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近世日本史スレ

121とはずがたり:2009/01/06(火) 17:07:18
写楽の謎を解く
http://www.nagaitosiya.com/a/sharaku.html

122とはずがたり:2009/03/25(水) 12:40:41

http://qa.mapion.co.jp/qa4821794.html
質問
質問者:tokiz105 豊臣秀吉が将軍でなく関白になった訳
困り度: 豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出)
(1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか?
(2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の
 近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、
 その時に再度申し出があれば断れないのでは?
更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。
(3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と
 なれば 簡単に将軍になれたのでは?
そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。
関白の方が臣下最高位ですしね。

当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。
誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。

皆さんはいかが思われますか?
質問投稿日時:09/03/23 21:44
質問番号:4821794

回答者:pri_tama  個人的な考えですが、将軍が武家の棟梁と言うのは、江戸時代に豊臣家に地位で負けていた江戸幕府の後付理由な気がします。
 (秀吉にしてみれば、どの役職でも取得できるのにわざわざ格下の役職を選択する必要性に掛ける。)

 秀吉と家康の地位を比べると
   秀吉 太政大臣と関白を兼任
   家康 太政大臣(将軍を秀忠に譲った後に就任)のみ

 家康以降の歴代の将軍の内でも、秀忠や家斉が太政大臣まで上っていますが彼等も将軍を譲った後に太政大臣に昇進しています。
 (徳川家でも太政大臣は将軍より格上だと認識したいた。)

 まして神君家康公が生涯にわたって獲得できなかった関白の地位を、後の将軍達が要求する訳には行きません。
 (家康がもう少し早く天下統一していれば[長生き出来れば]、秀吉が関白相論のゴタゴタに乗じて関白に就任した様に、関白就任を目指したかもしれません。)
 
 仕方ないので、秀吉は生まれが卑しいので将軍に成れなかった何てマイナスイメージを作って、関白・太政大臣の兼任を目指せない徳川家の面子を守ろうとしたのではと愚考したりします。

123名無しさん:2009/03/25(水) 23:35:20
さてユージェニックスにしろ、学問方法(メソドロジー)としては、 social engineering ソシアル・エンジニアリングである。
このソシアル・エンジニアリングなるものの怖さを知らないで、「自分は日本の社会科学者だ」などと信じている土人学者たち
全員を、私は、激しく、蔑(さげす)んできた。この言葉の意味も重要性も知らずに生きてきた、馬鹿たちの群だ。
自分たち日本人(日本部族)白身が、『菊と刀』で真っ裸にされたのち、ロボトミーに等しい、文明化外科手術、すなわち、
ソシアル・エンジニアリングを敗戦後に受けたのだ、と自覚すべきである。

ソシアル・エンジニアリング(社会工学)は、アメリカのリベラル派の学者たちの秘技秘伝であって彼らはこれを肯定する。
しかし、シカゴ学派の本物の保守派やアイン・ランド女史のようなリバータリアンは、ソシアル・エンジニアリングの学問を唾棄
して否定する。未開の現住民たちに施してはならない文明化外科手術である。それをやられたら、原住民たちは、おかしく
なるのだ。 だから、敗戦後にこのロボトミーを施された日本部族の若者が金茶髪にして成人式でも暴れるのだ、とみんな
分かればいいのに。 どうしても、どうしても、敗戦後のアメリカ軍(占領軍、マッカーサー・ニューディーラー)による、
日本国民洗脳がその原因だと、認める訳には行かないのか。そうか、どうしてもいやか。

先生の小室直樹だけが、これが、日本人が敗戦期に天皇=神を否定されて起こした「急性アノミー」だと、はっきりと解明した。
今の私ほどは、あからさまには書かないが。

ソシアル・エンジニアリングというものは、これほどに恐いものなのだ。それが、ソシオ・バイオロジー(社会生物学)と
いう別の名前も持つのだ。ソシオ・バイオロジーについては、コンラッド・ローレンツについて本書の別のページ
でも書いた。だから、シカゴ学派で過激派フェミニストの元祖のひとりであるソニア・シャンクマンが、ウルトラ・
リベラルであるからこそユージェニックス(優生学)をやり、ソシアル・エンジニアリングを治療・方法・政策学
として実践したのだという事実を私たちは確認すべきだ。

副島隆彦『属国日本論を超えて』P120〜121

124とはずがたり:2009/03/30(月) 23:15:57
>奥山廻り役
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83
ネーミングセンスが関東取締出役みたいでかっちょいいっすねぇ(;´Д`)ハアハア

奥山廻り役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥山廻り役は加賀藩三代目前田利常によって、黒部奥山の警備の為に組織されたものである。

概要

江戸時代初期の地図は、立山の背後は空白であった。黒部川も下流から中流にかけては描かれているが、上流域は山陰に吸い込まれるように消えている。藩政初期、黒部奥山は暗黒世界であった。加賀藩は、戦国時代の佐々成政のザラ峠〜針ノ木峠越で越中信州間の最短の間道として黒部奥山は重要な軍事要点だった。また「加賀白山」の領土争いから、幕府の調停によって越前藩の領山とされた渋い経験もあり、この未知の奥山への重要度を認識し、1648年以来いくたびも役人を派遣して実地調査をさせ、やがて「奥山廻り役」を常設し、毎年巡視させた。領民に対しては、「御縮り山」として、立山参りの正規ルート以外での黒部奥山への立ち入りを禁じた。

その後、この奥山廻り役は1870年9月の廃止まで続いた。

奥山の調査

奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽岳周辺や水晶岳、雲ノ平、黒部五郎岳の周辺ではなく、後立山連峰の周辺であった。むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華岳周辺は三国境としての重要地点で、詳細に調査された。後立山連峰はその名前のごとく、立山の後にある山々で、越中側からすれば最奥地の山であり、しかもキレット等のやせ尾根が続いている山稜である。江戸時代初期の黒部奥山廻り役の記録には、「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、初期の奥山絵図には空白地帯であった。

加賀藩初代藩主、前田利家が黒部渓谷口浦山村の百姓伝右衛門を大坂に召して、黒部奥山の秘境の様子をいろいろと訊いた。この伝右衛門は、元和年中、越後国の浪人数百名が黒部渓谷口内山村に立て篭もっているのを蜜訴して大事に至らしめなかった功者といわれる。そして三代前田利常はこの伝右衛門に松儀という姓を与え、抜擢して奥山取り締まりの内役として役儀に任命した。さらに鏡、扇子、硯等を松儀伝右衛門に与え、しかも武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞をも表明した。

松儀伝右衛門はその六年後に亡くなり、その後暫く奥山廻り役は空位が続いた。が、後年、佐伯十三郎がその位についた。しかしながら、調査につれて広大な奥山を一人で把握するのは実際として困難となり、次いで四郎右衛門という者を採用し、彼を北部、十三郎を南部の奥山廻り役に当てた。しかし、この初期の奥山廻り役は、後年の奥山廻り役のように厳重に毎年定期的に山廻りをすることもなく、彼らの肩書き自体も奥山廻り役といわれていなかった。さらに後には3名に増員されたが、大規模な盗伐が相次いで起こったり、材木の藩内への伐出で長期期間奥山に詰めるなどの雑役も多く人手不足は必至となった。そこで、通常の山廻り役や平廻り役などから、奥山廻り役加人として、臨時又は常勤的に奥山廻り役の仕事を兼ねるようになった。

125とはずがたり:2009/03/30(月) 23:16:16
>>124-125
事件の取り締まり

奥山廻り役の最初の一番の目的は軍事であったが、しだいに世の中が安定してくると、木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻り役らはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻り役が近づくと、いち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻り役らは、盗伐小屋を焼き払い、伐採道具を没収し、木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難で、仕方なく、信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買いたたかれた。しかし、その木材業者こそ杣たちの元締めであったのだ。

記録に残る一番古い大規模な盗伐事件は、正徳2年7月に起こっている。それは針ノ木谷でその現場を発見し、取り押さえた。尋問するとこれらは尾張国の杣ども25名で、遠国から出稼ぎに来て、国境の境も分からず入山したと云い。また信州松本の佐平次と野口村の弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻り役は彼らにここは加賀藩の領域であることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物にあり、として元締めを連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、四日経っても使いの者とも帰っては来なかった。仕方なく杣たちを信州方面に追放し、小屋を焼き払い伐採道具を没収した。これはあまりにも寛大な処置ではないか。この杣どもは尾張から来たと言うが、尾張領の信州安曇郡奈川村である。奈川村はすぐそこである。針ノ木国境を知らないはずがない。寛大な措置をとったにはいろいろ分けがあった。元締めは、御三家尾張領民という親藩の威光を笠にして、加賀藩奥山廻り役の強制執行を免れんとしてわざわざ奈川村民を雇っているのだ。奥山廻り役たちは、この御三家の百姓と紛争を起こすことを避けたのと、同行8人の杣人夫に比べ相手方は25人もいて、これらの者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断し、やむなくこのような寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには奥山廻り役の他に、横目足軽2名。強健な人夫30名、多いときには40名も付けるようになった。そして針ノ木岳以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻り役は百姓ながら、とうぜん帯刃も許され、手錠縄も携行していた。

奥山廻り増員後も、盗伐は絶えず、発見しても杣たちはめったに捕まらなかった。しかし1775年、杣の三吉が逃げ遅れて捕まったことが信州側に衝撃を与えた。三吉が加賀に連れて行かれ、死罪に相当するほどの厳罰があったに違いない。そして盗伐の拠点の一つであった三吉小屋場跡(今の烏帽子小屋付近)の国境に、三吉の首を晒したぐらいのことをしたのか、その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が、三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡などの地名となって残ったほどの大事件となった。上高地の上條嘉門次も、黒部源流域の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛岳方面の山域を漠然と「赤牛三吉」といっていたようで、昭和の初めくらいまでは信州の古い杣や猟師達は、赤牛岳方面を赤牛三吉と呼ばれていた。

また、杣の小屋掛けした地に「野口山」と書いた石が立ててあったという事件もあった。信州野口村の山だという意味である。加賀の役人はそれを見て怒り、「砂磨きに消し候」、つまり砂を擦りつけて文字を消した。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていた。 「野口山」の石標に対抗して加賀側では、針ノ木峠に毎年「金沢御領」と書いた札を立てて来た。山廻り役の名も書き連ね、そのうえ「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」などと書き付けた。奥山廻り役は多くてせいぜい30人ぐらいであるが、二百とか五百とか、かなり誇張して書いている。これは「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」、といったふうに信州側に脅しをつけるためだったのだろう。

立山の東下にある内蔵助平は、江戸時代に大規模な盗伐のあった場所だという。

126とはずがたり:2009/05/18(月) 12:17:03

松平定信はナポレオンの生みの親
1 :とら:2009/04/29(水) 22:59:32
松平定信はナポレオンの生みの親

ttp://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p032.html

文化元年は、近代日本の建国の年だった。

文化元年1月1日は、西暦1804年2月11日。

明治政府は、これを記念して、建国記念日を設定した。

日本の建国記念日は、ナポレオンの記念日
1 :名無しさん:2009/05/18(月) 02:53:51
日本の建国記念日は、ナポレオンの記念日

ttp://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/32/208.html

これは、ナポレオンが日本人であることを強く示唆する。

127とはずがたり:2009/06/08(月) 22:53:52

安土桃山時代もとは的には近世認定。メディカルレビュー向けか?

豊臣秀吉:死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ
http://mainichi.jp/select/today/news/20090609k0000m040102000c.html
2009年6月8日 20時48分 更新:6月8日 22時2分

 肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13日に名古屋市で開かれる日本病跡学会で発表する。

 かっけはビタミンB1不足で起きる。足のしびれ・むくみが典型的な症状だが、下痢や失禁、精神錯乱、心不全なども引き起こす。食事が白米中心だとかかりやすく、かつては富裕層に多かった。

 若林さんによると、当時の宣教師がイエズス会に送った報告書に、秀吉が死の直前の約2カ月間、下痢を患って狂乱状態に陥ったとある。別に失禁の記録もあり、いずれもかっけの症状と合うという。若林さんは「かっけで死亡したとされる徳川十四代将軍・家茂(いえもち)と症状が同じ。なぜ今まで『秀吉かっけ説』が提唱されなかったのか不思議なくらいだ」と新説に自信を見せている。【大久保昂】

128荷主研究者:2009/06/28(日) 19:40:16
戦国武将として人気があるという記事だが、伊達政宗はむしろ近世の武将か。

http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/20090527t13052.htm
2009年05月27日水曜日 河北新報
マサムネさまはアイドル 若い女性に戦国武将ブーム

政宗の「黒漆5枚胴具足」のレプリカを着用できるイベント。女性も甲冑(かっちゅう)を身にまとい「1度は着てみたかった」と感激=仙台市博物館

仙台・青葉まつりで披露された東北大演劇部の殺陣演武。若い女性らはカメラのファインダーを通し、「政宗」の勇姿に熱視線=勾当台公園

現代のモデルのようなルックスに生まれ変わった政宗のフィギュア。アニメグッズ店には戦国武将のコーナーが設けられ、売り切れが続出しているとか=青葉区の「アニメイト仙台」

「政宗様に会いに来ました」。歴史に興味を持つ女性は「歴女(れきじょ)」とも呼ばれ、彼女たちが奉納する絵馬はさながら“聖地巡礼”の証しのよう=宮城県護国神社

 テレビゲームのヒットなどで、若い女性を中心に戦国武将ブームが巻き起こっている。一番人気は仙台藩祖伊達政宗。仙台市内のゆかりの名所や関連商品を扱う店舗には多くのファンが訪れる。アイドルを追い掛けるような熱狂ぶりだ。

 火付け役となった家庭用ゲームソフトには、武将が現代風のいでたちで登場する。特に政宗は長身のイケメンに描かれ、「元祖だて男」のイメージが女性のハートをつかんだ。4月からはテレビアニメ化され、さらに注目度が高まった。

 仙台城跡や瑞鳳殿などでも年配の観光客に交じり、若い女性が目立つ。「政宗は統率力があり派手な印象。1度、仙台観光に来たかった」と東京から訪れた女性。関連グッズや政宗のキャラクターを使った地場産品の売り上げも好調だ。

 仙台市博物館主催の歴史イベントに参加した男性は「今は戦国時代にも似た不安定な世の中。武将へのあこがれも理解できる」と話す。「草食系男子」が急増中の現代、やはり女性が心ひかれるのは強い男なのか。
(写真部・伊深剛、川村公俊)

129とはずがたり:2009/09/26(土) 02:09:10

真言・浄土 共存願う?
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000908150001
2009年08月15日

中将姫坐像の内部に記されていた墨書銘文=葛城市歴史博物館提供

初公開された当麻寺西南院蔵の中将姫坐像=葛城市歴史博物館提供


 ◆葛城・当麻寺の中将姫坐像に銘文

 葛城市の当麻寺西南院が秘仏扱いにしている木造中将姫坐像(ざぞう)(高さ46センチ)に、江戸時代前期の制作年代などを示す墨書銘文が記されていたと14日、同市歴史博物館が発表した。

 墨書は像内の背中側に、「為両宗也 法如 天和中作」と書かれていた。同博物館によると、「(真言、浄土)両宗のためなり。(中将)法如(の像を)、天和年中(1681〜1684)に作る」と解釈できるという。

 阿弥陀如来の極楽浄土を描いた国宝・当麻曼荼羅(まんだら)で知られる当麻寺は真言宗の寺院として営まれてきたが、浄土宗の子院もあり、両宗が時には対立したともいう。だが、1609年に江戸幕府が両宗が対等であることを認めた。「その70数年後、当麻寺一山での両宗の平穏な共存を願って、新たにこの像を作ったのではないか」と吉岡昌信・同博物館館長補佐はいう。

 同坐像は同博物館で開催中の「当麻曼荼羅縁起絵巻の世界」展で初めて一般公開されたのを機会に、調査された。曼荼羅を蓮糸(はすいと)で一夜で織ったとの伝承で知られる中将姫の出家した姿の像。江戸時代以前の中将姫像と比べ、女性的な印象を求めた新しい形式になっているという。

 同展は23日まで。18日は休館。一般200円、高校・大学生100円、小・中学生50円。

130荷主研究者:2009/11/22(日) 18:43:24

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091121101.htm
2009年11月21日03時46分 北國新聞
辰巳用水に石のアーチ 隧道内、石垣の技術応用

切石をアーチ状に巧みに積み上げた隧道内の修復個所=辰巳用水

 20日の文化審議会で国史跡となることが決まった辰巳用水の上流部の隧道(ずいどう)(トンネル)内で、アーチ状に築かれた切石積(きりいしづみ)の壁が確認された。調査した金沢市によると、石は多くが戸室石で、壁の刻銘などから天保(てんぽう)年間(1830〜43年)の施工とみられる。「石垣の博物館」と称される金沢城の高度な築造技術が辰巳用水にも生かされたことを示しており、「歴史都市」の重要な資産となる。

 市によると、切石積のアーチは隧道の中流から下流部分にかけて少なくとも9カ所、計170メートル以上にわたって確認された。土の中を掘り進む開削工事で天井や壁面が崩落するのを補強している。

 当初は開渠(かいきょ)だった辰巳用水の上流部で、現在の姿となる隧道化の工事が始まったのは18世紀末とされることや、石の一部に工事記念とみられる「天保十年」(1839年)の彫り込みが辰巳用水土地改良区の畦地実参事らによって確認されたことから、市は切石積をこの時期の施工と推測している。

 使われている石は縦30センチ、横1・5メートル、奥行き20センチほどで、高さ約2メートル、幅1・3〜2メートルある隧道の壁に沿って天井まですき間なく積み上げられていた。「どのようにして積み上げたのか分からず、再現も難しい高度な技法」(市文化財保護課)だという。

 市は2005(平成17)年以降、金沢経済同友会の提言を受けて辰巳用水の国史跡指定を目指した動きを本格化させた。今年度は来年度以降に予定する「平成の大修復」に向け、辰巳用水土地改良区の協力を得て隧道内部を調査しており、水で側壁が削られた部分や天井の剥落(はくらく)個所なども確認した。

 文化審議会の答申を受け、市は来年度、辰巳用水の保存管理計画を策定し、農業用水や兼六園の曲水として生活にとけ込んだ姿を末永く保全、継承する。

 園地が国名勝となる末浄水場を管理する市企業局は「創設当時の趣旨を守り、文化庁と協議しながら必要であれば整備を進めていきたい」としている。今年度は傷みが目立った東屋(あずまや)を修復した。

 浄水施設の国名勝指定は全国初であり、企業局は水道への理解の高まりも期待する。施設内は原則として公開していないが、申し出があれば積極的に要望に応じることにしており、21日から23日までの3日間は名勝指定の答申を記念し、特別に一般公開する。

131荷主研究者:2009/11/22(日) 21:54:47

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/6266.html
2009年11月16日 新潟日報
国内初、妻からの離縁状を確認

 十日町市に寄託されていた離縁状の写しが、国内で初めて江戸時代に妻から夫に出されたものと確認された。日本法制史・家族史を研究し離縁状に詳しい高木侃・専修大法学部教授(67)が鑑定して分かった。16日、同市が発表した。婿養子の夫あてで、差出人筆頭に妻の名が記されている。専門家は、家族史や女性史を研究する上で貴重な史料とみている。

 離縁状の写しは、1856(安政3)年、旧貝野村安養寺の妻「ふじ」が夫の「重右衛門」にあてた。縦30センチ、横40センチの和紙に墨で書かれ、冒頭に「離縁状之事」とあり、8行にわたり「夫が病気」との理由や、100両を慰謝料として払ったことが記されている。差出人は「ふじ」の後に、本家、親せきと続く。

132とはずがたり:2009/11/23(月) 16:47:47

県と沖縄奄美で交流拡大宣言
薩摩藩の琉球侵攻から400年
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20091122-OYT8T00218.htm

宣言後、伊藤知事(右)が薩摩切子の皿を、仲井真知事が琉球漆器を、それぞれ相手に手渡した

 薩摩藩が琉球王国に侵攻してから400年の節目を迎えたことを受け、伊藤知事と沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は21日、両県都との間に位置する奄美市で「今後、あらゆる分野・世代で一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力する」との交流拡大宣言をした。

 1609年(慶長14年)、薩摩藩は琉球貿易を独占するため、琉球出兵に踏み切った。占領後、与論島以北の奄美群島は藩の直轄地にした。

 県生活・文化課によると、今年秋、沖縄県側から「節目の年を交流を広げるきっかけにしないか」と提案があり、まず今月4日に両県議会の議長同士が共同声明を出し、今回の両知事の宣言の運びになった。

 宣言では、両県の立場に配慮して薩摩藩の行為を「出兵・侵攻」と表現し、「両県が真の隣人としての関係を新たに構築するとともに、未来に向けて交流を拡大、発展させることが重要」とした。具体的な交流は今後、協議するが、伊藤知事は「まず、人的交流から始めたい」、仲井真知事は「観光などで、共同のプロジェクトを手がけたい」と語った。

 今回の宣言に反対する複数の市民団体の約20人も式典に参加し、「400年間の歴史が検証されていない」「奄美の不幸な過去の歴史を繰り返さないように、過去の事実関係をはっきりしてほしい」などと訴え、来場者にチラシを配るなどした。現時点での宣言に怒りを感じるという「奄美を語る会」の仙田隆宜世話人(62)は「奄美は薩摩からも、琉球からも支配、収奪された地であり、そうした検証を踏まえず、奄美で今回の宣言が行われたことに憤りを感じる。こうした思いを草の根で訴え続けたい」と語った。
(2009年11月22日 読売新聞)

133とはずがたり:2009/12/06(日) 02:34:33

このスレかな??

「幻の金山」金あった
http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000000912020002
2009年12月02日

古絵図を見ながら、砂金が見つかった場所を指し示す高橋善之所長(右)と小林勉会長=北秋田市鷹巣

「幻の金山」と呼ばれる大館市の長慶金山跡地の沢から砂金が見つかった。古絵図をもとに、仲間と80粒近くを発見した県北教育事務所の高橋善之所長(56)が1日、会見して明らかにし、「長慶金山は本当の金山だった」と語った。地元の人たちは「さらに調査を進め、地域おこしにつなげたい」と盛り上がりを見せている。(江川慎太郎)

 長慶金山は同市田代地区の最奥部、青森県境にあって江戸時代の後期に閉山したとされる。古絵図発見を知らされた高橋所長は、自ら主宰する砂金研究会の仲間と3人で11月29日に現地入り。専用の道具を手に沢筋を約100メートルにわたって4時間近く探したところ、3人ともそれぞれ30粒近くを採取することができたという。高橋所長は2年前にも現地に入ったが、そのときは「4粒しか見つからなかった」と語った。

 長慶金山は江戸時代、秋田藩の隠し金山で、18世紀後半、天明年間のころに閉山したともいわれるが、はっきりしない。幕府からの追及を恐れ、200人近い坑夫たちを生き埋めにしたとの言い伝えが残る。資料が極端に少なく「幻の金山」と呼ばれ、ロマンをかき立てられた人や企業が現地に入り、何度も現地調査を試みてきた。しかし採算が取れるような有力な鉱床は見つかっていない。
 会見に同席した田代郷土史会の小林勉会長によると、長慶金山を描いた古絵図は今夏、市内にある民家の蔵で見つかった。縦86センチ、横60センチで長慶金山の別称「長間金山」の文字がある。金山や周辺の坑口や坑道、沢筋、山道が着色で描かれ、細部がわかる内容。保存状態は良好で、もともとは江戸時代後期に描かれた可能性がある。

 奥州藤原氏を中心とした日本史研究に力を入れている高橋所長は、東北地方を中心に450カ所以上、砂金採取に行っている。今回、高橋所長は、見つかった古絵図に「金場跡砂金多分(多く)アリ」と書いてある金山そばの沢で調査し、採取につなげた。

 小林会長ら田代郷土史会のメンバーたちも、古絵図発見を受けて11月26日に現地を訪ねて砂金採取も実施したが、砂金は見つからず、空振りに終わっている。

 高橋所長の採取成功に小林会長は「胸が高鳴る思いだ。現地調査や資料収集を進め、長慶金山をめぐる多くの謎を解明したい。金山に多くの人たちが関心を持てるようになれば、うれしい」と語った。

134とはずがたり:2010/01/07(木) 12:23:03

間部詮房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯

間部宮内は、猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人になり、宝永元年(1704年)の綱豊の江戸城西の丸城入と同時に甲府藩士から幕臣に編入され、従五位下越前守に叙任し、側衆になり、1500石加増。その後も累次加増され、宝永3年(1706年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。

詮房は江戸時代における幸運児の一人といえる。日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない(なお、猿楽師自身ではないが、猿楽師の子が徳川幕府内において強大な権勢を振るった例として大久保長安があげられる)。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上、老中の次席を命じられた。

詮房は、将軍家宣・儒学者新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をさばき、「正徳の治」を断行した。

しかしながら、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情である。

そのため、家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。しかしながら大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から、遠方の村上藩に左遷されたにとどまり、形式の上では(実質的な収入は減ったが)5万石の大名であり続けた。

享保5年7月16日(1720年8月19日)、詮房は暑気あたりで村上の地に没した。後を養嗣子(実弟)の間部詮言が継いだ。享年55(満54歳没)。

間部氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴史 [編集]

江戸時代中期に6代将軍徳川家宣により、側用人の間部詮房(当初、宮内といった)が上野国(現群馬県)高崎藩5万石の大名にとりたてられたのを始まりとする。

間部家は7代将軍徳川家継の死去により、紀州藩から徳川吉宗が将軍家を継ぐと同時に、越後国村上に左遷され、次いで次の藩主間部詮言の代に、越前国西鯖江に転封され、鯖江支配で明治時代を迎えた。

幕政史においては詮房と、老中になった間部詮勝の二人が重要な役割を果たした。

1884年(明治17年)、間部詮信(間部詮道の長男)の時に華族に列せられ、子爵を賜った。

135荷主研究者:2010/01/12(火) 22:45:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20100109104.htm
2010年1月9日03時21分 北國新聞
現存最古の国絵図 石川県立図書館が入手

3国の国絵図を調査する職員=金沢市の県立図書館

 県立図書館は8日までに、1633(寛永10)年に江戸幕府の巡見使が調査した諸国国絵図の写本「日本六十余州図」のうち、加賀藩領であった加賀、能登、越中国を記した3枚を入手した。県内の公共施設が所蔵する最も古い時代の国絵図となる。当時の居城や古城、主要な町村、寺社、街道などが記されており、江戸初期の加賀藩領内の3国を比較できる貴重な史料となる。

 日本六十余州図は、3代将軍徳川家光が派遣した最初の巡見使による諸国国絵図をもとにした写本で、全68枚から成る。同様の写本は、東大総合図書館の南葵文庫や岡山大の池田文庫など有力大名家文庫の史料として所蔵されている。これまで県立図書館が所蔵していた国絵図では、1696(元禄(げんろく)9)年のものが最も古かった。

 今回入手した国絵図は、縦約0・8メートル、横約1・1メートル。1615(元和元)年の一国一城令後の居城と古城の存在や、1664(寛文4)年に江戸幕府が全国の大名に領知判物や領知朱印状・領知目録を交付する前の郡区分、江戸初期の交通路の状況が記されている。

 越中の国絵図には、「冨山町古城」と表記され、富山藩に分藩される前と推測される。能登の珠洲郡が「すみ郡」、越中の射水郡が「泉の郡」となっているなど、誤記または誤写とみられる表記も数カ所見つかっている。

 絵図は都内の古書店から購入したが、所蔵印が消されており、以前の所有者は分かっていない。

 同館では、国絵図を県民が閲覧できるようにするほか、書き写された時期や作成、伝来の背景などの研究に取り組む。全国の同様の写本との比較も進める。

 同館史料編さん室長の東四柳史明金沢学院大教授は「同時代の加賀藩領内を一望できる3カ国の国絵図がまとまって入手できたことは意義深い」と話した。

136建設的与党らいおんはーと ◆S3/.7DxKSg:2010/02/09(火) 22:00:31
渡部昇一「日本の歴史」〈7〉戦後篇―「戦後」混迷の時代に (単行本)

http://web-wac.co.jp/publish/index.html

「日本人のための日本の歴史」第一弾。国をおとしめ、歴史を歪めてきた者の正体を明らかにし、
彼らが形成してきたサヨク的「戦後常識」のベールをはがしてみれば、そこには父祖の世代が志した、
まっとうですこやかな歴史観がみえてくる。まるで、夕立のあとの、虹を仰ぐような清涼感を覚えることだろう――。
こんな歴史を待っていた!

ココが読みどころ!

● 戦後はポツダム宣言違反から始まった
● 儀式化された復讐「東京裁判」
● 占領政策が多くの「敗戦利得者」をつくった
● 日本の歴史を奪った占領軍の「教育改革」
● 「占領政策基本法」だった新憲法
● 昭和天皇の悲劇
● 保守本流を支えた日米安保条約
● 五五年体制と自民党
● 共産主義を崩壊させたメイド・イン・ジャパン
● 日本繁栄の障害「官僚天国」
● 日本文明の核、皇室こそ世界遺産
● 日米安保の効力がなくなる日    (本文目次より)

渡部昇一「日本の歴史」シリーズ 全7巻+別巻
隔月でぞくぞく発売予定!

1.古代篇 現代までつづく日本人の源流
2.中世篇 日本人のなかの武士と天皇
3.戦国篇 戦乱と文化の興隆
4.江戸篇 世界一の都市江戸の繁栄
5.明治篇 世界史に躍り出た日本
6.昭和篇 「昭和の大戦」への道
7.戦後篇 「戦後」混迷の時代に
8.資料篇 読む年表

137荷主研究者:2010/02/15(月) 01:56:18

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100213/CK2010021302000185.html
2010年2月13日 中日新聞
旧東海道に歴史の薫りを 浜松市が景観整備

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010021302100101_size0.jpg

 浜松市は2010年度、東区内を横断する旧東海道を歴史街道として“変ぼう”させようと、景観の整備に乗り出す。4月に住民主体の実行委員会を立ち上げ、街道付近の民家や店舗の軒先に灯籠(とうろう)やのれんなどを掲げていく考え。来訪者に散策を楽しんでもらえる街づくりを進め、観光面のイメージアップを狙う。資材設置の助成費など300万円を予算案に計上した。

 東区振興課によると、区内の東海道は県道312号とほぼ重なり、一部に残る松並木が江戸期の雰囲気を伝える。江戸と京の都との中間的な位置にあることが町名の由来となった中野町などは、天竜川を渡る拠点として栄えた歴史がある。

店舗、民家に道しるべの灯籠を設置へ

 ただ、歴史やウオーキングの好きな人が東海道散策に訪れても、「歓迎できる受け皿がなかった」(区振興課)。このため民家やコンビニ店、企業などにのれんや道しるべの灯籠を掲げてもらい、案内板を設置するなどして、楽しみながら歩ける仕掛けを実行委で検討する。トイレを貸し出すなど、観光客を無償でもてなす「お休み処協力隊」(仮称)として商店などを位置づける構想もある。

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博物館として生まれ変わる金原明善翁の生家。旧東海道に面している=浜松市東区安間町で

 一方、安間町の東海道沿いでは、天竜川の治水や植林で知られる実業家・金原明善(1832〜1923年)の生家が、柱など約250年前の木材を再利用する形で博物館として生まれ変わる。改修に地元材を使うことから、市は2055万円の助成費を予算案に計上。所有者の「金原治山治水財団」が2011年度のオープンを見込み、東区の街道振興の核となる。

 生家向かいの「明善記念館」は老朽化のため取り壊し、跡地は駐車場などとして活用、博物館内には観光客らが休憩できるスペースを設ける。明善のひ孫の子に当たる財団の金原利幸理事長(60)は「この地域の東海道はこれまで、観光という側面が弱かった。歴史を学び歩く拠点にしたい」とにぎわいに期待する。

138荷主研究者:2010/03/14(日) 15:40:21

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100307t75011.htm
2010年03月07日日曜日 河北新報
悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状発見

名将の書状に対面し、感激する戸沢地区住民

 山形県村山市から山形県河北町へと勢力を伸ばし、最期は山形城主最上義光に謀殺されたと伝えられる悲運の戦国大名、白鳥十郎長久の直筆とみられる書状が白石市内で発見された。2月23日には長久ゆかりの地である村山市戸沢地区の住民らが宮城県白石市を訪れ、謎も多い長久の貴重な史料と対面した。

 見つかったのは1581年5月9日、長久が仙台藩重臣で伊達家の外交を担当した遠藤基信にあてた書状。

 長久は書状の中で、大崎市を拠点としていた大崎義隆の上洛(じょうらく)に当たり、仙台藩の領内だった山形県置賜地方を通行できるよう願い出ていた。末尾には長久の直筆とみられる花押があった。

 白石市内では昨年、遠藤家の子孫が暮らす民家に約6000点に上る古文書が保存されているのが見つかった。このうち約50点は戦国時代に諸大名が遠藤家初代の基信にあてた書状。この中に長久の書状も含まれていたという。

 領民に慕われつつ悲運の最期を遂げたとされる長久は主に伝記や軍記物などで語り継がれているが、その存在を確実に裏付ける史料はほとんどなかったのが実情。

 山形県山辺町の専念寺には長久直筆とみられる書状が伝えられるが、これまで比較する史料がないことから真偽不明とされてきた。

 長久が基信に書状をしたためて大崎家と伊達家を取り持ったことは、仙台藩の正史である「伊達治家記録」の中にも記述が残っている。今回の書状発見で、長久研究が大きく前進する可能性がある。

 長久の書状を確認した村山市戸沢地区公民館の青柳フヂ子館長は「貴重な史料が白石で見つかったのは何かの縁。長久が村山、白石両市の交流のきっかけになるとうれしい」と話した。

[白鳥十郎長久]生年などは不詳だが、奥州安倍氏の流れをくむとも伝えられる。村山市戸沢地区に構えた白鳥城を足掛かりに、山形県河北町へと進出し谷地城を築いた。1584年、最上義光に山形城へおびき出され、謀殺されたとされる。白鳥城跡近くの戸沢小敷地内には、地元の住民らが長久の顕彰碑を建立。命日の6月7日に碑前祭を開いている。

139荷主研究者:2010/03/23(火) 22:35:53

http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/local_kiji.php?i=nesp1269049600
2010年03月20日10時46分 千葉日報
最上級の史料に昇格
忠敬記念館「特別展計画へ」香取

多くの観光客らが訪れる伊能忠敬記念館。数多くの関係資料が展示されており、今回収蔵する2345点が国宝に指定された=香取市佐原イ

 日本で初めて実測日本地図を作った伊能忠敬(1745〜1818)の関係資料が19日、県内で4件目となる国宝に指定された。香取市内では、1953年に工芸品として指定された香取神宮(同市香取、高橋昭二宮司)所蔵の「海獣葡萄(ぶどう)鏡」以来57年ぶり。歴史資料としては、慶長遣欧使節関係資料(仙台市)と琉球王国尚家関係資料(那覇市)に次いで3件目。

 昨年7月の国の重要文化財への1128点の追加指定からわずか約8カ月。忠敬の関係資料が、最上級の史料として“スピード昇格”した。宇井成一香取市長は「すごくわくわくした。市民として、素直に喜び、誇りに思うとともに、市長として関係資料の保存に対し、重い責任を感じる」とコメントした。

 現在2345点ある忠敬の関係資料。同資料は、47年10月に「伊能忠敬遺書」として215種が、国の重要美術品として認定。57年2月に「伊能忠敬遺書並遺品」(書跡)85点が、国の重要文化財に初めて指定された。このほか、忠敬の旧宅が30年4月に史跡に指定されている。

140荷主研究者:2010/05/21(金) 00:18:43

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171487
2010年5月14日 00:55 西日本新聞
鍋島家の重臣 神代家文書目録を刊行 島原の乱など 未公開260点収録 財団法人「鍋島報效会」

 佐賀藩鍋島家の重臣・神代家(くましろけ)の未公開史料をまとめた「神代家文書目録」を、佐賀市の財団法人「鍋島報效会(ほうこうかい)」が刊行した。所蔵の関係文書全260点の目録を収め、同家や佐賀藩の歴史を知る上で特に貴重とされる121点を翻刻(ほんこく)。同家の歴史や文書の内容を分かりやすく説明した解説文もあり、同会は「調査・研究用としてだけでなく、佐賀の歴史を知る一助として、多くの人に活用してほしい」としている。

 福岡県筑後地方の一領主だった神代家は、戦国時代初期に肥前に移住。神代勝利(1511−65)が神埼、佐賀、小城の山間部に勢力を拡大した。平野部を拠点とした戦国大名・龍造寺隆信と敵対と和睦(わぼく)を繰り返した後、服属。江戸期に入り佐賀藩鍋島家に仕え、養子縁組などで鍋島家と関係を深めていった。

 佐賀藩で神代家は小城、蓮池、鹿島の3分家に次ぐ家格(かかく)「親類(しんるい)」に位置した。文書は中世から近世期の幅広い史料群で構成。「中世」「家」「島原の乱」「長崎警備」「由緒」「戦功」など10項目に分け、文書を紹介している。

 このうち、島原の乱(1637−38)では乱終結後、藩主鍋島勝茂が神代常親にあてた「覚」に、原城攻めで鍋島家が“抜け駆け”の軍律違反に問われ、江戸幕府方の総大将だった老中・松平信綱などに相談した様子が記された。また、長崎警備では1673年の英国船リターン号の長崎来航で、対処策や警備内容の他言禁止を命じた文書などがある。

 A4判、107ページ。佐賀市松原2丁目の鍋島報效会で千円で販売している。同会=0952(23)4200

=2010/05/14付 西日本新聞朝刊=

141荷主研究者:2010/05/27(木) 23:10:29

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20100520/325283
2010年5月21日 05:00 下野新聞
足利で江戸期の「石敢当」見つかる 魔よけとして建立、関東では希少

 【足利】沖縄や九州地方で多く見られる「石敢当」が県町で見つかり20日、研究者たちが現地調査を行った。悪霊や災害から地域を守る魔よけとして建立されたもので、見つかった石敢当は江戸末期の建立と推測される。県内では4基確認されているが、江戸期のものは関東地方では埼玉県内の2基だけで、歴史的価値は極めて高いとみられる。

 見つかった石敢当は高さ48センチ、幅30センチ。丁字路がぶつかった地点の塀沿いにあった。

 市文化財愛護協会の臼井好雄さん(68)が歴史研究仲間から聞き、2008年5月から調査を進めていた。建立者や年代の記入はないが、V字型に字の溝を彫る技法や他の石碑との比較などから、江戸末期の建立と推測される。この日の現地調査には、国立古文書館長などを務めた石敢当研究の第一人者である小玉正任さん(84)=横浜市=も参加した。

 石敢当は中国で誕生し、悪霊が家や村に進入して災害を起こすのを防ぐため、家の門や道の突き当たりに石碑や表札などの形で立てられた。日本には江戸初期に伝わり、沖縄や鹿児島を中心に31都道府県で確認されている。県内では、これまで「1896(明治29)年建之」と記された佐野市多田町のものが最古とされていた。

 江戸時代、足利学校に石敢当の関連書籍が多数そろえられていた記録があることや、当時石敢当を建立した一人である大窪詩仏らが足利学校で学んでいたことから、足利と石敢当のつながりは深い。

 発見された石敢当の近くに住む大月一能さん(82)は「『庚申様』として大切にしてきたが、貴重な文化財とは思ってなかった」と驚いた様子。臼井さんは「足利で初めて見つかった石敢当を地域ぐるみで大切にしたい」と話し、調査や保存活動を続けることにしている。

142荷主研究者:2010/05/30(日) 10:40:57

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201005220075.html
'10/5/22 中国新聞
下関戦争の砲台跡が国史跡に
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 下関市の長州藩下関前田台場跡の国史跡指定が21日、文化審議会から川端達夫文部科学相に答申された。長州藩が外国の連合艦隊に敗れた下関戦争で使った砲台の跡で、山口県や市が世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の1つでもある。

 前田台場は長州藩が幕末、関門海峡沿いの約20カ所に造った砲台の一つで、1863年に造った低台場(ひくだいば)、64年に急造した高台場(たかだいば)の計5634平方メートル。

 長州藩は台場と軍艦から、関門海峡を通過する外国艦船を攻撃したが、64年8月、英国、フランス、米国、オランダの4国の連合艦隊に攻撃され、連合軍に台場を占領された。長州藩はこの大敗を契機に攘夷(じょうい)から開国に主張を転換。その後の日本の近代化に大きな役割を果たした。

 県や市は近代化産業遺産群として長崎県の端島(軍艦島)や福岡、熊本両県の三池炭鉱などとともに世界遺産登録を目指している。市は、台場跡の大部分を所有する中国電力から買い上げて管理する方針。中尾友昭市長は「大変喜ばしく誇りに思う。教育、観光、まちづくりに活用できるよう整備したい」としている。

【写真説明】<左>4国連合軍に占拠された長州藩下関前田台場(1864年、下関市立長府博物館提供)<右>国史跡指定の答申があった下関市の長州藩下関前田台場跡

146荷主研究者:2011/02/20(日) 12:07:27

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9781524&newsMode=article
2011/01/31 09:58 福島民報
二本松藩の私鋳銭?発見 飯野の民家から困窮財政物語る資料

 二本松藩が政府に無断で造った私鋳銭の可能性がある貨幣が30日までに見つかった。明治初期のものとみられ、福島市飯野町出身の高野紀夫さん(63)=東京都練馬区在住=の実家に残されていた。私鋳銭は当時、政府によって回収されたほか、製造者が重い罪に問われたことなどから現存数が少ない。戊辰戦争の敗戦などで困窮していた藩の財政事情などをひもとく資料になりそうだ。

 私鋳銭は明治二分金(にぶきん)と呼ばれる種類で、重さ3グラム、大きさは縦約2センチ、横約1センチ。本物の二分金は金を含んだ銀が使われているが、高野さんが発見した私鋳銭は金が含まれておらず、金メッキが施されていたという。複数の専門家により私鋳銭と判断された。

 「シリーズ藩物語 二本松藩」の著者、糠沢章雄さん(郡山市在住)によると、二本松藩は戊辰戦争の敗戦で二本松城が焼かれるなどして多額の借財があり、財政難は深刻だった。それを解消するため、藩の要職に就いていた羽瀬兵衛らが廃藩置県の2年前の明治2(1869)年に貨幣を造ったが、程なく政府に発覚し、羽瀬は死罪に処せられたとされる。

 高野さんによると、私鋳銭は実家の仏壇の引き出しに保管されていた。祖母からは「悪い人たちが造った“偽金”だ。偽物で使えなかったから残っている」と聞いていた。

 旧飯野町は二本松藩と隣接しているなど関係が深く、糠沢さんは「二本松藩から流れ込んだ私鋳銭の可能性は十分にある」とみている。

 古銭に詳しい鈴木正敏さん(会津若松市在住)によると、私鋳銭は県内では会津藩、二本松藩で造られたという記録がある。会津藩は二分金などを含めて約八百万両分もの私鋳銭が造られたといわれるが、二本松藩の二分金は約千両分で、製造枚数は約2000枚という。

 二本松市教委文化課の根本豊徳課長は「私鋳銭の現物は見たことがない。本物ならば藩の窮状を裏付ける貴重な資料になる」と話す。県立博物館の佐藤洋一専門学芸員も「二本松藩の私鋳銭はおそらく収蔵品にない」とする。

 高野さんは「“偽金”の不思議な光は、幕末から明治へと続く時代の混乱、迷走を映し出しているようだ」と語り、収蔵展示施設への寄託なども検討している。

※私鋳銭 政府が造った貨幣でなく民間などで私的に鋳造されたもの。明治初期にかけて二本松藩をはじめ多くの藩で発行された歴史がある。私鋳銭の製造は極めて重い罪に処せられた。二分金は一両の2分の1の価値がある。

【写真】高野さんの実家から見つかった二分金の私鋳銭(上が表、下が裏とみられる)

147荷主研究者:2011/03/06(日) 13:05:12

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20110216/CK2011021502000191.html
2011年2月16日 中日新聞
浜松藩士の外交筆談録 朝鮮通信使の接待文書を茨城の旧家で発見

見つかった江戸時代の文書「朝鮮使筆談写」を広げる尾見又一さん=茨城県筑西市で

 江戸時代に朝鮮王から幕府に派遣されていた朝鮮通信使を浜松藩士が接待する様子を記録した文書が、茨城県の旧家で見つかった。使節団との筆談でのやりとりを藩士が残し、出身地に持ち帰っていた。解読した茨城県筑西市の県立高校教諭で郷土史家の桐原光明さん(63)は「当時の外交の一端をのぞかせる貴重な史料だ」と話す。(水戸支局・原田拓哉)

 文書は、現在の筑西市にあった下館藩出身の浜松藩士尾見与兵衛による「朝鮮使 筆談写」。徳川家宣が第六代将軍に就いた1711(正徳元)年に派遣された朝鮮通信使と、浜松藩との交流の一部を記した。与兵衛は医学などの知識があり、浜松藩に迎えられ、使節団の供応役を任されたとみられる。

 文書は横17センチ、縦24センチの紙5枚。与兵衛は「饗応のため、駅舎(宿)に至り、この筆談を写す」と書き出している。使節団の書記とのやりとりが始まり、書記から「この家の主人か」と問われ「家士にあらず、浜松太守の任官なり」と答える。駅舎の場所について「東海道遠州浜松」「江戸まで70余里」とも説明している。

 浜松産のミカンも登場する。書記がミカンを食べて「瞬(またた)きて、此(こ)の名は何なりと」と質問。与兵衛が「日本蜜柑(みかん)なり」と返答すると「朝鮮も亦(また)蜜柑なり」。

 贈り物の交換になり、与兵衛は銀製の石筆をプレゼントし、書記からは扇子が手渡される。お互いに好きな詩を紹介する場面も出てくる。

 最後に与兵衛は「方殊(外国)の言は異なるも、詩情は是同じ」と残し、誠心外交に尽力したことがうかがえる。

 文書を所蔵していた与兵衛の子孫で、筑西市村田の尾見又一さん(80)は「今からちょうど300年前の出来事。尾見家のルーツを探る手掛かりの一つで、宝物として残していきたい」と話した。

浜松市博物館の久野正博学芸員「筆談やりとり貴重」

 言葉の違いを埋めるため、朝鮮通信使と筆談で意思疎通した記録は全国的には結構ある。浜松市史には1711年に朝鮮通信使が浜松を訪れた記録はあるが、筆談のやりとりや浜松藩の記録は今までの史料に無く、貴重だ。

朝鮮通信使 江戸時代、将軍の代替わりや慶事などに朝鮮王から派遣された使節団。1607年から計12回訪れた。豊臣秀吉の出兵で途絶えた交流の復活を目指した徳川家康が働きかけて実現し、日本の文化や学術に多大な影響を与えたとされる。総勢600人に及び、九州に上陸後、各藩の接待を受けながら江戸を目指した。

149荷主研究者:2011/04/24(日) 14:44:50

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110416/CK2011041602000099.html
2011年4月16日 中日新聞
重伝建は県内初 国文化審の「足助の町並み」答申

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011041602100034_size0.jpg
石垣が築かれ、川に張り出すような建物がつくり出す独特の景観=豊田市足助町で

 国の文化審議会は15日、江戸時代に建てられた町家が残る豊田市足助地区の古い町並みを、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定するよう答申した。6月に正式決定の見通し。選定は県内で初。

 対象は、塩の道として栄えた中馬街道沿いの全長1・4キロ、21ヘクタールで江戸末期−昭和初期の建物が残っている。足助川岸に石垣が築かれ、川に張り出すような建物が独特の景観をつくっている。

 選定により、増改築などが制約される一方、税制優遇や基準を満たす修理の費用補助が受けられる。価値が高いと認められた建造物の補助率は80%で、上限5000万円。残りも60%、上限500万円となる。

 住民が2008年、専門部会を設立。市も選定に向け、保存計画を策定し準備を進めていた。専門部会の岡本宏之会長(49)は「選定は出発点。全国の人に見てもらえるよう町づくりを進めたい」と話した。

 足助地区は、町並みをあんどんで照らす夏の「たんころりん」や、香嵐渓の紅葉といった観光資源を持つが、観光客が減少傾向にある。最近は年間150万人で推移し、最盛期より80万人ほど少ない。 

  (杉山直之)

150野蒜は台風で堤防が吹っ飛びました:2011/10/10(月) 23:19:38
設計が甘かったというか 設計者の専門が鉄道でしたから

151荷主研究者:2011/12/11(日) 13:54:11
すげぇ〜
>石見銀山ではマンガンを使った独自の製錬技法を駆使していた
>マンガンを使った銀製錬は世界的にも珍しい

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201111080007.html
'11/11/8 中国新聞
石見銀山にマンガン採掘跡

 島根県教委は、世界遺産の石見銀山遺跡(大田市)で進める間歩(まぶ)=坑道=の分布調査で、銀製錬に使われたマンガンの採掘跡を初めて確認した。石見銀山ではマンガンを使った独自の製錬技法を駆使していたことが文献資料に残る。県教委は文献を裏付け、銀山開発の実態解明につながる遺構とみている。

 同遺跡南東部の仙ノ山地区で、間歩の入り口3カ所と、マンガンを採取した露頭堀り跡(約1ヘクタール)を確認した。間歩は直径1メートル、長さ数メートル。露頭堀り跡にはマンガン鉱石を砕いた破片も残っていた。

 江戸時代に編さんされた「銀山旧記」は、マンガンを製錬に「不可欠な品」と表記。石見銀山の開発と生産拡大を独自技術で支えたとみられる。

 県教委文化財課の岩橋孝典専門研究員は「マンガンを使った銀製錬は世界的にも珍しい。石見銀山の開発状況を解明する上で貴重な発見。ロボットを使い、間歩の内部調査も検討する」と話している。

【写真説明】マンガンを採掘したとみられる間歩を確認する専門家(島根県教委提供)

152荷主研究者:2011/12/11(日) 14:48:44

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20111117102.htm
2011年11月17日03時07分 北國新聞
小堀遠州一族、野田山に墓 前田利常に影響与えた茶人大名

整備された小堀孫兵衛一族の墓所=金沢市の野田山墓地

 庭園や茶道などで3代加賀藩主前田利常に強い影響を与えた茶人大名・小堀遠州(こぼりえんしゅう)の一族の墓の在りかを、石川郷土史学会員の中山善壱さん(70)=金沢市末町=が同市の野田山墓地で突き止めた。長年放置されていた墓は荒れ放題で、見るに見かねた遠州流茶道の門人が整備に尽力。17日に法要を営み、加賀藩の「文化顧問」だった遠州にあらためて光を当てる。

 中山さんが確認したのは、遠州のおいの小堀孫兵衛と孫の小堀新十郎の墓で、いずれも野田山墓地東部に位置する。石川郷土史学会幹事の横山方子さんによると、両者とも利常につかえ、孫兵衛は足軽20人を預かる鉄砲組の頭、新十郎は利常の身辺警護などに従事する一員だった。

 両者の子孫の中には、建築を得意とした遠州の血筋にふさわしく金沢城の造営に携わった者も複数いた。だが、一族の墓がどこにあるかは研究者や遠州流関係者の間でも知られていなかったという。

 長年、野田山墓地の調査に取り組む中山さんは横山さんの依頼で今回の調査に着手し、5〜6万基の墓がある同墓地の地図計約80枚をくまなく調べ、探り当てた。現地を訪れると、いずれも長年にわたって放置された様子で、特に孫兵衛一族の墓所は樹木に覆い尽くされ、21基ある墓石のほとんどが倒れていた。

 遠州会金沢支部の竹内宗幸支部長が遠州流13世家元の小堀宗実氏(東京)に相談し、支部の教授会などの承認を経た上で墓の整備に乗り出した。竹内支部長の弟子で料理屋経営の鈴置善和さん(白山市)が造園業を営む中村満さん(同)らの協力を得て墓所を覆う木を切り、草を刈り、倒れた墓石を元に戻した。ほかの弟子も切った木を運び出す作業に汗を流した。鈴置さんは「遠州流の一員として何とかしたかった」と語る。

 整備された孫兵衛一族の墓所の広さは約80坪。中山さんは「孫兵衛の禄高は千石。千石でこれだけ広い墓所は破格だ。小堀一族が前田家から大事にされていたことがうかがえる」と指摘する。竹内支部長は「支部のみんなで墓をお守りしたい」と語った。

 横山さんは、県が発掘調査中の金沢城玉泉院丸庭園にも遠州の助言が生かされている可能性があると指摘。「利常は遠州の孫たちを召し抱えることで遠州との結び付きをより強めた。墓が見つかったことで利常と遠州の縁の深さを再認識した」と述べた。

 小堀遠州(1579〜1647) 安土桃山時代から江戸時代前期の大名。徳川将軍の茶道指南役を務めた茶人で、一流の建築家、作庭家。備中松山藩(岡山県)、近江小室藩(滋賀県)の藩主を務めた。前田利常と親交が深く、利常に庭づくりなどの助言をした。遠州の美意識は「綺麗さび」と呼ばれ、現在の遠州流茶道に続く。

153荷主研究者:2011/12/30(金) 22:52:02

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20111128/CK2011112802000061.html
2011年11月28日 東京新聞
「飯能戦争」の史実知って 幕末イケメン武士の刀も

展示されている渋沢平九郎の刀=飯能市郷土館で

 現在の飯能市などを舞台に旧幕府側と明治政府側が戦った飯能戦争のありさまを伝える特別展「飯能炎上」が、同市の飯能市郷土館で開かれている。当時交わされた書状や実戦で使用されたとみられる砲弾、幕末の“イケメン武士”として歴史好きの女性に人気がある渋沢平九郎の刀などが展示され、多くの客が訪れている。十二月十一日まで、入場無料。 (上田融)

 飯能戦争は、現在の東京・上野で政府軍と戦った旧幕府側の彰義隊から分かれた「振武軍」が、飯能に陣を構え、一八六八年五月二十三日(新暦七月十二日)に政府軍との間で交わした戦い。物量、兵力ともに劣る振武軍は敗走、戦いは一日で終了した。飯能の町では、民家二百戸超や六寺院が焼失する被害が出た

 振武軍は、維新後、実業家として名をはせた渋沢栄一のいとこ成一郎を頭取とし、幹部には栄一の養子の平九郎もいた。平九郎は、現在の越生町まで落ち延びたが、政府軍に見つかって負傷、自害したとされる。

 展示されている平九郎の刀は、自刃した際に持っていたもの。政府軍が持ち去り、行方知れずになっていたが、昭和に入り渋沢家に戻された。郷土館によると、一般公開は大変珍しいという。特別展では政府軍の主力だった大村藩(長崎)など九州諸藩の武将の写真、振武軍の兵士の羽織、実物大の大砲の模型なども並ぶ。

 企画した尾崎泰広学芸員は「太平洋戦争で大きな被害のない飯能にとって、ほぼ唯一の戦災。あまり知られていない地域史の一面を見てほしい」と話している。

154とはずがたり:2012/03/12(月) 09:06:42
SBI証券のメルマガより♪最近別の所で金次郎の話を聞いたばかりだが流行っているのか?掛川は大日本報徳社の本社がある街である。

< じぶん年金定期便 >
【 第4号 】
mail@sbisec.co.jp

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【二宮金次郎はどこへ行ったのか・・・?】       
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 古い小学校の校庭では、よく見ることが出来た二宮金次郎の銅像。最近ではすっかり姿を消してしまいました。
本当に懐かしいですよねぇ〜(えっ、年がわかてしまうって?)

 ところで二宮金次郎、薪を背負って本読むほどの勤勉な少年だったことは誰でも知っていますが、いったい何をした人物なのでしょうか?

 二宮尊徳(金次郎は幼名)は、1787年、小田原に生まれました。彼が生まれたのは、現在の日本のように人口が減少傾向にあり、経済停滞が持続する閉塞した時代だったようです。地方の農村では、飢饉が頻発し、娘の身売りや逃散(農民が自らの田畑を捨て、江戸などの都市部に逃げること)が絶えませんでした。国定忠治などの股旅物の多くは、まさにこの時代のイメージですね。

 農民の子として生まれた金次郎が、銅像のように勉学に励んだ結果、困窮に陥った大名家や村の財政を立て直す指南役として大活躍することになりました。金次郎をして、江戸の「名経営コンサルタント」と絶賛する人もいるくらいです。

また、金次郎の思想は、経済と道徳の融和を訴えます。
私利私欲に走るのではなく、社会に貢献することが結果的には自らに還元するという『報徳思想』を築いたことでも有名になりました。
その思想は、現代のビジネス界においても信奉者が多く、その勢いは海外にまで広がっているくらいです。
(報徳思想についての詳細は、『国際二宮尊徳思想学会』のホームページをご参照ください)

 金次郎は、このように“勤勉”、“藩や市町村の再建”、“報徳思想”で名を上げた人物として有名なのですが、今回は、金次郎の功績を別の角度から取り上げた猪瀬直樹氏(東京都副知事)の金次郎像をご紹介いたしましょう。

以下は、猪瀬氏の『二宮金次郎が薪を背負っている理由』(文春文庫)を参考にしています。

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【二宮金次郎ファンド(?)】
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 金次郎は、『五常講』と呼ばれるマイクロファイナンスのような融資制度を考案します。例えば、十両のお金を貸し付けたとします。相手は、町の金貸しが決して貸さないような農民です。毎年二両を返済してもらうことになるので、5年での完済となりますが、「5年間二両ずつ返済して生活ができたのだから、もう1年二両を支払っても大丈夫だろう」として、6年目にもう二両出させます。

ただし、この二両は自分の儲けではありません。『推譲』と呼び、五常講の新たな資金としてファンディングします。推譲されたお金は次の融資に使われ、次の推譲が生まれることで、次々と資金が膨らんでいきます。

次第に、二宮金次郎ファンドと呼んでも差し支えない規模に成長しました。金次郎ファンドは、最初は個人向けに融資していましたが、それが村単位の出資に拡大。さらに広がり、関東600カ村に融資するまでになりました。最終的には、関東平野の小大名や旗本にも融資をすることとなったのです。

155とはずがたり:2012/03/12(月) 09:07:02
>>154-155

あるとき、二宮金次郎は才を買われて、小田原藩家老である服部家の借金整理に知恵を貸すことになるのですが、金次郎が最初に行ったのは意外なことでした。金次郎は女中を全員集め「ススを1升持ってきたら2文やる」と指示します。女中は意味がわからなかったのですが、「二文もらえるなら」と一生懸命お釜を磨いて、そのススを金次郎のところに持っていきます。

当時は、お風呂の湯沸かしから飯炊きまで、すべてお釜で行います。そのお釜をピカピカに磨くことで、燃料効率のアップを目指したのでした。お風呂を沸かすのに、10本使っていた薪が7本ですむようになったら、3割のコスト削減につながるという意味です。

まずはコスト削減。そこで浮いたお金を運用して利益を出していくという考え方。このコスト削減の部分ばかりがクローズアップされて、「二宮金次郎=節約」といったイメージが定着していますが、金次郎の本質は浮いたお金を「運用」した点にあるのです。

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【キーワードは、『分度推譲』と『積小為大』】
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金次郎のこうした逸話は、低利融資、節約、運用といった彼の“利の悟さ”を想起させますが、その経済感覚の底辺にある思想を忘れてはいけません。

「人はお金だけで動かすことはできない」、「思想を農民の腹におとす」ことが何よりも重要であることを、農民出身の彼はよくよく理解していたのでしょう。

 金次郎の思想を端的に表している言葉を二つ、紹介することにしましょう。

『分度推譲』… 分度とは、自分の生活の「度」(レベル)を認識し、その範囲内で慎ましい生活をすること。推譲とは、今あるお金をすべて使い切ってしまうのではなく、一部を将来の生活のため、子孫のため、あるいは、公共の利益のために振り分けることが大切。それが、結果的には、自分の利益につながるという考え方。

『積小為大』… 小を積んで大を為す。節約の大切さを訴えるだけではなく、日頃の小さい積み重ねが出来ない人間に大事を為せるはずがないことを教える考え。

ところで今回の二宮金次郎のお話、「じぶん年金」と何の関係があったのでしょうか?実は、大ありでして、「じぶん年金」作りは、まさに『積小為大』、「分度推譲」の世界だったのです。

 なぜって、自分年金の積立投資は『小を積んで大を為す』ことで、毎月のお給料から積立金を捻出するのは『分度』、そのお金がやがては自分の将来の生活を豊かにし、子供や孫のためにもなる『推譲』につながるというわけです。

つまり、「じぶん年金」作りは、単に将来の経済的な豊かさを追求するためのものではなく、お金を積み立てることで自らの『徳』を築くことでもあったのですね。

【上地明徳のプロフィール】--------------------------------------------
株式会社SBI証券 特別顧問
信州大学経営大学院 客員教授
上地 明徳

学習院大学経済学部卒業、早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。
モルガンスタンレー証券、明治学院大学経済学部非常勤講師、日本インベスターズ証券専務取締役等を経て現職。
来る人口減社会というパラダイムシフトに対応し、金融システム、年金、福祉、教育などの諸分野において、新たな社会システムをデザインする。
現在、特に、国の制度に頼らない自立した『じぶん年金』作りの普及活動、『人間を幸福にするファイナンシャルモデリング』の研究に注力している。

156荷主研究者:2012/05/09(水) 23:48:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120420t23017.htm
2012年04月20日金曜日 河北新報
弘前東照宮 国重文本殿売却へ 負債2億円、破産手続き開始

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売却される見通しとなった「東照宮本殿」=19日、弘前市笹森町

 国の重要文化財「東照宮本殿」(青森県弘前市笹森町)を所有する宗教法人「東照宮」(同市)が、青森地裁弘前支部から破産手続きの開始決定を受けたことが19日、明らかになった。工藤均代表役員によると、負債総額は2億円以上。本殿は競売などで売却される見通しだ。

 神社本庁(東京)によると、神社の破産は2003年の伊勢山皇大神宮(横浜市)に続き、全国で2例目。

 青森県神社庁によると、同宗教法人は「弘前東照宮」=?=を運営。1990年代に先々代の宮司が結婚式場建設などに過大投資をし、経営危機に陥った。2008年に競売にかけられ、本殿を除く拝殿や社務所と境内地は東京の不動産会社に売却。その後も債務の返済は滞り、先月30日、破産手続きの開始に踏み切った。

 県神社庁参事でもある工藤代表役員は「再建に向けて努力してきたが、資金面で行き詰まり万策尽きた」と話した。

 破産管財人の三上和秀弁護士は「文化価値の高い本殿を一般の方に売却した場合、管理に問題が生じる可能性がある」と話し、自治体など公的機関に売却を働き掛ける考えを示した。

[弘前東照宮]1617年、徳川家康の養女を妻に持つ弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)が、徳川家との縁を強化しようと弘前城内に創建。24年、現在の弘前市笹森町に移った。本殿は1628年建立。1953年、国の重要文化財に指定された。

157荷主研究者:2012/05/10(木) 00:11:01

http://www.at-s.com/news/detail/100116934.html
2012/4/19 09:20 静岡新聞
塩の道、往来はわずか? 定説覆す調査結果

 日本最長最古とされる「塩の道」で、旧相良町と長野県塩尻市を結ぶ信州(秋葉)街道の塩の往来は「わずかだった」という説が浮上している。塩は同町に面する駿河湾西側の釘ケ浦海岸で生産され、掛川、水窪などを経由して長野県側に運び込まれたというのが定説。ところが、調査に当たった沿道地域の研究家からは、定説を裏付ける証拠が「ほとんど見つからなかった」という声も上がる。

 「塩はデリケートな代物。雨水を受けると重量が増え、乾燥すると減少する」と話すのは、「秋葉街道信遠ネットワーク」の加藤定義さん(69)=浜松市天竜区水窪町=。荷主や荷受人、塩問屋などの間で度々トラブルが生じ、奉行所や代官所が調停に入ったが、その記録が残っていない点を指摘。「三河湾から足助(愛知県)を経由するルートなど、信州に塩が運ばれた道は他にも多くある」と説明する。

 新潟県糸魚川市からの千国街道には、急激な天候の変化に対応するため設けられた塩蔵が今も形を残している。ガイドブック「信仰の道 秋葉街道」著者の田中元二氏(47)=長野県=は当初、タイトルを「塩の道 秋葉街道」として秋葉街道の調査に当たったが、塩蔵など塩の往来を裏付ける資料が見つからず、変更したという。

 郷土史家の河原崎陸雄さん(63)=御前崎市=は、相良からの運搬はあったとする一方、「大量ではない」と話す。江戸や大坂などの消費地に比べ信州の人口は少なく、道も険しい事から、運搬量は「全体の生産量からすれば微々たるものでは」と推測する。

 日本最長最古の塩の道 太平洋と日本海の両側から塩尻市につながる全長350キロの道。旧相良町が起点の信州(秋葉)街道が南塩ルート(約230キロ)、糸魚川市からの千国街道が北塩ルート(約120キロ)とされている。

158荷主研究者:2012/07/01(日) 10:52:12

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/302421
2012年5月16日 00:46 西日本新聞
「女男石」存続ピンチ 朝倉市・小石原川 県道拡幅へ進む埋め立て計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20120516np302421.jpg
江戸時代初期に築造された「女男石護岸」。手前の二つに割れた巨石が「女男石」

 現在の朝倉地域一帯を治めた秋月藩初代藩主・黒田長興(ながおき)(1610〜65)が、江戸時代初期に小石原川に築いた「女男石(めおといし)護岸」を、県道拡幅工事で埋め立てる計画が進んでいる。同護岸は川の水流を緩める土木遺構で、地名にも名を残す地域の象徴。県道拡幅は通学路の安全確保を求める住民の要望がきっかけだっただけに地元に困惑が広がる一方、識者からは保存を求める声が上がっている。

 女男石護岸は、小石原川の流れがほぼ直角に曲がる朝倉市長谷山(はせやま)、千手(せんず)両地区付近の旧秋月街道沿いに位置。一対の巨石「女男石」と周辺の石積み護岸のほか、川底にも「捨て石」と呼ばれる巨石を配置し、今も現役で水流を受け流す働きをしているという。

 同市文化課によると、女男石護岸は初代藩主の長興が家老の堀平右衛門に命じた治水・利水事業とされ、1620年代の築造と考えられるという。福岡藩の儒学者、貝原益軒がまとめた「筑前国続風土記」に「婦夫(めおと)石」として記述されるなど江戸期から名所として知られ、地元の小字名「女男石」の由来にもなった。文化財指定はされていないが、同課は「400年近くも水流を制御し続けてきた極めて貴重な水利土木遺構」としている。

 一方で、女男石の脇を通る県道594号は道幅が狭く、5年前には登校中の児童が車にはねられる重傷事故が発生。住民の間で県道拡幅を求める機運が高まったという。

 県朝倉県土整備事務所によると、工事区間は全長440メートル。女男石付近の数十メートルの区間では、道路沿いに建物がある側ではなく、川側に向かって拡幅することとし、女男石護岸や川の一部を埋め立てるという。同整備事務所は「拡幅は住民の要望に基づくもの。工事区間に指定された文化財はない」とし、昨年度から用地買収を進めている。着工時期は未定という。

 近くの40代女性は「子どもたちの安全か、史跡かと問われたら、安全が大事だが、女男石も大切なふるさとの歴史遺産。工事のルートを変更して、どちらも守ってほしいというのはぜいたくな望みなのか」と戸惑う。

 事態を把握した県文化財保護課と同市文化課は、遺構の保存を求めて同整備事務所と協議中。同整備事務所は「有識者の現地調査が行われており、女男石の文化財的価値が整理された段階で(ルート変更などの)具体的な提案があれば、無視はできない」としている。

 女男石護岸を現地調査した九州大大学院の島谷幸宏教授(河川工学)は「女男石は治水の要。護岸、捨て石、対岸の形状などと一体で水流をうまく制御している」と評価。林重徳・佐賀大名誉教授(土木工学)は「土木構造物として価値が高く、自然と調和した景観も素晴らしい。壊さず、生かす方策を探れないか」と話している。

=2012/05/16付 西日本新聞朝刊=

161荷主研究者:2013/03/31(日) 22:14:24

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/346626
2013年2月4日 13:39 西日本新聞
「博多町家」8割消える 高齢化や地震響き保存が負担

旧唐津街道沿いの福岡市西区姪浜地区に残る町家

 商都・博多の往時をしのばせ、福岡市が特に保存状態が優れていると認定した伝統的な町家の約8割が、この20年余りで姿を消したことが市の文化財調査で分かった。市が1990年、旧街道沿いを中心に実施した調査では29軒の町家が確認されたが、このほど2010、11年度の追跡調査結果をまとめたところ、6軒にまで減少していた。05年の福岡沖地震の被害や所有者の高齢化で建て替えや解体が急速に進んだ影響とみられ、市文化財保護課は「福岡の町家は危機的な状況にある」と分析している。

 町家は江戸時代から戦前ごろまでの、日本人の生活や風土に根差した伝統的な木造家屋。間口は狭く、奥行きが深いのが特長。市内では旧唐津街道沿いを中心に残り、吉住家住宅(博多区上呉服町)、箱嶋家住宅(東区馬出)など4軒が国登録有形文化財に指定されている。国から指定されると、保存費は一部公的補助を受けられるが、市に登録されるだけでは公的支援を受けられない。

 市文化財保護課によると、1990年の調査では昭和初期までに建てられた町家が約400軒あり、年代が古く、保存状態も優れているとして29軒が最高のAランクに指定された。今回の29軒の追跡調査結果では、18軒(中央区9軒、博多区5軒、西区3軒、南区1軒)が建て替えなどで消失。4軒は「改造などで保存状態が思わしくない」としてBランクに格下げされた。1軒は不明だった。

 市が把握していない町家が残っている可能性もあるものの、福岡の町家が滅亡の危機にあるのは間違いない。

 市は町家などの伝統的な文化を後世に引き継ごうと、12年度に保存について市が助言する文化財登録制度を創設。所有者に活用を呼び掛けている。ただ、老朽化が進む町家の維持や修復には多額の費用がかかるとされ、財政支援がない登録制度の効果は未知数だ。

 90年の調査を担当した土田充義・鹿児島大名誉教授(建築史)は「伝統的な町家があれば街に個性が生まれ、人を癒やす効果もある。行政がまちづくりの観点で町家の果たす役割を位置付け、財政支援を含め、保存に向けた対策を講じる必要がある」と指摘している。

=2013/02/04付 西日本新聞夕刊=

162とはずがたり:2013/05/14(火) 00:20:24

「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代
2013年5月13日(月)14:44
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/life/20130513-567-OYT1T00675.html
(読売新聞)
 安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。

 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料 編纂 へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。

 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。

 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。

 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。

163とはずがたり:2013/08/01(木) 20:38:20

「竹島」領有示す最古地図 島根で2点確認 江戸中期に作製
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20130801105.html
産経新聞2013年8月1日(木)14:42
 ■日本政府の主張補強

 江戸時代中期(1760年代)に作製された、竹島を最初に記したとみられる日本地図2点が確認されたことが1日、分かった。調査した島根県が特定した。2点は、竹島が記された最も古いとされる日本地図「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)の約10年前に作られ、同全図のもとになったとみられる。文献資料などをもとに「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」とする日本政府の主張を補強する材料となりそうだ。

 新たに確認された2点は、1760年代に作られた「日本図」と、明和5(1768)年の「改製日本扶桑分里図(ふそうぶんりず)」。水戸藩の地理学者、長久保赤水(せきすい)(1717〜1801年)が手掛けた。

 改正日本輿地路程全図も長久保の作製で、江戸時代に日本が竹島の領有権を確立していたことを示す証拠の一つとされる。2点は同全図の下図と原図とみられ、長久保が早くから竹島の存在をはっきり認識していたことを裏付ける貴重な資料となる。

 長久保の子孫で、茨城県高萩市の元教員、長久保甫(はしむ)さん(73)が高萩市教委に寄託したものを、島根県の竹島問題研究会が調査、作製年代を特定した。

 2点とも隠岐諸島の北西に、「松島」と表記されている現在の竹島、「竹島」と表記されている鬱陵島の島名が記されている。

 また、改製日本扶桑分里図には、地図上に縦と横の線が引かれていた。隠岐諸島から見た竹島と鬱陵島の位置が北北西から、より正確な北西方向に書き直された跡も残る。

 鬱陵島の横には「見高麗猶雲州望隠州」の表記も。「ここ(鬱陵島)から朝鮮(高麗)が見えるのは、ちょうど出雲国(雲州)から隠岐国(隠州)を望み見るようなものだ」との内容で、鬱陵島を朝鮮領と認識していないことが推認できる。

 県によると、韓国では竹島を正確に記した同年代の地図は一枚も確認されていないという。

 県は「長久保が竹島を日本領という認識で日本地図を作製していたことがはっきり確認できた。江戸時代から竹島を含む日本の正確な地図があった」と、日本の主張の正当性を改めて強調している。

 2枚の地図は、松江市の県竹島資料室で複製版を展示する予定。

 竹島問題に詳しい拓殖大国際学部の下條正男教授(日本史)の話「竹島の日本領を示す改正日本輿地路程全図の作製過程を知ることができる資料だ。日本政府の主張を裏付けることにつながり、今回の発見は大変評価できる」

164ロスチャイルド以上に注意!!:2013/08/02(金) 21:14:32
ロスチャイルドの密謀
ロックフェラー帝国の陰謀-見えざる世界政府(原著1976年)

国民は騙されるな!!
官僚・政治家・新興宗教・NHK・大マスコミ・東京地検特捜部・CIAは昔から結託している!!
■■ロックフェラー、ロスチャイルドが死んでも、謀略の全ては無くなったと思い違いしないように!!その上がいる。
■■工作員による、撹乱文・撹乱サイトに注意!!

165とはずがたり:2013/08/14(水) 18:05:07
そうだったんか。
>武士道という言葉は、明治時代になってから作られたという。しかも語源は西欧の騎士道だから、江戸オリジナルとはとても言い難い。

扇子で切腹?江戸時代は変な時代だって、知ってた?
http://woman.mynavi.jp/article/130531-057/
Update : 2013.05.31

時代劇でおなじみの江戸時代は、武家社会と庶民文化が並行し、独自の世界を織りなしている。

人情味あふれる印象とは裏腹に刑場見物が庶民の娯楽で、子供も大勢が集まったという。潔いイメージの武家では年金詐欺や偽装切腹が当たり前というから、とてもじゃないが楽しく暮らせる時代ではなさそうだ。


■役者気取りの犯罪者

当時、犯罪者に対する処罰は、庶民の目にとまるように公開式が多かった。これは戒めの意味で「悪いことをするとこんな目に遭うぞ!」という警告だ。時代劇の判決シーンでは「市中引き回しのうえ〜」が定番だが、これは犯罪者を移送する際に、罪状が書かれた札を掲げながら「さらし者」にする儀式で、義賊として知られる鼠(ねずみ)小僧治郎吉も受けたという。

人間は、恐怖を感じるものが視野に入ると、それを凝視する傾向がある。身の安全を確保するなら、脅威を見張っておく必要があるからで、対向車のライトがまぶしいと思った時、目をそらせば良いのに無意識に見つめてしまうのは代表例だ。同様に、世間を騒がせた悪党がどんなやつだか知りたいのも当然で、スリルではなく安全を求める行動と言えよう。ただし江戸時代ではこれが当てはまらない。退屈しのぎのアミューズメントと化していたのだ。

市中引き回しがおこなわれると、多くのやじ馬で町はごった返す。罪人も注目が集まるのが快感のようで、化粧をした役者気取りや、辞世の句と言わんばかりに和歌を詠む者まで登場したというから、刑罰なのかパレードなのか分からない。

刑場に着くと罪人は処刑され、これにも多くの見物人が集まったというから困ったものだ。現代風に言えば公開処刑だからできれば見たくないはずなのに、江戸時代では子供まで見物に来たと言う。さらに、人が大勢集まるといさかいが起きるのが世の常で、刑場の外ではやじ馬同士のケンカが多々あったという。混雑するなかで「見えない」「邪魔だ」的な話が想像できるが、役人の制止を振り切ってケガ人が出る大ゲンカもあったというから、あきれてものが言えない。

観衆の暴徒化はフーリガンにほかならない。時代劇ファンのお年寄りが知ったら、きっと嘆き悲しむだろう。

■扇子で切腹?
長らく続いた平和は武士にも影響し、「潔い」「武士の精神」は薄れ、インチキな文化が発達した。年金詐欺や偽装切腹である。

武家の収入は関ヶ原の戦いにまでさかのぼり、自分の祖先が挙げた功績によって大まかに決められた。また、個人ではなく家に与えられる仕組みで、そのため何年たっても戦がなくてももらえる制度だからうらやましい。

武家にとっても大変有り難い制度だが、「当主がいる=家が存在する」が支給条件だから、ケガや病気で急死すると隠ぺい工作がおこなわれる。子が大きくなるか養子をもらって準備が整うまで、当主は「自宅療養中」ということにし、もらい続ける詐欺が多発したのだ。

潔いイメージが強い武士も残念ながらほど遠く、他力本願な「なんちゃって切腹」も登場した。

武士の自決は切腹が定番だが、腹に刃物を突き立ててもすぐにはこと切れず、強烈な痛みを味わうことになる。そこで、長く苦しまないように介錯(かいしゃく)人がとどめを刺すのだ。

ところが長らく平和の続いた江戸時代では自刃できない人も登場し、刃の代わりに扇子を使う「扇子腹(せんすばら)」が登場した。要するに、自分は扇子で切るマネをするだけで、あとはお任せの構図である。なかには泣き叫び逃げ出そうとする者もいて、介錯(かいしゃく)人が押さえつけて無理やりおこなう他力切腹もあったというから、介錯(かいしゃく)人はつらいよ。

■まとめ

武士道という言葉は、明治時代になってから作られたという。しかも語源は西欧の騎士道だから、江戸オリジナルとはとても言い難い。

事実は小説よりも奇なり。時代劇や小説だけでなく、歴史書を読んでみるのが良さそうだ。
(関口 寿/ガリレオワークス)

166とはずがたり:2013/10/23(水) 08:43:13
ここ?

【画像】封印された日本のタブー...人権を無視した某集落の奇習「おじろく・おばさ」
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000589.html
2013年10月20日

 長男以外の人間は、結婚もできず、世間との交流すら許されず、死ぬまで家のために奴隷のごとく働かされる......。いったい、いつの時代の、どこの国の話だと思われるかもしれない。しかしこれは、日本に20世紀まで実在した「おじろく・おばさ」という風習なのである。

 国土の7割が山である日本。山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。昔の長野県神原村(現・下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。

 耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。そのため、家に残った下の子供は「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ、長男のために死ぬまで無償で働かされた。

 家庭内での地位は家主の妻子よりも下で、自分の甥っ子や姪っ子からも下男として扱われる。戸籍には「厄介」とだけ記され、他家に嫁ぐか婿養子に出ない限り結婚も禁じられた。村祭りにも参加できず、他の村人と交際することも無かったため、そのほとんどが一生童貞・処女のままだったと推測される。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

 そんな奴隷的な状況が、ある種の精神障害をもたらすのだろう。おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。いつも無表情で、他人が話しかけても挨拶すら出来ない。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

 16〜17世紀頃から始まったとされる「おじろく・おばさ」制度だが、もちろん現在の神原では、このような制度は存在しない。ただ明治5年でも190人、昭和40年代に入っても3人のおじろく・おばさが生きていたというから驚きだ。

 この辺りの状況を報告しているのが、『精神医学』1964年6月号に掲載された近藤廉治のレポートである。近藤は現存していた男2人、女1人のおじろく・おばさを取材し、彼らの精神状態を診断している。普段の彼らにいくら話しかけても無視されるため、催眠鎮静剤であるアミタールを投与して面接を行ったそうだ。すると固く無表情だった顔が徐々に柔らかくなり、ぽつりぽつりと質問に答えるようになったという。以下、その答えを抜粋してみよう。

「他家へ行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。面白いこと、楽しい思い出もなかった」

「人に会うのは嫌だ、話しかけられるのも嫌だ、私はばかだから」

「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいてばからしいとは思わないし不平もない」

(『精神医学』1964年6月号・近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」)

 なにごとにも無関心で感情が鈍く、自発性が無くなった様子がうかがえる。

 この「おじろく・おばさ」の取材に先立ち、近藤は二つの推論を持っていたようだ。一つは、もともと遺伝による精神障害が多い集落であり、そのような人々がおじろく・おばさになるのではという説。もう一つは、気概のある若者は村の外に出てしまい、結果、無気力な者だけが残ったという説。しかしこの二つともが間違いであり、長年の慣習に縛られた環境要因によって、人格が変化してしまったのではというのが近藤の結論だ。彼らの多くが子供時代には普通で、20代に入ってから性格が変わってしまうというのも、その裏づけとなるだろう。

 今の我々からすれば非人間的にも思える「おじろく・おばさ」だが、一つの村社会を継続するためにやむをえない部分もあったのだろう。現在の地点から善悪を断罪することは、ここでは差し控えよう。

 ただもう一つ、この因習から読み取れるのは、疎外された環境が人格に影響を与えてしまうという点だ。これについては、劣悪な労働状況によって精神を病んだり、ひきこもりによるコミュニケーション障害など、現在の日本社会につながる部分もあるのではないだろうか。

 疎外された状況に置かれれば、それにやむなく適応するために人格も変化する。例えばブラック企業の言うような「本人が納得して働いているのだから問題はない」というのは、視点がズレた言い訳にすぎない。

 今は廃絶された「おじろく・おばさ」制度だが、社会が個人に影響を与える一つ例として着目してみれば、さまざまな示唆を与えてくれるだろう。

Written by 吉田悠軌

おじろく、おばさ Ojiroku, Obasa
http://psychodoc.eek.jp/abare/ojiroku.html

179とはずがたり:2014/01/04(土) 17:14:22

官兵衛生誕地つばぜり合い 姫路市、西脇市 大河ブーム見越し譲らず
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20140104067.html
産経新聞2014年1月4日(土)15:25

 5日から放映が始まるNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる戦国武将、黒田官兵衛(1546〜1604年)の生誕地をめぐり、兵庫県の姫路市と西脇市がアピール合戦を繰り広げている。姫路市が、黒田家の正史に官兵衛が姫路城生まれとの記述があるのに基づき、「ひめじの官兵衛」を打ち出すのに対し、西脇市の住民らは地元の寺に伝わる古文書に官兵衛が姫路城主の養子となったと記されていることから「こちらが生誕地」と主張。互いに官兵衛ブームを観光客誘致やまちおこしにつなげようと意気込む。

 ◆「姫路城生まれ」

 「ひめじ官兵衛」。姫路市ではメーンストリートの大手前通りや繁華街のみゆき通り商店街など至る所にこうした文言の旗やのぼりが掲げられ、官兵衛が姫路生まれだとPRする。

 その根拠は江戸時代の儒学者、貝原益軒が編纂(へんさん)を始めた「黒田家譜(かふ)」で、官兵衛が「姫路城で生まれた」と記されていることだ。同市教委文化財課の担当者は「学会では家譜が黒田家の正史と考えられ、それに基づいた理解をしている」と話す。

 市観光交流推進室の担当者は「大河ドラマを観光客誘致につなげるためにも『ひめじの官兵衛』というイメージは大切」と明かす。姫路観光の目玉である姫路城は「平成の大修理」の真っ最中。修理用建屋を解体するために併設の修理見学施設「天空の白鷺(しらさぎ)」が15日で閉館した後は、大天守に再び登れるようになる平成27年春まで観光客の減少が懸念される。その間の観光資源として、官兵衛ブームを活用したい思惑がにじむ。

 ◆「城主の養子に」

 姫路市に対し、「こちらが生誕地」と主張するのが西脇市黒田庄町。

 25年4月、住民ら約30人で結成した「北播磨黒田官兵衛生誕地の会」(森脇昇太郎会長)は、地元のJR本黒田駅に「黒田官兵衛生誕地」と記した看板を設置した。「黒田の里 官兵衛まつり」などのまちおこしを行っており、森脇会長は「地域をあげて全国に発信していければ」と意気込む。

 同会や市が根拠に掲げるのが、地元の寺で保管される古文書「荘厳(しょうごん)寺本黒田家略系図」だ。播磨黒田家の関係者の名前や役職、死亡年月日、法名などが記され、当時「小寺」姓を名乗った姫路城主、黒田職隆(もとたか)の養子になったという「孝隆(よしたか)」の記述があり、これが官兵衛だとしている。

 略系図は播磨黒田家の家系を抜粋したもので、「巳之二月」の記述から文化6(1809)年2月の作成とみられる。平成23年に姫路市で行われた官兵衛関連のイベントに出展され、研究者の目に留まったことがきっかけで脚光を浴びた。

 ◆議論が相乗効果?

 さらに25年7月、西脇市に近い小野市立好古館が黒田庄生誕説を後押しする古文書の記述を発見。小野藩主の先祖である一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)について書かれた「一柳家文書」の一つ「丙午録(へいごろく)」に、官兵衛が小寺職隆の娘を妻とし、養子となった−と記されていたという。

 職隆の養子となったくだりは黒田家略系図の記述とも一致し、一柳家文書は史料的価値や信憑(しんぴょう)性も高いとされる。

 略系図を保管する荘厳寺の堀井隆海住職(67)は「西脇生誕説はかなり信用度がある」と話す一方で、「姫路市と西脇市がアピールを繰り広げながら官兵衛ブームを盛り上げていってほしい」と期待を寄せる。姫路市側も「生誕地をめぐる議論が盛り上がって、結果的に官兵衛ブームが起こればいい」と話しており、両市の生誕地争いはさらに白熱しそうだ。

180とはずがたり:2014/01/20(月) 17:11:51
歴史を誇るなら佐竹なんだから水戸で政権取ってから威張れw
出羽の顕官は秋田城介と昔から決まってんだ♪

「細川氏には悪代官が付いてる」“秋田の殿”が苦言
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140120/elc14012015300008-n1.htm
2014.1.20 15:30 [東京都知事選]

 秋田県の佐竹敬久知事は20日の定例記者会見で、東京都知事選に出馬表明している細川護煕元首相について、小沢一郎生活の党代表らが支援している事実を挙げ、「細川さんは殿様でしょうけど、悪代官をいっぱい付ける」と語った。

 肥後細川家の18代当主である細川氏に対して、佐竹北家21代当主の佐竹知事が苦言を呈した形だ。

 佐竹知事は「小泉(純一郎)さん(元首相)はいいが、小沢さんだとか、いろんな人が付いてきた。付録がね。勝ち馬に乗って国政にまたと…。悪代官を切り離して孤高の戦いをするならいいが、変なのがゴジョゴジョ寄ってきて曖昧になる」と述べた。

 佐竹知事は会見場を出る際も「細川さんはそんなに古い大名じゃないんだ。700年くらい。400年くらいうちの方が先輩だ」と、“殿”同士の対抗意識を見せた。

181とはずがたり:2014/03/05(水) 13:30:59

2013/12/2 21:21
官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml

 兵庫県伊丹市は2日、来年のNHK大河ドラマで描かれる戦国武将・黒田官兵衛が伊丹の武将・荒木村重に宛てた書状を確認した、と発表した。ともに織田信長の家臣だったが、村重は信長に反旗を翻し、説得に訪れた官兵衛を有岡城に幽閉。“敵同士”のイメージが強いが、有岡城落城4年後の書状からは、豊臣秀吉の下で協力する2人の姿が浮かび上がる。

 同市によると、書状は京都市の光源院所蔵で、1583(天正11)年11月12日付。光源院は当時、現在の鳥取県にあった領地を地元豪族に奪われたため、秀吉に茶人として仕えていた村重に調停を願い出ていた。

 村重は、中国地方の領地問題を担当していた官兵衛に意見を求めたとみられ、この書状は官兵衛からの返事。解決への協力を約束した上で、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されている。

 書状の存在は昭和初期の歴史書に記載されていたが、検証されたことはなかった。神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)によると、所蔵の書状は原本の写しで、村重が光源院へ送った可能性があるという。

 今井教授は「幽閉後の2人の交流を示す唯一の史料。官兵衛は非道な扱いをされた印象があるが、両者には一定の信頼関係があったことが分かる」と分析している。(太中麻美)

2013/12/2 20:13
黒田官兵衛、幽閉後も親しく 村重への手紙写し発見
http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201312/0006542026.shtml

 兵庫県伊丹市にあった有岡城に約1年間閉じ込められた戦国武将黒田官兵衛が、幽閉した武将荒木村重に宛てた手紙の写しが見つかり、伊丹市が2日発表した。幽閉後の手紙が見つかるのは初めてで、調査した神戸女子大の今井修平教授は「2人は手紙をやりとりしていたようだ。幽閉があっても、親しい間柄だったのがよく分かる」と話している。

 手紙は天正11(1583)年11月12日に書かれたとみられる。。

182とはずがたり:2014/03/20(木) 15:18:26

秀吉の朱印状:朝鮮出兵の武器配分方法も指示…唐津で発見
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20140319k0000m040059000c.html
毎日新聞2014年3月18日(火)20:05

 佐賀県唐津市教委は18日、豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592〜98年)の際、唐津藩主の寺沢広高に送った朱印状が見つかったと発表した。秀吉の命令を書記が書き記したもので、同様の朱印状は鹿児島県の「島津家文書」でも見つかっているが、市教委は「唐津の名護屋城だけでなく博多(福岡市)も、朝鮮半島に渡った将兵への食料輸送の拠点としていたことが記され、貴重な資料」としている。

 市教委によると、書状は縦45センチ、横65センチ。1598(慶長3)年3月18日作成とみられる。昨年9月、唐津藩家老の子孫で長野県在住の女性から寄贈され、矢部健太郎・国学院大准教授が鑑定。本物と確認された。

 寺沢は出兵時、名護屋城と釜山(韓国)の間を行き来し、将兵輸送のための造船のほか、釜山への武器・弾薬や兵糧の運搬、現地での配分を担当した。

 書状では、2万4000石の兵糧米について、出兵した各大名に博多で引き渡すので取りに行くよう命じたほか、朝鮮半島に送った武器・弾薬の配分方法なども指示していた。

 市教委の黒田裕一主査は「秀吉の考えが、戦場の大名にどう伝えられたかが分かる」と評価した。5月5日まで唐津市近代図書館で展示する。観覧無料。【原田哲郎】

183とはずがたり:2014/04/08(火) 22:48:00
坂本龍馬:暗殺直前の草稿…後藤象二郎に福井藩士を推薦
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/20140409k0000m040088000c.html
毎日新聞2014年4月8日(火)22:19

 坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩参政の後藤象二郎に宛てた書簡の草稿とみられる文書が東京都内で発見された。高知県立坂本龍馬記念館(高知市)が8日発表した。今月中にも同館で公開される。大政奉還後の新政府の財政担当者として福井藩士の三岡八郎(後の由利公正)を推す内容で、同館は「一級品の史料」としている。

 縦19.5センチ、横104センチの和紙に書かれ、日付がないことなどから草稿とみられる。東京都内の男性が20〜30年前に古物店で購入し、家族が保管していた。今年2月、個人の「お宝」を探すNHKの番組の取材過程で存在が判明。同館や京都国立博物館が筆跡などから直筆と断定した。

 記述は「越行(えつゆき)の記」で始まり、1867(慶応3)年10月15日の大政奉還直後に福井(越前)藩を訪ねた龍馬が同30日、三岡と面会したことを報告する内容。11月5日に京都へ帰り、同15日に暗殺されるまでに書いたとみられる。幕府の財政を調査した三岡が「(機能しておらず)気の毒」がっていたことに触れ、新政府の財政担当者には「三八(三岡)を置かバ他ニ人なかるべし」と評価している。

 三岡は後に明治新政府の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画。龍馬の推薦通り、新政府の財政政策に携わった。2人の会談は三岡の回顧録で明らかになっているが、龍馬側の記録は未発見だった。記念館の森健志郎館長は「経済で国を動かすという龍馬の政治理念や思想を感じさせる」と話している。【上野宏人】

184とはずがたり:2014/06/26(木) 14:21:04

2351 名前:名無しさん 投稿日: 2014/06/24(火) 12:14:54
林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)は23日、明智光秀の謀反で織田信長が自害した
「本能寺の変」の動機について、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が関わっていた可能性を
示す手紙が見つかったと発表した。四国支配を巡り、信長と元親が対立、譲歩するなどした内容を
伝える書状。光秀は重臣が長宗我部家と婚姻関係にあったこともあり、専門家からは「信長の四国
討伐から元親を守る狙いがあったのでは」という見方が出ている。

手紙は、林原美術館が所蔵する、足利十三代将軍・足利義輝の側近「石谷(いしがい)家」の文書
全3巻47点の中から見つかった。信長は1581年、元親に「土佐と阿波半国しか領有を認めない」
と通達したが、翌年1月11日付で、明智の重臣・斎藤利三が実兄の義父で、元親の義父にもあたる
石谷光政(空然)に宛てた手紙では、反発する元親をいさめるために使者を派遣することや、空然
にも元親が御朱印(信長の指示)に従うように依頼する内容が記されていた。

 また、本能寺の変の直前に、元親が利三に宛てた5月21日付の手紙は「阿波国の一部から撤退
した。(信長が甲州征伐から)帰陣したら指示に従いたい」と伝え、元親が信長に対して態度を軟化
させたことを示していた。元親が信長に「従う」と示した史料が見つかったのは初めてという。

 ただ、5月7日には、信長は三男の神戸信孝を総大将に任命し、四国討伐に備えていたことが既に
分かっている。本能寺の変は、信長と元親の仲介役だった光秀が、四国討伐の方針に納得していな
かったのが原因の一つという「四国説」がある。内池英樹・県立博物館学芸課主幹は「光秀は態度を
軟化させた元親をはじめ、重臣の利三らと婚姻関係があった長宗我部家を守るために、信長の四国
討伐を止めようとしたのでは」と話している。見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から
公開される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140623-00000118-mai-soci

187とはずがたり:2015/01/19(月) 01:48:08
家康はなぜ日光で“神”になったか…「江戸の真北」に意味がある
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/snk20150117510.html
産経新聞2015年1月17日(土)10:08

 「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌(いはい)は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ」

 江戸幕府を開いた徳川家康は元和2(1616)年、75歳で亡くなる間際に側近を集めてこう遺言したとされる。

 久能山は家康が少年期と晩年を過ごした駿河にあり、江戸の増上寺は徳川氏、三河国の大樹寺は父祖・松平氏の菩提(ぼだい)寺。下野・日光山だけが生前の家康や徳川氏に特別なゆかりがない。「東照大権現」として今も人々の信仰を集める家康。なぜ、日光で「神」として祭られることを望んだのだろうか。

 奈良時代後期に勝道上人が開いたとされる日光山は、関東武士の尊崇を集めた山岳信仰の霊場だった。鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進をしていたが、戦国末期には衰退していた。

 源氏の末裔(まつえい)を名乗って東国をまとめ上げ、天下を統一した家康は、頼朝を尊敬していた。慶長18(1613)年には側近だった天台宗の僧・天海が日光山の貫主に就任。頼朝を意識し、「日光再興」を図ろうとした意図がうかがえる。

 日光は地理的条件にも恵まれていた。自然の要害で幕府防衛の拠点となる可能性を備えてもいたが、日光東照宮で長年神職を務め、「日光東照宮の謎」などの著作がある高藤晴俊さん(66)=日光市=は「日光が江戸から見て、北極星の輝くほぼ真北の方向にあったことに大きな意味があったのでは」と指摘する。

 北極星は、古代中国で宇宙を主宰する神と認識されていた。「天子南面す」の言葉通り、君主は北極星を背にして南向きに座し、神と一体となって国をつかさどるとされてきた。

 日光東照宮陽明門の真上には、夜になると常に北極星が輝いているのが確認できる。「北極星を背に江戸を守る」という宗教的意義を持った場所として、日光は最適だった。

 「日光市史」によると、家康の御霊を乗せたみこしは元和3年3月15日に久能山を出発。4月4日に日光山の座禅院に到着、儀式を経て正式に鎮座した。改葬は、よろいかぶとに身を包んだ騎馬武者や、やりを抱えた兵ら総勢1千人に及ぶ大行列だったとされる。日光東照宮で今も春秋の例大祭で行われている「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」は、この様子を再現したものだ。

 天下人となった家康が、恒久平和を願う神となるための重要な儀式だった日光改葬。大きな役割を果たしたのが、「黒衣の宰相」として辣腕(らつわん)を振るった天海と臨済宗の僧・崇伝、それに家康の葬儀を取り仕切った吉田神道の権威・梵舜という3人の聖職者だった。

 梵舜は、豊臣秀吉が死後に自らを「豊国大明神」として祭らせた豊国神社の創建に関わった。高藤さんは「秀吉を神格化した際の宗教的な奥義を知る梵舜に葬儀を任せたのだろう」と推測する。

 また、家康の神号をめぐり「明神」か「権現」かで論争が起き、秀吉と同じ「明神」を推した梵舜と崇伝に対して天海が「権現」を主張。論争に勝った天海が、その後の宗教的主導権を握ったといわれる。

 ただ、高藤さんは「日光への改葬には崇伝が大きな役割を果たした」との見方を示す。神号論争に敗れた「引き立て役」として語られることが多いが、高藤さんによると、慶長19年、家康が京の五山の僧侶に「論語」にある北辰(北極星)についての文章を書かせた際、崇伝が序文と跋文(ばつぶん)を加えている。

 家康を北極星に見立てる神格化の萌芽(ほうが)が垣間見える出来事で、「梵舜が神道の伝統にのっとり神格化への道筋をつけ、崇伝が日光遷座の設計図を描き、天海がそれを仕上げたという流れだったのでは」(高藤さん)。いずれにしても、綿密に計算された神格化であったことは間違いない。

 戦国時代の研究で知られる静岡大名誉教授の小和田哲男さん(70)は「家康は260年を超える太平の世を実現しただけでなく、いわば右肩上がりの拡張主義だった戦国時代から低成長・安定の時代へと舵を切った。現代にも通じる部分がある」と話す。

 冒頭に紹介した遺言は、「そして八州の鎮守となろう」と続く。家康の御霊は今も日光から江戸(東京)や関東、日本全体を見守っている。(宇都宮支局 原川真太郎)

188とはずがたり:2015/01/19(月) 01:48:34

「久能山」か「日光」か 家康の遺体はどちらにある
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/snk20150118564.html
産経新聞2015年1月18日(日)20:28

 1159段の石段を登ると、眼下に駿河湾の絶景が広がる。徳川家康が晩年を過ごした駿府城跡から東に約8キロ離れた久能山(標高216メートル)の山頂に鎮座する久能山東照宮(静岡市駿河区)。日光東照宮ほどの規模ではないが、緑に囲まれ、静謐(せいひつ)な空気が漂う。

 今はロープウエーで気軽に訪れることができるが、当時は歩いて登るしかなかった。元和2(1616)年4月17日に亡くなった家康の遺体は、その日のうちに久能山に移る。一部の側近を除き登山を禁じられ、通夜も営まれなかった。

 「人目を忍んで運んだのは、神になるためにはどうすべきか、ひそかに準備していたのでしょう」。久能山東照宮の落合偉洲(ひでくに)宮司(67)が説明してくれた。

 家康は晩年、将軍の座を三男・秀忠に譲り、隠居。「大御所」として二元政治を敷いた。生前には「久能山は駿府城の本丸」と話しており、自らを埋葬する場所として指定した。

 家康の死後、日光東照宮に先駆けて着工した久能山東照宮は、いわば「最初の東照宮」。江戸時代を代表する大工頭・中井正清の手による社殿群は平成22年、国宝に指定された。

 宮内の一番奥に、家康が埋葬された「神廟」がある。当初は小さなほこらだったが、三代将軍・家光の命令により高さ5・5メートルの石塔が建てられた。

 石塔は遺命に従い、西を向いている。家康が死去した当時、西国にはまだ豊臣方の残党がうごめいていた。江戸との間に立ち、にらみを利かせるためだったと考えられている。

 しばしば話題となるのが、家康の御霊を久能山から日光に移した際、遺体も移したか否かだ。改葬は大化の改新で知られる藤原鎌足の死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事にならったものとされ、「遺体も移ったと考えるのが自然」とみる識者もいる。ただ、落合宮司は「家康公は今もここに眠っていると思っている」と話す。「四角い棺(ひつぎ)の中に正装して座し、西を向いているはず。遺体を日光に運んだのなら、久能山に大きな墓を建てる必要はなかった」

 改葬を取り仕切った僧・天海が「あればある無ければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」という和歌を残していることもその証左だという。「くのなき」は「躯(く)=むくろ=のなき」と読めるからだ。

 久能山の神廟も日光の奥宮も、これまで発掘調査は行われていない。いずれにせよ、「御霊は久能山と日光にあり、人々を見守っているのは間違いない」(落合宮司)。

 静岡市は今年、同じく家康ゆかりの地である浜松市や愛知県岡崎市と合同で「家康公四百年祭」を実施。官民合同でさまざまな関連イベントを開催する。静岡市地域活性化事業推進本部の担当者は「この機会に多くの人に家康公の偉業を再確認してもらいたい」と話す。400年を経ても大御所の威光は衰えていない。(宇都宮支局 原川真太郎)

189とはずがたり:2015/01/23(金) 10:53:22
江戸時代の身分制度に関する誤解
学校では「士農工商」というと身分制度だと習いましたが、どうやら歴史学上、この認識は誤りのようです。 更新日: 2014年12月09日
http://matome.naver.jp/odai/2141443279496678301

190とはずがたり:2015/05/16(土) 18:53:40

信長、家康、光秀の「歴史」は、すべて秀吉の捏造だった!嘘だらけの「本能寺の変」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150514-00010004-bjournal-soci
Business Journal 5月14日(木)6時1分配信

 明智光秀の子孫が書いた『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫)が、発売から1年4カ月が経過してもなお売れ続け、27万部を突破する驚異的な売れ行きを見せている。

 著者は明智憲三郎氏。もともとは三菱電機のシステムエンジニアで、いわゆるプロの学者ではないが、先祖の名誉回復を願う子孫が感情論で書いた本ではなく、国内のみならず海外も含めた膨大な数の文献に当たり、導き出した結論は、これまでの定説を根底から覆すものとなっている。

 約50年間に及ぶ研究の成果を『本能寺の変四二七年目の真実』(プレジデント社)にしたため、2009年に発刊。この本も当時かなり話題になったが、その後さらに研究を重ねて加筆・修正したものが本書である。

 紙面の関係上、定説と異なる点をすべて網羅することはできないが、大雑把にいえば「光秀の出自も違えば、謀叛の動機も怨恨ではないし、徳川家康も謀叛と無関係どころか実は共犯で、秀吉も事前に謀叛の計画を知っていたから中国大返しも実は神業でもなんでもなかった」というものだ。

 定説は時の権力者・秀吉が、自分に都合の良いストーリーを組み立て、それに合わせてさまざまな文献の書き換えも行われ、利害が一致した家康もそのストーリーに乗り、後の時代に尾ひれがついて出来上がったものと考えられる。そして後世の学者も、なぜかそこへ乗ってしまったというのである。

●絶大だったNHK大河ドラマのスリコミ効果

 なにしろ戦国時代から江戸幕府開闢までの時代は人気が高い。織田信長が天下統一を目前にして本能寺の変で逝き、いったんは天下を取った豊臣秀吉が統一を目前にして逝き、徳川家康が江戸幕府を開くまでのこの時代を扱った時代劇はヒットする確率が高く、NHK大河ドラマのみならず、テレビ東京の正月時代劇などでも繰り返し取り上げられてきた。 …明智氏も、本能寺の変をめぐる定説を、現代に生きる日本人に徹底的にスリこんだのは『新書太閤記』(吉川英治)と『国盗り物語』(司馬遼太郎)であり、この2作品を原作として制作された大河ドラマだと本書中で指摘している。なにしろ『太閤記』は平均31%、最高39%、『国盗り物語』は平均22%、最高29%もの高視聴率を獲得していたのだから当然だろう。

 62年生まれの筆者の歴史観もまた、まさにこの2作品によって構築されている。… 例えば、光秀謀叛の動機は、定説では怨恨だ。… 光秀の役は『太閤記』では悪役然とした佐藤慶が演じたが、『国盗り物語』では当時31歳の近藤正臣である。当時の近藤はイケメン路線のど真ん中。まさに定説のイメージ通りだった。松坂慶子が演じた信長の正室濃姫も、光秀のいとこであり淡い初恋相手という描かれ方だ。また定説では濃姫の口利きで光秀は信長の家臣になったといわれているが、明智氏はそういう事実もないと語る。信長がキレやすく粗暴だったというのも秀吉の創作だというから驚きだ。

●なかなか覆せない定説

 この2作品に限らず、大河はどれも原作者自体が歴史小説の第一人者である。時代考証にもそれなりの肩書の人が就いて制作されているので、架空の人物が登場することはあっても、学説上の定説から大きく逸脱することはない。

 その点こそが、まさに明智氏が問題視している点で、本能寺の変をめぐる定説の元になっているのは江戸時代になって書かれた「軍記物」であって、その「軍記物」のネタ元は秀吉が書かせたPR誌なのだ。そのPR誌に書かれている事実が、本能寺の変が起きた前後の時代の文献に書かれている事実や、当時日本に来ていた宣教師が母国で残した記録と符合しないのだという。

 例えば、信長が実は中国制圧を考えていたことが、イエズス会の宣教師が書き残した文献に記されているし、家康が謀叛の共犯者だったということも、イスパニア商人が書き残した文献には記述があるという。

 全般に、複数の文献と定説が符合しない点から事実を類推する手法が取られているので、部分的には妄想だと批判する声もあるようだが、この本を読んだ多くの人にとって「すとんと腹に落ちる」類推だからこそ、長期間にわたって驚異的な売り上げを記録し、著者の元には全国から講演依頼が殺到するのだろう。だが、それでも世間一般の認識を変えるには至っていない。

 …明智氏が光秀の末裔であることが、かえって研究成果の評価にバイアスをかけているということはないのだろうかという疑問も湧く。

 明智氏の研究成果を検証する歴史小説家が現れ、明智説を踏襲する小説が生まれ、それが大河で放送されて、ようやく明智説は名実ともに市民権を得るのかもしれない。
伊藤歩/ジャーナリスト

191とはずがたり:2015/08/03(月) 18:50:44


やっぱりイケメンじゃないか! 土方歳三の髪型を今風にしてみたらビックリするほど現代人
ねとらぼ 8月2日(日)20時32分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150802-00000023-it_nlab-sci

192とはずがたり:2016/01/22(金) 14:44:28
素晴らしいね,江戸文化♪

何を飲んでいたの? つまみは? 江戸時代の日本の居酒屋はこんな感じだった!
マイナビスチューデント 2016年1月15日 18時30分 (2016年1月15日 23時24分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20160115/Mycom_freshers__gmd_articles_29685.html

世界的な和食ブームのためか、日本の居酒屋が世界でも人気です。さまざまな料理があって、食事もできるしお酒も飲める!……日本の「居酒屋」は外国人からすると珍しい存在なのです。この居酒屋ですが、そもそもは江戸時代にできたのが始まりなのです。
■江戸には1,808軒も居酒屋があった!
現在の東京に負けず劣らず、江戸時代の江戸にも居酒屋が多数ありました。1811年(文化8年)の調査によると、江戸には「1,808軒」の「煮売居酒屋」があったことが分かっています。この「居酒屋」という名前が現れるのは寛延年間(1748-1751年)のことで、このころには、居酒屋として開業する店が多数だったと考えられます。というのは……。
■もともと酒屋が店先で始めたもの!
後年「居酒屋」に発展する「お酒を飲ませる店」は、まず酒屋の店先で、そこに「居て」お酒が飲めるという「居酒」(いざけ)の商売を始めたのが大本といわれているのです。独身男性が多かった江戸の町では、この居酒がお酒を飲むスタイルとして元禄時代(1688-1704年)にはすでに確立されていたようです。
また、居酒といっても最初は立ち飲みばかりだったようです。ですから、近年流行した「立ち飲み屋」というスタイルは、江戸時代に先祖帰りした飲み屋の形態ともいえるのです。
■店先には「さかな」が並んでいました!
江戸時代の「居酒屋」がどんなだったかを描いた絵を見ると、どんなものが肴(さかな)として供されるのか分かるように、店先に「ゆでダコ」「野鳥」がつるしてあったり、魚などを置いているものが多いのです。現在ならプラスチックなどでできた食品サンプルを置くところですが、江戸時代ですから実物を置くしかなかったのですね。
また、居酒屋というと「縄のれん」というイメージがありますが、これが一般的になるのは江戸時代の終わりぐらいのこと。明治時代後半にはすっかり「縄のれん = 居酒屋」が定着していました。

■江戸時代の居酒屋にはどんな「さかな」があったか?
江戸時代の居酒屋にどんな「さかな」があったか例を挙げてみましょう。
・芋の煮ころばし
・湯豆腐
・ぬた
・ゆでダコ
・煮しめ
・数の子
・おでん
・イワシ塩焼き
・カモの吸い物
・ねぎとりのなべやき
・から汁(おからを入れたみそ汁)
・油揚げのうま煮
・ショウサイフグのスッポン煮
・フグの吸い物
・アンコウ汁
・ねぎま(ネギとマグロを煮た鍋料理)
・マグロの刺し身
・刺し身の盛り合わせ
・田楽

193とはずがたり:2016/01/22(金) 14:44:42
>>192-193
こうして並べてみますと、どれもおいしそうで「ここで一杯やるか」と思ってしまいますね(笑)。江戸時代はマグロがたくさん取れたようで、その影響で居酒屋にも安価にマグロを供するメニューがあったのです。ちなみに上記の「から汁」は、「二日酔いに効く(予防になる)」という話があったことから人気でした。

■江戸時代は一年中燗酒を飲んでいた!
江戸時代にはお酒を「燗」をして飲むことが普通でした。現在のように「冬は熱燗!」ではなく一年中燗をしたお酒を飲んでいたのです。ですから、江戸時代の居酒屋では「チロリ」という容器にお酒を入れ、これを銅壺で湯煎して温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこからお酒を注いで飲んでいたのです。

では、このお酒の値段はいくらぐらいだったのでしょうか? 飯野亮一先生の『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』によれば、「四文二合半(しんもんこなから)」という言葉が「居酒屋で最下等の安酒をオーダーするときの常套句」(同書P.211より引用)だったとのこと。これは「1合四文のお酒を二合半くれ」という意味ですが、同書によれば「(前略)1文が13円位になる。すると四文酒は50円位で飲めたことになる。(後略)」(同書P.214より引用)。1合52円、2合半で「130円」ですから、なるほど激安です!

居酒屋は江戸時代から庶民の憩いの場所として愛され、現在にまでつながっているのです。江戸時代にはお上による規制もありましたが、それを幾度もはね返して庶民に支持され続けたのです。より詳細に江戸時代の居酒屋について知りたい人は、飯野亮一先生の『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』(ちくま学芸文庫)をぜひ一読ください!
⇒データ出典:『居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化』飯野亮一
http://urx.blue/qdAM
(高橋モータース@dcp)

194とはずがたり:2016/05/22(日) 22:49:22
後家好み(=子どもを産める女である事を確認)と云われる程,子孫を着実に増やして親藩を涵養した家康に対して一族少なかった豊臣なんで秀次を殺したのは失策だよなあと俺もかねがね思ってたけど・・。
>史料を丹念に読み込み、関係人物の行動、当時の武士の思考をも考慮すると、「秀吉に秀次を追放・切腹させる意図はなかった」事実が浮かびあがる。
>関白の切腹という前代未聞の大事件に見舞われた豊臣政権は、これ以後、事件の火消しに追われることとなる。この結果、事件を一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた政権は、秀次は切腹に値する人物であったと喧伝し、秀次の妻子全員の処刑という悲惨な結末をもって、事件は幕を降ろすのである。

新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗
「秀次切腹事件」がターニングポイントだった
http://toyokeizai.net/articles/-/117781
矢部 健太郎 :國學院大學教授 2016年05月22日

老いた豊臣秀吉は愛息秀頼を後継者としたい一心で、〈殺生関白〉の悪名高い甥の秀次に追放・切腹を命じ、その一族を大量処刑した――。史上名高い「豊臣秀次切腹事件」だ。しかし、國學院大學教授の矢部健太郎氏はその通説に疑問を投げかける。『関白秀次の切腹』を著した矢部氏が、通説とは異なる事実とともに、人材マネジメントの重要性を説く。
秀次の切腹は「想定外」だった!

「豊臣秀次切腹事件」とは、文禄4年(1595)7月15日、高野山で起きた豊臣秀次の切腹とその妻子の集団処刑に至る騒動を指す。秀吉から譲られて関白となった甥・秀次は、いわば豊臣政権の2代目であるが、「殺生関白」と呼ばれるほど暴虐な振る舞いが多く、息子・秀頼を後継者にしたい秀吉によって、高野山へ追放、切腹を命じられたという通説が一般的に認識されている。

この事件は朝鮮出兵と並ぶ豊臣秀吉晩年の愚行の代表的事例とされる。織田信長の足軽から天下統一を成し遂げた英雄・秀吉も晩年はもうろくし、みずからの愚行により豊臣政権の寿命を縮めた、というイメージを後世にまで残したのである。

しかし、史料を丹念に読み込み、関係人物の行動、当時の武士の思考をも考慮すると、「秀吉に秀次を追放・切腹させる意図はなかった」事実が浮かびあがる。たとえば、以下の点などである。

①秀吉は秀次に召使いや料理人、番人をつけている

文禄4年7月12日付「秀次高野住山令」で秀吉は高野山に、秀次の身のまわりの世話をする者や料理人をつけるよう命じている。また、秀次の下山や、彼を見舞う者の侵入を見張るための番人を用意するよう、高野山の僧侶たちに命じている。いずれも、秀次をすぐに切腹させるつもりなら必要ない措置である。

②切腹を命じる一次史料が残されていない

「秀次高野住山令」は一次史料に写しが残されているが、秀次に切腹を命じたことを示す一次史料は見つかっておらず、江戸時代に完成した『甫庵太閤記』に形跡が残るのみである。しかも、それは秀吉の時代に作成された文書とは考えられない形式・内容のもので、「偽作」と断定すべきものである。

秀吉という圧倒的な存在感を持つ個人の存在なくして豊臣政権は誕生しえなかった。それは逆に、秀吉の死後に後継者が政権を運営していく場合、数々の困難が予想されることを意味する。そのことを熟知していた秀吉は、政権を永続させるためにある手を打った。豊臣家を「摂関家」にしたのである。

「摂関家」とはその名のとおり、国政を取り仕切る摂政と関白になれる家格のこと。近衛・一条・二条・九条・鷹司の5家のみの、貴族社会の頂点に君臨する、まさに選ばれた家である。秀吉は、近衛家の猶子となることで武家として初めて任官したわけだが、その時の彼は「藤原姓」を名乗ったことになる。その2カ月後、朝廷から新たな武家の本姓として「豊臣姓」を下賜されたことにより、豊臣宗家は「豊臣摂関家」の家格を得たわけである。これにより「位人臣を極めた」秀吉は、個人としてのみならず、豊臣宗家にも絶大な権威を帯びさせることに成功したのである。秀吉は、ようやく手に入れた関白の座を秀次に譲ることで、豊臣家による関白職の独占、そして豊臣政権の正当性を担保しようとした。その秀吉が、みずから関白・秀次を殺したとなれば、それはいわば究極の「自己否定」である。そのようなことが、現実的にありえるだろうか。

195とはずがたり:2016/05/22(日) 22:49:45
>>194-195
さて、現代の一族経営の企業では女性社長は珍しくないが、戦国時代はとにかく男子の数がものを言う。秀吉が一代で築いた豊臣政権の弱点は、豊臣家の男子が少ないことだった。系図を見てもわかるように、秀吉は長男・鶴松を幼くして失い、もっとも頼りにした弟・秀長とその息子(養子)・秀保も天正19年・文禄4年に亡くなってしまった。文禄4年7月の時点で数え3歳の秀頼が成人するまでの間、政権を託せる一族の男子は秀次以外におらず、まさに命綱といえる重要な存在だった。その秀次を切腹させるなど、やはり政権の寿命を縮める愚行以外の何物でもないのである。

上司が部下の様子を気にかけ、マネジメントするのはもはや常識である。ましてや、敗北が一族の生死にもかかわる戦国時代であれば、その重要性は言うまでもない。戦国大名は一族や家臣団の結束を強めるため、さまざまな対策を講じている。

「人たらし」といわれ、全国の大名をまとめあげた秀吉は個人的魅力もさることながら、人材マネジメントの天才でもあった。諸大名を取り込み、豊臣姓・羽柴名字を下賜することで「ファミリー」を形成したのである。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗


『関白秀次の切腹』(矢部健太郎著、KADOKAWA)上の画像をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
しかし、一族の中でも肝心要の秀次が精神的に追い詰められていたこと、そして、普段の生活からは想像もできないような、武士としての強い決意を併せ持っていたことに、秀吉は気づかなかった。謀反の疑いをかけられた秀次は自ら高野山へ出奔して謹慎し、身の潔白を証明するために覚悟の切腹を遂げてしまう。諸大名をうまくマネジメントできた秀吉も、一族の「部下」には目が行き届かなかったのだろうか。このマネジメントの失敗が、秀次の切腹という悲劇を招き、豊臣政権の屋台骨を揺るがしたのである。

関白の切腹という前代未聞の大事件に見舞われた豊臣政権は、これ以後、事件の火消しに追われることとなる。この結果、事件を一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた政権は、秀次は切腹に値する人物であったと喧伝し、秀次の妻子全員の処刑という悲惨な結末をもって、事件は幕を降ろすのである。

そして、政権の将来を担う秀次を失った豊臣家は、慶長3年(1598)の秀吉の死、慶長5年の関ヶ原合戦、慶長8年の徳川幕府成立を経て、慶長20年(元和元年・1615)の大坂夏の陣で滅亡する。秀次の切腹から、わずか20年であった。

秀次が自害を選ぶほど追いつめられていたことに秀吉が事前に気づいていれば、どうなったであろうか。秀吉の死後も、豊臣政権は秀次と彼を支える石田三成らによって運営され、秀頼が関白となる道も残されていただろう。また、秀次には男児が4人おり、彼らが成人すれば「一族男子の不足」という豊臣政権の弱点を大幅に改善できる可能性も高まる。もちろん、秀頼と秀次の子どもたちとの間で権力争いが発生する可能性もなくはないが、それは豊臣政権内部での、また「豊臣宗家」内での争いであって、外様の徳川家が政権を奪取していくような未来は防げただろう。少なくとも、秀次切腹による混乱状況よりは安定した政権を維持でき、秀次の死から5年後の関ヶ原合戦、20年後の豊臣家滅亡といった事態は避けられたのではなかろうか。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗は、豊臣政権という組織に最悪の結果をもたらした。人材マネジメントの成否が組織の存亡をも左右することを、およそ400年前の悲劇を教訓として知っておきたい。

196とはずがたり:2016/06/01(水) 13:19:19
豊臣家滅亡も木下藤吉郎に繋がる木下家19代目は健在
http://news.goo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-406629.html
05月04日 07:00NEWSポストセブン

 4月から新編「大坂編」に入り、視聴率が右肩上がりのNHK大河ドラマ『真田丸』。同作に登場する人物の実際の「末裔」はどんな人なのだろうか。

『真田丸』第14話でついに登場した天下人・豊臣秀吉。小日向文世が怪演している。

「4月は3代目の俊長が祀られている横津神社(大分県速見郡日出町)の大祭。5月は日出町主催の城下かれい祭り、10月は日出藩の守護神だった若宮八幡宮の例大祭があり、年に3回は当主として行事に出席するために日出町に行きます」

 そう胸を張るのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)に繋がる木下家の19代目当主・木下崇俊氏(82)である。

 しかし、秀吉の病没後、後継者となった三男の秀頼は大坂夏の陣のあとに大坂城内で自害。豊臣家はそこで滅亡したというのが歴史の“常識”のはずだ。

「私は秀吉の正室・ねねの兄、木下家定の三男延俊を初代とする旧日出藩木下家の19代目なのです。菩提寺・松屋寺での供養と墓参りでは家臣の集まりである『陽城会』の総会を執り行ないます。会員は109人ですが、毎回70人ほどが集まります。総会といっても、ただの酒盛りですけれどね(笑い)」

 そんな崇俊氏、地元では親しみを込めて“お殿様”と呼ばれる。

「タクシーに乗った途端『殿、お帰りなさいまし』といってくれる。ありがたいことです」

※週刊ポスト2016年5月6・13日号

197とはずがたり:2016/06/19(日) 17:39:31
明智光秀と豊臣秀吉 最大の違いは視力だった!?
dot. 2016年6月13日 16時00分 (2016年6月15日 10時52分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160613/asahi_2016060900037.html?_p=2

 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した、本能寺の変で信長を討った明智光秀の症例を紹介したい。

*  *  *
明智光秀(1528〜1582 年)
【診断・考察】近視

 昭和30年代生まれの筆者の世代には懐かしいハカセ君(ひょっこりひょうたん島)から、最近では名探偵コナンまで、マンガに出てくる秀才(たいていスポーツは苦手)は近眼鏡をかけていた。眼鏡君は本当に賢いのだろうか。

 シンガポール大学のソーらは、10〜12歳の学童を対象とし、視力と学力を比べたところ、近視の児童はそうでない児童と比較して統計的に有意に学業成績が良く、知能指数と強い相関があるという結果を報告した。近視者は両親にも近視者が多く、スポーツ少年スポーツ少女には少ない。また、近作業や読書を多く行うと後年近視になるリスクが高まる。しかし、これに反する報告も多く、結論は出ていない。

 さて、俗に、近視眼的性格ということが言われるが、実際にはどうだろうか。1930年に、英国の眼科医ライスは「近視の少年は運動が苦手である。なぜならば彼はボールがよく見えないから。またその意味で射撃も苦手だし、遠出も嫌いである。総体的に屋外活動は苦手である。一方、学校は嫌いなところではない。本を読むのに何の苦労もないから」と記している。歴史家のトレヴァー=ローパーは、歴史上の偉人たちが愛用した眼鏡から、ドイツの軍人で後に大統領となったヒンデンブルク元帥、宗教改革者のマルチン・ルター、フリードリヒ大王は強度の遠視、ショーペンハウエル、ゲーテ、シラー、マリー・アントワネット、ナポレオン・ボナパルトは近視だったとしている。ナポレオンはちょっと予想外だが、他の人物は何となく納得できる。

 戦国時代の武将たちに当てはめると、目端が利いて融通無碍(ゆうずうむげ)な豊臣秀吉は遠視、信長幕下では珍しい古典的教養人の明智光秀は近視だったのではなかろうか。医師で作家の篠田達明氏は、明智光秀の肖像画で目が細いことに注目し、遠くを見るために目を細めるという近視者の特徴が忠実に描かれているとしている。光秀は近視のために主君の信長の表情を読み取れず、その不興を買うことも多かったのではないか。秀吉は、主君の一挙一動を見て機敏に対応できたのかもしれない。

 明智光秀の前半生は不明な点が多いが、清和源氏の土岐氏の支流明智氏の一族と言われている。若年から斎藤道三に仕えて薫陶を受け、その敗亡後は室町将軍足利義輝、足利義昭、若狭武田氏、越前朝倉氏に仕えている。

 義昭が織田信長に上洛のお墨付きを与えた後、光秀はそのまま室町幕府と信長の双方に仕えるが、義昭と信長の関係が悪化すると旧主を見捨てて信長の家臣となる。…

198とはずがたり:2016/06/19(日) 17:40:12
>>197-198
近畿地方の大名を指揮する立場となるが、天正10年(1582年)6月1日夜半、京都郊外の桂川で、「敵は本能寺にあり」と宣言して主君信長を急襲する。しかし、山崎の合戦では中国大返しの羽柴秀吉に大敗を喫し、敗走中に落ち武者狩りに討ち果たされる。

 光秀謀反の背景に巷間言われるような「いじめ」があったかどうかは分からないが、少なくとも個人的怨念で後先を考えずに謀反に踏み切るほどナイーブな人物とは思えない。名門土岐氏の流れをくむ明智氏は、「読書百年の家」で四書五経をはじめとする典籍を読んできたのだろうし、覇者にその資格がなければ、これを放伐してよりふさわしい者が代わるという革命思想も学んでいただろう。信長は有能だったが、比叡山焼き討ちや伊勢長島の大虐殺、自らを神として崇(あが)めさせるなど光秀の価値観とは相いれないものがあった。光秀の戦略眼は、常日頃、安土の堅城や大軍に囲まれた信長が側近のみで本能寺に泊まる一瞬の隙をついたことである。

 しかし、味方についた大名が少なかったこと、毛利攻めで動きが取れないはずの秀吉がわずか10日で戻ってくるなど不測の事態が続出し、光秀の天下は2週間たらずで終わってしまう。机上の秀才が実務家に負けてしまった典型かもしれぬ。ここまで書いて、若き日の光秀が鉄砲の名手だったという『明智軍記』の記述を思い出した。本能寺の変から120年後の元禄時代の書であり、真相は小栗栖(おぐるす)の竹藪(たけやぶ)の中である。【出典】
1 Saw SM,Cheng A,Fong A,et al. School grades and myopia. Ophthalmic Physiol Opt. 2007 Mar ; 27(2):126-9.
2 Onal S,Toker E,Akingol Z,et al. Refractive errors of medical students in Turkey:one year follow-up of refraction and biometry. Optom Vis Sci. 2007 Mar ; 84(3):175-80.
3 Hepsen IF,Evereklioglu C,Bayramlar H. The effect of reading and near-work on the development of myopia in emmetropic boys:a prospective,controlled,three-year follow-up study. Vision Res. 2001Sep ; 41(19):2511-20.
4 Trevor-Roper P The World Through Blunted Sight. Penguin Press 1970.
5 篠田達明「明智光秀の眼鏡」『士魂の光芒』新潮文庫、1997

199とはずがたり:2016/08/30(火) 22:15:33
織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状
http://www.asahi.com/articles/ASJ774S71J77OIPE01B.html?iref=com_alist_8_06
月舘彩子2016年7月8日08時33分

 本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558〜1630)が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。

 書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれていないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。

 「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

 花押が乾く前に書状を折りたた…

200とはずがたり:2016/09/05(月) 11:36:53
俺は江戸時代を高く評価してるし我らが遠州の侵略者だけど結構好きである。武将としては今川推しだけど。

徳川家康は「日本人に嫌われる性格」の典型だ
「スゴい成功者」なのに…理由は4つあります
http://toyokeizai.net/articles/-/133251
2016年9月5日
山岸 良二 :歴史家・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師・昭和女子大学講師

202とはずがたり:2016/09/06(火) 21:29:15
鼠小僧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%A0%E5%B0%8F%E5%83%A7

鼠小僧(ねずみこぞう、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。
本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。

生涯
以下は「鼠賊白状記」と呼ばれる鼠小僧自身の自白調書による。

(中略)

その後
当時の重罪には連座制が適用されていたが、鼠小僧は勘当されているために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けた。この自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませたという点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因のひとつとなっている。
墓は、両国の回向院にある。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしている[2]。また南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも義賊に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。

鼠小僧の義賊伝説

鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」という伝説がある。この噂は彼が捕縛される9年も前から流れていた。事実、彼が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる。しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。
しかし、これについて資料が残されていない中で鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという理由が挙げられている。また町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。

203名無しさん:2016/09/22(木) 14:19:07
与太記事ですが。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160914-00049687-gendaibiz-bus_all
アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた! 歴史家が危惧する「いつか通った道」
現代ビジネス 9月14日(水)11時1分配信

 第2次安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を「三本の矢」として2012年にスタート。一時は日本経済が急速に回復するかに見えましたが、いまは完全に停滞してしまいました。

 私の専門は歴史で、経済や政治ではありませんが、今回は現在の政府による経済運営について気になることを、歴史的な視点から述べてみたいと思います。

 一般的にアベノミクスが期待された結果を出せない理由については、こう言われています。中国経済の失速、イギリスをめぐるEUの混乱、さらには原油安による新興国経済の失速など、海外の経済がよくないために、日本も景気がよくならないのだ……と。

 その指摘自体は間違いではないと思います。ただ、これが事実だとすれば、それまでアベノミクスが好調だったのも、単に世界経済の動向が日本に有利に働いただけで、政府や日銀の経済政策の効果でないことがはっきりしたと言えなくもありません。

 ところで「三本の矢」というネーミングですが、これは、安倍首相の故郷山口県を支配していた毛利元就「三本の矢」の教訓になぞらえたものであることは、多くの方がご存知のことでしょう。プロサッカークラブの「サンフレッチェ広島」の名の由来にもなっていますが、簡単に言えば、こんなお話です。

 病床に伏していた毛利元就はある日、隆元・元春・隆景の3人の息子を枕許に呼び出します。元就は、まず1本の矢を息子たちに持たせて折らせ、続いて矢を3本束ねて折るよう命じますが、今度は誰も折ることができません。そして元就は息子達にこう告げました。

 「よいか1本の矢では簡単に折れるが、3本まとめると容易に折れない。お前達3人がよく結束して毛利家を守って欲しい」と。

 息子たちは、この教えに従う事を誓うのでした……。

 安倍首相は、三本の矢の逸話よろしく、金融政策、財政政策、成長戦略という三つの施策が相乗効果をもたらし、日本経済をデフレから救いだし再び上昇軌道に乗せようとしたのです。

 その施策の有効性はともかく、この話を最初に聞いたとき、これは先行きが思いやられるな、と感じました。

 なぜなら、この逸話が、そもそもウソだからです。

204名無しさん:2016/09/22(木) 14:19:30
>>203

江戸時代にも「アベノミクス」はあった
 元就は死ぬ前に3人の息子達を枕元に集め、三本の矢の教訓など語っていません。戦前は小学校の教科書にも紹介されていたこの話は、もともと中国の古典にある話で、それを後世の人が勝手に元就の逸話にしてしまっただけなのです。

 安倍首相の熱心なファンはこう反論するかもしれません。何百年も前の話なのだから、言ったか言わないかは誰にもわからない。失礼なことを言うな、と。

 確かに私も現場を見たわけではありませんが、これに関しては史実と異なる、と断言できます。なにしろ長男の隆元は、元就が臨終する数年前に死んでいたからです。次男の吉川元春は戦に出ていて臨終の場にはおらず、3男の小早川隆景は40歳近くになっている。これらに関してはさまざまな文献で証明されているのです。

 間違った言い伝えになぞらえているようでは、施策自身の説得力もありません。そこに不安を感じたのです。

 もちろん三本の矢の逸話がフィクションだとしても、政策そのものが的を射ていれば問題はありません。しかし、歴史的観点から言えば、この点に関してもやや疑問符が付きます。

 アベノミクスとは簡単にいえば、円を安くし、国内の物価を上げ、規制を緩和し、政府の予算を民間にばらまいて景気を良くしようという経済政策ですが、じつは江戸時代、同じような政策をおこなった藩がありました。

 徳川御三家の筆頭・尾張藩でのこと。実施したのは7代藩主宗春。ちょうど幕府では8代将軍徳川吉宗が享保の改革をしていた時期と重なります。

 よく知られているように、紀州藩主から将軍になった吉宗は、傾いた幕府の財政を立て直すため、自ら質素な木綿の服を着、食事も「一汁三菜」にして倹約につとめ、徹底的に支出をおさえました。また、庶民にも質素倹約を求め、贅沢を禁止したことは歴史の教科書でも習ったでしょう。

 いっぽうで各藩から米を供出させ(上米の制)、農民に対する税率を上げて(定免法の採用)幕府への収入を増やしました。こうした緊縮財政を長年続けたことで、見事幕府の財政を再建したのです。

 つまり、増税と財政緊縮を同時に、長い間コツコツ進める事で、ようやく財政立て直しに成功したのです。

205名無しさん:2016/09/22(木) 14:19:54
>>204

尾張藩のイケイケ規制緩和
 各藩でもこれをまねて改革をおこなっていましたが、1730年に尾張藩主となった宗春は、将軍吉宗と真逆のことをはじめます。享保の改革以来、自粛していた名古屋での祭りを大々的に復活させ、藩士にも芝居見物を許したのです。

 また、藩祖以来、禁止されていた遊郭の設置も認めました。驚くべきは、宗春自身が自ら祭りや芝居小屋に出向き、さらにはお忍びで遊郭に足を向けたことでしょう。
 
宗春は名古屋城下を歩くさい、上から下まで紅色に服を身につけ、3メートルもあるキセルを家臣に背負わせ、それを吸いながら真っ白な牛の背に乗って、ゆるゆると巡ったといいます。付き従う家来たちの服も紅色で統一されていたという記録もあります。
 
辛気くさい倹約が十数年続いていた尾張藩内ゆえ、この規制緩和に人びとは大いに喜び、すぐに娯楽を楽しみ、金を使って贅沢をするようになりました。服装も華美になりました。
 
こうして名古屋城下には芝居小屋が林立し、遊郭の数も増えていきます。それに誘われるように、多くの人々が周辺から名古屋に遊びに来るようになりました。この客足をあてにして有名な料理屋、茶屋、さらには大店(大きな商店)が競って名古屋に支店を出し、5万人だった人口がわずか数年で倍近くに増えたそうです。
 
宗春は、今で言う大胆な開放政策、規制緩和を展開したのです。遊郭ではありませんが、オリンピックを誘致して投資を刺激したり、海外からの観光客を呼び込んでいる今の日本と不思議なほどリンクしています。

 では、そうした開放政策の結果、尾張藩はどうなったのでしょうか。結論から言えば、尾張藩の繁栄は長続きしませんでした。

 1739年、宗春は藩主の座を追われました。享保の改革に逆らう宗春に将軍吉宗の堪忍袋の緒が切れ、幕府が宗春の蟄居謹慎を命じたからです。
 
宗春に代わって8代藩主には、親戚筋から宗勝が迎えられましたが、彼の一生は、宗春の放漫財政のためにふくれあがった借金を返す尻ぬぐいに費やされたそうです。つましく涙ぐましい節約によって支出を可能な限り減らしたのです。けれど、それでも財政はなかなか好転せず、最終的に負の財産は9代藩主宗睦の代まで引き継がれることになりました。

 これを見ても、いかに宗春の開放路線が、最終的に藩の財政を破壊し、多くの民を苦しめることになったかが、わかるでしょう。

 ただ、一説によると、宗春の失脚は尾張藩の重臣たちの希望でもあったという説もあります。じつは、宗春の積極政策のために藩の支出が莫大に増え、借金がかさんで破綻しそうになっていました。それを案じた重臣がいたということなのでしょう。この点、今の政府内にもそうした危機感を持つ人がどれだけいるのか。そこが心配です。

206名無しさん:2016/09/22(木) 14:20:35
>>205

人口減少問題にも、歴史が答えを示してくれる
 もちろん、現代と江戸時代では経済環境が違いますから、両者を単純に比較することはできません。

 ただ、強引な金融政策と規制緩和で経済成長を促してきた安倍内閣ですが、その成果は世界経済の悪化によって相殺されてしまい、国債の発行額は上昇しつづけ、国の借金は1000兆円を超え、世界有数の借金大国になっていることだけは否定のしようがありません。この政策をこのまま続けていけば、国家がどうなるかは歴史が証明しているのです。

 そもそも日本の人口は、もう増えることはないでしょう。移民を大量に導入すれば別ですが、右傾化しているいまの社会で、その選択肢は難しいでしょう。だとすれば人口減少の中で、経済成長を求め続けることが、そもそも間違っているのではないでしょうか――。

 その問いに対する答えも、歴史が示してくれています。
 
じつは、将軍吉宗の18世紀以降、日本は現在のように人口停滞期にありました。だからこそ、江戸時代の手法に学ぶところはあると思うのです。

 「経済的に豊かなことが幸せである」という考え方は、明治以降、西洋から入ってきた思想で、日本人には経済的豊かさを第一とする思想はありませんでした。江戸時代にはお金がなくても幸せに暮らしている人々がたくさんいました。
 
幕末、日本に不平等条約(日米修好通商条約)をおしつけたアメリカの総領事ハリスは、当時の日本人をみてつぎのような感想を抱いています。

 「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない──これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と黄金の時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見いだす」(ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記 下』岩波文庫)
 
また、ハリスの通訳であるヒュースケンも、日本が開国したことについて、

 「世界のあらゆる大国の縁組みの申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して、世界の国々の仲間入りをしようとしている」

 と喜ぶ一方、

 「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである」 (ヒュースケン著、青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』岩波文庫)

 と危惧しているのです。
 
本来持っていた日本人の価値観への回帰、そこに、これから進む日本の未来が見出されるように思えるのですが、いかがでしょうか。

河合 敦

207名無しさん:2016/10/10(月) 23:43:09
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161009-00012320-davinci-life
人妻の素人女性が「売春」をする「地獄」とは!? 知られざる江戸時代の性事情
ダ・ヴィンチニュース 10月9日(日)18時0分配信

「売春」という言葉に、いいイメージを持っている方は、ほぼいないだろう。しかし、「遊女」に対する印象はどうだろうか? 多くの小説やマンガの題材になっていることからも、同じ「売春」という行為をしていながら、人々の遊女に対する興味や関心が大きいことが分かる。『江戸の売春』(永井義男/河出書房新社)は、江戸時代の「売春」事情について、遊女の最高位である「花魁」から、最下層である「夜鷹」まで、幅広く網羅した遊女大全である。

 そもそも、「江戸時代の遊里」というと、「吉原」しかないと思っていないだろうか。江戸の「売春場所」は吉原だけではなく、江戸四宿、岡場所もあり、また幕府に認められている公娼から、非公認の私娼まで、様々な場所、立場で存在した。本書は有名な吉原だけではなく、今まであまりスポットライトを浴びていなかった、その他の遊女や、遊女以外の売春事情についても詳しく言及されている。

 例えば「地獄」と呼ばれる売春をする女性。字面からして怖しいが、これは「堅気の稼業をしている男の女房や娘が、こっそり売春するというもの」だそうだ。現代人の感覚で言えば、ごく普通の主婦が旦那に内緒でソープ嬢としてお金をもらっているようなものだろうか。世の既婚男性にとっては、本当の地獄以上に怖ろしいものかもしれない。

「地獄」は業者の紹介を得て、小料理屋の二階や知人の家、もしくは自宅で秘密裡に売春をした。「地獄」の中には庶民の女性だけではなく、武士の妻や後家、娘もいたとか。一般の女性が身売りをする要因の多くは、金銭的に困窮しているためだが、そもそも、江戸時代における「売春」は、現代人が考えるほど「悪」ではなかった。

 当時の社会では売春に対する抵抗感や罪悪感が乏しく、「男の女郎(遊女)買いは、ある程度は仕方がない」というのが男女の共通感覚であり、娯楽の少ない江戸時代において、「女郎買い」は最高の楽しみだった。よって独身男性に限らず、既婚の男性も隠すことなく「買春」をしたそうだ。

 さらに、遊女だった女性を、社会は差別することなく、年季が明ければ一般の女性に戻ることもできたし、「うちの嫁は吉原の元花魁だったんだ」と自慢げに話す男さえいた。現代では、売春をしていた女性に眉を顰める人も多いだろう。また、自分の妻が風俗嬢であったことを、高らかに公言することもないはず。

 遊女や元遊女が蔑視されなかったのは、売春に対する価値観の相違もあるが、江戸時代の遊女は「お金のために」売られてきた人身売買の結果だったことも大きい。つまり、本人の意志で遊女になったわけではなく、貧しい家族のために、そういった境遇になってしまったのだ。

 では、当時の男性はどうして女郎買いに夢中になったのだろうか。娯楽が少ないこともあるが、突き詰めれば遊女の性技(セックスのテクニック)に夢中になったのだ。吉原の遊女になれば、先輩格の遊女に、床上手になるように仕込まれた。そうして習得した性技の中に「肛門を締めることで膣を締める」という技があったとか。その他、「遊女は感じたら恥」と教えられ、感じた演技をしつつ、「ついいきそうになったときは、それをはずすテクニックもあった」そう。

 奥深い遊女の世界。この一冊で堪能してみてはいかがだろうか。

文=雨野裾

208名無しさん:2016/11/06(日) 18:32:14
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161104-00120055-suumoj-life
スーパー銭湯並みにサービス満点だった? 江戸の「湯屋」とは
SUUMOジャーナル 11/4(金) 7:00配信

江戸っ子は風呂が大好きだった。江戸の町は風が強く土ぼこりも多かったので、江戸っ子は毎日入浴した。ただし、火事を嫌うので内風呂はなく、銭湯に通うことになる。そこに、コミュニケーションが生まれて、社交場の役割も果たすようになる。江戸の風呂事情を見ていこう。

連載【江戸の知恵に学ぶ街と暮らし】
落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。

■落語「湯屋番」は、憧れの番台に座ることができた若旦那の妄想で……

「銭湯の番台に座るのは男の夢」のようだが、江戸時代も同じこと。勘当された若旦那が、その夢をかなえたのだが……、という落語が「湯屋番」だ。

鳶頭(かしら)の家に居候の若旦那。まじめに仕事をしている様子を見せて、勘当を解いてもらおうと、鳶頭の知り合いの湯屋に勤めることになった。湯屋は「ゆや」または「ゆうや」と読み、銭湯のこと。江戸では湯屋といい、大阪では風呂・風呂屋といったのだそうだ。

さて、当然ながら最初は外回り、焚き木を拾ってきたりするのが仕事なのだが、力仕事は大嫌いな若旦那。渋っているうちに番台に座る主人の昼飯時になって、無理やり番台に上がらせてもらうことになる。

でも、楽しみな女湯は空っぽ。仕方なく、若旦那は妄想の世界に入る。「色っぽい女性が番台に座る自分を『乙な男だ』と気に入るから、女性の家の前を通りがかれば必ず『お寄りなさい』と声がかかる。いったん辞退する自分の袖を引っ張って、無理やり家の中に入れる……」などと想像しながら、自分で着物の袖を引っ張ったり、もてて困ると自分のおでこを叩いたり……。

男湯の客はその姿に気を取られて、軽石で顔をこすって血だらけになったりして大騒ぎ。そのうち下駄がなくなったと客が怒り出す。すると、若旦那が「そこにある良い下駄を履いてお帰りなさい」。客が後はどうするのだと聞くと、「順に履かせて、しまいは裸足で帰します」。

お後がよろしいようで。

■江戸っ子の入浴の仕方は?入浴マナーは?

江戸時代の前期は蒸し風呂だったというが、次第に湯船に入るスタイルに変わる。入込湯(いりこみゆ)と呼ばれた混浴が当たり前だったが、風紀が乱れるということで幕府は度々禁止令を出した。男湯・女湯が別々なもの、男湯専用、女湯専用のほか、けっきょく混浴も続いたというので、禁止令の効果はあまりなかったようだ。

江戸時代後期の文化年間(1804年〜1818年)になると、江戸には600軒あまりの湯屋があったという。
では、江戸後期の湯屋がどんなものだったか、画像1の浮世絵の女湯と画像2の湯屋の平面図をあわせて見てほしい。

【画像1】女湯の様子「肌競花の勝婦湯」豊原国周(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

【画像2】湯屋の平面図「守貞謾稿. 巻25」(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

表から入って土間で履物を脱ぎ、番台(平面図の高座)で湯銭を払う。一段高くなっている板間(脱衣場)に上がって着物を脱ぎ、衣服戸棚やカゴに入れる。傾斜のついた流し板があるところが洗い場で、溝があって使った湯は外へ流れ出すようになっている。脱衣場と洗い場に仕切りはなかったが、竹の簀子(すのこ)の所で水を切るようになっていた。

浮世絵では少ししか見えないが、その奥に浴槽がある。ただし、洗い場と浴槽の間に板戸を張って、湯気が逃げて温度が下がらないようなエコ仕様にしているので、戸の下をくぐって中に入るようになっている。これを「石榴口(ざくろぐち)」と呼ぶが、画像3のように豪華な装飾がされていた。江戸は鳥居形が多かったのに対し、大阪は破風形が多かったようだ。

浴槽のある石榴口の奥の空間は、明かり取りの窓もほとんどなく、湯気が漂う暗い空間だった。式亭三馬の『浮世風呂』によると、「田舎者でござい、冷えものでござい、ごめんなさい、といい、あるいはお早い、お先へとのべ、あるいはお静かに、おゆるりなどという類い、すなわち礼儀である」と書かれている。「不慣れだから無礼があったらごめんなさい、冷えた体が当たったらごめんなさい」といった意味で、周囲に断ってから入るのが湯船に入るマナーだった。

ただし、江戸っ子は火傷するほど熱い湯が好みだったので、長湯はしなかった。洗い場でしっかり洗って、「岡湯」と呼ばれる“上がり湯”をもらって出るのが基本。なお、湯船の船に対抗して、岡湯と呼ぶのだそうだ。

【画像3】石榴口「守貞謾稿. 巻25」(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

209名無しさん:2016/11/06(日) 18:32:26
>>208

■マッサージや社交場、徹底したサービス業だった江戸の湯屋

落語の若旦那が座った番台だが、実は主人やベテランの番頭しか務められなかった。風呂で使うさまざまなグッズを販売したりレンタルしたりするだけでなく、客同士の喧嘩の仲裁、板の間稼ぎの見張りなどいろいろなことをしなければならないからだ。板の間稼ぎとは、粗末な衣服で風呂に入って、金目になりそうな高価な着物で出ていくという盗人だ。

洗い場では別料金で、三助(さんすけ)に背中を流したり揉んだりするサービスを求めることができる。湯屋は立派なサービス業だったのだ。

さらに、風呂から上がった男客は、有料となるが、脱衣場から二階に上がる梯子(はしご)で二階の座敷に上がって休憩することができた。茶を飲んだり菓子を食べたりしながら世間話をしたり、将棋や囲碁などを楽しんだりした。

湯屋が町に1つはあったという江戸時代なので、湯屋が出てくる落語や歌舞伎は多い。落語「不動坊」に登場する主人公は、湯屋でひと悶着を起こす。歌舞伎の「暗闇の丑松」は湯屋が惨劇の場になる。落語「金明竹」では、上方の客が早口で「おいえはんだっか?(お家さんですか?)」というと、江戸のおかみさんが「お湯屋はこの先…」と答えるといった具合。湯屋が人々の暮らしのなかに溶け込んでいたことが、よく分かる。

こうして、さまざまな職業や階層の江戸の人たちが集まって、おしゃべりをするなどして憂さを晴らせる湯屋は、今のスーパー銭湯と同じように、江戸っ子のための大切な娯楽の場でもあったのだ。

●参考資料
・「ヴィジュアル百科 江戸事情 第一巻生活編」NHKデータ情報部編/雄山閣出版
・「落語と江戸風俗」中沢正人・つだかつみ著/教育出版
・「大江戸暮らし」大江戸探検隊編著/PHP研究所
・「江戸っ子の二十四時間」山本博文/青春出版社
・「落語ハンドブック改訂版」山本進編/三省堂
・「江戸散策」サイト第77回/クリナップ
・「歌舞伎いろは」和の愉しみ くらしの今と昔/歌舞伎美人

山本久美子

210とはずがたり:2017/03/22(水) 13:07:22
「武器じゃないか?」“謎の物体”の正体、160年経て判明 蘭学者の緒方洪庵もわからず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00010000-nishinpc-soci
西日本新聞 3/4(土) 8:20配信

 「武器じゃないか?」「金の宝だろう?」-

 江戸時代の蘭学者で医師の緒方洪庵(1810〜63)も何に使うか分からず、“謎の物体”とされてきた物の正体が160年後の現代、大分県日田市の咸宜園教育研究センターの職員の手で明らかになった。それはろうそくの火を消すための道具「キャンドルスナッファー」。センターで開催中の企画展「廣瀬旭荘・敬四郎文庫」で公開中だ。

 センターによると、物体は洪庵の友人で日田出身の漢詩人・儒学者、広瀬旭荘(きょくそう)(1807〜63)の子孫宅から2012年に見つかった。金属製で全長18・5センチ、幅3センチ。先端は箱型で、はさみのように開閉できる仕組み。この物体について記述した旭荘の日記の一部と、スケッチも一緒に見つかった。日記は1842(天保13)年から53(嘉永6)年の間に書かれたとみられる。

 日記によると、物体は6月26日、旭荘が拠点にしていた大坂(大阪府)で、漁の網に掛かっているのを発見。「色は黒くてかすかに赤く漆で染めたような感じ」といい、「西洋のものではないか」と考えた旭荘は、友人に尋ねるが「戦に使う道具ではないか」という人や「元は金(きん)だろう」という人がいて答えは出ない。物体にはオランダ語に似た文字が彫られていたため旭荘は友人の洪庵にも見せるが回答は「不識」。結局正体は分からなかった。

 突き止めたのはセンターの学芸担当、溝田直己さん(35)。旭荘関連の資料を調査中だった2014年、旅行先でチェコの画家の作品展を観賞。作品の一つによく似たものが描かれているのに気が付き、それがキャンドルスナッファーと分かった。「一体何なのか見当も付かなかったので、絵を見たときは衝撃だった。できるなら旭荘さんにも教えてあげたかった」と溝田さん。企画展は入館無料で31日まで。

=2017/03/03付 西日本新聞朝刊=

211とはずがたり:2017/04/09(日) 14:54:32
おおっ,tulipsだ♪
別に全世界に公開されてるものの様だけど。

官板実測日本地図
筑波大学
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/3-8.html
国立公文書館
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0600000000/0605020000/00

“竹島は韓国領”を証明する日本の地図、韓国外交部が密かに保管中=韓国ネット「保管しているだけでは意味がない」「日本は証拠もないのに…」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170407/Recordchina_20170407027.html
レコードチャイナ 2017年4月7日 13時00分 (2017年4月9日 14時40分 更新)

2017年4月6日、韓国の毎日経済新聞は、日本が竹島(韓国名:独島)を自国の領土と考えていなかったことが分かる重要な資料を韓国の外交部が20年前から密かに保管してきた事実を確認したと明らかにした。この事実は韓国国際法の「代父」と呼ばれる故ペク・チュンヒョンソウル大学法学部教授の10周忌イベントを準備する過程で明らかになったという。

毎日経済新聞によると、韓国外交部が密かに保管してきた重要な資料とは「官板実測日本地図」。同地図について、独島問題専門家は「19世紀の江戸幕府主導の公信力ある官撰地図という点で大きな意味がある」と説明した。同地図は1870年に正式に発行され、「日本の地図製作の手本」と呼ばれている。地図には1900年代初めの江戸幕府の領土認識が正確に示されている。その後の明治時代の多くの官製地図と同じく、伊能忠敬の地図をもとに作られた。しかし、同地図を見ると、隠岐諸島は記されているものの、その上にあるはずの竹島が見当たらないという。毎日経済新聞は「当時の日本が独島を自国の領土と認識していなかった証拠」と説明している。

韓国外交部関係者は「官板実測日本地図を外交部が保管していることは事実。重要な資料であるため、最高の状態で保存できる桐の箱の中に保管している」と明らかにした。また、同地図を公開していない理由について「独島が韓国領であることを示す重要な史料はすでに多数公開している」とし、「多様な機会を通じて関連資料を公開する準備は常にしていた」と説明した。

同地図について、毎日経済新聞は「伊能忠敬が1800年から1817年までの17年にわたって日本全体を実測し、1821年に完成した『大日本沿海輿地全図』をもとに作られたという点で歴史的な意義がある」とし、「2つの地図のどちらにも独島関連の表記はないため、独島が韓国の領土であることを示す重要な史料と言える」と説明した。

韓国の代表的な独島専門家である世宗大学の保坂祐二教授は、「大日本沿海輿地全図は10回の実測によって作られたが、5回目の実測からは江戸幕府が支援していた国家事業だった」とし、「当時、伊能忠敬は10回の実測を行う過程で独島を訪問しなかった。これは、独島が日本の領土でないことを示す直接的な証拠」と主張した。

ペク・チュンヒョン教授は1961年にソウル大学法学部を卒業し、1968年から2004年までソウル大学法学部の教授を務めた。その後、韓国人初の国連人権特別報告官を務め、国際仲裁裁判所の裁判官としても活躍した。フランスに渡った外奎章閣儀軌の返還、独島領有権紛争、乙巳条約の国際法上の違法性などを明らかにする問題などに積極的に取り組んできたペク教授は、68歳の時に脳出血により死去した。

ペク教授の次男ペク・ヨンジン氏は「1998年に父が当時のお金で1000万円という巨額の私財を投じて地図を購入し韓国に持ってきたが、メディアには知らせなかった」とし、「日韓は当時、『新日韓漁業協定』と『中間水域』についての協議を行っており、敏感な時期だった」と説明した。また、「父は適切な時期に論文を発表しようとしていたが、突然亡くなったため、地図はこれまで日の目を見なかった」と明らかにした。

212とはずがたり:2017/04/25(火) 12:27:18
なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった?
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AF%EF%BD%A2%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5%EF%BD%A3%E3%82%92%E6%B1%BA%E6%84%8F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A8%EF%BD%A2%E3%81%82%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%B0%86%EF%BD%A3%E3%81%8C%E7%99%BA%E6%A1%88%E8%80%85%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%9F/ar-AAn4eD3#page=1
東洋経済オンライン
山岸 良二
2017/02/18

 天下統一を果たした豊臣秀吉は、国内を掌中にしたことでは飽きたらず、海の向こうの大陸への侵攻を企てる。

 この「文禄・慶長の役」と呼ばれる外征、いわゆる「朝鮮出兵」は、しばしば秀吉の錯乱や妄想といった突拍子もない思いつきだとする解釈も聞かれるが、実際は周到な準備のうえで実行された、壮大かつ本気の構想だったことが明らかになっている。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「文禄・慶長の役」を解説する。



秀吉の意図は「貿易の独占支配」?
 Q10.秀吉が明に攻め込もうとした動機は何だったのですか?

 残念ながら、決定的な動機はわかっていません。

 「恩賞として家臣に与える土地が不足していたため」ともいわれますが、秀吉の具体的な理由を示す当時の記録はまだ見つかっておらず、現在でも諸説が挙げられ、議論が続いています。

 ただし、「文禄の役」後の和平交渉に着目してみると、その中の一文から秀吉の「秘められた意図」をうかがい知ることができます。

 Q11.秘められた「秀吉の意図」とは?

 それは「東アジア交易の独占支配」です。

 秀吉が提示した要件に、「日明貿易の再開」がありました。彼の視野には、高価な明の特産品の交易で莫大な富が生み出される光景が映し出されていたのでしょう。

 室町幕府の衰退により、日明間の貿易は長く途絶えていましたが、この貿易は利潤が大きく、1回の往復で元手の数倍〜数十倍もの利益を得られたといわれます。

 ただ、こうした「貿易のうまみ」にいち早く気づいたのは、秀吉が最初ではありません。実はもっと以前から「明の征服」を思い描いていた「ある人物」がいたのです。

 その、「明国侵攻を最初に発案した人物」とはズバリ、秀吉の主君だった「織田信長」です。

213とはずがたり:2017/04/25(火) 12:27:42
>>212-213

Q11.「明征服の最初の発案者」は織田信長だった、と?

 はい。信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていました。

 しかし、思うような反応を得られず、しだいに「武力侵攻」を意識するようになります。信長は安土城を築城しているころ、酒宴で「将来は明国に侵攻する」と口にしたともいわれています。

 信長は周囲のキリスト教宣教師たちから話を聞き、世界の事情、特にアジア地域の情勢にかなり精通していました。事の細かな真偽はともかくとしても、家臣たちに「明国征服」の話をしていたことはあったのでしょう。

 もちろん、まだ日本国内でさえ平定していなかった頃の話。家臣たちも、当時は「話半分」で聞いていたものと思われます。

 ところが、信長から天下統一を受け継ぐ形になった秀吉がその夢を実現させたとき、秀吉は「かつて信長が語っていた明国征服の話」を思い出したのではないでしょうか。

 現在、大阪城には、秀吉が愛用した「三国地図扇面」が残されています。そこには朝鮮と明の国割りが地図で示されていて、これが秀吉の「大陸制服プラン」だったと考えられています。

豊臣も明も滅亡し、「新しい時代」へ
 朝鮮での戦いが終わったあと、日本では戦いの最中に生じた、加藤清正らの前線で死闘を演じた「武士団」のグループ(いわゆる「武断派」)と、石田三成ら後方で軍政を担当していた「兵站(へいたん)官僚」のグループ(いわゆる「文治派」)との軋轢が鮮明となり、豊臣家は家臣の分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。

 一方、荒廃した朝鮮半島では復興に膨大な時間を費やし、明は戦いで多くの将兵を失ったためかその後急速に国力を失って、やがて北方の異民族により滅ぼされ「清(しん)」の時代へと移ります。

 豊臣家、そして明国の滅亡――。どちらも歴史の流れの中では止められない出来事であったのかもしれませんが、対外戦争によってその不幸に輪がかけられたことも、また否めない事実でしょう。

 「私欲による無益な戦い」が、戦った両者それぞれに「多くの不幸」をもたらすことになる──。豊臣秀吉の朝鮮出兵に学ぶ「最大の教訓」は、そのことではないでしょうか。

214とはずがたり:2017/05/25(木) 19:21:00
知らん間に徳島文理大に拾って貰えてたんか>八幡和郎

誰だろ,買おっかねえ,新潮45+,なんで+取れたんだろ?

今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12261605/?utm_source=excite&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=excite&ui_campaign=link_back&all=1

 皇位継承者の不足は、かねてより問題視されてきた。悠仁さまお一人しか将来の候補がいない現状には、旧宮家の復帰、あるいは女系天皇といったことが話題になるが、

〈意外に議論されていないのが、男系でならどういった人たちがいるかということだ〉〈皇室に近い人々の全体像を明らかにしないまま、皇位継承についての議論をすると、得た結論も粗雑で「正統性」が薄いものになりかねない〉

 と説くのは、評論家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏だ。「新潮45」1月号に寄せた「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」で、現在の皇室に近い人々の存在を明かしている。※〈〉は本文より引用、以下同

 ***

 八幡氏が試みるのは、皇室典範でも採用されている「サリカ法典式」で男系男子を長子優先で系図をたどって探す〈頭の体操〉である。

“今上天皇に近い血統”と聞いてまず思いつくのは、昭和22年に皇籍離脱された11宮家ではないだろうか。JOC竹田恒和会長の「竹田宮」など、男系男子での継承が今後も見込まれる旧宮家はあるが、そのルーツはいずれも伏見宮邦家親王であるという。

〈伏見宮家は、男系では南北朝時代の北朝崇光天皇の子である伏見宮栄仁親王に始まる。孫の彦仁親王が後花園天皇となって現皇室につながり、その弟の貞成親王の子孫が伏見宮家を継いだ。

 そして、幕末の邦家親王が子だくさんだったので、その子孫がこの11宮家となった〉

 だが意外にも〈男系ということでいえば、伏見宮家の御当主と今上陛下は36親等も離れている〉という。実はより今上陛下に近い血統が存在する。例えば「華園家」である。

■今上天皇の14親等

特集が掲載されている「新潮45」1月号 ネット書店で購入する
“華園”は、明治の苗字義務付けで、浄土真宗興正寺の僧侶である本寂が「華園摂信」を名乗ったことに始まる。

 京都の西本願寺の南にある興正寺に養子に入った本寂は、文政6年から30年にわたって関白を務めた鷹司政通の次男にあたる。さらに政通の曾祖父は東山天皇の第6皇子の直仁親王であるといい、

〈政通の嫡男輔煕の系統は絶えたので、もっとも皇室に近いのは、政通の次男で浄土真宗興正寺の門跡になった本寂の子孫ということになる〉

 その子孫というのが、本寂の玄孫に当たり、現在の興正寺の門主である第31世本顕(華園真暢)。さらには、父親である前門主真準も健在で、皇族を除けばこの人物がもっとも今上天皇に近い(14親等)という。

 ところが「華園家」には“男系男子”にあたる存在がいない。

〈真暢(59)に男子はなく、長女・沙弥香(22)、法名・真慶(しんきょう)さんが2017年4月1日に門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任する予定だ〉

 であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

215とはずがたり:2017/07/25(火) 12:35:42
琉球国王が薩摩藩士に送った書状を発見 異国船に対処か 専門家「珍しい」
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/115877
2017年7月20日 10:15琉球薩摩歴史尚育王

・19世紀半ばに尚育王が薩摩藩士に送った書状が広島で見つかった
・藩士は琉球に仏艦隊が来航した際、派遣された武装兵のリーダー
・内容は不明だが「比較的身分の低い藩士への国王の書状は珍しい」

 第2尚氏第18代琉球国王の尚育(1813〜47年)が19世紀半ば、薩摩藩士に送った直筆の書状が、広島市内の個人宅に保管されていることが19日、分かった。これまで公になっていない新発見の書状で、確認した法政大学沖縄文化研究所国内研究員の上里隆史さんは「国王が比較的身分の低い藩士に送った直筆文書は珍しい。幕末の琉球と薩摩の政治史を考える上で貴重な史料だ」と話している。

 書状は縦41・2センチ、横50センチ。中央を折り曲げた「折紙(おりがみ)」と呼ばれる古文書の形状で、尚育の署名代わりの記号「花押(かおう)」が記されている。日付は「正月十一日」(1月11日)。日本の武家文書の形式で、薩摩藩士の二階堂右八郎宛てに年始のあいさつなどが書かれているが、書状が途中で切れており、詳しい内容は不明。

 近世琉球は1609年、薩摩藩による侵攻後、独立国の体裁を持ちながらも薩摩からの支配を受けていた。

 上里さんによると、二階堂は1844年に琉球へのフランス艦隊の渡来時、薩摩が琉球に派遣した武装兵のリーダー。書状は同年以降、二階堂ら薩摩藩士に送られたものとみられる。当時はアヘン戦争(1840年)で清がイギリスに敗れ、東アジア各国が異国船の渡来に神経をとがらせていた。薩摩が琉球に武装兵を送ることも異例で、琉球国王が薩摩藩士へ書状を送り、連携して異国船に対処していた可能性がある。

 書状を所有する広島市在住の薩摩藩士の子孫の男性(56)は「自宅で花押が特徴的な書状を見つけたため、ネットなどで情報収集した。琉球史のブログで熱心に情報発信をする上里先生がいなければ、書状の確認はできなかった」と説明。上里さんは「琉球の文書がまだ県外に眠っている可能性がある」と話している。

216とはずがたり:2017/07/25(火) 12:36:57
秀吉の天下統一で琉球に「難題」 島津氏の書状見つかる
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/27631
2016年4月14日 12:04歴史琉球王国人気記事

 薩摩の戦国大名である島津義久が1590(天正18)年、豊臣秀吉の関東平定を祝う使節を派遣するよう、琉球国王の尚寧に要求した書状が13日までに、愛媛県伊予市で見つかった。近世の日本と琉球の関係を研究する東京大学史料編纂所の黒嶋敏准教授(歴史学)が、義久の花押の特徴などから、原本にほぼ間違いないと確認した。

 縦約33センチ、横約45センチの筆書きで、同年、北条氏を制圧して秀吉が天下統一を果たしたので、早々に京都へ使者をよこすようにと求めた内容。怠れば「難題」が降りかかると、高圧的に書かれている。

 今回の書状は愛媛県伊予市の旧家で見つかった。だが2001年にも山中貞則衆院議員(当時)が愛媛県内に保管されていた類似の文書を県に贈呈。現在、県公文書館が保管しており、同内容で、書体や紙の破れ方が極めて似た2つの文書が存在している。

 琉球大学の豊見山和行教授(琉球史)は「県公文書館蔵の文書がきれいな印象で、どちらかの文書が似せて書かれた可能性があるが目的は分からない。両方を突き合わせて考える必要がある」と指摘。

 黒嶋准教授は、当時は島津氏が1609年に琉球へ侵攻する前段階だったことを踏まえ「朝鮮と琉球を服属すべき国と考えていた豊臣政権下で、島津氏は琉球を政権の要求通りに振る舞わせる役割を担っていた。書状の分析から豊臣政権の琉球政策の解明が進むだろう」と話している。

217荷主研究者:2017/07/26(水) 22:54:08

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170718000258
2017年07月18日 23時20分 京都新聞
新選組、野営でなく豪農に宿陣 禁門の変の新史料

禁門の変の際、新選組が旧東九条村で戦闘したことが記された豪農の日記(18日、京都市南区)

 1864(元治元)年7月の「禁門の変」で、新選組の動向を記した新史料が見つかり、18日、京都女子大の中村武生非常勤講師(幕末政治史)が発表した。当時の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川家当主の日記で、新選組が村の農家に下宿しながら街道警護に当たったことが分かったという。

 禁門の変は、京都での勢力挽回を目指す長州藩と、京都を守護する会津をはじめ在京諸藩が京都御所などで軍事衝突した事件で、京都は大規模な火災に見舞われた。日記は同家の蔵で2015年に見つかり、中村講師が調査した。

 6月25日付には、会津勢と行動を共にしていた「壬生浪士組」(新選組)が、東九条村の農家に分かれて「御下宿」したとあり、別の日付で「非番」の記述もあった。従来は長州勢の北進を食い止めるため、竹田街道と鴨川が交わる「九条河原」に約1カ月間野営したと考えられていたが、村を拠点に交代制で警護したとみられる。

 禁門の変が起きた7月19日付には、長州勢約30人が正午ごろ、京都中心部から退いて東九条村に迫り、新選組が鉄砲を撃ち合って追い払ったと記されている。

 中村講師は「禁門の変は京都中心部での戦争と思われがち。新選組の京都南部における開戦前の行動や戦闘の様子が初めて分かった」と評価している。

218とはずがたり:2018/04/04(水) 16:56:23

江戸時代までの日本人は勤勉ではなかった?
https://matome.naver.jp/odai/2140954156057889001
更新日: 2018年03月01日

219とはずがたり:2018/04/04(水) 17:31:36
第6回
日本人は勤勉ではない
〜本当に新しい歴史教科書・PART1〜
http://pmazzarino.web.fc2.com/lesson6.html

お知らせ
 この回の内容は、『反社会学講座』(ちくま文庫版)で加筆修正されています。引用などをする際は、できるだけ文庫版を参照してください。

●頑張りスパイラルの恐怖

220とはずがたり:2018/04/06(金) 23:23:49
『一日江戸人』を読む。
もうちょっと専門書が良かったんだけど,どれが原典なんだろう。

それにしてもお江戸でござる(古っ!!)の杉浦日向子先生だがなんと2005年に咽頭癌でお亡くなりになってたそうな。46才の若さでもっと活躍して欲しかったのに無念であったであろう。
そういえば最近お見かけしないとは思ってたけど早過ぎる死にご冥福をお祈りしたい。

221とはずがたり:2018/04/06(金) 23:27:55
2015.7.21
http://diamond.jp/articles/-/75205
江戸の死生観がその生涯に重なる 杉浦日向子の復活
佐高 信:評論家

222とはずがたり:2018/04/06(金) 23:29:44
荒俣宏と結婚して離婚してたのか!

223とはずがたり:2018/04/20(金) 18:08:52

「大さか」最古の地名記述か
蓮如直筆の和歌草稿に
https://this.kiji.is/359986795456906337
2018/4/20 17:58
c一般社団法人共同通信社

 本願寺中興の祖・蓮如直筆とみられ、「大さか」の文字がある和歌の草稿が見つかり、所蔵する京都市山科区の本願寺文化興隆財団は20日、大阪の地名が記述された最古の原本とみられると明らかにした。

 「なにわ」「なみはや」と呼ばれていた時代から「おおさか」へと土地の呼び方が変わる過程をひもとく史料といい、財団の藤田香奈子学芸員は「真宗史のみならず、日本史上極めて貴重」としている。

 財団によると、見つかったのは、室町時代末期の明応7(1498)年11月8日付で、和歌5首がしたためられた草稿。2011年に京都市内の古美術商から購入した。

224とはずがたり:2018/04/20(金) 18:14:07
近世政治思想史の先生に江戸っ子の話しを尋ねたら教えて貰った

西山松之助『江戸町人の研究 第一巻・第二巻・第三巻』(1972,1973,1974)

を借りてきた。

日向子女史の江戸っ子観の出典はこの辺の様だ。

225とはずがたり:2018/05/15(火) 20:26:40

千利休は切腹していない? 九州へ逃れた説、注目集める
https://www.asahi.com/articles/ASL593HMZL59ULZU004.html?ref=webpush0515
編集委員・宮代栄一2018年5月15日09時01分

 天下人・豊臣秀吉の茶頭として「わび茶」の誕生に大きな役割を果たしたとされる千利休。秀吉の怒りに触れて切腹したと伝えられてきたが、実際には追放されただけだったとの説が近年注目を集めている。

 利休は1522年、現在の大阪府堺市で魚問屋や倉庫業を営む田中与兵衛の子として生まれた。武野紹?(じょうおう)に茶の湯を学び、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として、数々の茶会を主宰。85年には秀吉が開いた宮中の茶会で一条殿などの公家衆に献茶し、「利休」の号を勅賜された。

 しかし、京の大徳寺山門に置かれた自らの木像が、天皇や秀吉がその足下を通ることになって不敬だと秀吉の怒りを買い、切腹させられたといわれる。

 小説やドラマなどでは、この前段に、天下人として、茶の湯にも我を押し通そうとする秀吉と、それにこびずに、自らの美意識を貫こうとした芸術家・利休との間に確執があったように描かれるケースが多い。

 だが実は、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという説がある。文教大学の中村修也教授(日本茶道史)が2015年に著書で唱えた。

 中村さんによると、利休が木像…

(文化の扉 歴史編)異説あり 千利休、切腹してない? 「死後」に茶をたてた記述・九州へ逃れた説
https://www.asahi.com/articles/DA3S13492565.html
2018年5月14日05時00分

内容は同上

秀吉を怒らせた千利休は切腹せずに九州に逃げていた?
https://www.news-postseven.com/archives/20170401_500905.html
2017.04.01 16:00

 千利休は堺の豪商出身で、それまでの豪華な茶の湯に対し簡素の境地を目指した「侘び茶」を大成した。信長・秀吉に仕えたが、京・大徳寺の山門上に自分の木像を置いたことが秀吉の怒りに触れ、自害を強いられたとされている。利休の死後、茶道は弟子らに継承された。しかし、その定説を覆す説も登場。文教大学教授の中村修也氏が千利休の「まさかの素顔」を指摘する。

 * * *
 天正19(1591)年2月、秀吉により堺に蟄居させられていた利休は、京都に呼び戻され聚楽屋敷で切腹を命じられた。その首は一条戻橋にさらされた─通説では、茶人・利休の最期はそう語られてきた。

 ところが、利休が切腹したとされる翌年の文禄元年(1592年)、九州に滞在中の秀吉は、大坂城の母(大政所)へ宛て次のような書状を書いている。

「……私は一段と元気です。昨日も利休の茶を飲んで、食事もすすみ、とても愉快で気分が良かったのです」

 前年に切腹を命じたはずの本人が、利休のお茶を飲んだというのだ。

 利休切腹説を唱えた茶道研究のパイオニア、芳賀幸四郎氏や桑田忠親氏などは書状に書かれた「利休の茶」を「利休流の茶」と解釈している。しかし、当時はまだ「利休流の茶」は流派として確立していない。利休流は養子にして女婿の千少庵が文禄3年、千家(京千家)を興すことから始まる。

 死んだ利休の茶を飲むことはできないため、「切腹」と秀吉の書状に矛盾が生じてしまう。どういうことか。 実は、利休の切腹を裏付ける史料はないのが実情だ。

226とはずがたり:2018/05/18(金) 12:44:52
今上陛下は明智光秀の子孫だった
八幡 和郎
http://agora-web.jp/archives/2028667.html
2017年10月02日 11:30

227とはずがたり:2018/05/18(金) 12:45:28
転勤できる方が「上」? 地域限定型の社員が感じる「ガラスの天井」
最終更新:5/5 15:34
https://news.yahoo.co.jp/story/959
写真・画像「転勤できない」ことはペナルティ?(写真はイメージ=PIXTA)

 「全国型の方が『上』ってことですよね」。地域限定で働く女性は、キャリアを積み上げたくても、ガラスの天井に阻まれているのを感じています。平成に入り、多様な働き方が大事にされる中で生まれたのが「地域限定社員」。しかし、従来通りの「全国転勤型」が事実上、キャリアアップの条件になっている企業が多いのも事実です。「昇進するモデルケースがない」という現場の声を聞きました。(朝日新聞デジタル編集部記者・野口みな子)

228とはずがたり:2018/09/07(金) 12:06:16

フェイクニュース信じ「安政の大獄」…操られた直弼
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180531-OYT8T50013.html?from=yartcl_awst
読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター 丸山淳一
2018年06月01日 11時50分無断転載禁止

 平清盛、石田三成、そして明智光秀。近年のNHK大河ドラマは、悪役、 敵 かたき 役として名を残した人物の再評価を定番としている。にもかかわらず、現在放送中の『西郷どん』で幕末の大老・井伊 直弼 なおすけ は徹底的に悪者として描かれ、「いい直弼」の顔を見せぬまま死んでしまった。史実をたどると、そのワケと「影の分身」の存在が見えてくる。

最後まで消された「いい直弼」像

 NHK大河ドラマ『西郷どん』の第20回目(5月27日放送)で、佐野史郎さん演じる江戸幕府の大老・井伊直弼なおすけ(1815〜60)が、桜田門外で暗殺された。1963年(昭和38年)に放送された大河ドラマ第1作『花の生涯』の主人公となって以来、直弼は大河ドラマ7作品に登場するが、今回の「佐野直弼」は、最も「悪い直弼」だったように思う。

 直弼が指揮した安政の大獄は死罪8人、遠島・追放・蟄居閉門などの処分者は100人以上にのぼる江戸時代最大の政治弾圧だったから、悪役となるのは仕方ない。だが、ドラマの中で直弼は、西郷吉之助(隆盛)(1828〜77)の寝返りを誘い、13代将軍徳川家定(1824〜58)の遺言をねじ曲げ、次期将軍候補の一橋慶喜よしのぶ(1837〜1913)の暗殺を企てるなど、史実の裏付けのない話にも手を染め、最期は決めゼリフのひとつもなく屍しかばねをさらす。

 これまでの大河ドラマには、日本の未来を見据えて開国を決断し、批判にも信念を曲げずに幕府に忠誠を尽くす「いい直弼」像がどこかにあった。なぜ『西郷どん』は“定石”を取り入れなかったのか。

 それは幕末の動乱を描く対立軸を、これまでの定石だった「開国か攘夷じょういか」という気高い思想対決ではなく、「次の将軍を誰にするか」というドロドロした権力闘争に据えたからではないか。確かに、この方がよほど史実に沿っている。

賄賂、接待、怪文書…国難そっちのけの“仁義なき戦い”

 幕末の動乱は1858年(安政5年)、朝廷が日米修好通商条約の締結を事前に了承(勅許)しなかったあたりから本格化する。だが、当事者たちが実際に条約勅許問題に割いたエネルギーは決して大きくなかった。条約を軽視していたわけではなく、外国人が大嫌いな孝明天皇(1831〜67)が条約を了承するわけがないと思っていたからだ。

 朝廷を説得するため入京した幕府の交渉団は、江戸から3万両の賄賂を持参したとされるが、天皇は先手を打って関白の九条尚忠(1798〜1871)に「今回の条約は大変重要なので、関東からの賄賂は受け取らず、安易に言い分を受け入れないよう」とクギを刺していた。それでも一部の公家は賄賂を懐に入れたが、条約締結には反対し続けた。

 朝廷工作の主眼は早々に家定の後継問題へと移り、慶喜を推す一橋派と紀州藩の徳川慶福よしとみ(1846〜66)を推す南紀派が、有力公家の抱き込みを競った。一橋派の薩摩藩は西郷、福井藩は橋本左内(1834〜59)を諜報工作員として送り込み、南紀派は直弼が送り込んだ彦根藩の長野主膳(1815〜62)が暗躍する。

 賄賂や接待、密書、密告、怪文書が飛び交う朝廷工作は一橋派が優勢だったが、主膳は一発逆転の手を打つ。一橋派がばらまいた怪文書を利用して、ありもしない陰謀話をでっち上げたのだ。

勅書から消された3資格…遺恨残した逆転劇
 主膳は水戸藩が書いたと見られる条約締結に反対する文書を、慶喜の父の徳川斉昭なりあき(1800〜60)が天皇に提出した上奏文だと偽って、「斉昭は攘夷を説くことで朝廷に取り入り、朝廷を慶喜の将軍擁立に利用しようとしている」と関白の九条に吹き込んだ。今でいうフェイク(嘘うそ)ニュースに過ぎないのだが、あわせて贈った賄賂の効果もあって、九条は南紀派に寝返る。主膳はこの陰謀話を江戸の直弼にも報告し、フェイクニュースは江戸城内に拡散した。

 九条は勅書の最終チェックができる「内覧」職を兼ねており、味方につけた効果は絶大だった。一橋派は「次期将軍は年長・英傑・人望ある者が望ましい(=次期将軍は年長の慶喜がよい)」とする勅書を得るところまでこぎつけていたが、九条は勅書を幕府側に交付する直前、独断でこの3つの資格を削った。陰謀で逆転負けを食らった一橋派は、主膳と直弼への恨みを募らせた。

229とはずがたり:2018/09/07(金) 12:06:58

失態隠蔽の「でっち上げ」が大弾圧の火種に
 一方、条約に関する天皇の勅書は、予想通り「御三家などでよく話し合い、慎重にきめるように」という事実上のゼロ回答だった。もはや調印の引き延ばしもできず、幕府は天皇の許しがないまま条約に調印してしまう。直弼は天皇の許しを得るまで調印をさらに延期するよう指示したが、開国派の幕僚に押し切られた。

 当然ながら天皇は激怒し、幕府に抗議の勅書を送った。抗議といっても「御三家・御三卿も一致団結して国難にあたれ」という当たり障さわりのない内容だったが、勅書が幕府だけでなく、御三家代表の水戸藩にも送られたこと、さらに幕府より水戸藩に2日早く出されたことが問題となった。

 元毎日新聞記者で歴史家の松岡英夫さん(1912〜2001)の『安政の大獄--井伊直弼と長野主膳』(中公新書)によると、この時、主膳は勅書が出されたことすら知らなかった。ネタ元の九条は知っていたはずだが、「当たり障りのない内容だし、主膳に伝えるまでもない」と判断したのかも知れない。諜報工作員としては大失態だ。

 焦った主膳は、またしても斉昭の陰謀話をでっちあげた。「水戸への勅書は斉昭が朝廷工作の末に出させた『密勅』なのだ」というフェイクニュースを直弼に送り、失態をごまかそうとしたわけだ。

 主膳の報告を信じた直弼は激怒し、“密勅“関係者の摘発に乗り出した。こうして安政の大獄が始まった。主膳は京都の敵対勢力を一掃する好機ととらえ、直弼に告発を重ねた。捜査の過程で西郷の挙兵計画や、吉田松陰(1830〜59)の老中襲撃計画まで明らかになり、大獄はどんどん拡大した。主膳に「摘発が手ぬるい」と告発された京都町奉行まで更迭され、主膳は「京の大老」と恐れられた。

 直弼は「水戸藩に出した“密勅”を返せ」という命令を朝廷に出させた。納得できない水戸藩士は水戸郊外の長岡宿(茨城県茨城町)に集結し、使者から力ずくで勅書を奪い返そうとしたが失敗。標的を直弼に変える。主膳のフェイクニュースは、主君の命を奪う一因にもなった。

ともに不遇の前半生…恩人を信じた直弼

 主膳は直弼が彦根藩主になる前からの和歌や国学の師で、諜報工作のプロではない。朝廷工作を任されたのも、一時、公家の二条家に仕え、歌会などで公家と面識があるだろうという程度の理由だった。にもかかわらず直弼が主膳の情報を信じたのは、長い不遇時代を支えてくれた恩人だったからだろう。

 直弼は彦根藩主の十四男として生まれ、他藩への養子の口も兄弟に奪われて、「藩主の跡継ぎのそのまた予備要員」として、埋もれ木のように朽ち果てる生涯を覚悟していた。主膳は直弼の屋敷(埋木舎うもれぎのや)をたびたび訪れ、学問という“養分”を注入して心が朽ち果てないよう直弼を支えた。主膳が初めて埋木舎を訪れた時、2人は3夜にわたって語り合い、直弼は主膳を「血縁の兄弟のように思った」と記している。

 一方の主膳も不遇の時代があったようだ。主膳は自身の出自や前半生を直弼にしか明かしていない。以前に「幻の宝刀・蛍丸」で紹介した肥後(熊本県)阿蘇神社の大宮司家に拾われた捨て子だった、という説もある。

 後継ぎと藩主の相次ぐ死で、予期せず彦根藩主となった直弼は、家老の反対を押し切る形で主膳を藩士に取り立てた。血縁の兄弟のように結ばれた2人は不遇からはい上がり、権力の階段を駆け上がっていく。

230とはずがたり:2018/09/07(金) 12:07:08
>>228-230
膨大なエネルギーを浪費…政争の結末は?
 将軍後継争いで対決した一橋派の重鎮2人も、血筋をめぐる因縁を抱えていた。水戸徳川家は、紀伊、尾張両家が受け入れた11代将軍家斉(1773〜1841)の男子を養子に迎えておらず、将軍家の血が入っていない。斉昭はそのおかげで当主になれたのに、子の慶喜を将軍に推した。福井藩主の松平慶永よしなが(春嶽)(1828〜90)は田安家から越前松平家に養子に入ったが、この後に田安家当主は空席となる。養子入りが少しずれていたら、慶永自身が有力な将軍候補になっていた。慶永は「自分は後継争いに口を出す権利がある」と思っていたという。

 血筋が決めた長い順番待ちに耐えた直弼が、血筋を重視して慶福を推したのは分かる気がする。だが、政争に費やした膨大なエネルギーは、結果的に幕府滅亡の足を早めただけだった。慶福は14代将軍家茂となるが、敗れた慶喜もその4年後に将軍後見職に就き、家茂の急死で15代将軍となる。安政の大獄で多くの優秀な人材が失われ、直弼暗殺後、主膳も安政の大獄への批判をかぶる形で逮捕・斬首された。

 ないはずの文書が出てきたと思ったら改ざんされる。「伝聞の伝聞」の文書を見て「ウソをつきました」という文書が出たが、それもウソかも知れない――「森友・加計問題」をめぐる迷走は「深層NEWS」でも何度も取り上げた。「一点の曇りもない」のか「疑惑はますます深まった」のか、1年以上たっても分からない。もううんざりと思う人も多かろう。

 だが、ひとつのフェイクニュースが歴史を動かす一因になった例は、幕末の動乱以外にもたくさんある。うみを出し切るまで見守らないと、膨大なエネルギーを費やした意味がない。

231とはずがたり:2018/12/16(日) 17:22:33
大一大万大吉の意味【旗印】石田三成と石田為久の関係は?(石田為久の墓も)
https://senjp.com/daiichidaiman/
2017/12/07

232とはずがたり:2019/01/18(金) 12:27:05

インドネシア・香料諸島(バンダ諸島)を訪れ、「胡椒 暴虐の世界史」を読で感じることは・・・
https://blogs.yahoo.co.jp/st4974/16328679.html
2015/3/11(水) 午後 6:48

バンダ諸島は古くからスパイス・アイランズ(香料諸島)と呼ばれてきたモルッカ諸島の南部、バンダ海の北東部、セラム島の南100キロほどにあに位置する10の火山性の小さな島々かなるが、ナツメグなどの香辛料が採れるということで欧州の国々によるスパイス戦争の暴虐にさらされた歴史を持つ悲劇の島々でもある。

バンダナイラは赤道直下のぎらぎらと輝く強い日射しに照らされるが、鬱蒼と茂る真っ青な木々の木陰はそよ吹く海風もあり本当に心地よく、子供たちが遊ぶ声が時折聞こえるだけで人かげもまだらな本当に静かな町だ。

こんな静かで穏やかなところで17世紀の初めにオランダにより島民の殆どが虐殺されるような悲劇が起きたとは全く思えない。

バンダナライ島の博物館にその虐殺の状況を描いた1枚の絵が展示されて、しかも日本人がその虐殺を行っているという。

モルッカ諸島/香料諸島
https://www.y-history.net/appendix/wh0901-054.html

東南アジアの諸島部のスラウェシ島東部にある群島。香料諸島とも言われ、丁字などの香辛料が豊富に産する。
 モルッカ諸島(現在はマルク諸島という)は、インドネシアのスラウェシ島とニューギニア島にはさまれた赤道直下の海域に点在する。香辛料の中でも丁子(丁香、クローブのこと)と肉ずく(ナツメグのこと)の原産地でここでしかとれない、貴重な香辛料(香料とも言う)であったので香料諸島(香料と香辛料は厳密には違うが、ここでは香辛料の取れる島という意味で使っている)と言われ、ポルトガルとスペインはいずれもこの地の香辛料の独占を図って競合した。

233とはずがたり:2019/01/18(金) 12:30:04
http://tokada.net/tok.html
TOKADAって?

トカダ(Tokada)社の社名の由来は至って簡単です。東京(Tokyo)の'TO'とインドネシア共和国の首都:ジャカルタ(Jakarata)の'KA'、そして英語でandを意味するインドネシア語の 'DAN' からDAをとって並べました。つまり東京とジャカルタの意味です。この社名には、東アジアに位置する日本の首都東京と、東南アジアで東西に横たわるインドネシア共和国の首都・ジャカルタの二つの大都市を軸(ハブ)に、相互にビジネス(商売)を、心通じる仲間と共に起こそうという私共の願いが込められています。

トカダ(Tokada)社の業務は、真摯な人と人とを繋ぎ仕事を創り出す事です。この事業創造活動をインドネシア在住日本人専門家のネットワークを通じて推進しています。そんな私共は、これからインドネシアへ進出する、或いはインドネシアとの関係を作りたいという会社や個人をご支援致します。ご相談から始まり、必要な段取りの確認、専門家の編成、現地進出という一連の組み立てを致します。

http://tokada.net/mangaku/mg21.html
1 香料諸島のサムライ

234とはずがたり:2019/08/14(水) 17:06:21
好きだったのではない。米本位制とも云うべき経済体制の中で新田開発が進んで米価安の諸色高が進んで米の独歩安だったのだ。今みたいなクソ高い米食わされると自然と消費量減るわ。

こんなに違うの…江戸時代と今の「食文化」を比較してみた
江戸時代の人、白米好きすぎるでしょ。
https://www.buzzfeed.com/jp/mizkangroup/edofood?distro_platform=twitterA
2019/08/01 00:00

235とはずがたり:2019/08/14(水) 17:07:51

やっぱり経済制裁では? 対韓国輸出「適切な管理措置」と言うが…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2019081002000175.html
2019年8月10日

 7月に始まった半導体関連の対韓国輸出の規制強化。元徴用工訴訟問題などへの「経済制裁」だと韓国は猛反発するが、政府は「適切な輸出管理だ」との姿勢を貫く。だが、本当にそうか? 今年1月には自民党の部会で「フッ化水素」の供給を停止せよという声が上がっており、シナリオはできていたとの疑念はぬぐえない。半導体の専門家は、このままでは、日本の産業界にも大打撃があると警告する。 (片山夏子、石井紀代美、大村歩)

236とはずがたり:2019/08/14(水) 17:18:44
貨幣ではなく米を基準とする軍事政権の建前が最期迄徳川幕府を近代国家に脱皮させなかったねえ。。列強への脱皮に成功した明治国家よりも米の呪縛から解き放たれて近代化した徳川政権の方が平和だったかもしれない。その場合の国家像はタイの様な感じ?

諸色
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%89%B2

諸色(しょしき)とは、江戸時代において物価を指した言葉。一般的には米を除いた日常品の価格を指す場合が多い。

物価の高騰を諸色高直(しょしきこうじき)、低落を諸色下直(しょしきげじき)と呼んだ。江戸時代においては米価と諸色は連動すると考えられていたが、米の増産による価格低迷が享保年間には「米価安の諸色高直」の現象を招いた。

米価と諸色のバランスの調整は、いわゆる「三大改革」の一環として必ず取り上げられた問題であった。享保の改革では、米価が下がっているのに諸色が下がらないのは商人たちが不当に利益を得ているからだとして価格引下げを命じている。寛政の改革の際には価格監視を目的として江戸町奉行所の与力・同心と町役人による諸色掛(しょしきがかり)が結成されて幕末まで継続されている。天保の改革においては物価吊り上げの元凶とされた株仲間の解散を行ったが、株仲間がこうした行為を組織ぐるみで行っていたという証拠は無く、却って流通の混乱を生じさせて更なる諸色高直を招いた。なお、当時の大坂町奉行阿部正蔵は幕府に対して「諸藩の専売制」「一部商人の不正取引」「抜売買の横行(正規外の流通ルート)」を諸色高直の原因として対策を上申したが、採用されなかった。更に幕末の開国後の貿易は更なる価格高騰を招いた。そこで慶応年間には生活物資の流通機構を半国営化する「諸色会所」構想が唱えられたが、江戸幕府の滅亡によって実現しなかった。

備考
なお当時の対中国向け貿易において、いわゆる「俵物三品」以外の輸出海産物(昆布、ワカメ、テングサ、スルメ、干物、干貝、鰹節等)を諸色と呼称していた。

237とはずがたり:2019/09/22(日) 22:17:15
https://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/591bf769e0126a1bfd98f8957f1fb882
朝鮮通信使の「鶏泥棒」はぬれぎぬ? 〜「鶏が逃げ、それを捕まえようとした可能性も」ー京都新聞
2010年04月10日 | 支那朝鮮関連

238とはずがたり:2020/07/02(木) 16:43:07
洒落たデザインだ♪

幕末にコレラ流行を予言、不思議な「ヨゲンノトリ」 相次いで商品化され福を呼ぶ
会員限定有料記事 毎日新聞2020年6月25日 11時53分(最終更新 6月25日 12時07分)
https://mainichi.jp/articles/20200625/k00/00m/040/099000c

239とはずがたり:2020/07/08(水) 16:10:02

日本史探険
全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革
歴史 2020.04.14
河合 敦 【Profile】
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/

外交政策:キリシタン迫害と朝鮮出兵
外交政策について秀吉は当初、信長のキリスト教保護政策を継承したが、九州平定後の1587年、肥前国の大名・大村純忠が長崎を教会領としてイエズス会に寄進したり、日本人を海外へ奴隷に売ったり、キリシタンが神社仏閣を破壊している事実を知ると、突如、バテレン追放令を発して宣教師に国外追放を命じた。ただ、法令発布後も南蛮貿易は奨励したので、法令は徹底されず、しばらくすると布教活動が再会された。ところが1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が「スペインは領土拡張に宣教師を利用している」と証言したことが秀吉の耳に入ると、宣教師やキリスト教信者26名を捕まえ、翌年、長崎で処刑した(二十六聖人の殉教)。これにより日本とスペインの国交は断絶した。

長崎市内の二十六聖人記念碑(PIXTA)
長崎市内の二十六聖人記念碑(PIXTA)

当時、国内の大名や豪商は、交易のため東南アジアに進出していった。秀吉も1588年に海賊取締令を出し、貿易船の海上通航の安全を図った。ただ、衰退した明国を征服し、日本を中心としたアジアの国際秩序をつくろうと思い描くようになる。そして朝鮮やインドのゴアのポルトガル政庁、フィリピンのスペイン政庁、高山国(台湾)などに朝貢を要求したのである。特に朝鮮に対しては対馬の宗氏を通じ「明国に攻め入るから先導役をつとめよ」と命じた。しかし朝鮮は求めを拒絶。すると1592年、秀吉は15万もの大軍を釜山から上陸させ、朝鮮半島の侵略を開始した(文禄の役)。

当初、日本軍は破竹の勢いて進撃したが、李舜臣率いる朝鮮水軍が亀甲船を駆使して日本軍の補給路を断ち、民衆を中心とした義兵も激しく抵抗するようになった。明の援軍も襲来してきたため、日本軍は苦戦を強いられ、戦線は膠着した。そこでいったん休戦して講和交渉に入るが決裂、1597年、秀吉は再び14万の軍勢を半島に上陸させ、朝鮮南部の占領を企てた(慶長の役)。だが今度も大いに苦戦し、結局、秀吉の死をきっかけに翌年、朝鮮から撤退した。この2度の朝鮮侵略(朝鮮出兵)は朝鮮に多大の損害を与えたが、国内でも莫大な軍事費と兵力を無駄に費やすことになり、豊臣政権を衰退させることになった。

240荷主研究者:2020/11/08(日) 14:00:20

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202010/20201004_15034.html
2020年10月04日日曜日 河北新報
東北大図書館が「狩野文庫」デジタル化 江戸学の宝庫、第1弾232点を公開

デジタル公開された狩野文庫の資料の一つ「四季献立式」

狩野亨吉

 東北大付属図書館は、所蔵する「狩野文庫」の資料約2万点をデジタル公開する。明治期の思想家・教育者狩野亨吉(かのうこうきち)の旧蔵書で、9月24日に第1弾として江戸期を中心とした古典籍232点をネット上で閲覧できるようにした。文庫は「江戸学の宝庫」として国内外の研究者から注目を集めており、デジタル化で閲覧希望者の利便性を高める。

 国文学研究資料館(東京)が運営するウェブサイト「新日本古典籍総合データベース」で公開する。江戸期の季節行事の供え物を描いた「四季献立式」、徳川吉宗の命で編さんされたとされる刀剣カタログ「名物刀剣記」などを画像ファイルで閲覧できる。

 狩野は現在の大館市に生まれ、旧制一高校長などを務めた。旧蔵書は文学や哲学、自然科学など幅広い分野に及び、「古典の百科全書」とも称される。所蔵する東北大図書館には各地から研究者らが訪れていた。

 デジタル化によって、資料の文字を拡大して読むことも可能になった。東北大は2024年度にかけて、狩野文庫の江戸期を中心とした蔵書を順次、画像ファイルを通じて閲覧できるようにする計画だ。

 同図書館は「研究に役立ててもらうとともに、一般市民にも気軽に古典資料に親しんでほしい」とアピールしている。

241とはずがたり:2020/11/23(月) 19:22:54
【戦国こぼれ話】日本人奴隷は世界を駆け回っていた!?あまりに無慈悲な奴隷正当化の論理!
渡邊大門 | 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
11/23(月) 10:05
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20201123-00209166/

242名無しさん:2021/04/03(土) 08:00:14
日本の城郭
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1063013969/415

幻となった不遇の城・江戸城4代天守はなぜ再建されなかったのか?
4/3(土) 6:09配信
サライ.jp

監修・文/菅野俊輔
早稲田大学政治経済学部卒業。江戸文化研究家。早稲田大学エクステンションセンター講師。現在、江戸のくずし字や江戸学など“江戸を楽しむ講座”の講師を務めながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍。主な著書に『図説世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』『古地図と名所図会で味わう 江戸の落語』『江戸の長者番付』(以上、新書、青春出版社)、『書いておぼえる 江戸のくずし字いろは入門』(柏書房)、『江戸っ子が惚れた忠臣蔵』(小学館)などがある。

サライ.jp

243荷主研究者:2021/08/08(日) 14:03:58

https://kahoku.news/articles/20210625khn000002.html
2021年06月25日 06:00 河北新報
奥羽越列藩同盟の拠点「松の井屋敷」跡に案内板 古地図や写真添え解説

設置した案内看板を見る角田さん(左から2人目)ら

 戊辰戦争(1868〜69年)で奥羽越列藩同盟の拠点となった「松の井屋敷」の案内看板が、仙台市青葉区片平1丁目の跡地にお目見えした。県内でレストラン「HACHI」を展開するオールスパイス(仙台市)がグラフィックデザイナーらと製作。同盟で中心的な役割を担った仙台藩の歴史を伝えようと設置した。

 看板は縦80センチ、横140センチの鉄製。奥羽25藩が新政府軍に対抗する「仙台盟約書」を交わし、その後、同盟本部が置かれた松の井屋敷に関し、江戸時代末期の地図や昭和20年代の写真を添えて紹介している。

 5月上旬、跡地に建つマンションの入り口に完成した。オールスパイスが7月、マンション内に本社を移転させるのに合わせた。

 看板製作は、社長の角田秀晴さん(57)=青葉区=が昨年11月、街歩きイベントに参加したことがきっかけ。幕末の絵図に詳しいデザイナーの厚綿広至さん(52)=泉区=が松の井屋敷の説明に「架空案内看板」という解説資料を使ったのを見て、思い付いた。

 本社移転に向け、自社看板の設置費として確保していた30万円を活用。看板に記した解説文は厚綿さんの資料を基に作成し、郷土史家の木村紀夫さん(81)=同=に監修してもらった。

 今月15日に現地であった設置発表会で、角田さんは「戊辰戦争ゆかりの地は市内に点在する。看板を見て、幕末の仙台に関心を持ってほしい」と話した。

244徳川に捨て駒として育成・利用され虫ケラのように射殺された東大出:2024/02/25(日) 14:58:21
〓腹黒い三井財閥と結託して世界大恐慌の最中に旧ソ連共産党の独裁者スターリンの第一次五カ年計画の猿真似をして旧平価での金解禁と『国策デフレ』を強行し、明治維新以降、折角 近代化した資本主義ブルジョア日本経済を故意に ぶっ壊し、内地に非自発的失業者と餓死者を溢れさせた『徳川ゾンビ』の昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)の卒業生。

〓資本主義ブルジョア日本経済を故意に ぶっ壊した金融テロリストの井上準之助や浜口雄幸は『徳川ゾンビ』の昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)において徳川の残党のために『捨て駒』となるべく金融テロリスト(共産主義パルチザン)として育成されたチンピラであった。

〓「(『国策デフレ』を強行した)国賊ポン銀(・財務官僚)を銃殺に処すべし」と明言したノーベル賞経済学者のクルーグマン教授。

〓戊辰戦争で徳川幕府を壊滅させた薩長土肥の明治政府が育成した資本主義ブルジョア日本経済を ぶっ壊す役目を終えるとポンコツ東大卒の金融テロリスト(チンピラ、テロ実行犯、共産主義パルチザン)であった井上準之助や浜口雄幸は虫ケラのように射殺された。

〓井上準之助や浜口雄幸のようなポンコツ東大の卒業生は徳川の残党を首班に戴く共産主義プロレタリア革命政権を樹立するための単なる『捨て駒』である。

〓出鱈目『量的金融緩和』(2001年〜2006年)を含む『国策デフレ』を強行した国賊ポン銀(役員)の内、岩田一政、須田美矢子、植田和男、西村清彦 等は共産主義マルクス経済学の牙城である『徳川ゾンビ』の昌平坂学問所(看板だけ『東大帝国大学』に架け替え)の前教授であった。

〓自分達はマルクス共産主義の牙城と化した昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)において徳川の残党のための捨て駒として育成された金融テロリスト(チンピラ、テロ実行犯、共産主義パルチザン)なのだと全く気付かぬナイーブなポンコツ東大 卒業生。

〓徳川の残党のための捨て駒として育成された金融テロリスト(チンピラ、テロ実行犯、共産主義パルチザン)であるという自覚のない侭、反米・極左のポンコツ東大 卒業生が虫ケラのように射殺されて来た。




〓歯向かうも何も 国家公務員総合職試験に合格した明治大学の荒井退造の学力の方が、不合格だったポンコツ東大法学部の落ちこぼれより上だぜ。




〓そんなに井上準之助や浜口雄幸にようになりたいのか?

〓マルクス共産主義の牙城である昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)の卒業生が指導し徳川の残党を首班に戴く共産主義プロレタリア革命政権なんて出来ねえから、『国策デフレ』を強行して金融テロリズムで資本主義ブルジョア日本経済を ぶっ壊そうなどと悪足掻きするのやめろ(笑)

245260年に及ぶ他力本願の天下泰平を自らの手柄に擦り替える徳川の残党:2024/04/29(月) 17:41:10
徳川幕府の残党は昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)を根城に、『資本主義ブルジョア自由主義経済を ぶっ壊し、社会主義プロレタリア暴力革命を成就せよ!』と喧伝する共産主義マルクス経済学を垂れ流し続けている。

徳川の残党は、戊辰戦争で徳川幕府を壊滅させた薩長土肥の藩閥明治政府が育成した資本主義経済による日本の近代化、また祖法に反する開国に追い込み徳川幕府を滅亡に追い込んだアメリカの資本主義ブルジョア自由主義経済を憎悪したのだ。



>社会主義計画経済においては個々の人民の“能力”に関して『党中央』が下す評価に応じて計画的に働き、個々の人民の“必要”に関して『党中央』が下す決定に応じ 財サービスの分配が行われる。
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また共産主義マルクス経済学者は、正常財を選好する消費者行動に『物神崇拝(フェティシズム)』の烙印を押して生活必需品や劣等財の生産・消費しか認めない。

生活必需品や劣等財の生産・消費しか行わない社会主義経済が数量ベースの実質経済成長を維持するためには不況を追い風にするか、Social dumpingを伴うBeggar-Thy-Neighbor(近隣窮乏化)輸出ドライブに依存するしかない。

武器を取り上げ(『刀狩り』)た上で被支配者を農地に縛り付け年貢米を取り立てた江戸時代の日本経済は、士農工商の身分制度によってブルジョア階級を最下層に位置づけたのでイノベーション、すなわち産業革命も不発だったので、高級な伝統工芸品を購入する支配階級以外は生活必需品と劣等財による粗末な日常生活を送るしかなかった。

鎖国政策を維持し、オランダや清朝との貿易も長崎など ほんの数箇所に限られたので、Social dumpingを伴うBeggar-Thy-Neighbor(近隣窮乏化)輸出ドライブに依存した数量ベースの高い実質経済成長を達成することもできず、江戸幕末の日本経済は困窮の極みであった。

経済が困窮の極みであったから、連れて徳川日本の国防力も非常に御粗末で、1853年のペリー来航の際は黒船の空砲に幕府の役人達が腰を抜かし、何の抵抗もできぬ侭 不平等条約を受け容れるより他に選択肢が無かった。

戦国時代末期には無敵艦隊を擁したスペイン海軍さえ寄せ付けなかった日本は、江戸幕末になると蒸気船が轟かせた空砲に腰を抜かす程 弱体化したのである。

ところが徳川の残党は、口角泡を飛ばしながら、関ヶ原の戦いから260年の長きに亘り天下泰平を維持したのは徳川幕府最大の功績と自画自賛して見せる。

刀狩りによってブルジョア革命の芽を摘み、また士農工商の身分制度によってブルジョア階級を最下層に押し込め、イノベーションすなわち技術革新、産業革命が不発だったため、江戸時代の日本の軍事力は衰退の一途を辿った。

アフリカや東南アジアを征服した西洋列強の黒船が日本近海に姿を見せ始めた19世紀初頭には、阿片戦争で無様な大敗を喫した清朝と全く同様、徳川幕府の鎖国日本の国防力は、いつ西洋列強に侵略され植民地化されても不思議ではない劣悪な状況に陥っていたのである。

たまたま西洋列強の矛先が日本より先に清朝を突いただけのことであった。

徳川の残党が自画自賛する天下泰平を貪り、泰平の眠りに落ちていた日本は、産業革命を経た西洋列強に対して実に丸腰同然だったのだ。

旧社会党が『非武装中立』を唱えたことがあった。

泰平の眠りに落ちていた徳川日本は丁度そんな状態であったのだ。

幾ら自国が高尚な平和主義を掲げ『非武装中立』を唱えたところで、相手国が軍事大国であれば座して植民地化されるのを待つしかないのである。

要するに260年の徳川日本の天下泰平というのは、徳川幕府の有能さによって齎された平和ではなく、『飽くまでも西洋列強が日本に手を出さない限りにおいて』という“他力本願の天下泰平”だったのだ。

これを『関ヶ原の戦いから260年の長きに亘り天下泰平を維持したのは徳川幕府最大の功績』と自画自賛するのは、実に抱腹絶倒の間抜けな糠喜びと言うしかないであろう。


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