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近世日本史スレ

134とはずがたり:2010/01/07(木) 12:23:03

間部詮房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯

間部宮内は、猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人になり、宝永元年(1704年)の綱豊の江戸城西の丸城入と同時に甲府藩士から幕臣に編入され、従五位下越前守に叙任し、側衆になり、1500石加増。その後も累次加増され、宝永3年(1706年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。

詮房は江戸時代における幸運児の一人といえる。日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない(なお、猿楽師自身ではないが、猿楽師の子が徳川幕府内において強大な権勢を振るった例として大久保長安があげられる)。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上、老中の次席を命じられた。

詮房は、将軍家宣・儒学者新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をさばき、「正徳の治」を断行した。

しかしながら、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情である。

そのため、家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。しかしながら大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎から、遠方の村上藩に左遷されたにとどまり、形式の上では(実質的な収入は減ったが)5万石の大名であり続けた。

享保5年7月16日(1720年8月19日)、詮房は暑気あたりで村上の地に没した。後を養嗣子(実弟)の間部詮言が継いだ。享年55(満54歳没)。

間部氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴史 [編集]

江戸時代中期に6代将軍徳川家宣により、側用人の間部詮房(当初、宮内といった)が上野国(現群馬県)高崎藩5万石の大名にとりたてられたのを始まりとする。

間部家は7代将軍徳川家継の死去により、紀州藩から徳川吉宗が将軍家を継ぐと同時に、越後国村上に左遷され、次いで次の藩主間部詮言の代に、越前国西鯖江に転封され、鯖江支配で明治時代を迎えた。

幕政史においては詮房と、老中になった間部詮勝の二人が重要な役割を果たした。

1884年(明治17年)、間部詮信(間部詮道の長男)の時に華族に列せられ、子爵を賜った。


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