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近世日本史スレ
229
:
とはずがたり
:2018/09/07(金) 12:06:58
失態隠蔽の「でっち上げ」が大弾圧の火種に
一方、条約に関する天皇の勅書は、予想通り「御三家などでよく話し合い、慎重にきめるように」という事実上のゼロ回答だった。もはや調印の引き延ばしもできず、幕府は天皇の許しがないまま条約に調印してしまう。直弼は天皇の許しを得るまで調印をさらに延期するよう指示したが、開国派の幕僚に押し切られた。
当然ながら天皇は激怒し、幕府に抗議の勅書を送った。抗議といっても「御三家・御三卿も一致団結して国難にあたれ」という当たり障さわりのない内容だったが、勅書が幕府だけでなく、御三家代表の水戸藩にも送られたこと、さらに幕府より水戸藩に2日早く出されたことが問題となった。
元毎日新聞記者で歴史家の松岡英夫さん(1912〜2001)の『安政の大獄--井伊直弼と長野主膳』(中公新書)によると、この時、主膳は勅書が出されたことすら知らなかった。ネタ元の九条は知っていたはずだが、「当たり障りのない内容だし、主膳に伝えるまでもない」と判断したのかも知れない。諜報工作員としては大失態だ。
焦った主膳は、またしても斉昭の陰謀話をでっちあげた。「水戸への勅書は斉昭が朝廷工作の末に出させた『密勅』なのだ」というフェイクニュースを直弼に送り、失態をごまかそうとしたわけだ。
主膳の報告を信じた直弼は激怒し、“密勅“関係者の摘発に乗り出した。こうして安政の大獄が始まった。主膳は京都の敵対勢力を一掃する好機ととらえ、直弼に告発を重ねた。捜査の過程で西郷の挙兵計画や、吉田松陰(1830〜59)の老中襲撃計画まで明らかになり、大獄はどんどん拡大した。主膳に「摘発が手ぬるい」と告発された京都町奉行まで更迭され、主膳は「京の大老」と恐れられた。
直弼は「水戸藩に出した“密勅”を返せ」という命令を朝廷に出させた。納得できない水戸藩士は水戸郊外の長岡宿(茨城県茨城町)に集結し、使者から力ずくで勅書を奪い返そうとしたが失敗。標的を直弼に変える。主膳のフェイクニュースは、主君の命を奪う一因にもなった。
ともに不遇の前半生…恩人を信じた直弼
主膳は直弼が彦根藩主になる前からの和歌や国学の師で、諜報工作のプロではない。朝廷工作を任されたのも、一時、公家の二条家に仕え、歌会などで公家と面識があるだろうという程度の理由だった。にもかかわらず直弼が主膳の情報を信じたのは、長い不遇時代を支えてくれた恩人だったからだろう。
直弼は彦根藩主の十四男として生まれ、他藩への養子の口も兄弟に奪われて、「藩主の跡継ぎのそのまた予備要員」として、埋もれ木のように朽ち果てる生涯を覚悟していた。主膳は直弼の屋敷(埋木舎うもれぎのや)をたびたび訪れ、学問という“養分”を注入して心が朽ち果てないよう直弼を支えた。主膳が初めて埋木舎を訪れた時、2人は3夜にわたって語り合い、直弼は主膳を「血縁の兄弟のように思った」と記している。
一方の主膳も不遇の時代があったようだ。主膳は自身の出自や前半生を直弼にしか明かしていない。以前に「幻の宝刀・蛍丸」で紹介した肥後(熊本県)阿蘇神社の大宮司家に拾われた捨て子だった、という説もある。
後継ぎと藩主の相次ぐ死で、予期せず彦根藩主となった直弼は、家老の反対を押し切る形で主膳を藩士に取り立てた。血縁の兄弟のように結ばれた2人は不遇からはい上がり、権力の階段を駆け上がっていく。
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