言っても空しいのですよ。犯罪者が再犯する理由の一番は
「償おうとまじめに頑張っても決して世間が認めてくれない」ですよね。
それを皆知っていて、そこに「認めてもらおうなんて百年早い」と塩を投げつける
それが我々でしょう?元犯罪者を苛め抜いて再犯させる仕組みを好む民族でしょう?
正直に言って、私にはそういう傾向があるわけですよ。だからこそ、私が口にするのは
自分を棚に上げているようで嫌なんですなぁ。。。
1924
:
無精髭
:2008/08/29(金) 00:45:46
>>1923
私にだって仰るような傾向があるのを否定出来やしません。
「偽善者」という意味は良く分からないのですが、
多分、私はそう非難されても仕方がないほど、
言動不一致な人間でしょうね。
しかし、そういった自らの性向に自覚的であるのと、
無自覚的であるのとは、やはり異なるものなのだと
信じていたいものです。
1925
:
入江
:2008/09/02(火) 16:18:00
残酷云々は気にしないで、って書いたんだけど…まぁ言い出しっぺが言える立場じゃないですね(^^;
二種類の犯罪者を区別すべきか、という問の意図を下記に述べます。
性善説、性悪説というくくりがありますが、
私は性善説・性悪説の両方を否定しません。どちらかが居ないということは有り得ないと思う。
慈悲によって贖罪の道に入り得るのが前者、慈悲を利用して更に喰い漁るのが後者、と私は認識しています。
紫煙竜さんは、後者を否定し、全ての者に慈悲によって贖罪の道が開けるという意図を述べられました。
(非常に抹香臭い表現になってしまってすみません、さっくり書くとそういうことなので)
私はそうでない者が一定数存在するし、最近更にその数を増やしているとも思います。
バナナを食べさせて「まずくて食えたもんじゃない、だからみんな要らないよね」って言う人、いますよね。
自分の子どもを抱いても、自分に注がれた事のない愛情は自覚できるとは限らない。
虐待の輪廻起こして実子を殺したりしたら?
「見えるようにする」ために瞼を切開しても、視神経がやられていれば、見えないものはやっぱり見えない。
なので、次にお聞きしたいのは
「死刑廃止の論拠は性善説にあり、
死刑存続の論拠は性悪説にある。」
このスタンスについてご意見をお願い致します。
飛躍してないか心配なため大層まどろっこしくてすみませんが、一歩一歩、でお願いします。
できれば性善説・性悪説について、紫煙竜さん以外からもご意見を頂きたく思います。
1926
:
入江
:2008/09/02(火) 16:18:24
ちなみに宗教と罪に絡む私見を書かせていただきます。(大風呂敷すぎますかね…(^^;)
不勉強なので違っていたらご指摘下さい。
贖罪というものは、仏教圏では絶対に一生終わるものではありません。
キリスト教圏では懺悔すると贖罪のための方法を示され、
それを行えばその罪について許される、という一定の筋道が存在しますが
(もちろん贖罪の方法にも色々あるでしょうが、基本的には同じ人間(聖職者)が決めていますね)
仏教圏において罪を許すのはあくまで仏様サイドの話で、
庶民からしてみれば、どうやったら許されるかは一切不明です。
とりあえず現世で頑張りなさい、というおぼろげな指示があるばかり。
「償おうと頑張ったのに!ごめんって言ったじゃん!」って言われても
そんなの知らんよ、俺たちだって頑張ってるのに八つ当たりすんな、と思うのが仏教圏の庶民。
昔の刑罰が一生消えない刺青だったりする国は、基本そういうメンタルなのではないでしょうか。
犯罪者の子どもに対する迫害は、過剰な集団心理のなせる業で大変恥ずかしいことだと思いますが、
そのような自らの性向全体そのものが恥ずかしいことなのか?と問われれば、それは違うと思います。
それが現在の、キリスト教圏で生まれた法制度や正義という概念と矛盾するものだとしても。
罪を許すというスタンスは日頃の修業の高みからの、貴重な大きな言葉です。
それでも私のような庶民は、やっぱり悪いことした奴には塩をぶつけます。
「償おうと頑張ったのに!」は再犯の理由になどなりえない、と。
法が世間の感覚と乖離するというのは、もしかしたらこのあたりも関わっているのかもしれませんね。
1927
:
Ken
:2008/09/02(火) 21:48:00
キリスト教的な赦しは仏教にもありますよ。髭さんが挙げた親鸞の悪人正機説とか。
1928
:
入江
:2008/09/02(火) 23:18:43
ありましたね。ですがそれもやはり救われるのは死んだ後の話ですので
文意には反しないと思います。
1929
:
紫煙狼
:2008/09/02(火) 23:50:57
私自身は、人の性が善であるとも悪であるとも考えていません。むしろ犯罪者の多くは
入江さんの仰るとおり、慈悲を利用する輩の方が多いかもしれないと思いますよ?
人というのは非常に可塑性に富んだ素材です。
つい先日まで善人であった者が、何らかの理由が重なれば罪を犯す可能性があるように、
今、悪人である者も、何らかの条件がそろえば善人になる可能性を否定できません。
それは生来が善であるとか悪であるとか、あまり関係ないように思うのですね。
そういう意味で、死刑存廃と性善・性悪説を絡める理由は私には理解できません。
逆にお伺いしますが、
「慈悲を利用し食い漁る人間は牢獄に閉じ込めておけばいい」ではなく
「慈悲を利用し食い漁る人間は殺してしまえ」と飛躍できる理由が知りたいです。
1930
:
入江
:2008/09/04(木) 22:05:16
なるほど。了解しました。
他の方のご意見も伺ってみたいです。
紫煙狼さん(先日はミスタイプ大変失礼いたしました!)の質問に回答します。
閉じこめても何の役にも立たないからです。効果ゼロ。
むしろ無駄飯食いだからマイナスですね。
殺すことで何らかのプラス効果を生むか、プラマイゼロなら殺す方がよいし、
明らかに閉じこめるよりマイナスの効果しかないならば
閉じこめておくべきでしょう。
紫煙狼さんはやはり、それが加害者だとしても命が失われることが
何よりマイナスだとお答えになるのだろうな、と思います。
ただし、それも「生きていれば何かいいことがある」という理念によるものです。
一生を獄に繋がれることが確定した(それが絶対翻ることがない)者に対しても
同じことを言えるだろうか、と私は思います。
1931
:
入江
:2008/09/04(木) 22:24:10
そういえば、言い忘れていた気がするんですが
私は従来の無期懲役(釈放有り)とされてきた人たちについてまで
死刑を適用すべきだと言っているわけではありません。
あくまで、従来居なかったパターンの凶悪犯について論じています。
念のため。
1932
:
紫煙狼
:2008/09/05(金) 01:44:18
>>1930-1931
2点ほどお聞かせください。
>何の役にも立たないからです。効果ゼロ。
何の役にも立たない…というのはどういう意味でしょう。
「植物状態」と呼ばれる怪我人や病人は「奇跡が起こる可能性を信じて」
命の灯火消える日まで看病することにやぶさかではない筈ですよね?
つまり身動きも意思疎通も出来ない方々より、凶悪犯は役に立たない…。
そこで指す「役に立つ」の具体的内容をお教え願えれば幸いです。
ちなみに私自身は「役に立つ・立たない」という観点がないので、
「植物状態の方々」も「更生不能と思われるような凶悪犯」も、
「奇跡が起こることを信じて」看病・教育することにやぶさかではありません。
次に、
>従来の無期懲役(中略)凶悪犯について論じています。
その中間、従来、死刑とされてきたような凶悪犯についてはいかがお考えですか?
以上2点、お答え願います。
なお…、既にお気づきと思いますが、入江さんが列挙なさるのは全て
「殺しても良い理由」でしかなくて「殺さざるを得ない理由」ではありません。
「殺しても良い理由があれば殺すべき」という論理は「殺しても良い理由」が
圧倒的大多数に支持されることを前提に殺人すら正当化できるという論理です。
つまり圧倒的大多数のドイツ人に支持されれば「ユダヤ人であること」が
「殺しても良い理由となり得る」事を否定できない。幸いにして、ドイツ人より
他の国々の人々の方が多く、それらの人々にとってユダヤ人であることは
「殺しても良い理由となり得なかった」だけの話であり、これを置き換えると、
日本以外の全世界の大多数の人々にとって「日本人であること」が「殺しても良い
理由となり得る」場合(日本人であること即ち犯罪と世界の大多数の人々が認めた場合)
日本人を虐殺することすら正当化される…ということですね?
私は「殺さざるを得ない理由」がない限り、殺人を正当化してはいけないと考えます。
(例えるなら正当防衛の如く、緊急避難的措置が死に至らしめてしまった場合ですね。)
1933
:
紫煙狼
:2008/09/05(金) 13:49:41
昨夜は眠かったので少々中途半端な投稿となってしまいました。
おそらく
>>1932
だけであれば「正当防衛」という理由は「人を殺しても良い理由」なのではないか?
という反論を充分に考慮すべきものであり、結果、紫煙狼も「殺人を正当化しているではないか?」との
誤解を生じさせても仕方のないものであったと考えます。この点、補足させてください。
正当防衛というのは「急迫不正の侵害」に対する「不可避の防衛行動」であることを前提に違法性が阻却されます。
従って、武器を持たない小学生の男の子が、世に名だたる有名格闘家に対し「殺してやる」と言って飛び掛ってきても、
「強い殺意に生命の危険を感じ、不可避の防衛行動として小学生を返り討ちにし死に至らしめた」場合は、
論ずるを待つまでもなく明白な過剰防衛として傷害致死などが適応されなければなりません。
(この小学生が、こともあろうに強力な武器で武装していた場合は、その限りではありませんが(笑))
つまり「他の方法を講じるだけの時間的余裕がない」場合を「急迫」と表現し、その限られた時間内で選択された
方法を「やむを得ずにした行為」と規定すればこそ「その行為」とそれに伴う「行為の結果」の司法性が阻却され
刑事的に不可罰となる。その条件がそろえば「相手を殺しても良い」のではなく「相手が死んでしまったとしても
刑事責任を問うべきではない」というのが私の解釈です。
このように、私は「人を殺しても良い理由は存在し得ない」けれども「殺さざるを得ない状況」は存在しうる。
と考えていますので犯行の現場において警官が犯罪者を射殺することまで否定するものでは有りません。
あくまで「武器を奪われ、社会とは隔絶され、無力化され、裁判に出廷している犯罪者」に対し社会は「急迫」という
状況下で「やむを得ず」死刑を宣告し処刑するのであるか?が私の争点であり、これが正しいとするのであれば、
死刑が執行されるまで急迫の状態が継続していると考えるべきで、それであれば一刻も早く処刑しなければならない。
実際は公判が開始されたときには急迫の状況は既に解消しているのだから、死刑は「やむを得ずした行為」とは
認められないというのが、私の考えです。
1934
:
無精髭
:2008/09/07(日) 15:33:32
>>性善説・性悪説について
Kenさんが親鸞の悪人正機説を例に出して、それを私が挙げたと仰いましたが、私がそれ
に言及致したスレッドは、
>>1918
で挙げさせて戴いたスレッドと実は同じなんです。
もうご承知かも知れませんが。で、そこでの人間魚雷氏との遣り取りで、性善説と性悪説
について少し触れておりますので、挙げさせて戴きますね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/119-124
何を以って善・悪となすか、この定義を無視しては性善説・性悪説は論じられないと思います。
あと、その二つの説のいずれをとるかによって、とられなかった方の説は説としての有効性を
失くし、人間の本性として見做されたものと反対の概念だけが後天的或いは経験的に(総じて
アポステリオリに)与えられるものだとか、若しくは環境因子として人間の外部に残されるの
です。性善説をとっても性悪説をとっても、相も変わらず、善悪二元論が疑われないのは
(善悪と言う枠組みが尚も有効であるのは)言うまでもなく、二つの内のどの説も、善悪
二元論における両概念の定義を前提にすることで、初めて主張できる類のものだからです。
1935
:
無精髭
:2008/09/07(日) 15:33:56
その二つの説が別々に一元論を目指すものだとしても、二元論的な倫理観を前提としている
以上は、両方とも完全な一元論とはなり得ないのでしょうね。但し、どちらかを選択すること
によって、人間の本性が善であるか悪であるかは、話の上ではとりあえず決まるのですから、
一度、その二つの内の一つを人間の本性として選んでしまったら、残り一つに関しては本性に
組み込むことを断念しなければならないでしょう。そこで、唐突なのですけど、
>>1925
での
入江さんの発言で気になったことに、
>性善説、性悪説というくくりがありますが、
>私は性善説・性悪説の両方を否定しません。どちらかが居ないということは有り得ないと思う。
>慈悲によって贖罪の道に入り得るのが前者、慈悲を利用して更に喰い漁るのが後者、と私は認識しています。
この部分。特に2行目に関してですが、人間の本性が善悪のいずれであるかを決めなければ、
性善説とも性悪説とも言えないのでして、それでも「両方を否定しません」とか「どちらかが
居ないということは有り得ないと思う」と仰るのは、一体どういうことなのでしょう?
我ながら陰湿な揚げ足取りをしているようにも思われますが、やっぱり入り江さんは性善説と
性悪説の両方を否定しないのではなくて、厳密に言えば性善説も性悪説も定義通りには信じて
いないのではないでしょうかね。だとしたら、失礼を承知の上で申し上げますが、余り意味の
無いご質問だったと思います。
但し、こう言ってしまうと当然返って来るであろう入江さんの反論を先回りして述べさせて
戴きますと、人間はそもそも生来において善悪が決まっている、ということが仰りたかった
のだと思います。勿論、遺伝的素質というものとは違う、人間が生まれてくる際に起きるで
あろう、もっと偶然的な事実(善か悪かの奇跡)を指しておられることと思われます。
1936
:
無精髭
:2008/09/07(日) 15:35:14
否、若しかすると、入江さんは人が生まれて来た後のことも考慮に入れることで、かなり広く
性善説若しくは性悪説を捉えておられるのかも知れません。つまり、俗に言う、「人間は3歳
までの環境・経験で全て(安直に言わせて戴きますが)が決まる」というような考えを取り入
れる事で、2つの説を両立させようとなさっていらっしゃるのではないかとお察し致します。
ただ、そうなりますと入江さんが考える「人間」とは、そもそも道徳的本性と言う観点から
すれば、普遍的なものではないということになりそうですが。だって、先のような決定論に
よって道徳的本性が後戻りが出来ないものとして形成されてしまうとされているのですから。
シェンロンさんが仰る可塑性が人間には認められないと主張しているようなものです。それが
優生学とか選民思想ではないのだとすれば、人間が生まれる前後のどこかの時点で、道徳的
本性に個体差がない状態が存在すること(即ちその点で各人に違いがなく皆同じであるという
こと)を指摘する必要がある筈です。でなければ、入江さんは普遍的人間像というものに
懐疑的であると考える他ありません。私としては、その理由を詳しくお聞かせ戴けるので
あれば、その現実性の有無など問わずとも、それでも好いと思いますけれどもね。何故と
言って、私自身が普遍的人間像とやらに懐疑的であるからです。
話が逸れました。私の勝手気ままな理解では、要するに入江さんは人間を贖罪という局面に
限って申せば、明確に2種類のタイプに分けておられるということで宜しいでしょうか?
多分、実社会での生活ではその区別は明確には現れないのでしょうね。
1937
:
無精髭
:2008/09/07(日) 16:44:06
・・・これまで味気ない話ばかりして来ましたので、最後に、この度の議論に関係して
面白いと思われました文章をご紹介致します。
1.仏滅上等:「死刑」と「仏教」
http://black.no-blog.jp/hone0625fk/2007/07/post_d301.html
2.死刑容認の意見
http://homepage.mac.com/tuyano/iblog/C1653772498/E272651302/index.html
3.宗教と応報刑主義と自由意志と死刑制度に疑問
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/sikei.html
#soutai
4.悪は善である
http://www.kit-rg.jp/rep2006/rep6.html
5.ニーチェであそぼ。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/6404/nietzsche.html
1.は議論の参考に。
2.と5.は暇つぶしに。
3.は特に「死刑への疑問」以下がおススメです。
4.は読む人を選ぶかも知れませんが、これもおススメ。
1938
:
紫煙狼
:2008/09/08(月) 01:05:11
>>1935
>厳密に言えば性善説も性悪説も定義通りには信じていないのではないでしょうかね。
それは多分、無精髭サンの方が定義を取り違えていらっしゃると思いますね。
そもそも、性善説・性悪説ともに、結論は同じで
「道徳的鍛錬・陶冶によって人は徳を積むことが出来る」という教えです。
ただし、その道のりに関して性が善であるからこうあるべき、とか
性が悪であるからこうあるべき、という別の道のりが用意されているだけであって、
可塑性を否定するのは先天論や運命論でしかなく「道徳的鍛錬・陶冶」の必要性を
真っ向から否定することにしかなりませんからね。
そういう意味では入江さんは「先天的もしくは運命的に変えようのない悪人が居る」と
主張しているわけで、可塑性を否定せざるを得ない人間が居ることを示唆しているわけです。
つまり、入江さんは人の将来の可能性を否定できるほど詳細に渡って見通す力を持っている。
凶悪な犯罪を犯したものが獄中で悔恨と反省の日々を過ごし、自らの罪を悔い改め、
手記にまとめたものが、多くの若者に善を目覚めさせるかもしれないといった可能性も、
試す前から「生かしておくだけ無駄」と言って切り捨てることが可能なほど、
世界でも類を見ないほど有能な占い師であるか、予言者なのでしょう。
え?そういう犯罪者は更生の可能性がある人だから本件から切り離す?
いや、死刑というのは可能性を試さない、もしくは一定期間内に成果が出ないなら、
その後の可能性を否定するかのどちらかであって、天寿を待たずして生命を奪う以上、
それは可能性を摘み取っているか、間違いなく可能性がないと未来を予言しているかの
いずれかでしかありえませんよ。それが正しいと胸を張って言い切れるのは、
「神から何らかの神秘的で絶対的な力を与えられた極一部の人」だけでしょう。
1939
:
ぎい
:2008/09/08(月) 14:46:32
単純な話なんだけどさ…
犯罪の被害者(殺されちゃった人)は、改心する必要もないし将来を奪われる謂われもないのに、すでに全ての可能性を失ってるわけで…
加害者の『改心する(かもしれない)善人になれる(かもしれない』生きる権利と、被害者の『改心するまでもない、加害者より善人になれる確率が高い』生きる権利を同等に比べてはいけないんじゃないかな?
もし加害者にやり直すチャンスを与えるなら、被害者にも当然そのチャンスを与えなきゃ不公平だよ。
しかし…被害者がやり直す事は出来ない。
ならば加害者もやり直す事が許されないのも仕方ないんじゃないかな?
被害者の損害を完全に回復出来ない以上、加害者は被害者と同等の損害をもって償いとするのはアリだと思います。
1940
:
ぎい
:2008/09/08(月) 15:04:46
追加です。
生きたいと願い、命乞いをする死刑囚を見殺しにしてもいいのだろうか…
いいんです。
何故なら、被害者も生きたいと願い、彼らに命乞いをしたはずです。
それを足蹴にして殺した加害者の言葉になんの意味があるんでしょうか?
命の尊さを知らない人間の命乞いを尊ぶ必要はありません。
まるで…被害者の命より加害者の命の方が尊いかのような誤解さえ感じでしまいます。
被害者の命ばかりか尊厳まで殺すのはやめてください。
1941
:
無精髭
:2008/09/08(月) 17:37:10
>>1939-1940
これは貴殿が
>>1835
から始まったここ一連の議論をお読みになった上でお書き込みになったもの
であると、無理矢理に理解しても宜しいでしょうか?
加害者にも被害者が生前持っていたものと同等の権利が保障されるか否かについては、死刑存廃
問題においてそれを単なる感情論として退けなければ、特に同害報復論と絡んで主要なテーマで
あると言えるでしょう。同害報復については今までの議論で一応の決着を見たと思っていたの
ですが、若しかすると被害者(死者)の権利や命については論及が足りなかったかも知れません。
被害者遺族の権利については、大方は論じ尽くしたかと思われますけど。
少し気になったところを指摘させて戴きます。
>加害者の『改心する(かもしれない)善人になれる(かもしれない』生きる権利と、被害者の『改心するまでもない、加害者>より善人になれる確率が高い』生きる権利を同等に比べてはいけないんじゃないかな?
ここ一連の議論で、「加害者の(中略)生きる権利」については論じられて来たと思いますが、
「被害者の(中略)生きる権利」については誰一人として論じておらず、死刑存置を主張する
入江さんも直接的には論じて来なかったと思うのですが。つまり、権利論でも生命論でも、
ここで加害者と被害者を同じ俎上に載せて議論した覚えなど誰にもないかと(少なくとも私には
始めからそのような観点はないです)。・・・いや、若しかしたらシェンロン(紫煙狼)さんが
今までの議論の最初の方で、間接的にでも言及していらっしゃるかも知れません。でも、
同害報復の是非に絡めての議論ですから、やっぱり貴殿のご指摘とは今一つマッチしていないようです。
1942
:
無精髭
:2008/09/08(月) 17:38:43
<上の続きです>
宜しければ、誰の・何番の書き込みをご覧になって上記のようにお感じになったのか―――元い、
そのように読める書き込みはどれなのかを詳しい解説付きでご指摘戴ければ、幸甚の至りでございます。
ただ、私たちが無自覚にも「被害者の命ばかりか尊厳まで殺」している可能性も否定できませんから、
そこのところも私たちに分かるように明確にして戴ければ、大変助かります。加えて、「命の尊さを
知らない人間の命乞いを尊ぶ」(?)ことが「被害者の命より加害者の命の方が尊い」ということに
帰結するのではないかと仰る部分についても何故そのように思われたのか、ご説明戴ければ嬉しいです。
事件によって被害者の命と加害者の命は対立関係にあって両立し得ないということ、且つ、
尊ぶことと蔑むこととが反意語であるとそれぞれ仮定した上で、加害者の命を尊ぶことが被害者の命を
尊ばない(蔑む)ことを意味するというと、まるで排中律みたいですが。
私個人の意見としては、加害者と被害者の区別には関係なく、人間相互で権利を較べるのは本当は
良くないけれども、そうせざるを得ないのが人間の性なのかも、と思ったりもしております。
ただ、個人(の権利)を比較する場合に、差異を見出すのか、同一性乃至は類似性を見出すのかという
ことを自覚することが、社会的には意味のある行為だと認めることに関しては、吝かではございません。
貴殿は「チャンス」や「損害」(若しかして「利得」も?)についての比較では、権利(命)の場合とは
異なり、加害者と被害者を同列に扱っていらっしゃるご様子。同害報復論者であると、お察し致します。
この件に関して、シェンロンさんの意見は深遠だと思われますので、それを私が代弁するのは荷が重いです。
と申すか、多分無理なので、シェンロンさんのレスをお待ちになってから、その真意を確認し、ここでの
議論の性格について判断をお下しになった方が宜しいかと思われます。貴殿におかれましては、是非とも
書き殴りではなく(ご無礼)、じっくりと腰を据えて議論に参加して戴きたく存じ上げます。
1943
:
紫煙狼
:2008/09/08(月) 17:39:49
>>1939
私が「被害者より加害者を重視すべき」と言った事実があったり「被害者にも落ち度があった」などと
申し上げているのであれば、平身低頭つつしんで受け入れるべきごなの指摘ですが、私は以前から
「被害者加害者を問わず、人の命や生きる権利を比較するのは誤りである」と申しておりますので、
ぎぃさんのご指摘が私に対するものであるとすれば失当と言わざるを得ません。
例えば私が「空気は大事だ」といえば「水は大事ではない」と言ったことになるのでしょうか?
同様に「加害者の助命を嘆願」すれば「被害者の尊厳を軽視した」ことになるのでしょうか?
少なくとも私の中には「加害者を殺してはいけない」という気持ちと「被害者はさぞ無念であっただろう」という
二つの気持ちが、相反することなく共存できるのですが何か可笑しなことを言っていますか?
つまり、ぎぃさんは「被害者の生きる権利」と「加害者の生きる権利」を同列比較してはいけないと言いつつ、
「被害者の命」と「加害者の命」を比較することに躊躇しない。むしろ、比較することでしか判断を下せない。
ぎぃさん自身が比較を基準に判断を下しているから、私が「比較する事自体おこがましい」と言っても、
感覚的に理解できないし、実際、貴方はそれを理解する必要も感じていないわけです。
単純な話…加害者と被害者を比較することで被害者の尊厳を傷つけているのは、
実は比較を試みて結論を導き出そうとしている貴方の方なのではないでしょうか?
(もちろん、一般人の目には私の方が被害者を傷つけているように映るのは承知しています。)
1944
:
無精髭
:2008/09/08(月) 18:59:51
さて、勝手に話を戻させて戴きますが。
>>1938
シェンロンさん。ご指摘の程、どうもありがとうございます。正直申すと、性善説と
性悪説って、私には良く呑み込めないんですよねぇ。二つの説が結論においても本質的な点でも
同じということは、私も薄々ながら気が付いてはいましたけど。
>>1937
でリンクを張ろう
として結局止めたのですが、こんなのもございました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai1998-1/iitai001.htm
ご覧の通り、教育についてのお話です。二つの説の内、どちらをとるかによって人間の
自然的・生来的な道徳性への見方・解釈が変わるということですから、早い話が、教育
手段さえも異なって来る可能性があるのだそうです。否、現実を見れば、教育の仕事に
従事している人たちは、どちらの説をとっているにせよ、シェンロンさんが仰るように、
「道徳的鍛錬・陶冶によって人は徳を積むことが出来る」ということを前提にして、人に
教えている筈ですから、結局やろうとしていることには大差がないのかも知れませんね。
つまり、人類と言うのは、その個人の本性が善であろうが悪であろうが、集団においては
善を指向する傾向にある、ということでしょうかね。ロックとホッブスは人間本来の道徳性
(自然状態での人間観)について真っ向から対立している訳ですが、社会はその自然状態段階の
人間たちの契約によって生じたという点では同じ結論に達していますからね(理想とする
社会モデルは異なりますが)。共に社会契約説を主張できるということは、立場や主張の相違
以前に、社会とその形成を善とし、そこから必然的に除外される自然という状況を悪とする
(こちらの方は積極的に定義されているとは思われませんが)考えが疑われず、論者の頭の中で
暗黙の内に認められていなければなりますまい。まあ、哲学については、こんな画一的・
図式的な理解というのは本当は好ましいものではありませんが。
http://www.hkg.ac.jp/~sawada/kougi/02/02.htm
↑で解説されておりますように、前提(論証過程外の定義)と結論以外はかなり複雑です。
教育は、個人のためにあるとも言えますし(社会への適応力を付ける点で徳)、社会(又は集団)
のためにあるとも言えますから(社会維持及び発展にとって有用な成員を生み出す点で徳)、
どれだけご都合主義・共犯関係やねん!?、と、ある意味面白いのですが。
1945
:
無精髭
:2008/09/08(月) 19:01:00
性悪説を唱える人が出す例の典型的なものに、アマラとカマラのお話がございますよね。
ヒトは全く社会から隔絶した状態で放って置かれるとそもそも人間にはならないのだ、
というもの。これは、個体に対する生育環境の影響力が人間の可塑性の存在を例示している
とも解釈できますので、非常に興味深い。更に付け加えるならば、人間には同種族集団への
社会性という前段階もあるというわけで、この機会を逸してしまうと、もう手遅れと言うか、
そもそも人間は人間として認められないのではないかという疑問も生まれてくるでしょう。
それでも粘り強い教育によってアマラとカマラは人間への可塑性を多少は見込ませる効果が
得られたのですが。まあ、オオカミ少女のような野生児に関するお話の真相については、
諸説あるみたいです(ご興味のある方は「アマラとカマラ」でご検索下さい)。
また、こどもとおとなの可塑性の違いというのもありますようで。私はこどもとおとなとでは
どちらの方が環境による変化を受けやすいか、自己内発的に悔悟や反省したりする能力に
長けているのはどちらの方か、といった問題は案外一筋縄ではいかないだろうと思います。
―――こどもの感性の柔軟さやその未発達状態という可塑(への可能)性の大きさには
目を見張るものがございますし、他方、おとなにおける自己啓発(自己に対する可塑)
としての意志の力も見逃せません。
私にとっては性善説や性悪説という考えはあんまり面白くないです。そこに道徳や善悪に
対する懐疑が加わればこそ、言い換えれば、道徳とか善悪などが良く分からないからこそ、
俄然面白くなるのであって、そんな風に性善説や性悪説を論じてしまうのが、シェンロンさんが
仰るように私の勘違いだとすれば、これほど興がそがれることはないです。我ながら、
不道徳だとは思いますが。まあ、教育方法を論じる場合には、シェンロンさんが体罰の是非を
問うたように、道徳性とか善悪についての考察を組み入れる余地はありそうなので、ちょっとは
未練があります。
最後にウィキペディアからですけど、私の誤解を晴らしてくれた記述がございましたので、
挙げておきます。
性善説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
性悪説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%82%AA%E8%AA%AC
1946
:
無精髭
:2008/09/08(月) 19:12:04
>>1945
訂正。
×更に付け加えるならば、人間には同種族集団への社会性という前段階もあるというわけで、
○更に付け加えるならば、人間には同種族集団への社会性を育む期間という前段階もあるというわけで、
1947
:
Ken
:2008/09/09(火) 13:03:00
>>1397
1はダメ。生臭すぎる。もうちょっと仏教用語・概念を丁寧に説明したのが読みたい。
2が一番おもしろかった。アホな意見にまじめに反駁するというのは大人気ないと
いえばそうなのですが...。私と似た意見の方ですね。前から書いてますけど死刑容認に
もっとも有効な議論は被害者感情の慰撫ではなかろうかと。死刑というのは殺人事件遺族にとって
宗教的な心のよりどころ、最後にすがりつくことができる権威なのではないかな。
この人が指摘しているように、全ての遺族がその「救い」にあずかることはできないのですが、
それでも遺族は判決が確定するまでは「殺人犯に死刑を!」と叫ぶことができる、
「望み」を持ち続けることができる。こういう絶対的な存在というのは他ではなかなか
代替できないのではなかろうかと。実際に死刑が廃止された結果、遺族からそういう
よりどころを取り上げてしまうことに私は少々躊躇を感じてしまいます。
3は長すぎる。ちゃんと読んでない。引用が多いのは好感。
4もおもしろかった。このルネッサンス・ジェネレーションという会議に下條信輔氏が
一枚かんでいるのを知ったのも思いがけない収穫。才能のある人はいろいろ仕掛けてきますねえ。
5もいまいち。どちらかというと私はアカデミックなアプローチを好むのかも。
1948
:
Ken
:2008/09/09(火) 13:12:43
間違った。私の前の投稿は髭さんの上の投稿に対するコメントです。
>>1940
被害者の命ばかりか尊厳まで殺すのはやめてください。
もう、私の言いたいことは皆さんにかわりに言ってもらいましたが、二点ほど。
まず、こういうお願いをしたところでここの掲示板の人は書くこと止めたりしないです。
だから意味がないです。
二つ目はある意見に反論を述べるのは一向に構わない、むしろ奨励されるべきだと
思うのですが、ある意見が自分の意見と異なるからといって、その意見を述べることまで
止めさせようとするのは健全ではないでしょう。特に「尊厳まで殺すのはやめてください」と
いうような一見反論しづらい道徳観を振りかざして。
紫煙狼さんが面識もない被害者遺族に面と向かって彼の死刑廃止論をとうとうと
語りだすのであれば私も面食らいますが、そういう社会的なしがらみから離れて
自由闊達に議論ができるのがこういう匿名掲示板の本領なのですから(無責任な
ことを書いていいという意味ではないです)。
1949
:
入江
:2008/09/09(火) 19:15:55
性善性悪についてものすごく話が広がっているようで(^^;
私はどちらのスタンスにも立っていない、と言いました。
で、倫理の授業の遠い記憶を探るに
性善説は元が善いから教育で善いところを伸ばそうね、そんな難しい指導は要らない。
性悪説は元が悪いから教育で悪いところを直そう、たいそう厳しくやらねばいけない。
といったものであったと思います(例によって大づかみですが)。
死刑反対って言うのは教育刑で更正が一定レベルで期待できるって意味だし
死刑賛成って言うのは結局そんな厳しい指導をするのは手に余る、ということなのではないかなと考えたのです。
ご提示いただいた資料を読ませていただき、この問いは一旦棚上げにしてしまおうかと思います。
1950
:
入江
:2008/09/09(火) 19:16:36
で、紫煙狼さんのご質問に回答します。
現行の死刑となる人々の大多数については処遇の変更は想定していません。
ただし、釈放の可能性を与えるべきでないという判決を尊重したいと思います。
植物状態の人々は、目覚めれば自由になり得るという点で、
死刑にあたる凶悪犯ではなく、現行の無期懲役の人々と同じ境遇と考えます。
植物状態の人は、いつか目覚めることを信じて生かされています。それは周りの人たちの希望によるものです。
植物状態の人に奇跡が起きれば本人もうれしい、周りもうれしい、病院代ももういらない。
いいこと尽くめですね。めでたしめでたしです。こうなることが望まれていたんですよね。
無期懲役の人が見事更正したら釈放です、釈放ありの刑で良かったね、これもまためでたしめでたし。
(お礼参り殺人なんてものも過去ありましたので、見事な更正って何だろう、とは思いますけど)
私のことを先を見通せるなどと皮肉っていらっしゃったのですが、非常に不思議に思います。
だって、奇跡を信じて凶悪犯を終身刑で生かして、奇跡が起きたらどうなるんですか?
釈放されるの?できませんよね。結局終身刑という結論の出ている状態ですもの。
ものすごい更正がなされたとして、それは本人以外に利するものでしょうか。
むしろ本人はそこから一生消えぬ罪の意識に苛まれるわけだから、
確かに遺族の胸のつかえは多少降りるかもしれません(ざまあみろ、です)が、
それは国家の仕事に非ずと紫煙狼さんは仰っていましたよね。
では、紫煙狼さんの仰る奇跡って、何を待っているんですか?先にどんな未来を見るんですか?
せいぜいが
>凶悪な犯罪を犯したものが獄中で悔恨と反省の日々を過ごし、自らの罪を悔い改め、
>手記にまとめたものが、多くの若者に善を目覚めさせるかもしれないといった可能性
なのでしょうが、それは私が先に述べた、多くの模倣犯が世に放たれる可能性と
どれほど違うものなのでしょうか?
役に立たない、という表現は正しくなかったです。正確には、益にならない。
生きていること自体ではなく、生かしておくことによって得られる利が
限りなくゼロに近い、といっているのです。違いますか?
しかも、大多数の凶悪犯に奇跡は訪れない。しょっちゅう起きるものは奇跡じゃない。
では、生かすべき理由とは「他に」何があるのか?
1951
:
入江
:2008/09/09(火) 19:17:45
しまった、せっかく連投したのに省略か!
すみません。あとすこし。
私の主張はあくまで「犯罪を犯した」「個人」に対するもので、
団体や国家、民族への拡大解釈は望むところではありません。
なぜなら、私は確かに「殺してもいい理由」しか述べていません。
「殺すべき理由」なんてものはどこにもないからです。
だから戦争をするべき理由も、虐殺をする理由もありません。
ただし、「『いかなる場合も』その個人を生かすべき理由」について各論反論することは出来ます。
強姦罪のところでは私の未熟ゆえに本来の議論ができる状態ではありませんでしたが
最近は皆様に鍛えられて、少しはマシな反論ができるんじゃないかなと思っています。
本当にその人を生かすことが全てにおいて適切なのか、
それは自分の手を汚したくないが為の理由付けに過ぎないのではないか。
ぎいさんの仰るように、被害者の生きる権利を奪ったのなら加害者の生きる権利も奪われていい
という意見とて、決して少数派ではないはずです。私も元々はそこからスタートしました。
心強い味方を得て原点を思い出すことが出来ましたので、この論点を掘り下げてみたいと思っています。
というわけで、嫌がられても議論だけは続けちゃいますけども。
他では即刻追い出されそうな過激意見ばっかり書いてますので、出て行くところ、ないです(^^;
1952
:
無精髭
:2008/09/09(火) 22:13:50
資料として面白いですから、一応、リンクを張り直して置きますか。
『ルネッサンス ジェネレーション '06 [悪 / 善]人はなぜ人を殺すのか』
http://www.kit-rg.jp/rg2006/rep2006.html
>>1950
お疑いの点に関してですけど、シェンロンさんの実現性に乏しい(笑)、死刑代替刑を是非
ご参照下さい。例えば、
>>585-593
までの遣り取りとか、
>>1865
とか、ちょっとずれるかも
知れませんが、
>>1886-1887
、
>>1892
、
>>1895
辺りをご覧になれば、シェンロンさんの仰りたい
ことはお分かりになるかと。因みに、シェンロンさんはどんな凶悪犯からも社会復帰の可能性を
摘み取るべきではない、というスタンスだと思います(国民全体による恩赦ですかね?)。
>>1951
>本当にその人を生かすことが全てにおいて適切なのか、
>それは自分の手を汚したくないが為の理由付けに過ぎないのではないか。
これって、死刑に関しても言えますよね。たとえ前例の無いほどの凶悪犯であっても、それを
殺すことが全てにおいて適切なのか、と。例えば、終身刑によって無力化している場合とか、
途方も無い年月の有期懲役刑を科せられて強制労働を強いられている場合など。こういった場合の
凶悪犯を、その上殺してしまう必要※はあるのでしょうか。被害者遺族ならまだしも第三者が
死刑存置を唱えるなんてことは自分の手を汚さずに駆除欲を満たそうが為の理由付けに過ぎない
のではないか、とはシェンロンさんが以前仰っていることですし。かといって、私的制裁が許された
―――第三者が死刑執行に参加できるようになったとしたら、喜び勇んでリンチ紛いのお祭り(?)
に加わる輩も湧いて出ないというのも保証の限りではありませんが。
※道徳的な問題から離れてみれば、凶悪犯を生かすことの社会的なメリットとデメリットの
有る無しが争点になって来るかと思われますが。あと、死刑と終身刑のコスト問題に関する
議論って大切なんでしょうけど、何だか嫌ですね。
「殺してもよい理由」と「殺さざるを得ない理由」についての微妙な差異について、
イマイチ呑み込めないです。この点、皆様と一緒にもっと深く掘り下げてみたいですね。
1953
:
無精髭
:2008/09/09(火) 22:23:00
>>1952
補足。
>例えば、終身刑によって無力化している場合とか、
上記は無期禁錮のことですね。
1954
:
紫煙狼
:2008/09/10(水) 03:07:12
>>1950
食べ物も、読み物も、良く噛んで消化した方がよろしいですよ(^^)
>私のことを(中略)どれほど違うものなのでしょうか?
確率的に同様だとして、貴方は「その可能性を以って罰すべし」と仰る。
私は「可能性で罰するを得ず」と言っている。それだけですよ?
犯罪に起因するものしないものを問わず、事故によるもの病気によるものを問わず、
幼子の命が失われるというのは無条件に痛ましく悲しい出来事です。こういう悲しい出来事は
少ない方が良いに決まっています。
しかし、そのような不運に見舞われることなく成長した結果が「凶悪殺人犯」という事も
けっして絵空事では有りませんよね?凶悪な殺人犯というのは幸か不幸か、生命的不運に見舞
われなかった者にしか成し得ないわけです。つまり、将来的可能性というのは正の方向にも
負の方向にも働き得るものであって、そのどちらかしか認めないのは誤りです。
私は「生かしている限り更生する可能性も更生しない可能性も存在するが、少なくとも更生する
可能性が残されている限り殺すべきではなく、更生しない限り世に放つべきではない」と
主張しているのに対し、貴方は「更生しない可能性が大きい限り殺すべき」と、方翼しか認めて
いないわけで、自分の想定の方向外に物事が進むことを考慮していません。片手落ちと言います。
ちなみに、この日本には「恩赦」という言葉がございますので、その点もお忘れなく。
>大多数の凶悪犯に奇跡は訪れない。
ここで指す奇跡というのは「現代科学の粋を以ってしても更生教育不可能な凶悪犯が更生する」ことを
意味すると捉えるべきで(それゆえに現代医学の粋を以ってなお覚醒しない患者さんを挙げたのですが)
そういう意味では、しょっちゅう起こるようでは奇跡とは言えないというのは正しいともいえますが、
実は奇跡でもなんでもなく更生可能な凶悪犯に対し「更生不可能」と判断を下している可能性は
排除できるものでしょうか?私が貴方を「稀代の預言者」と表現したのは、更生可能か否かを
正確に把握できる能力を持っている…と認識するからです。そうでなければ、更生不可能を理由に
処刑された者の中に、適切な教育が行われれば更生しただろう者が含まれている恐れは充分にあります。
また、現状では「更生しなかった者」とされる犯罪者に関しても「適切な教育が行われなかった」恐れを
排除することは出来ません。自分の手に余るからと言って「殺すしかない」というのは乱暴です。
つまり、更生不可能という烙印を押すためには未来を予言する能力が必要です。
1955
:
紫煙狼
:2008/09/10(水) 03:32:41
>>1951-1952
「生かすべき理由がないから殺すべき」というのは、とんでもなく極端な誤りです。
なるほど「生かす」の反対語は「殺す」なのかもしれませんがね(笑)
「○○すべき理由がない」のであれば「現状を維持させ、様子を見る」のが適切な処置です。
従って「生かすべき理由がない」のであれば現状を維持し「殺さない」が正解ですし、
「殺すべき理由がない」のであれば、やはり現状を維持し「殺さない」が正解です。
「生かさざるを得ない理由」があるのであれば、神の領域を侵すとしても「生かし」。
「殺さざるを得ない理由」があるのであれば、法を恐れることなく「殺す」のみです。
ここからは無精髭さんの疑問に対する答えでもあるのですが、「殺してよい理由」と「殺さざるを
得ない理由」は似て非なるものです。
例えるなら「信号機」ですね。青信号は「進んでも良い」であって「進まなければならない」では
ありません。それも「横断歩道」で考えた方が、より正確に把握できるでしょう。青信号の目の前で
立ち止まっている人が居ても咎められる理由はありませんよね?
(せいぜいが「邪魔臭い」ってだけでしょう。)
しかし、赤信号は「止まらなければならない」であって「止まっても良い」ではありませんから、
現実的か否かは別として、半径100キロ以内に一台の車の存在も認められない状況下でも、
赤信号を渡ってはいけないわけです。(実際は渡りますけどw)また、一時停止の標識も同様に、
絶対に歩行者や横断車の存在がないと予めわかっていても、一時停止しなければおまわりさんに
叱られてしまいます。
従って「凶悪犯を殺しても良い理由」をいくら列挙されたところで、死刑の論拠とはなりえず、
「凶悪犯を殺さざるを得ない理由、殺さなければならない理由」を挙げない限り、死刑賛成の論拠と
しては著しく不備がある、と申さざるを得ません。
1956
:
無精髭
:2008/09/16(火) 21:31:06
「殺しても良い理由」と「殺さざるを得ない理由」の違いについて考えている内に、
入江さんの
>被害者の生きる権利を奪ったのなら加害者の生きる権利も奪われていい
と仰るような同害報復論がどういう論拠で主張されているのかが、ちょっとだけ
分かったような気が致します。
被害者が加害者に対し、あまりの恐怖で体が動かなかった為、または不意を突かれた為に、
おそらくは正当防衛権を行使できなかった―――或いは、行使したけれども被害者が
非力だった為に、充分に行使できなかったであろうことを鑑みて、第三者(国家)が
代わりに被害者の権利を行使するというのが、同害報復論者による死刑存置の解釈なのでは
ないかと。つまり、犯行の時点で被害者が殺されたことに、法治国家の管理下における
何らかの不手際※があったことを指摘したいのだと思われます。個人の体力や精神力の
差によって行使された際の権利内容の度合いが変化するというような、そんなその場その場の
自己責任論みたいなものによって見失われてしまった正当防衛権をしゃんと公平に行使される
ものとして再定義する為にも、被害者の保障されなかった(?)生命の権利を要求しているのでしょう。
※例えば、前にも挙げましたが、シェンロンさんは
>>614
で、国民が国に要求し、国は
それを守るべきであるとされる国民の生きる権利が侵された場合、その殺人犯の行動を
許した責任は国にある、ということを仰っています。
犯人が殺意を以って襲い掛かって来た、そして実際に殺されてしまったという状況を
再構成してみますと、その時点で被害者は加害者に対して「殺さざるを得ない理由(権利)」
を持っていたことは明白かと思われます。けれども、実際には被害者はその急迫的状況に
おいて生じた短い間の権利を行使できなかった。法によって認められていた正当防衛権を行使
できなかった(?)原因を加害者の犯行(残虐とか卑劣とか言われます)に求め、被害者の
無念を社会全体の責任にまで波及させ、それを代わりに国家に晴らせと要求するのが、
同害報復の原理を拠り所とした死刑存置と言う立場であり考え方なのかも知れません。
1957
:
無精髭
:2008/09/16(火) 21:31:32
自分の生命を守る以外には殺しは許されない。それは自分の生命を維持する為に必要な
食物を得る以外には無駄な殺生を禁ずるという意味でもあるでしょう。直接的に自分の
生命が危機に晒されなければ、殺人は正当化し得ない―――否、もっと厳密に言えば、
自分の生命を守る行為は認められない、というのがシェンロンさんが仰る「殺さざるを
得ない理由」なのでしょう。それによって自分の生命を脅かす直接的な原因を排除する
ことが許される訳です。無論、客観的にも(第三者にも)その者の生命を脅かす原因で
あったことが(或いは、原因として直接的なものであったことが)追認されなければ、
違法性は阻却されないのでしょうけれど。
生命と生命の剥き出しの生存競争。ただ、そこでは相手を殺すのは自分を生かす為である
というだけで、行為のメリットが必要最低限にしか認められていません。入江さんは
そこに多くのメリットを見出そうとしておられるのでしょう。実際、「殺しても良い理由」
から考えられるメリットの多大さが「殺さざるを得ない理由」から得られる、言わば限定
されたメリットを凌駕していると想像することは容易いことかも知れませんね。まず犯罪者は
社会的に隔離=無力化しなければならないのですが、こうしてしまえばその上更に犯罪者を
殺さざるを得ないなどという状況は考えられないでしょう。だって、「殺さざるを得ない状況を
回避する為に、わざわざ犯罪者を隔離したのだから。」「殺さざるを得ない状況」とは
私たちにとって、そして犯罪者にとっても、生命存続を賭けた危険な状況のことを言うのです。
1958
:
無精髭
:2008/09/16(火) 21:32:11
【山口県光市母子殺害事件 遺族の思い】(1) 「妻が殺されています」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071026/crm0710260934002-n1.htm
↑(4)まであります。
前編:宮崎哲弥×本村洋 対談(08:4/13) 死刑廃止18 - 学問の部屋
http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/7826305.html
↑後編もあります。この「学問の部屋」というブログですが、死刑や終身刑、
犯罪被害等についても、広範囲に亘って精細な考察が為されているように
見受けられます。ご興味がございましたら、瞥見して見るのも宜しいかと。
例えば、↓こんなのとか。
http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/folder/176027.html?m=lc&p=5
以前、私が死刑廃止論者に真に対立するのは同害報復論者ではないかというようなことを
申しましたが、そのとき念頭にあったのは、本村氏のような犯罪被害者遺族でした。
大雑把に申せば、犯罪事件の当事者による死刑論の説得力が死刑廃止論の前提を
根底から覆す(脅かす?)ものだと思われたのです。
1959
:
Ken
:2008/09/17(水) 03:21:37
本村氏は同害報復論者なんですか?
この産経に寄せられた手記は私が普段から主張していることとよく符合すると
思うのですが。要するに、犯罪被害者・遺族は警察・司法から省みられなくて
孤立していて、そういう社会的サポートがない中、つもり積もったやり場のない
怒りや不満は犯人に対する死刑の要求にぶつけるほかない。
このインタビューも同害報復とは読めないんですけど。同害報復というのはそれに
よって犯罪被害者・遺族の気持ちが癒されるという遺族中心の考え方ですよね。
本村氏は死刑が遺族以外の社会や犯人に与える影響を議論してないですか?
1960
:
無精髭
:2008/09/17(水) 08:05:55
>>1959
>>本村氏は同害報復論者なんですか?
各人の解釈によるのではないかと思うのです。死刑存置を訴える当人の自覚の問題とは別に。
例えば、
>>1876-1879
を読むと、断定するのも難しく思われます。私個人としては、
秋葉原通り魔スレでも書きましたように、死刑の目的を「正義の回復」に置く点で(誤解かも)
本村氏と同害報復論者とは通底していると思うのです。前に否定的に取り上げましたブログでは、
こう書かれております。
>死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。
http://critic2.exblog.jp/3251270/
この後、このブロガーの方はハムラビ法典と本村氏の死刑論を結び付けて論じてますね。
とは申しても、本村氏は同害報復論者である、とまでは私には確言は出来ません。
上で挙げました産経の記事を読んでも分かりますが、裁判を通じて本村氏のスタンスも
変わって来たのだと思いますし。
>>1958
のように、誤解を招く・間違った連想をさせて
しまう内容を書いてしまうのは、Kenさんが仰ったように無責任だからしてはいけないこと
なのかも知れませんが。
1961
:
無精髭
:2008/09/17(水) 08:06:16
>>このインタビューも同害報復とは読めないんですけど。
私が引っかかったのは、
>今わたしがおもっているのは社会の絆だとおもっています。人を殴ってはいけない、人のものをとってはいけない、そういったみんながもっている正義が社会の絆となって社会というものが強いものになるんだという風に思っています。
そういった絆を個人の勝手な欲望とか そういったことで断ち切るような人がまさに法による違反であって、そういったものは厳粛に裁くものだと思います。それが今のわたしの正義感です。
>わたしは、今おもっているのは 死刑というのは命の尊さを、わたしたち国民に知らしめる制度だと思っています。
もしこの国に死刑という制度がなくて、無期だとか終身刑が最高刑だとすれば僕はこれほど、命について考えなかったと思います。死刑という刑罰があるから、たとえわたしの妻と娘を殺した人間であっても本当に国家権力が、命をうばってもいいのかどうなのかということ 、権力と命の関係は何なのかとか、社会契約とは何かとか 主権者とは国家の関係とは何か 一生懸命考えました。
それこそが僕は死刑の意味だと思いますし。
死刑という判決が出れば、わたしは妻と娘と被告の命を背負って生きていかなければいけないとおもっています。
これらの部分です。「死刑が遺族以外の社会や犯人に与える影響を議論して」いても、
「犯罪被害者・遺族の気持ちが癒されるという遺族中心の考え方」を一緒に、しかも優先して
論じることは可能かと思われます。Kenさんはかなり同害報復論を限定して捉えていらっしゃる
ようですね。それとも厳密といった方が好いのか。。。その辺りについて私はかなり好い加減
なのかも知れませんねぇ(苦笑)。
1962
:
無精髭
:2008/09/17(水) 08:07:28
因みに、
産経の記事を知ったのは下記のリンクからです。
http://www.egawashoko.com/c011/000241.html
他にもありました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221515026-n1.htm
あと、本村氏の考えについてはこちらの方が詳しいです。
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2000/ronbun/06-r3.html
1963
:
Ken
:2008/09/17(水) 12:56:40
この江川紹子対本村洋は興味深いですね。
この産経の会見記事ですけど、本村氏は同害報復論者じゃないとは言えないかも
知れないですけど、彼の死刑論の中で同害報復論は大きなウェイトを占めてないですね。
同害報復論とは紫煙狼さんだったと思いますが、江戸時代のあだ討ちがその例ですよね。
社会とは無関係な個人対個人、家対家というような構図です。それを思わせるような
発言は二箇所だけですね。
>>人をあやめた罪は自らの命をもって償う、という正義感は満たされました。
>>人間ですので、あだをとりたいと思いましたが、私の手ではできませんし、司法に委ねるしかありませんでした
それ以外は様々な死刑存置論をほぼ網羅している感じですね。たとえば
>>社会のみなさまにも、どうすれば犯罪も被害者も生まない、死刑という残虐な刑が下されない社会になるのか考える契機にならなければと思います。死刑の存廃が騒がれるようになるかもしれませんが、刑罰がどうすれば社会が安全で平和な環境を作れるか考える契機になることを願います
これはのどまででかかってますけど、死刑による抑止効果を示唆してますね。さらに
>>被害者遺族は司法に感謝し、被告は己の犯した罪に後悔して、社会が正義を再認識し、司法が威厳を保つことが民主主義であり、法治国家が維持されるものと考えますので、こうした判決に心から感謝しています
>>私はこの事件にあって、いわゆる刑法というものは社会正義を維持するための手段だと思っています。
これは死刑が刑法の存在意義にかかわっているという議論ですよね。一般予防論と
言うんですかね。このように本村氏は終始個人と社会という関係の中で死刑が
どのような意味を持つのか議論してますよね。髭さんが好む議論じゃないですかね。
それで、次の引用は彼が同害報復論者ではない証拠です。
>>日本の法律は、1人でも人をあやめたら死刑を科すことができます。今回、過去の判例にとらわれず、個別の事案をきちんと審査して死刑に値するかを的確に判断したこと。今までの裁判であれば、無期で決まりだったが、それを乗り越えたことが非常に重要だし、裁判員制度導入を前にこういった画期的な判決が出ることは意義があると思います。もっと言えば、過去の判例にとらわれず個別の事案を審査して世情にあった判決を出すと言った風土が日本の司法に生まれることを切望します
「罰が犯した罪に見合っているか」というのは刑法で常に肝な部分となりますが、
これは時代背景とともに移り変わる相対的な問題であって、絶対的な尺度ではありません。
これを絶対的な尺度として定義しようとするのが同害報復論者ですよね。要するに
何人をどういう意図の下どういう方法で殺したのか、犯人はどういう精神状態に
あったのか、といった文脈を一切無視して「とにかく人を殺したんだから死刑だ」
というのが同害報復論。本村氏はそうじゃなくてある文脈にある罪にはどういう
罰が見合うのか、社会が常に考え続けなければならない、というふうに主張してように
私には読めますね。
1964
:
Ken
:2008/09/17(水) 13:28:07
最後の記事では自分は遺族だ、という表現が何度も出てきて、とにかく遺族の
立場、遺族の気持ちの吐露に終始してるし、同害報復論にあふれてますね。社会の
中で遺族がどういう位置にあるのか、遺族が死刑を求めることにどのような意味が
あるのか、といった客観的な視点に欠けてますね。これは2000年の記事だから、
8年という時間が経って、落ち着いてさまざまな物事の関係が捕らえられるようになった
のが死刑判決での会見の様子なのでしょう。
あと、このインタビュアーは暴走して答えを誘導してますね。最後から二つ目の
質問とか、本村氏が逆にブレーキかけてます。扇情的なだけであまりいいインタビューでは
ないですね。産経は新聞報道はまだ見れるけど雑誌はだめですね。
1965
:
Ken
:2008/09/17(水) 20:55:33
一言付け加えておきますけど、本村氏がこうやって遺族の立場を理路整然と訴えたからこそ
様々な法制度が改善されたわけであって、そういう意味ではこの正論のインタビューも
価値があったと思います。
1966
:
無精髭
:2008/09/18(木) 00:47:14
>>1963-1965
そうですね。私もKenさんのお考えには基本的に同意します。本村氏の死刑論から窺うことが
出来る、氏の同害報復論者としての一面は看過しても好い位、小さなものなのかも知れませんね。
然しながら、本村氏にとっては同害報復の原理が、数年を得て尚も死刑存置を唱える理由の中核と
なっているのではないか、と私には思われるのですけれどもね。それはともかく、本村氏個人の
法廷闘争(もっと広く言って被害者遺族自らとしての活動)と、社会的・政治的な立場からの
犯罪被害者等の人権擁護の為の発言や働きとの違いについては、よく注意した上で論じるべき
でしょうね。私もKenさんと同じく、最近の本村氏の仕事は後者の方に重点が移っていると思います。
本村氏の死刑存置の根拠が同害報復による社会的正義の回復になっていること、そして、
その同害報復の原理が、犯罪被害者遺族としての本村氏の復讐感情と当然結託しているでしょうから、
第三者の私としては、その真実の姿に正当性を見てしまわざるを得ないのです。
ぶっちゃけて申すと、初期の本村氏の死刑論には、死の恐怖を以って更生させた後、殺してしまう
という奇妙な贖罪論(シェンロンさん曰く、死刑囚リサイクル批判に詳しいですね)に感じる
違和感を差し引いても、否定的な関心ではあれ、私のような能天気・唐変木すらも引き付けて
止まない怪しい魅力を感じますね。
以下、まだまだ読み込みが足りませんが、ご参考に。
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-575.html
http://www.google.com/search?hl=ja&rls=DAJP,DAJP:2006-42,DAJP:ja&q=+site:charm.at.webry.info+%E6%9C%AC%E6%9D%91%E6%B4%8B%E3%80%80%E5%90%8C%E5%AE%B3%E5%BE%A9%E8%AE%90
1967
:
無精髭
:2008/09/18(木) 01:07:23
>>1966
>その同害報復の原理が、犯罪被害者遺族としての本村氏の復讐感情と当然結託しているでしょうから、
あちゃあ、擬人法的な比喩のつもりで書いたにしろ、「結託」って言葉は不味かったですねぇ。
ついノリで書いてしまいました。「結び付いている」とでもいった意味でお読み替え下され。
1968
:
無精髭
:2008/09/18(木) 01:33:03
で、本村氏の話はとりあえず脇に置いといて、しつこいようですけど、
まだ腑に落ちないというか、喉に小骨が刺さったような感じがするのが、
>同害報復論とは(中略)社会とは無関係な個人対個人、家対家というような構図です。
の箇所です。要は、釣り合いの取れた関係でなければ同害報復は為されえない(同害報復の原理を
論じることは出来ない)ということなんでしょうが、物分りの悪い私なんかには、そうとは限らない
んじゃないかと思われるのですが。
例えば、
個人A→(国家・共同体)→個人B
1 ‖ 2
肩代わり?
(民主主義体制では、個人間における媒体?)
※死という同害を国家が反動的に齎す場合、「1→」と「2→」は危害の形(結果)が同じであれば、
質的には異なっていても(簡易化されていても)構わないと思います(シェンロンさんの仰る同程度害報復)。
の様な場合は、死刑の場合にのみ限り、同害報復の原理に従っているとは見做せないものでしょうか?
更に申せば、過去にはハンムラビ法典を掲げたバビロニアも現代における「国家」概念から外れるにしろ、
一応君主が治める「国家」といえるでしょうし、現に同害復讐法(タリオ)を掲げているイランのような
国もあるようですから。もしかすると同害報復というのは、Kenさんご指摘の構図では収まり切らないのでは
ないでしょうか。少なくとも、報復という一連の事象に国家を介在させても(関係させる位なら)、解釈上、
問題がないのではないかと。否、事実上、問題はあるかも分かりませぬが。
因みに、江戸時代の敵討も、決して個人対個人、家対家の関係で万事が処理されたという訳ではなくて、
ちゃんと時の幕府に法制化された上で容認され、敵討の当事者はその細かい決まりごとを守るように
言い渡されていたらしいですね。敵討を当事者間の問題として見るなら、「目には目を、歯には歯を」の
同害報復というよりは、寧ろ西欧の決闘に近い気がします。
1969
:
無精髭
:2008/09/18(木) 01:35:16
>>1968
やっぱり、図がズれた...。
シェンロンさんの同害報復についての考察にも、報復の主体は被害者であるべきという前提がありましたから、
やはりハンムラビ法典などの国家が法制化した同害報復とは異なり、決闘同様、かなり私的なものを含むと思われます。
例えば、遺族感情を扱っておられる点。今思えば、同害とか過剰とかの問題ではなくて、あれは当事者の
復讐原理そのものでした。でも、私にとってはまだまだ考察の余地がある問題です。
ハンムラビ法典というのは、中々よく出来たものらしく、ともすれば野蛮なものの代名詞みたいにされがちですけど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8
を読むと、どうもそうでもないらしいですし、他で検索してみると、そんな先入主を覆してくれる記事が結構出てきますよ。
イランの刑法の場合も、「刑罰がフドゥードという固定刑とキサースという応報刑もしくはディーヤの
二つに分かれている」(下記リンクより引用)とのことで、実際に国家が全面的にではなく、部分的に
同害報復を刑罰として採用してもおかしくないみたいです(当たり前なのかも知れませんが)。また、
例えば、「殺人犯に対して、遺族は裁判官(カーディー)の前で、キサースによる死刑かディーヤ(血の
代償金)とよばれる賠償金を取るかのいずれかを選択する権利を与えられる。傷害に対しても、同様の
傷害を負わせるか、ディーヤを取るかのいずれかを選択できる」(同上)らしいです。他の国から見て、
イスラーム刑法がまったく野蛮であるとまでは断言できないでしょう。
>「罰が犯した罪に見合っているか」というのは刑法で常に肝な部分となりますが、
>(中略)
>これを絶対的な尺度として定義しようとするのが同害報復論者ですよね。要するに
>何人をどういう意図の下どういう方法で殺したのか、犯人はどういう精神状態に
>あったのか、といった文脈を一切無視して「とにかく人を殺したんだから死刑だ」
>というのが同害報復論。
細かいようですが、イスラーム法は上掲のKenさんの規定よりは、融通が利く法律ですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E6%A8%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A4
ちょいとグロい画像がありますが、これも。
http://amor1029.exblog.jp/1871825/
1970
:
無精髭
:2008/09/18(木) 01:39:05
以上、長々と書いてきましたように、同害報復についての理解が私の中ではいまだにすっきりしないですね。
まあ、もうちょっと一人で考えて見たいと思いますが。じっくり時間をかけて、ある程度は纏まりのある理解を得たいですから。
ところで、Kenさんのコメントを見て、ふと変なことを思いついたのですが、
死刑存置論から同害報復的な考えを完全に取り除くことって、果たして可能なのでしょうか。
特に存置論者の方自らが、己の主張に同害報復的なものがないことを説くなんてことは出来ますかね。
存置論を説いても同害報復については一切触れていない、といった事例は除くとして。
まあ、余り意味の無い疑問とも思われますがね。「完全より程度の問題」
1971
:
Ken
:2008/09/18(木) 05:38:17
>>ハムラビ法典とキサース
肝はこれでしょう↓
ハムラビ法典
「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨
キサース
イスラーム以前のアラビアでは私的な復讐が普通であり、時には際限ない争いへと発展することもあった。キサース刑は刑罰自体は復讐原理(目には目を、歯には歯を)にのっとっているが、復讐を公権力の監視下に置き、統制する目的があったとされる。
「目には目を」は過剰な罰を防ぎ、罰の上限を客観的に手っ取り早く決めるための
方便でもあったと。
現代の刑法もいっしょですよ。与えることのできる罰の上限を決めること。これは
国家という絶対的な権力が恣意的で気まぐれな法運用しないように制限するために
あるわけです。だから、紫煙狼さんが入江さんに言ったように、生かすべき理由が
なければ国家は国民を殺してもよい、というふうに読み替えては絶対にだめです。
「○○してもよい」はきまぐれに運用される恐れがあるから。そうじゃなくて
国家が国民を殺さなければならないという状況で始めて死刑は適用されるべきなのです。
刑を決めるときは足し算じゃなくて上限からの引き算ですね。ちなみに、本村氏は
過去の判例にとらわれるべきではない、ということも主張してましたけど、これも
一長一短で、その結果国家が似たような罪に対して異なる罰を与える(あるときは
死刑、別のときは無期というような)事態になるおそれもあるわけで、それは
それで法への信頼が損なわれ不正義であるわけです。完全なバランスというのは
ありえなくて、そのときどきで議論すべき程度の問題ですね。
>>同害報復論
「同害」の部分は説明したとおりですけど「報復」。これには報復する主体、
その報復によって報われる主体が必要ですね。報復する主体とは被害者で、被害者が
殺された場合はその遺族になるわけです。殺人の場合、同害報復論とは遺族中心的な
考え方になるわけです。それ以外の死刑存置論、たとえば死刑による犯罪抑止は
社会には死刑という制度が必要だという議論であって、遺族の存在を必要としていない
点で大きく異なると思います。
江戸時代の敵討ちには警察力の代行といった意味合いもあるとは思いますが、
遺族が中心となっているという点では同害報復といっていいと思います。それで
髭さんがいう通り、これは近代国家では死刑として敵討ちを代行しているだけだと
論じる死刑存置派はいます(髭さんが
>>1937
で紹介した2番で批判されている人とか)。
キサースで死刑の代わりに金銭的補償を求めることができるというのは、それを
決めることができるのは遺族だという点は見逃しちゃならんでしょう。要するに
遺族は加害者の命をそれと等価の金銭で代替させているだけであって、命の代わりに
金銭を受け取ったとしても遺族の主観においては同害報復であることにかわりは
ないと思います。
こういうふうに考えたらいいんですよ。仮に本村氏が死刑のかわりに無期を要求
していたらどうなったか、それが遺族や被害者にとって一番報われる刑罰だと
訴えていたらどうなったか。同害報復論者たちにとっては非常に困ったことに
なったでしょう。だって、中心にあるはずの遺族が死刑を望まないと言ってるんですからね。
1972
:
紫煙狼
:2008/09/18(木) 15:27:39
>>1969
キサースやディーヤが出てくるならカッファーラも取り上げていただきたかった(笑)
日本には「民事罰」という言葉が存在しませんが、キサースはまさしく民事罰です。
キサースもディーヤも「凶悪な刑事犯罪に付随する民事賠償」なのです。だからこそ、
選択権は被害者(遺族)にあり、賠償金をもらった上に死刑も実施してもらうというような、
民事賠償の多重請求はできないわけです。(国家は強制力のために介入する。)
それに対して、カッファーラは被害者の感情慰撫・救済・復権を目的としない以上、
国家対加害者のみで被害者(遺族)がクチを挟む余地のない純粋な意味での刑事罰と
いえるでしょう。そして流石のイスラム法でさえ、刑事罰として加害者の命を奪う事は
許していない。その点については少々考えるべきものがあるように思いますね。
1973
:
無精髭
:2008/09/18(木) 21:43:04
>>1971
なーるほど。Kenさんのご説明のおかげで、同害報復については、かなりすっきりした理解が
得られました。今回は、私の全ての疑問に答えて戴けたので、非常に嬉しいです。さぞ、
お手数だったことでしょう? 最近の死刑制スレでのKenさんは、その淡白さというか
遠慮っプリが祟ったせいか、一人気炎を吐く(笑)シェンさんとは対照的に、影が薄い観が
否めなかったので、今回のように長文を引き出せたのは我ながら天晴れであると言いたい位ですよ。
この調子で入江さんともどうぞ盛んに議論して下さいませ。あんまり乗り気ではないのかも知れませんが。
Kenさんとシェンさんも、もちろん入江さんとの議論を離れれば、同じ死刑廃止を説くとしても、
考え方なり主張なりが異なってくるのでしょうが、私も自らの疑問をもっと逞しゅうして、珍説・奇説を
捻くり出して行きたいものですね。死刑について、私自らによる主張を確立する日はまだまだ遠いでしょうが、
Kenさんの書き込みを見て、励まされましたよ。
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