したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近世日本史スレ

125とはずがたり:2009/03/30(月) 23:16:16
>>124-125
事件の取り締まり

奥山廻り役の最初の一番の目的は軍事であったが、しだいに世の中が安定してくると、木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻り役らはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻り役が近づくと、いち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻り役らは、盗伐小屋を焼き払い、伐採道具を没収し、木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難で、仕方なく、信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買いたたかれた。しかし、その木材業者こそ杣たちの元締めであったのだ。

記録に残る一番古い大規模な盗伐事件は、正徳2年7月に起こっている。それは針ノ木谷でその現場を発見し、取り押さえた。尋問するとこれらは尾張国の杣ども25名で、遠国から出稼ぎに来て、国境の境も分からず入山したと云い。また信州松本の佐平次と野口村の弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻り役は彼らにここは加賀藩の領域であることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物にあり、として元締めを連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、四日経っても使いの者とも帰っては来なかった。仕方なく杣たちを信州方面に追放し、小屋を焼き払い伐採道具を没収した。これはあまりにも寛大な処置ではないか。この杣どもは尾張から来たと言うが、尾張領の信州安曇郡奈川村である。奈川村はすぐそこである。針ノ木国境を知らないはずがない。寛大な措置をとったにはいろいろ分けがあった。元締めは、御三家尾張領民という親藩の威光を笠にして、加賀藩奥山廻り役の強制執行を免れんとしてわざわざ奈川村民を雇っているのだ。奥山廻り役たちは、この御三家の百姓と紛争を起こすことを避けたのと、同行8人の杣人夫に比べ相手方は25人もいて、これらの者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断し、やむなくこのような寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには奥山廻り役の他に、横目足軽2名。強健な人夫30名、多いときには40名も付けるようになった。そして針ノ木岳以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻り役は百姓ながら、とうぜん帯刃も許され、手錠縄も携行していた。

奥山廻り増員後も、盗伐は絶えず、発見しても杣たちはめったに捕まらなかった。しかし1775年、杣の三吉が逃げ遅れて捕まったことが信州側に衝撃を与えた。三吉が加賀に連れて行かれ、死罪に相当するほどの厳罰があったに違いない。そして盗伐の拠点の一つであった三吉小屋場跡(今の烏帽子小屋付近)の国境に、三吉の首を晒したぐらいのことをしたのか、その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が、三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡などの地名となって残ったほどの大事件となった。上高地の上條嘉門次も、黒部源流域の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛岳方面の山域を漠然と「赤牛三吉」といっていたようで、昭和の初めくらいまでは信州の古い杣や猟師達は、赤牛岳方面を赤牛三吉と呼ばれていた。

また、杣の小屋掛けした地に「野口山」と書いた石が立ててあったという事件もあった。信州野口村の山だという意味である。加賀の役人はそれを見て怒り、「砂磨きに消し候」、つまり砂を擦りつけて文字を消した。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていた。 「野口山」の石標に対抗して加賀側では、針ノ木峠に毎年「金沢御領」と書いた札を立てて来た。山廻り役の名も書き連ね、そのうえ「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」などと書き付けた。奥山廻り役は多くてせいぜい30人ぐらいであるが、二百とか五百とか、かなり誇張して書いている。これは「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」、といったふうに信州側に脅しをつけるためだったのだろう。

立山の東下にある内蔵助平は、江戸時代に大規模な盗伐のあった場所だという。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板