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近世日本史スレ

152荷主研究者:2011/12/11(日) 14:48:44

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20111117102.htm
2011年11月17日03時07分 北國新聞
小堀遠州一族、野田山に墓 前田利常に影響与えた茶人大名

整備された小堀孫兵衛一族の墓所=金沢市の野田山墓地

 庭園や茶道などで3代加賀藩主前田利常に強い影響を与えた茶人大名・小堀遠州(こぼりえんしゅう)の一族の墓の在りかを、石川郷土史学会員の中山善壱さん(70)=金沢市末町=が同市の野田山墓地で突き止めた。長年放置されていた墓は荒れ放題で、見るに見かねた遠州流茶道の門人が整備に尽力。17日に法要を営み、加賀藩の「文化顧問」だった遠州にあらためて光を当てる。

 中山さんが確認したのは、遠州のおいの小堀孫兵衛と孫の小堀新十郎の墓で、いずれも野田山墓地東部に位置する。石川郷土史学会幹事の横山方子さんによると、両者とも利常につかえ、孫兵衛は足軽20人を預かる鉄砲組の頭、新十郎は利常の身辺警護などに従事する一員だった。

 両者の子孫の中には、建築を得意とした遠州の血筋にふさわしく金沢城の造営に携わった者も複数いた。だが、一族の墓がどこにあるかは研究者や遠州流関係者の間でも知られていなかったという。

 長年、野田山墓地の調査に取り組む中山さんは横山さんの依頼で今回の調査に着手し、5〜6万基の墓がある同墓地の地図計約80枚をくまなく調べ、探り当てた。現地を訪れると、いずれも長年にわたって放置された様子で、特に孫兵衛一族の墓所は樹木に覆い尽くされ、21基ある墓石のほとんどが倒れていた。

 遠州会金沢支部の竹内宗幸支部長が遠州流13世家元の小堀宗実氏(東京)に相談し、支部の教授会などの承認を経た上で墓の整備に乗り出した。竹内支部長の弟子で料理屋経営の鈴置善和さん(白山市)が造園業を営む中村満さん(同)らの協力を得て墓所を覆う木を切り、草を刈り、倒れた墓石を元に戻した。ほかの弟子も切った木を運び出す作業に汗を流した。鈴置さんは「遠州流の一員として何とかしたかった」と語る。

 整備された孫兵衛一族の墓所の広さは約80坪。中山さんは「孫兵衛の禄高は千石。千石でこれだけ広い墓所は破格だ。小堀一族が前田家から大事にされていたことがうかがえる」と指摘する。竹内支部長は「支部のみんなで墓をお守りしたい」と語った。

 横山さんは、県が発掘調査中の金沢城玉泉院丸庭園にも遠州の助言が生かされている可能性があると指摘。「利常は遠州の孫たちを召し抱えることで遠州との結び付きをより強めた。墓が見つかったことで利常と遠州の縁の深さを再認識した」と述べた。

 小堀遠州(1579〜1647) 安土桃山時代から江戸時代前期の大名。徳川将軍の茶道指南役を務めた茶人で、一流の建築家、作庭家。備中松山藩(岡山県)、近江小室藩(滋賀県)の藩主を務めた。前田利常と親交が深く、利常に庭づくりなどの助言をした。遠州の美意識は「綺麗さび」と呼ばれ、現在の遠州流茶道に続く。


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