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近世日本史スレ
1
:
■とはずがたり
:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。
124
:
とはずがたり
:2009/03/30(月) 23:15:57
>奥山廻り役
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83
ネーミングセンスが関東取締出役みたいでかっちょいいっすねぇ(;´Д`)ハアハア
奥山廻り役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奥山廻り役は加賀藩三代目前田利常によって、黒部奥山の警備の為に組織されたものである。
概要
江戸時代初期の地図は、立山の背後は空白であった。黒部川も下流から中流にかけては描かれているが、上流域は山陰に吸い込まれるように消えている。藩政初期、黒部奥山は暗黒世界であった。加賀藩は、戦国時代の佐々成政のザラ峠〜針ノ木峠越で越中信州間の最短の間道として黒部奥山は重要な軍事要点だった。また「加賀白山」の領土争いから、幕府の調停によって越前藩の領山とされた渋い経験もあり、この未知の奥山への重要度を認識し、1648年以来いくたびも役人を派遣して実地調査をさせ、やがて「奥山廻り役」を常設し、毎年巡視させた。領民に対しては、「御縮り山」として、立山参りの正規ルート以外での黒部奥山への立ち入りを禁じた。
その後、この奥山廻り役は1870年9月の廃止まで続いた。
奥山の調査
奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽岳周辺や水晶岳、雲ノ平、黒部五郎岳の周辺ではなく、後立山連峰の周辺であった。むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華岳周辺は三国境としての重要地点で、詳細に調査された。後立山連峰はその名前のごとく、立山の後にある山々で、越中側からすれば最奥地の山であり、しかもキレット等のやせ尾根が続いている山稜である。江戸時代初期の黒部奥山廻り役の記録には、「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、初期の奥山絵図には空白地帯であった。
加賀藩初代藩主、前田利家が黒部渓谷口浦山村の百姓伝右衛門を大坂に召して、黒部奥山の秘境の様子をいろいろと訊いた。この伝右衛門は、元和年中、越後国の浪人数百名が黒部渓谷口内山村に立て篭もっているのを蜜訴して大事に至らしめなかった功者といわれる。そして三代前田利常はこの伝右衛門に松儀という姓を与え、抜擢して奥山取り締まりの内役として役儀に任命した。さらに鏡、扇子、硯等を松儀伝右衛門に与え、しかも武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞をも表明した。
松儀伝右衛門はその六年後に亡くなり、その後暫く奥山廻り役は空位が続いた。が、後年、佐伯十三郎がその位についた。しかしながら、調査につれて広大な奥山を一人で把握するのは実際として困難となり、次いで四郎右衛門という者を採用し、彼を北部、十三郎を南部の奥山廻り役に当てた。しかし、この初期の奥山廻り役は、後年の奥山廻り役のように厳重に毎年定期的に山廻りをすることもなく、彼らの肩書き自体も奥山廻り役といわれていなかった。さらに後には3名に増員されたが、大規模な盗伐が相次いで起こったり、材木の藩内への伐出で長期期間奥山に詰めるなどの雑役も多く人手不足は必至となった。そこで、通常の山廻り役や平廻り役などから、奥山廻り役加人として、臨時又は常勤的に奥山廻り役の仕事を兼ねるようになった。
125
:
とはずがたり
:2009/03/30(月) 23:16:16
>>124-125
事件の取り締まり
奥山廻り役の最初の一番の目的は軍事であったが、しだいに世の中が安定してくると、木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻り役らはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻り役が近づくと、いち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻り役らは、盗伐小屋を焼き払い、伐採道具を没収し、木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難で、仕方なく、信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買いたたかれた。しかし、その木材業者こそ杣たちの元締めであったのだ。
記録に残る一番古い大規模な盗伐事件は、正徳2年7月に起こっている。それは針ノ木谷でその現場を発見し、取り押さえた。尋問するとこれらは尾張国の杣ども25名で、遠国から出稼ぎに来て、国境の境も分からず入山したと云い。また信州松本の佐平次と野口村の弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻り役は彼らにここは加賀藩の領域であることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物にあり、として元締めを連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、四日経っても使いの者とも帰っては来なかった。仕方なく杣たちを信州方面に追放し、小屋を焼き払い伐採道具を没収した。これはあまりにも寛大な処置ではないか。この杣どもは尾張から来たと言うが、尾張領の信州安曇郡奈川村である。奈川村はすぐそこである。針ノ木国境を知らないはずがない。寛大な措置をとったにはいろいろ分けがあった。元締めは、御三家尾張領民という親藩の威光を笠にして、加賀藩奥山廻り役の強制執行を免れんとしてわざわざ奈川村民を雇っているのだ。奥山廻り役たちは、この御三家の百姓と紛争を起こすことを避けたのと、同行8人の杣人夫に比べ相手方は25人もいて、これらの者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断し、やむなくこのような寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには奥山廻り役の他に、横目足軽2名。強健な人夫30名、多いときには40名も付けるようになった。そして針ノ木岳以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻り役は百姓ながら、とうぜん帯刃も許され、手錠縄も携行していた。
奥山廻り増員後も、盗伐は絶えず、発見しても杣たちはめったに捕まらなかった。しかし1775年、杣の三吉が逃げ遅れて捕まったことが信州側に衝撃を与えた。三吉が加賀に連れて行かれ、死罪に相当するほどの厳罰があったに違いない。そして盗伐の拠点の一つであった三吉小屋場跡(今の烏帽子小屋付近)の国境に、三吉の首を晒したぐらいのことをしたのか、その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が、三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡などの地名となって残ったほどの大事件となった。上高地の上條嘉門次も、黒部源流域の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛岳方面の山域を漠然と「赤牛三吉」といっていたようで、昭和の初めくらいまでは信州の古い杣や猟師達は、赤牛岳方面を赤牛三吉と呼ばれていた。
また、杣の小屋掛けした地に「野口山」と書いた石が立ててあったという事件もあった。信州野口村の山だという意味である。加賀の役人はそれを見て怒り、「砂磨きに消し候」、つまり砂を擦りつけて文字を消した。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていた。 「野口山」の石標に対抗して加賀側では、針ノ木峠に毎年「金沢御領」と書いた札を立てて来た。山廻り役の名も書き連ね、そのうえ「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」などと書き付けた。奥山廻り役は多くてせいぜい30人ぐらいであるが、二百とか五百とか、かなり誇張して書いている。これは「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」、といったふうに信州側に脅しをつけるためだったのだろう。
立山の東下にある内蔵助平は、江戸時代に大規模な盗伐のあった場所だという。
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