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近世日本史スレ

225とはずがたり:2018/05/15(火) 20:26:40

千利休は切腹していない? 九州へ逃れた説、注目集める
https://www.asahi.com/articles/ASL593HMZL59ULZU004.html?ref=webpush0515
編集委員・宮代栄一2018年5月15日09時01分

 天下人・豊臣秀吉の茶頭として「わび茶」の誕生に大きな役割を果たしたとされる千利休。秀吉の怒りに触れて切腹したと伝えられてきたが、実際には追放されただけだったとの説が近年注目を集めている。

 利休は1522年、現在の大阪府堺市で魚問屋や倉庫業を営む田中与兵衛の子として生まれた。武野紹?(じょうおう)に茶の湯を学び、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として、数々の茶会を主宰。85年には秀吉が開いた宮中の茶会で一条殿などの公家衆に献茶し、「利休」の号を勅賜された。

 しかし、京の大徳寺山門に置かれた自らの木像が、天皇や秀吉がその足下を通ることになって不敬だと秀吉の怒りを買い、切腹させられたといわれる。

 小説やドラマなどでは、この前段に、天下人として、茶の湯にも我を押し通そうとする秀吉と、それにこびずに、自らの美意識を貫こうとした芸術家・利休との間に確執があったように描かれるケースが多い。

 だが実は、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという説がある。文教大学の中村修也教授(日本茶道史)が2015年に著書で唱えた。

 中村さんによると、利休が木像…

(文化の扉 歴史編)異説あり 千利休、切腹してない? 「死後」に茶をたてた記述・九州へ逃れた説
https://www.asahi.com/articles/DA3S13492565.html
2018年5月14日05時00分

内容は同上

秀吉を怒らせた千利休は切腹せずに九州に逃げていた?
https://www.news-postseven.com/archives/20170401_500905.html
2017.04.01 16:00

 千利休は堺の豪商出身で、それまでの豪華な茶の湯に対し簡素の境地を目指した「侘び茶」を大成した。信長・秀吉に仕えたが、京・大徳寺の山門上に自分の木像を置いたことが秀吉の怒りに触れ、自害を強いられたとされている。利休の死後、茶道は弟子らに継承された。しかし、その定説を覆す説も登場。文教大学教授の中村修也氏が千利休の「まさかの素顔」を指摘する。

 * * *
 天正19(1591)年2月、秀吉により堺に蟄居させられていた利休は、京都に呼び戻され聚楽屋敷で切腹を命じられた。その首は一条戻橋にさらされた─通説では、茶人・利休の最期はそう語られてきた。

 ところが、利休が切腹したとされる翌年の文禄元年(1592年)、九州に滞在中の秀吉は、大坂城の母(大政所)へ宛て次のような書状を書いている。

「……私は一段と元気です。昨日も利休の茶を飲んで、食事もすすみ、とても愉快で気分が良かったのです」

 前年に切腹を命じたはずの本人が、利休のお茶を飲んだというのだ。

 利休切腹説を唱えた茶道研究のパイオニア、芳賀幸四郎氏や桑田忠親氏などは書状に書かれた「利休の茶」を「利休流の茶」と解釈している。しかし、当時はまだ「利休流の茶」は流派として確立していない。利休流は養子にして女婿の千少庵が文禄3年、千家(京千家)を興すことから始まる。

 死んだ利休の茶を飲むことはできないため、「切腹」と秀吉の書状に矛盾が生じてしまう。どういうことか。 実は、利休の切腹を裏付ける史料はないのが実情だ。


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