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近世日本史スレ

198とはずがたり:2016/06/19(日) 17:40:12
>>197-198
近畿地方の大名を指揮する立場となるが、天正10年(1582年)6月1日夜半、京都郊外の桂川で、「敵は本能寺にあり」と宣言して主君信長を急襲する。しかし、山崎の合戦では中国大返しの羽柴秀吉に大敗を喫し、敗走中に落ち武者狩りに討ち果たされる。

 光秀謀反の背景に巷間言われるような「いじめ」があったかどうかは分からないが、少なくとも個人的怨念で後先を考えずに謀反に踏み切るほどナイーブな人物とは思えない。名門土岐氏の流れをくむ明智氏は、「読書百年の家」で四書五経をはじめとする典籍を読んできたのだろうし、覇者にその資格がなければ、これを放伐してよりふさわしい者が代わるという革命思想も学んでいただろう。信長は有能だったが、比叡山焼き討ちや伊勢長島の大虐殺、自らを神として崇(あが)めさせるなど光秀の価値観とは相いれないものがあった。光秀の戦略眼は、常日頃、安土の堅城や大軍に囲まれた信長が側近のみで本能寺に泊まる一瞬の隙をついたことである。

 しかし、味方についた大名が少なかったこと、毛利攻めで動きが取れないはずの秀吉がわずか10日で戻ってくるなど不測の事態が続出し、光秀の天下は2週間たらずで終わってしまう。机上の秀才が実務家に負けてしまった典型かもしれぬ。ここまで書いて、若き日の光秀が鉄砲の名手だったという『明智軍記』の記述を思い出した。本能寺の変から120年後の元禄時代の書であり、真相は小栗栖(おぐるす)の竹藪(たけやぶ)の中である。【出典】
1 Saw SM,Cheng A,Fong A,et al. School grades and myopia. Ophthalmic Physiol Opt. 2007 Mar ; 27(2):126-9.
2 Onal S,Toker E,Akingol Z,et al. Refractive errors of medical students in Turkey:one year follow-up of refraction and biometry. Optom Vis Sci. 2007 Mar ; 84(3):175-80.
3 Hepsen IF,Evereklioglu C,Bayramlar H. The effect of reading and near-work on the development of myopia in emmetropic boys:a prospective,controlled,three-year follow-up study. Vision Res. 2001Sep ; 41(19):2511-20.
4 Trevor-Roper P The World Through Blunted Sight. Penguin Press 1970.
5 篠田達明「明智光秀の眼鏡」『士魂の光芒』新潮文庫、1997


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