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近世日本史スレ
138
:
荷主研究者
:2010/03/14(日) 15:40:21
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100307t75011.htm
2010年03月07日日曜日 河北新報
悲運の戦国大名白鳥十郎長久 実在裏付ける書状発見
名将の書状に対面し、感激する戸沢地区住民
山形県村山市から山形県河北町へと勢力を伸ばし、最期は山形城主最上義光に謀殺されたと伝えられる悲運の戦国大名、白鳥十郎長久の直筆とみられる書状が白石市内で発見された。2月23日には長久ゆかりの地である村山市戸沢地区の住民らが宮城県白石市を訪れ、謎も多い長久の貴重な史料と対面した。
見つかったのは1581年5月9日、長久が仙台藩重臣で伊達家の外交を担当した遠藤基信にあてた書状。
長久は書状の中で、大崎市を拠点としていた大崎義隆の上洛(じょうらく)に当たり、仙台藩の領内だった山形県置賜地方を通行できるよう願い出ていた。末尾には長久の直筆とみられる花押があった。
白石市内では昨年、遠藤家の子孫が暮らす民家に約6000点に上る古文書が保存されているのが見つかった。このうち約50点は戦国時代に諸大名が遠藤家初代の基信にあてた書状。この中に長久の書状も含まれていたという。
領民に慕われつつ悲運の最期を遂げたとされる長久は主に伝記や軍記物などで語り継がれているが、その存在を確実に裏付ける史料はほとんどなかったのが実情。
山形県山辺町の専念寺には長久直筆とみられる書状が伝えられるが、これまで比較する史料がないことから真偽不明とされてきた。
長久が基信に書状をしたためて大崎家と伊達家を取り持ったことは、仙台藩の正史である「伊達治家記録」の中にも記述が残っている。今回の書状発見で、長久研究が大きく前進する可能性がある。
長久の書状を確認した村山市戸沢地区公民館の青柳フヂ子館長は「貴重な史料が白石で見つかったのは何かの縁。長久が村山、白石両市の交流のきっかけになるとうれしい」と話した。
[白鳥十郎長久]生年などは不詳だが、奥州安倍氏の流れをくむとも伝えられる。村山市戸沢地区に構えた白鳥城を足掛かりに、山形県河北町へと進出し谷地城を築いた。1584年、最上義光に山形城へおびき出され、謀殺されたとされる。白鳥城跡近くの戸沢小敷地内には、地元の住民らが長久の顕彰碑を建立。命日の6月7日に碑前祭を開いている。
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