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近世日本史スレ

239とはずがたり:2020/07/08(水) 16:10:02

日本史探険
全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革
歴史 2020.04.14
河合 敦 【Profile】
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/

外交政策:キリシタン迫害と朝鮮出兵
外交政策について秀吉は当初、信長のキリスト教保護政策を継承したが、九州平定後の1587年、肥前国の大名・大村純忠が長崎を教会領としてイエズス会に寄進したり、日本人を海外へ奴隷に売ったり、キリシタンが神社仏閣を破壊している事実を知ると、突如、バテレン追放令を発して宣教師に国外追放を命じた。ただ、法令発布後も南蛮貿易は奨励したので、法令は徹底されず、しばらくすると布教活動が再会された。ところが1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が「スペインは領土拡張に宣教師を利用している」と証言したことが秀吉の耳に入ると、宣教師やキリスト教信者26名を捕まえ、翌年、長崎で処刑した(二十六聖人の殉教)。これにより日本とスペインの国交は断絶した。

長崎市内の二十六聖人記念碑(PIXTA)
長崎市内の二十六聖人記念碑(PIXTA)

当時、国内の大名や豪商は、交易のため東南アジアに進出していった。秀吉も1588年に海賊取締令を出し、貿易船の海上通航の安全を図った。ただ、衰退した明国を征服し、日本を中心としたアジアの国際秩序をつくろうと思い描くようになる。そして朝鮮やインドのゴアのポルトガル政庁、フィリピンのスペイン政庁、高山国(台湾)などに朝貢を要求したのである。特に朝鮮に対しては対馬の宗氏を通じ「明国に攻め入るから先導役をつとめよ」と命じた。しかし朝鮮は求めを拒絶。すると1592年、秀吉は15万もの大軍を釜山から上陸させ、朝鮮半島の侵略を開始した(文禄の役)。

当初、日本軍は破竹の勢いて進撃したが、李舜臣率いる朝鮮水軍が亀甲船を駆使して日本軍の補給路を断ち、民衆を中心とした義兵も激しく抵抗するようになった。明の援軍も襲来してきたため、日本軍は苦戦を強いられ、戦線は膠着した。そこでいったん休戦して講和交渉に入るが決裂、1597年、秀吉は再び14万の軍勢を半島に上陸させ、朝鮮南部の占領を企てた(慶長の役)。だが今度も大いに苦戦し、結局、秀吉の死をきっかけに翌年、朝鮮から撤退した。この2度の朝鮮侵略(朝鮮出兵)は朝鮮に多大の損害を与えたが、国内でも莫大な軍事費と兵力を無駄に費やすことになり、豊臣政権を衰退させることになった。


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