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近世日本史スレ

1■とはずがたり:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

195とはずがたり:2016/05/22(日) 22:49:45
>>194-195
さて、現代の一族経営の企業では女性社長は珍しくないが、戦国時代はとにかく男子の数がものを言う。秀吉が一代で築いた豊臣政権の弱点は、豊臣家の男子が少ないことだった。系図を見てもわかるように、秀吉は長男・鶴松を幼くして失い、もっとも頼りにした弟・秀長とその息子(養子)・秀保も天正19年・文禄4年に亡くなってしまった。文禄4年7月の時点で数え3歳の秀頼が成人するまでの間、政権を託せる一族の男子は秀次以外におらず、まさに命綱といえる重要な存在だった。その秀次を切腹させるなど、やはり政権の寿命を縮める愚行以外の何物でもないのである。

上司が部下の様子を気にかけ、マネジメントするのはもはや常識である。ましてや、敗北が一族の生死にもかかわる戦国時代であれば、その重要性は言うまでもない。戦国大名は一族や家臣団の結束を強めるため、さまざまな対策を講じている。

「人たらし」といわれ、全国の大名をまとめあげた秀吉は個人的魅力もさることながら、人材マネジメントの天才でもあった。諸大名を取り込み、豊臣姓・羽柴名字を下賜することで「ファミリー」を形成したのである。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗


『関白秀次の切腹』(矢部健太郎著、KADOKAWA)上の画像をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
しかし、一族の中でも肝心要の秀次が精神的に追い詰められていたこと、そして、普段の生活からは想像もできないような、武士としての強い決意を併せ持っていたことに、秀吉は気づかなかった。謀反の疑いをかけられた秀次は自ら高野山へ出奔して謹慎し、身の潔白を証明するために覚悟の切腹を遂げてしまう。諸大名をうまくマネジメントできた秀吉も、一族の「部下」には目が行き届かなかったのだろうか。このマネジメントの失敗が、秀次の切腹という悲劇を招き、豊臣政権の屋台骨を揺るがしたのである。

関白の切腹という前代未聞の大事件に見舞われた豊臣政権は、これ以後、事件の火消しに追われることとなる。この結果、事件を一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた政権は、秀次は切腹に値する人物であったと喧伝し、秀次の妻子全員の処刑という悲惨な結末をもって、事件は幕を降ろすのである。

そして、政権の将来を担う秀次を失った豊臣家は、慶長3年(1598)の秀吉の死、慶長5年の関ヶ原合戦、慶長8年の徳川幕府成立を経て、慶長20年(元和元年・1615)の大坂夏の陣で滅亡する。秀次の切腹から、わずか20年であった。

秀次が自害を選ぶほど追いつめられていたことに秀吉が事前に気づいていれば、どうなったであろうか。秀吉の死後も、豊臣政権は秀次と彼を支える石田三成らによって運営され、秀頼が関白となる道も残されていただろう。また、秀次には男児が4人おり、彼らが成人すれば「一族男子の不足」という豊臣政権の弱点を大幅に改善できる可能性も高まる。もちろん、秀頼と秀次の子どもたちとの間で権力争いが発生する可能性もなくはないが、それは豊臣政権内部での、また「豊臣宗家」内での争いであって、外様の徳川家が政権を奪取していくような未来は防げただろう。少なくとも、秀次切腹による混乱状況よりは安定した政権を維持でき、秀次の死から5年後の関ヶ原合戦、20年後の豊臣家滅亡といった事態は避けられたのではなかろうか。

上司・秀吉による部下・秀次のマネジメント失敗は、豊臣政権という組織に最悪の結果をもたらした。人材マネジメントの成否が組織の存亡をも左右することを、およそ400年前の悲劇を教訓として知っておきたい。

196とはずがたり:2016/06/01(水) 13:19:19
豊臣家滅亡も木下藤吉郎に繋がる木下家19代目は健在
http://news.goo.ne.jp/article/postseven/trend/postseven-406629.html
05月04日 07:00NEWSポストセブン

 4月から新編「大坂編」に入り、視聴率が右肩上がりのNHK大河ドラマ『真田丸』。同作に登場する人物の実際の「末裔」はどんな人なのだろうか。

『真田丸』第14話でついに登場した天下人・豊臣秀吉。小日向文世が怪演している。

「4月は3代目の俊長が祀られている横津神社(大分県速見郡日出町)の大祭。5月は日出町主催の城下かれい祭り、10月は日出藩の守護神だった若宮八幡宮の例大祭があり、年に3回は当主として行事に出席するために日出町に行きます」

 そう胸を張るのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)に繋がる木下家の19代目当主・木下崇俊氏(82)である。

 しかし、秀吉の病没後、後継者となった三男の秀頼は大坂夏の陣のあとに大坂城内で自害。豊臣家はそこで滅亡したというのが歴史の“常識”のはずだ。

「私は秀吉の正室・ねねの兄、木下家定の三男延俊を初代とする旧日出藩木下家の19代目なのです。菩提寺・松屋寺での供養と墓参りでは家臣の集まりである『陽城会』の総会を執り行ないます。会員は109人ですが、毎回70人ほどが集まります。総会といっても、ただの酒盛りですけれどね(笑い)」

 そんな崇俊氏、地元では親しみを込めて“お殿様”と呼ばれる。

「タクシーに乗った途端『殿、お帰りなさいまし』といってくれる。ありがたいことです」

※週刊ポスト2016年5月6・13日号

197とはずがたり:2016/06/19(日) 17:39:31
明智光秀と豊臣秀吉 最大の違いは視力だった!?
dot. 2016年6月13日 16時00分 (2016年6月15日 10時52分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160613/asahi_2016060900037.html?_p=2

 歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。

 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した、本能寺の変で信長を討った明智光秀の症例を紹介したい。

*  *  *
明智光秀(1528〜1582 年)
【診断・考察】近視

 昭和30年代生まれの筆者の世代には懐かしいハカセ君(ひょっこりひょうたん島)から、最近では名探偵コナンまで、マンガに出てくる秀才(たいていスポーツは苦手)は近眼鏡をかけていた。眼鏡君は本当に賢いのだろうか。

 シンガポール大学のソーらは、10〜12歳の学童を対象とし、視力と学力を比べたところ、近視の児童はそうでない児童と比較して統計的に有意に学業成績が良く、知能指数と強い相関があるという結果を報告した。近視者は両親にも近視者が多く、スポーツ少年スポーツ少女には少ない。また、近作業や読書を多く行うと後年近視になるリスクが高まる。しかし、これに反する報告も多く、結論は出ていない。

 さて、俗に、近視眼的性格ということが言われるが、実際にはどうだろうか。1930年に、英国の眼科医ライスは「近視の少年は運動が苦手である。なぜならば彼はボールがよく見えないから。またその意味で射撃も苦手だし、遠出も嫌いである。総体的に屋外活動は苦手である。一方、学校は嫌いなところではない。本を読むのに何の苦労もないから」と記している。歴史家のトレヴァー=ローパーは、歴史上の偉人たちが愛用した眼鏡から、ドイツの軍人で後に大統領となったヒンデンブルク元帥、宗教改革者のマルチン・ルター、フリードリヒ大王は強度の遠視、ショーペンハウエル、ゲーテ、シラー、マリー・アントワネット、ナポレオン・ボナパルトは近視だったとしている。ナポレオンはちょっと予想外だが、他の人物は何となく納得できる。

 戦国時代の武将たちに当てはめると、目端が利いて融通無碍(ゆうずうむげ)な豊臣秀吉は遠視、信長幕下では珍しい古典的教養人の明智光秀は近視だったのではなかろうか。医師で作家の篠田達明氏は、明智光秀の肖像画で目が細いことに注目し、遠くを見るために目を細めるという近視者の特徴が忠実に描かれているとしている。光秀は近視のために主君の信長の表情を読み取れず、その不興を買うことも多かったのではないか。秀吉は、主君の一挙一動を見て機敏に対応できたのかもしれない。

 明智光秀の前半生は不明な点が多いが、清和源氏の土岐氏の支流明智氏の一族と言われている。若年から斎藤道三に仕えて薫陶を受け、その敗亡後は室町将軍足利義輝、足利義昭、若狭武田氏、越前朝倉氏に仕えている。

 義昭が織田信長に上洛のお墨付きを与えた後、光秀はそのまま室町幕府と信長の双方に仕えるが、義昭と信長の関係が悪化すると旧主を見捨てて信長の家臣となる。…

198とはずがたり:2016/06/19(日) 17:40:12
>>197-198
近畿地方の大名を指揮する立場となるが、天正10年(1582年)6月1日夜半、京都郊外の桂川で、「敵は本能寺にあり」と宣言して主君信長を急襲する。しかし、山崎の合戦では中国大返しの羽柴秀吉に大敗を喫し、敗走中に落ち武者狩りに討ち果たされる。

 光秀謀反の背景に巷間言われるような「いじめ」があったかどうかは分からないが、少なくとも個人的怨念で後先を考えずに謀反に踏み切るほどナイーブな人物とは思えない。名門土岐氏の流れをくむ明智氏は、「読書百年の家」で四書五経をはじめとする典籍を読んできたのだろうし、覇者にその資格がなければ、これを放伐してよりふさわしい者が代わるという革命思想も学んでいただろう。信長は有能だったが、比叡山焼き討ちや伊勢長島の大虐殺、自らを神として崇(あが)めさせるなど光秀の価値観とは相いれないものがあった。光秀の戦略眼は、常日頃、安土の堅城や大軍に囲まれた信長が側近のみで本能寺に泊まる一瞬の隙をついたことである。

 しかし、味方についた大名が少なかったこと、毛利攻めで動きが取れないはずの秀吉がわずか10日で戻ってくるなど不測の事態が続出し、光秀の天下は2週間たらずで終わってしまう。机上の秀才が実務家に負けてしまった典型かもしれぬ。ここまで書いて、若き日の光秀が鉄砲の名手だったという『明智軍記』の記述を思い出した。本能寺の変から120年後の元禄時代の書であり、真相は小栗栖(おぐるす)の竹藪(たけやぶ)の中である。【出典】
1 Saw SM,Cheng A,Fong A,et al. School grades and myopia. Ophthalmic Physiol Opt. 2007 Mar ; 27(2):126-9.
2 Onal S,Toker E,Akingol Z,et al. Refractive errors of medical students in Turkey:one year follow-up of refraction and biometry. Optom Vis Sci. 2007 Mar ; 84(3):175-80.
3 Hepsen IF,Evereklioglu C,Bayramlar H. The effect of reading and near-work on the development of myopia in emmetropic boys:a prospective,controlled,three-year follow-up study. Vision Res. 2001Sep ; 41(19):2511-20.
4 Trevor-Roper P The World Through Blunted Sight. Penguin Press 1970.
5 篠田達明「明智光秀の眼鏡」『士魂の光芒』新潮文庫、1997

199とはずがたり:2016/08/30(火) 22:15:33
織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状
http://www.asahi.com/articles/ASJ774S71J77OIPE01B.html?iref=com_alist_8_06
月舘彩子2016年7月8日08時33分

 本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558〜1630)が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。

 書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれていないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。

 「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

 花押が乾く前に書状を折りたた…

200とはずがたり:2016/09/05(月) 11:36:53
俺は江戸時代を高く評価してるし我らが遠州の侵略者だけど結構好きである。武将としては今川推しだけど。

徳川家康は「日本人に嫌われる性格」の典型だ
「スゴい成功者」なのに…理由は4つあります
http://toyokeizai.net/articles/-/133251
2016年9月5日
山岸 良二 :歴史家・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師・昭和女子大学講師

202とはずがたり:2016/09/06(火) 21:29:15
鼠小僧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%A0%E5%B0%8F%E5%83%A7

鼠小僧(ねずみこぞう、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。
本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。

生涯
以下は「鼠賊白状記」と呼ばれる鼠小僧自身の自白調書による。

(中略)

その後
当時の重罪には連座制が適用されていたが、鼠小僧は勘当されているために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けた。この自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませたという点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因のひとつとなっている。
墓は、両国の回向院にある。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしている[2]。また南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも義賊に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。

鼠小僧の義賊伝説

鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」という伝説がある。この噂は彼が捕縛される9年も前から流れていた。事実、彼が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる。しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。
しかし、これについて資料が残されていない中で鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという理由が挙げられている。また町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。

203名無しさん:2016/09/22(木) 14:19:07
与太記事ですが。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160914-00049687-gendaibiz-bus_all
アベノミクスは、江戸時代に一度「大失敗」していた! 歴史家が危惧する「いつか通った道」
現代ビジネス 9月14日(水)11時1分配信

 第2次安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」は、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を「三本の矢」として2012年にスタート。一時は日本経済が急速に回復するかに見えましたが、いまは完全に停滞してしまいました。

 私の専門は歴史で、経済や政治ではありませんが、今回は現在の政府による経済運営について気になることを、歴史的な視点から述べてみたいと思います。

 一般的にアベノミクスが期待された結果を出せない理由については、こう言われています。中国経済の失速、イギリスをめぐるEUの混乱、さらには原油安による新興国経済の失速など、海外の経済がよくないために、日本も景気がよくならないのだ……と。

 その指摘自体は間違いではないと思います。ただ、これが事実だとすれば、それまでアベノミクスが好調だったのも、単に世界経済の動向が日本に有利に働いただけで、政府や日銀の経済政策の効果でないことがはっきりしたと言えなくもありません。

 ところで「三本の矢」というネーミングですが、これは、安倍首相の故郷山口県を支配していた毛利元就「三本の矢」の教訓になぞらえたものであることは、多くの方がご存知のことでしょう。プロサッカークラブの「サンフレッチェ広島」の名の由来にもなっていますが、簡単に言えば、こんなお話です。

 病床に伏していた毛利元就はある日、隆元・元春・隆景の3人の息子を枕許に呼び出します。元就は、まず1本の矢を息子たちに持たせて折らせ、続いて矢を3本束ねて折るよう命じますが、今度は誰も折ることができません。そして元就は息子達にこう告げました。

 「よいか1本の矢では簡単に折れるが、3本まとめると容易に折れない。お前達3人がよく結束して毛利家を守って欲しい」と。

 息子たちは、この教えに従う事を誓うのでした……。

 安倍首相は、三本の矢の逸話よろしく、金融政策、財政政策、成長戦略という三つの施策が相乗効果をもたらし、日本経済をデフレから救いだし再び上昇軌道に乗せようとしたのです。

 その施策の有効性はともかく、この話を最初に聞いたとき、これは先行きが思いやられるな、と感じました。

 なぜなら、この逸話が、そもそもウソだからです。

204名無しさん:2016/09/22(木) 14:19:30
>>203

江戸時代にも「アベノミクス」はあった
 元就は死ぬ前に3人の息子達を枕元に集め、三本の矢の教訓など語っていません。戦前は小学校の教科書にも紹介されていたこの話は、もともと中国の古典にある話で、それを後世の人が勝手に元就の逸話にしてしまっただけなのです。

 安倍首相の熱心なファンはこう反論するかもしれません。何百年も前の話なのだから、言ったか言わないかは誰にもわからない。失礼なことを言うな、と。

 確かに私も現場を見たわけではありませんが、これに関しては史実と異なる、と断言できます。なにしろ長男の隆元は、元就が臨終する数年前に死んでいたからです。次男の吉川元春は戦に出ていて臨終の場にはおらず、3男の小早川隆景は40歳近くになっている。これらに関してはさまざまな文献で証明されているのです。

 間違った言い伝えになぞらえているようでは、施策自身の説得力もありません。そこに不安を感じたのです。

 もちろん三本の矢の逸話がフィクションだとしても、政策そのものが的を射ていれば問題はありません。しかし、歴史的観点から言えば、この点に関してもやや疑問符が付きます。

 アベノミクスとは簡単にいえば、円を安くし、国内の物価を上げ、規制を緩和し、政府の予算を民間にばらまいて景気を良くしようという経済政策ですが、じつは江戸時代、同じような政策をおこなった藩がありました。

 徳川御三家の筆頭・尾張藩でのこと。実施したのは7代藩主宗春。ちょうど幕府では8代将軍徳川吉宗が享保の改革をしていた時期と重なります。

 よく知られているように、紀州藩主から将軍になった吉宗は、傾いた幕府の財政を立て直すため、自ら質素な木綿の服を着、食事も「一汁三菜」にして倹約につとめ、徹底的に支出をおさえました。また、庶民にも質素倹約を求め、贅沢を禁止したことは歴史の教科書でも習ったでしょう。

 いっぽうで各藩から米を供出させ(上米の制)、農民に対する税率を上げて(定免法の採用)幕府への収入を増やしました。こうした緊縮財政を長年続けたことで、見事幕府の財政を再建したのです。

 つまり、増税と財政緊縮を同時に、長い間コツコツ進める事で、ようやく財政立て直しに成功したのです。

205名無しさん:2016/09/22(木) 14:19:54
>>204

尾張藩のイケイケ規制緩和
 各藩でもこれをまねて改革をおこなっていましたが、1730年に尾張藩主となった宗春は、将軍吉宗と真逆のことをはじめます。享保の改革以来、自粛していた名古屋での祭りを大々的に復活させ、藩士にも芝居見物を許したのです。

 また、藩祖以来、禁止されていた遊郭の設置も認めました。驚くべきは、宗春自身が自ら祭りや芝居小屋に出向き、さらにはお忍びで遊郭に足を向けたことでしょう。
 
宗春は名古屋城下を歩くさい、上から下まで紅色に服を身につけ、3メートルもあるキセルを家臣に背負わせ、それを吸いながら真っ白な牛の背に乗って、ゆるゆると巡ったといいます。付き従う家来たちの服も紅色で統一されていたという記録もあります。
 
辛気くさい倹約が十数年続いていた尾張藩内ゆえ、この規制緩和に人びとは大いに喜び、すぐに娯楽を楽しみ、金を使って贅沢をするようになりました。服装も華美になりました。
 
こうして名古屋城下には芝居小屋が林立し、遊郭の数も増えていきます。それに誘われるように、多くの人々が周辺から名古屋に遊びに来るようになりました。この客足をあてにして有名な料理屋、茶屋、さらには大店(大きな商店)が競って名古屋に支店を出し、5万人だった人口がわずか数年で倍近くに増えたそうです。
 
宗春は、今で言う大胆な開放政策、規制緩和を展開したのです。遊郭ではありませんが、オリンピックを誘致して投資を刺激したり、海外からの観光客を呼び込んでいる今の日本と不思議なほどリンクしています。

 では、そうした開放政策の結果、尾張藩はどうなったのでしょうか。結論から言えば、尾張藩の繁栄は長続きしませんでした。

 1739年、宗春は藩主の座を追われました。享保の改革に逆らう宗春に将軍吉宗の堪忍袋の緒が切れ、幕府が宗春の蟄居謹慎を命じたからです。
 
宗春に代わって8代藩主には、親戚筋から宗勝が迎えられましたが、彼の一生は、宗春の放漫財政のためにふくれあがった借金を返す尻ぬぐいに費やされたそうです。つましく涙ぐましい節約によって支出を可能な限り減らしたのです。けれど、それでも財政はなかなか好転せず、最終的に負の財産は9代藩主宗睦の代まで引き継がれることになりました。

 これを見ても、いかに宗春の開放路線が、最終的に藩の財政を破壊し、多くの民を苦しめることになったかが、わかるでしょう。

 ただ、一説によると、宗春の失脚は尾張藩の重臣たちの希望でもあったという説もあります。じつは、宗春の積極政策のために藩の支出が莫大に増え、借金がかさんで破綻しそうになっていました。それを案じた重臣がいたということなのでしょう。この点、今の政府内にもそうした危機感を持つ人がどれだけいるのか。そこが心配です。

206名無しさん:2016/09/22(木) 14:20:35
>>205

人口減少問題にも、歴史が答えを示してくれる
 もちろん、現代と江戸時代では経済環境が違いますから、両者を単純に比較することはできません。

 ただ、強引な金融政策と規制緩和で経済成長を促してきた安倍内閣ですが、その成果は世界経済の悪化によって相殺されてしまい、国債の発行額は上昇しつづけ、国の借金は1000兆円を超え、世界有数の借金大国になっていることだけは否定のしようがありません。この政策をこのまま続けていけば、国家がどうなるかは歴史が証明しているのです。

 そもそも日本の人口は、もう増えることはないでしょう。移民を大量に導入すれば別ですが、右傾化しているいまの社会で、その選択肢は難しいでしょう。だとすれば人口減少の中で、経済成長を求め続けることが、そもそも間違っているのではないでしょうか――。

 その問いに対する答えも、歴史が示してくれています。
 
じつは、将軍吉宗の18世紀以降、日本は現在のように人口停滞期にありました。だからこそ、江戸時代の手法に学ぶところはあると思うのです。

 「経済的に豊かなことが幸せである」という考え方は、明治以降、西洋から入ってきた思想で、日本人には経済的豊かさを第一とする思想はありませんでした。江戸時代にはお金がなくても幸せに暮らしている人々がたくさんいました。
 
幕末、日本に不平等条約(日米修好通商条約)をおしつけたアメリカの総領事ハリスは、当時の日本人をみてつぎのような感想を抱いています。

 「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない──これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と黄金の時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見いだす」(ハリス著、坂田精一訳『日本滞在記 下』岩波文庫)
 
また、ハリスの通訳であるヒュースケンも、日本が開国したことについて、

 「世界のあらゆる大国の縁組みの申し入れをはねつけてきたこの帝国も、ようやく人間の権利を尊重して、世界の国々の仲間入りをしようとしている」

 と喜ぶ一方、

 「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである」 (ヒュースケン著、青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』岩波文庫)

 と危惧しているのです。
 
本来持っていた日本人の価値観への回帰、そこに、これから進む日本の未来が見出されるように思えるのですが、いかがでしょうか。

河合 敦

207名無しさん:2016/10/10(月) 23:43:09
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161009-00012320-davinci-life
人妻の素人女性が「売春」をする「地獄」とは!? 知られざる江戸時代の性事情
ダ・ヴィンチニュース 10月9日(日)18時0分配信

「売春」という言葉に、いいイメージを持っている方は、ほぼいないだろう。しかし、「遊女」に対する印象はどうだろうか? 多くの小説やマンガの題材になっていることからも、同じ「売春」という行為をしていながら、人々の遊女に対する興味や関心が大きいことが分かる。『江戸の売春』(永井義男/河出書房新社)は、江戸時代の「売春」事情について、遊女の最高位である「花魁」から、最下層である「夜鷹」まで、幅広く網羅した遊女大全である。

 そもそも、「江戸時代の遊里」というと、「吉原」しかないと思っていないだろうか。江戸の「売春場所」は吉原だけではなく、江戸四宿、岡場所もあり、また幕府に認められている公娼から、非公認の私娼まで、様々な場所、立場で存在した。本書は有名な吉原だけではなく、今まであまりスポットライトを浴びていなかった、その他の遊女や、遊女以外の売春事情についても詳しく言及されている。

 例えば「地獄」と呼ばれる売春をする女性。字面からして怖しいが、これは「堅気の稼業をしている男の女房や娘が、こっそり売春するというもの」だそうだ。現代人の感覚で言えば、ごく普通の主婦が旦那に内緒でソープ嬢としてお金をもらっているようなものだろうか。世の既婚男性にとっては、本当の地獄以上に怖ろしいものかもしれない。

「地獄」は業者の紹介を得て、小料理屋の二階や知人の家、もしくは自宅で秘密裡に売春をした。「地獄」の中には庶民の女性だけではなく、武士の妻や後家、娘もいたとか。一般の女性が身売りをする要因の多くは、金銭的に困窮しているためだが、そもそも、江戸時代における「売春」は、現代人が考えるほど「悪」ではなかった。

 当時の社会では売春に対する抵抗感や罪悪感が乏しく、「男の女郎(遊女)買いは、ある程度は仕方がない」というのが男女の共通感覚であり、娯楽の少ない江戸時代において、「女郎買い」は最高の楽しみだった。よって独身男性に限らず、既婚の男性も隠すことなく「買春」をしたそうだ。

 さらに、遊女だった女性を、社会は差別することなく、年季が明ければ一般の女性に戻ることもできたし、「うちの嫁は吉原の元花魁だったんだ」と自慢げに話す男さえいた。現代では、売春をしていた女性に眉を顰める人も多いだろう。また、自分の妻が風俗嬢であったことを、高らかに公言することもないはず。

 遊女や元遊女が蔑視されなかったのは、売春に対する価値観の相違もあるが、江戸時代の遊女は「お金のために」売られてきた人身売買の結果だったことも大きい。つまり、本人の意志で遊女になったわけではなく、貧しい家族のために、そういった境遇になってしまったのだ。

 では、当時の男性はどうして女郎買いに夢中になったのだろうか。娯楽が少ないこともあるが、突き詰めれば遊女の性技(セックスのテクニック)に夢中になったのだ。吉原の遊女になれば、先輩格の遊女に、床上手になるように仕込まれた。そうして習得した性技の中に「肛門を締めることで膣を締める」という技があったとか。その他、「遊女は感じたら恥」と教えられ、感じた演技をしつつ、「ついいきそうになったときは、それをはずすテクニックもあった」そう。

 奥深い遊女の世界。この一冊で堪能してみてはいかがだろうか。

文=雨野裾

208名無しさん:2016/11/06(日) 18:32:14
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161104-00120055-suumoj-life
スーパー銭湯並みにサービス満点だった? 江戸の「湯屋」とは
SUUMOジャーナル 11/4(金) 7:00配信

江戸っ子は風呂が大好きだった。江戸の町は風が強く土ぼこりも多かったので、江戸っ子は毎日入浴した。ただし、火事を嫌うので内風呂はなく、銭湯に通うことになる。そこに、コミュニケーションが生まれて、社交場の役割も果たすようになる。江戸の風呂事情を見ていこう。

連載【江戸の知恵に学ぶ街と暮らし】
落語・歌舞伎好きの住宅ジャーナリストが、江戸時代の知恵を参考に、現代の街や暮らしについて考えようという連載です。

■落語「湯屋番」は、憧れの番台に座ることができた若旦那の妄想で……

「銭湯の番台に座るのは男の夢」のようだが、江戸時代も同じこと。勘当された若旦那が、その夢をかなえたのだが……、という落語が「湯屋番」だ。

鳶頭(かしら)の家に居候の若旦那。まじめに仕事をしている様子を見せて、勘当を解いてもらおうと、鳶頭の知り合いの湯屋に勤めることになった。湯屋は「ゆや」または「ゆうや」と読み、銭湯のこと。江戸では湯屋といい、大阪では風呂・風呂屋といったのだそうだ。

さて、当然ながら最初は外回り、焚き木を拾ってきたりするのが仕事なのだが、力仕事は大嫌いな若旦那。渋っているうちに番台に座る主人の昼飯時になって、無理やり番台に上がらせてもらうことになる。

でも、楽しみな女湯は空っぽ。仕方なく、若旦那は妄想の世界に入る。「色っぽい女性が番台に座る自分を『乙な男だ』と気に入るから、女性の家の前を通りがかれば必ず『お寄りなさい』と声がかかる。いったん辞退する自分の袖を引っ張って、無理やり家の中に入れる……」などと想像しながら、自分で着物の袖を引っ張ったり、もてて困ると自分のおでこを叩いたり……。

男湯の客はその姿に気を取られて、軽石で顔をこすって血だらけになったりして大騒ぎ。そのうち下駄がなくなったと客が怒り出す。すると、若旦那が「そこにある良い下駄を履いてお帰りなさい」。客が後はどうするのだと聞くと、「順に履かせて、しまいは裸足で帰します」。

お後がよろしいようで。

■江戸っ子の入浴の仕方は?入浴マナーは?

江戸時代の前期は蒸し風呂だったというが、次第に湯船に入るスタイルに変わる。入込湯(いりこみゆ)と呼ばれた混浴が当たり前だったが、風紀が乱れるということで幕府は度々禁止令を出した。男湯・女湯が別々なもの、男湯専用、女湯専用のほか、けっきょく混浴も続いたというので、禁止令の効果はあまりなかったようだ。

江戸時代後期の文化年間(1804年〜1818年)になると、江戸には600軒あまりの湯屋があったという。
では、江戸後期の湯屋がどんなものだったか、画像1の浮世絵の女湯と画像2の湯屋の平面図をあわせて見てほしい。

【画像1】女湯の様子「肌競花の勝婦湯」豊原国周(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

【画像2】湯屋の平面図「守貞謾稿. 巻25」(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

表から入って土間で履物を脱ぎ、番台(平面図の高座)で湯銭を払う。一段高くなっている板間(脱衣場)に上がって着物を脱ぎ、衣服戸棚やカゴに入れる。傾斜のついた流し板があるところが洗い場で、溝があって使った湯は外へ流れ出すようになっている。脱衣場と洗い場に仕切りはなかったが、竹の簀子(すのこ)の所で水を切るようになっていた。

浮世絵では少ししか見えないが、その奥に浴槽がある。ただし、洗い場と浴槽の間に板戸を張って、湯気が逃げて温度が下がらないようなエコ仕様にしているので、戸の下をくぐって中に入るようになっている。これを「石榴口(ざくろぐち)」と呼ぶが、画像3のように豪華な装飾がされていた。江戸は鳥居形が多かったのに対し、大阪は破風形が多かったようだ。

浴槽のある石榴口の奥の空間は、明かり取りの窓もほとんどなく、湯気が漂う暗い空間だった。式亭三馬の『浮世風呂』によると、「田舎者でござい、冷えものでござい、ごめんなさい、といい、あるいはお早い、お先へとのべ、あるいはお静かに、おゆるりなどという類い、すなわち礼儀である」と書かれている。「不慣れだから無礼があったらごめんなさい、冷えた体が当たったらごめんなさい」といった意味で、周囲に断ってから入るのが湯船に入るマナーだった。

ただし、江戸っ子は火傷するほど熱い湯が好みだったので、長湯はしなかった。洗い場でしっかり洗って、「岡湯」と呼ばれる“上がり湯”をもらって出るのが基本。なお、湯船の船に対抗して、岡湯と呼ぶのだそうだ。

【画像3】石榴口「守貞謾稿. 巻25」(画像提供/国立国会図書館ウェブサイト)

209名無しさん:2016/11/06(日) 18:32:26
>>208

■マッサージや社交場、徹底したサービス業だった江戸の湯屋

落語の若旦那が座った番台だが、実は主人やベテランの番頭しか務められなかった。風呂で使うさまざまなグッズを販売したりレンタルしたりするだけでなく、客同士の喧嘩の仲裁、板の間稼ぎの見張りなどいろいろなことをしなければならないからだ。板の間稼ぎとは、粗末な衣服で風呂に入って、金目になりそうな高価な着物で出ていくという盗人だ。

洗い場では別料金で、三助(さんすけ)に背中を流したり揉んだりするサービスを求めることができる。湯屋は立派なサービス業だったのだ。

さらに、風呂から上がった男客は、有料となるが、脱衣場から二階に上がる梯子(はしご)で二階の座敷に上がって休憩することができた。茶を飲んだり菓子を食べたりしながら世間話をしたり、将棋や囲碁などを楽しんだりした。

湯屋が町に1つはあったという江戸時代なので、湯屋が出てくる落語や歌舞伎は多い。落語「不動坊」に登場する主人公は、湯屋でひと悶着を起こす。歌舞伎の「暗闇の丑松」は湯屋が惨劇の場になる。落語「金明竹」では、上方の客が早口で「おいえはんだっか?(お家さんですか?)」というと、江戸のおかみさんが「お湯屋はこの先…」と答えるといった具合。湯屋が人々の暮らしのなかに溶け込んでいたことが、よく分かる。

こうして、さまざまな職業や階層の江戸の人たちが集まって、おしゃべりをするなどして憂さを晴らせる湯屋は、今のスーパー銭湯と同じように、江戸っ子のための大切な娯楽の場でもあったのだ。

●参考資料
・「ヴィジュアル百科 江戸事情 第一巻生活編」NHKデータ情報部編/雄山閣出版
・「落語と江戸風俗」中沢正人・つだかつみ著/教育出版
・「大江戸暮らし」大江戸探検隊編著/PHP研究所
・「江戸っ子の二十四時間」山本博文/青春出版社
・「落語ハンドブック改訂版」山本進編/三省堂
・「江戸散策」サイト第77回/クリナップ
・「歌舞伎いろは」和の愉しみ くらしの今と昔/歌舞伎美人

山本久美子

210とはずがたり:2017/03/22(水) 13:07:22
「武器じゃないか?」“謎の物体”の正体、160年経て判明 蘭学者の緒方洪庵もわからず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00010000-nishinpc-soci
西日本新聞 3/4(土) 8:20配信

 「武器じゃないか?」「金の宝だろう?」-

 江戸時代の蘭学者で医師の緒方洪庵(1810〜63)も何に使うか分からず、“謎の物体”とされてきた物の正体が160年後の現代、大分県日田市の咸宜園教育研究センターの職員の手で明らかになった。それはろうそくの火を消すための道具「キャンドルスナッファー」。センターで開催中の企画展「廣瀬旭荘・敬四郎文庫」で公開中だ。

 センターによると、物体は洪庵の友人で日田出身の漢詩人・儒学者、広瀬旭荘(きょくそう)(1807〜63)の子孫宅から2012年に見つかった。金属製で全長18・5センチ、幅3センチ。先端は箱型で、はさみのように開閉できる仕組み。この物体について記述した旭荘の日記の一部と、スケッチも一緒に見つかった。日記は1842(天保13)年から53(嘉永6)年の間に書かれたとみられる。

 日記によると、物体は6月26日、旭荘が拠点にしていた大坂(大阪府)で、漁の網に掛かっているのを発見。「色は黒くてかすかに赤く漆で染めたような感じ」といい、「西洋のものではないか」と考えた旭荘は、友人に尋ねるが「戦に使う道具ではないか」という人や「元は金(きん)だろう」という人がいて答えは出ない。物体にはオランダ語に似た文字が彫られていたため旭荘は友人の洪庵にも見せるが回答は「不識」。結局正体は分からなかった。

 突き止めたのはセンターの学芸担当、溝田直己さん(35)。旭荘関連の資料を調査中だった2014年、旅行先でチェコの画家の作品展を観賞。作品の一つによく似たものが描かれているのに気が付き、それがキャンドルスナッファーと分かった。「一体何なのか見当も付かなかったので、絵を見たときは衝撃だった。できるなら旭荘さんにも教えてあげたかった」と溝田さん。企画展は入館無料で31日まで。

=2017/03/03付 西日本新聞朝刊=

211とはずがたり:2017/04/09(日) 14:54:32
おおっ,tulipsだ♪
別に全世界に公開されてるものの様だけど。

官板実測日本地図
筑波大学
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/3-8.html
国立公文書館
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0600000000/0605020000/00

“竹島は韓国領”を証明する日本の地図、韓国外交部が密かに保管中=韓国ネット「保管しているだけでは意味がない」「日本は証拠もないのに…」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170407/Recordchina_20170407027.html
レコードチャイナ 2017年4月7日 13時00分 (2017年4月9日 14時40分 更新)

2017年4月6日、韓国の毎日経済新聞は、日本が竹島(韓国名:独島)を自国の領土と考えていなかったことが分かる重要な資料を韓国の外交部が20年前から密かに保管してきた事実を確認したと明らかにした。この事実は韓国国際法の「代父」と呼ばれる故ペク・チュンヒョンソウル大学法学部教授の10周忌イベントを準備する過程で明らかになったという。

毎日経済新聞によると、韓国外交部が密かに保管してきた重要な資料とは「官板実測日本地図」。同地図について、独島問題専門家は「19世紀の江戸幕府主導の公信力ある官撰地図という点で大きな意味がある」と説明した。同地図は1870年に正式に発行され、「日本の地図製作の手本」と呼ばれている。地図には1900年代初めの江戸幕府の領土認識が正確に示されている。その後の明治時代の多くの官製地図と同じく、伊能忠敬の地図をもとに作られた。しかし、同地図を見ると、隠岐諸島は記されているものの、その上にあるはずの竹島が見当たらないという。毎日経済新聞は「当時の日本が独島を自国の領土と認識していなかった証拠」と説明している。

韓国外交部関係者は「官板実測日本地図を外交部が保管していることは事実。重要な資料であるため、最高の状態で保存できる桐の箱の中に保管している」と明らかにした。また、同地図を公開していない理由について「独島が韓国領であることを示す重要な史料はすでに多数公開している」とし、「多様な機会を通じて関連資料を公開する準備は常にしていた」と説明した。

同地図について、毎日経済新聞は「伊能忠敬が1800年から1817年までの17年にわたって日本全体を実測し、1821年に完成した『大日本沿海輿地全図』をもとに作られたという点で歴史的な意義がある」とし、「2つの地図のどちらにも独島関連の表記はないため、独島が韓国の領土であることを示す重要な史料と言える」と説明した。

韓国の代表的な独島専門家である世宗大学の保坂祐二教授は、「大日本沿海輿地全図は10回の実測によって作られたが、5回目の実測からは江戸幕府が支援していた国家事業だった」とし、「当時、伊能忠敬は10回の実測を行う過程で独島を訪問しなかった。これは、独島が日本の領土でないことを示す直接的な証拠」と主張した。

ペク・チュンヒョン教授は1961年にソウル大学法学部を卒業し、1968年から2004年までソウル大学法学部の教授を務めた。その後、韓国人初の国連人権特別報告官を務め、国際仲裁裁判所の裁判官としても活躍した。フランスに渡った外奎章閣儀軌の返還、独島領有権紛争、乙巳条約の国際法上の違法性などを明らかにする問題などに積極的に取り組んできたペク教授は、68歳の時に脳出血により死去した。

ペク教授の次男ペク・ヨンジン氏は「1998年に父が当時のお金で1000万円という巨額の私財を投じて地図を購入し韓国に持ってきたが、メディアには知らせなかった」とし、「日韓は当時、『新日韓漁業協定』と『中間水域』についての協議を行っており、敏感な時期だった」と説明した。また、「父は適切な時期に論文を発表しようとしていたが、突然亡くなったため、地図はこれまで日の目を見なかった」と明らかにした。

212とはずがたり:2017/04/25(火) 12:27:18
なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった?
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AF%EF%BD%A2%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5%EF%BD%A3%E3%82%92%E6%B1%BA%E6%84%8F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A8%EF%BD%A2%E3%81%82%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%B0%86%EF%BD%A3%E3%81%8C%E7%99%BA%E6%A1%88%E8%80%85%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%9F/ar-AAn4eD3#page=1
東洋経済オンライン
山岸 良二
2017/02/18

 天下統一を果たした豊臣秀吉は、国内を掌中にしたことでは飽きたらず、海の向こうの大陸への侵攻を企てる。

 この「文禄・慶長の役」と呼ばれる外征、いわゆる「朝鮮出兵」は、しばしば秀吉の錯乱や妄想といった突拍子もない思いつきだとする解釈も聞かれるが、実際は周到な準備のうえで実行された、壮大かつ本気の構想だったことが明らかになっている。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「文禄・慶長の役」を解説する。



秀吉の意図は「貿易の独占支配」?
 Q10.秀吉が明に攻め込もうとした動機は何だったのですか?

 残念ながら、決定的な動機はわかっていません。

 「恩賞として家臣に与える土地が不足していたため」ともいわれますが、秀吉の具体的な理由を示す当時の記録はまだ見つかっておらず、現在でも諸説が挙げられ、議論が続いています。

 ただし、「文禄の役」後の和平交渉に着目してみると、その中の一文から秀吉の「秘められた意図」をうかがい知ることができます。

 Q11.秘められた「秀吉の意図」とは?

 それは「東アジア交易の独占支配」です。

 秀吉が提示した要件に、「日明貿易の再開」がありました。彼の視野には、高価な明の特産品の交易で莫大な富が生み出される光景が映し出されていたのでしょう。

 室町幕府の衰退により、日明間の貿易は長く途絶えていましたが、この貿易は利潤が大きく、1回の往復で元手の数倍〜数十倍もの利益を得られたといわれます。

 ただ、こうした「貿易のうまみ」にいち早く気づいたのは、秀吉が最初ではありません。実はもっと以前から「明の征服」を思い描いていた「ある人物」がいたのです。

 その、「明国侵攻を最初に発案した人物」とはズバリ、秀吉の主君だった「織田信長」です。

213とはずがたり:2017/04/25(火) 12:27:42
>>212-213

Q11.「明征服の最初の発案者」は織田信長だった、と?

 はい。信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていました。

 しかし、思うような反応を得られず、しだいに「武力侵攻」を意識するようになります。信長は安土城を築城しているころ、酒宴で「将来は明国に侵攻する」と口にしたともいわれています。

 信長は周囲のキリスト教宣教師たちから話を聞き、世界の事情、特にアジア地域の情勢にかなり精通していました。事の細かな真偽はともかくとしても、家臣たちに「明国征服」の話をしていたことはあったのでしょう。

 もちろん、まだ日本国内でさえ平定していなかった頃の話。家臣たちも、当時は「話半分」で聞いていたものと思われます。

 ところが、信長から天下統一を受け継ぐ形になった秀吉がその夢を実現させたとき、秀吉は「かつて信長が語っていた明国征服の話」を思い出したのではないでしょうか。

 現在、大阪城には、秀吉が愛用した「三国地図扇面」が残されています。そこには朝鮮と明の国割りが地図で示されていて、これが秀吉の「大陸制服プラン」だったと考えられています。

豊臣も明も滅亡し、「新しい時代」へ
 朝鮮での戦いが終わったあと、日本では戦いの最中に生じた、加藤清正らの前線で死闘を演じた「武士団」のグループ(いわゆる「武断派」)と、石田三成ら後方で軍政を担当していた「兵站(へいたん)官僚」のグループ(いわゆる「文治派」)との軋轢が鮮明となり、豊臣家は家臣の分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。

 一方、荒廃した朝鮮半島では復興に膨大な時間を費やし、明は戦いで多くの将兵を失ったためかその後急速に国力を失って、やがて北方の異民族により滅ぼされ「清(しん)」の時代へと移ります。

 豊臣家、そして明国の滅亡――。どちらも歴史の流れの中では止められない出来事であったのかもしれませんが、対外戦争によってその不幸に輪がかけられたことも、また否めない事実でしょう。

 「私欲による無益な戦い」が、戦った両者それぞれに「多くの不幸」をもたらすことになる──。豊臣秀吉の朝鮮出兵に学ぶ「最大の教訓」は、そのことではないでしょうか。

214とはずがたり:2017/05/25(木) 19:21:00
知らん間に徳島文理大に拾って貰えてたんか>八幡和郎

誰だろ,買おっかねえ,新潮45+,なんで+取れたんだろ?

今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12261605/?utm_source=excite&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=excite&ui_campaign=link_back&all=1

 皇位継承者の不足は、かねてより問題視されてきた。悠仁さまお一人しか将来の候補がいない現状には、旧宮家の復帰、あるいは女系天皇といったことが話題になるが、

〈意外に議論されていないのが、男系でならどういった人たちがいるかということだ〉〈皇室に近い人々の全体像を明らかにしないまま、皇位継承についての議論をすると、得た結論も粗雑で「正統性」が薄いものになりかねない〉

 と説くのは、評論家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏だ。「新潮45」1月号に寄せた「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」で、現在の皇室に近い人々の存在を明かしている。※〈〉は本文より引用、以下同

 ***

 八幡氏が試みるのは、皇室典範でも採用されている「サリカ法典式」で男系男子を長子優先で系図をたどって探す〈頭の体操〉である。

“今上天皇に近い血統”と聞いてまず思いつくのは、昭和22年に皇籍離脱された11宮家ではないだろうか。JOC竹田恒和会長の「竹田宮」など、男系男子での継承が今後も見込まれる旧宮家はあるが、そのルーツはいずれも伏見宮邦家親王であるという。

〈伏見宮家は、男系では南北朝時代の北朝崇光天皇の子である伏見宮栄仁親王に始まる。孫の彦仁親王が後花園天皇となって現皇室につながり、その弟の貞成親王の子孫が伏見宮家を継いだ。

 そして、幕末の邦家親王が子だくさんだったので、その子孫がこの11宮家となった〉

 だが意外にも〈男系ということでいえば、伏見宮家の御当主と今上陛下は36親等も離れている〉という。実はより今上陛下に近い血統が存在する。例えば「華園家」である。

■今上天皇の14親等

特集が掲載されている「新潮45」1月号 ネット書店で購入する
“華園”は、明治の苗字義務付けで、浄土真宗興正寺の僧侶である本寂が「華園摂信」を名乗ったことに始まる。

 京都の西本願寺の南にある興正寺に養子に入った本寂は、文政6年から30年にわたって関白を務めた鷹司政通の次男にあたる。さらに政通の曾祖父は東山天皇の第6皇子の直仁親王であるといい、

〈政通の嫡男輔煕の系統は絶えたので、もっとも皇室に近いのは、政通の次男で浄土真宗興正寺の門跡になった本寂の子孫ということになる〉

 その子孫というのが、本寂の玄孫に当たり、現在の興正寺の門主である第31世本顕(華園真暢)。さらには、父親である前門主真準も健在で、皇族を除けばこの人物がもっとも今上天皇に近い(14親等)という。

 ところが「華園家」には“男系男子”にあたる存在がいない。

〈真暢(59)に男子はなく、長女・沙弥香(22)、法名・真慶(しんきょう)さんが2017年4月1日に門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任する予定だ〉

 であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

215とはずがたり:2017/07/25(火) 12:35:42
琉球国王が薩摩藩士に送った書状を発見 異国船に対処か 専門家「珍しい」
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/115877
2017年7月20日 10:15琉球薩摩歴史尚育王

・19世紀半ばに尚育王が薩摩藩士に送った書状が広島で見つかった
・藩士は琉球に仏艦隊が来航した際、派遣された武装兵のリーダー
・内容は不明だが「比較的身分の低い藩士への国王の書状は珍しい」

 第2尚氏第18代琉球国王の尚育(1813〜47年)が19世紀半ば、薩摩藩士に送った直筆の書状が、広島市内の個人宅に保管されていることが19日、分かった。これまで公になっていない新発見の書状で、確認した法政大学沖縄文化研究所国内研究員の上里隆史さんは「国王が比較的身分の低い藩士に送った直筆文書は珍しい。幕末の琉球と薩摩の政治史を考える上で貴重な史料だ」と話している。

 書状は縦41・2センチ、横50センチ。中央を折り曲げた「折紙(おりがみ)」と呼ばれる古文書の形状で、尚育の署名代わりの記号「花押(かおう)」が記されている。日付は「正月十一日」(1月11日)。日本の武家文書の形式で、薩摩藩士の二階堂右八郎宛てに年始のあいさつなどが書かれているが、書状が途中で切れており、詳しい内容は不明。

 近世琉球は1609年、薩摩藩による侵攻後、独立国の体裁を持ちながらも薩摩からの支配を受けていた。

 上里さんによると、二階堂は1844年に琉球へのフランス艦隊の渡来時、薩摩が琉球に派遣した武装兵のリーダー。書状は同年以降、二階堂ら薩摩藩士に送られたものとみられる。当時はアヘン戦争(1840年)で清がイギリスに敗れ、東アジア各国が異国船の渡来に神経をとがらせていた。薩摩が琉球に武装兵を送ることも異例で、琉球国王が薩摩藩士へ書状を送り、連携して異国船に対処していた可能性がある。

 書状を所有する広島市在住の薩摩藩士の子孫の男性(56)は「自宅で花押が特徴的な書状を見つけたため、ネットなどで情報収集した。琉球史のブログで熱心に情報発信をする上里先生がいなければ、書状の確認はできなかった」と説明。上里さんは「琉球の文書がまだ県外に眠っている可能性がある」と話している。

216とはずがたり:2017/07/25(火) 12:36:57
秀吉の天下統一で琉球に「難題」 島津氏の書状見つかる
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/27631
2016年4月14日 12:04歴史琉球王国人気記事

 薩摩の戦国大名である島津義久が1590(天正18)年、豊臣秀吉の関東平定を祝う使節を派遣するよう、琉球国王の尚寧に要求した書状が13日までに、愛媛県伊予市で見つかった。近世の日本と琉球の関係を研究する東京大学史料編纂所の黒嶋敏准教授(歴史学)が、義久の花押の特徴などから、原本にほぼ間違いないと確認した。

 縦約33センチ、横約45センチの筆書きで、同年、北条氏を制圧して秀吉が天下統一を果たしたので、早々に京都へ使者をよこすようにと求めた内容。怠れば「難題」が降りかかると、高圧的に書かれている。

 今回の書状は愛媛県伊予市の旧家で見つかった。だが2001年にも山中貞則衆院議員(当時)が愛媛県内に保管されていた類似の文書を県に贈呈。現在、県公文書館が保管しており、同内容で、書体や紙の破れ方が極めて似た2つの文書が存在している。

 琉球大学の豊見山和行教授(琉球史)は「県公文書館蔵の文書がきれいな印象で、どちらかの文書が似せて書かれた可能性があるが目的は分からない。両方を突き合わせて考える必要がある」と指摘。

 黒嶋准教授は、当時は島津氏が1609年に琉球へ侵攻する前段階だったことを踏まえ「朝鮮と琉球を服属すべき国と考えていた豊臣政権下で、島津氏は琉球を政権の要求通りに振る舞わせる役割を担っていた。書状の分析から豊臣政権の琉球政策の解明が進むだろう」と話している。

217荷主研究者:2017/07/26(水) 22:54:08

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170718000258
2017年07月18日 23時20分 京都新聞
新選組、野営でなく豪農に宿陣 禁門の変の新史料

禁門の変の際、新選組が旧東九条村で戦闘したことが記された豪農の日記(18日、京都市南区)

 1864(元治元)年7月の「禁門の変」で、新選組の動向を記した新史料が見つかり、18日、京都女子大の中村武生非常勤講師(幕末政治史)が発表した。当時の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川家当主の日記で、新選組が村の農家に下宿しながら街道警護に当たったことが分かったという。

 禁門の変は、京都での勢力挽回を目指す長州藩と、京都を守護する会津をはじめ在京諸藩が京都御所などで軍事衝突した事件で、京都は大規模な火災に見舞われた。日記は同家の蔵で2015年に見つかり、中村講師が調査した。

 6月25日付には、会津勢と行動を共にしていた「壬生浪士組」(新選組)が、東九条村の農家に分かれて「御下宿」したとあり、別の日付で「非番」の記述もあった。従来は長州勢の北進を食い止めるため、竹田街道と鴨川が交わる「九条河原」に約1カ月間野営したと考えられていたが、村を拠点に交代制で警護したとみられる。

 禁門の変が起きた7月19日付には、長州勢約30人が正午ごろ、京都中心部から退いて東九条村に迫り、新選組が鉄砲を撃ち合って追い払ったと記されている。

 中村講師は「禁門の変は京都中心部での戦争と思われがち。新選組の京都南部における開戦前の行動や戦闘の様子が初めて分かった」と評価している。

218とはずがたり:2018/04/04(水) 16:56:23

江戸時代までの日本人は勤勉ではなかった?
https://matome.naver.jp/odai/2140954156057889001
更新日: 2018年03月01日

219とはずがたり:2018/04/04(水) 17:31:36
第6回
日本人は勤勉ではない
〜本当に新しい歴史教科書・PART1〜
http://pmazzarino.web.fc2.com/lesson6.html

お知らせ
 この回の内容は、『反社会学講座』(ちくま文庫版)で加筆修正されています。引用などをする際は、できるだけ文庫版を参照してください。

●頑張りスパイラルの恐怖

220とはずがたり:2018/04/06(金) 23:23:49
『一日江戸人』を読む。
もうちょっと専門書が良かったんだけど,どれが原典なんだろう。

それにしてもお江戸でござる(古っ!!)の杉浦日向子先生だがなんと2005年に咽頭癌でお亡くなりになってたそうな。46才の若さでもっと活躍して欲しかったのに無念であったであろう。
そういえば最近お見かけしないとは思ってたけど早過ぎる死にご冥福をお祈りしたい。

221とはずがたり:2018/04/06(金) 23:27:55
2015.7.21
http://diamond.jp/articles/-/75205
江戸の死生観がその生涯に重なる 杉浦日向子の復活
佐高 信:評論家

222とはずがたり:2018/04/06(金) 23:29:44
荒俣宏と結婚して離婚してたのか!

223とはずがたり:2018/04/20(金) 18:08:52

「大さか」最古の地名記述か
蓮如直筆の和歌草稿に
https://this.kiji.is/359986795456906337
2018/4/20 17:58
c一般社団法人共同通信社

 本願寺中興の祖・蓮如直筆とみられ、「大さか」の文字がある和歌の草稿が見つかり、所蔵する京都市山科区の本願寺文化興隆財団は20日、大阪の地名が記述された最古の原本とみられると明らかにした。

 「なにわ」「なみはや」と呼ばれていた時代から「おおさか」へと土地の呼び方が変わる過程をひもとく史料といい、財団の藤田香奈子学芸員は「真宗史のみならず、日本史上極めて貴重」としている。

 財団によると、見つかったのは、室町時代末期の明応7(1498)年11月8日付で、和歌5首がしたためられた草稿。2011年に京都市内の古美術商から購入した。

224とはずがたり:2018/04/20(金) 18:14:07
近世政治思想史の先生に江戸っ子の話しを尋ねたら教えて貰った

西山松之助『江戸町人の研究 第一巻・第二巻・第三巻』(1972,1973,1974)

を借りてきた。

日向子女史の江戸っ子観の出典はこの辺の様だ。

225とはずがたり:2018/05/15(火) 20:26:40

千利休は切腹していない? 九州へ逃れた説、注目集める
https://www.asahi.com/articles/ASL593HMZL59ULZU004.html?ref=webpush0515
編集委員・宮代栄一2018年5月15日09時01分

 天下人・豊臣秀吉の茶頭として「わび茶」の誕生に大きな役割を果たしたとされる千利休。秀吉の怒りに触れて切腹したと伝えられてきたが、実際には追放されただけだったとの説が近年注目を集めている。

 利休は1522年、現在の大阪府堺市で魚問屋や倉庫業を営む田中与兵衛の子として生まれた。武野紹?(じょうおう)に茶の湯を学び、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として、数々の茶会を主宰。85年には秀吉が開いた宮中の茶会で一条殿などの公家衆に献茶し、「利休」の号を勅賜された。

 しかし、京の大徳寺山門に置かれた自らの木像が、天皇や秀吉がその足下を通ることになって不敬だと秀吉の怒りを買い、切腹させられたといわれる。

 小説やドラマなどでは、この前段に、天下人として、茶の湯にも我を押し通そうとする秀吉と、それにこびずに、自らの美意識を貫こうとした芸術家・利休との間に確執があったように描かれるケースが多い。

 だが実は、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという説がある。文教大学の中村修也教授(日本茶道史)が2015年に著書で唱えた。

 中村さんによると、利休が木像…

(文化の扉 歴史編)異説あり 千利休、切腹してない? 「死後」に茶をたてた記述・九州へ逃れた説
https://www.asahi.com/articles/DA3S13492565.html
2018年5月14日05時00分

内容は同上

秀吉を怒らせた千利休は切腹せずに九州に逃げていた?
https://www.news-postseven.com/archives/20170401_500905.html
2017.04.01 16:00

 千利休は堺の豪商出身で、それまでの豪華な茶の湯に対し簡素の境地を目指した「侘び茶」を大成した。信長・秀吉に仕えたが、京・大徳寺の山門上に自分の木像を置いたことが秀吉の怒りに触れ、自害を強いられたとされている。利休の死後、茶道は弟子らに継承された。しかし、その定説を覆す説も登場。文教大学教授の中村修也氏が千利休の「まさかの素顔」を指摘する。

 * * *
 天正19(1591)年2月、秀吉により堺に蟄居させられていた利休は、京都に呼び戻され聚楽屋敷で切腹を命じられた。その首は一条戻橋にさらされた─通説では、茶人・利休の最期はそう語られてきた。

 ところが、利休が切腹したとされる翌年の文禄元年(1592年)、九州に滞在中の秀吉は、大坂城の母(大政所)へ宛て次のような書状を書いている。

「……私は一段と元気です。昨日も利休の茶を飲んで、食事もすすみ、とても愉快で気分が良かったのです」

 前年に切腹を命じたはずの本人が、利休のお茶を飲んだというのだ。

 利休切腹説を唱えた茶道研究のパイオニア、芳賀幸四郎氏や桑田忠親氏などは書状に書かれた「利休の茶」を「利休流の茶」と解釈している。しかし、当時はまだ「利休流の茶」は流派として確立していない。利休流は養子にして女婿の千少庵が文禄3年、千家(京千家)を興すことから始まる。

 死んだ利休の茶を飲むことはできないため、「切腹」と秀吉の書状に矛盾が生じてしまう。どういうことか。 実は、利休の切腹を裏付ける史料はないのが実情だ。

226とはずがたり:2018/05/18(金) 12:44:52
今上陛下は明智光秀の子孫だった
八幡 和郎
http://agora-web.jp/archives/2028667.html
2017年10月02日 11:30

227とはずがたり:2018/05/18(金) 12:45:28
転勤できる方が「上」? 地域限定型の社員が感じる「ガラスの天井」
最終更新:5/5 15:34
https://news.yahoo.co.jp/story/959
写真・画像「転勤できない」ことはペナルティ?(写真はイメージ=PIXTA)

 「全国型の方が『上』ってことですよね」。地域限定で働く女性は、キャリアを積み上げたくても、ガラスの天井に阻まれているのを感じています。平成に入り、多様な働き方が大事にされる中で生まれたのが「地域限定社員」。しかし、従来通りの「全国転勤型」が事実上、キャリアアップの条件になっている企業が多いのも事実です。「昇進するモデルケースがない」という現場の声を聞きました。(朝日新聞デジタル編集部記者・野口みな子)

228とはずがたり:2018/09/07(金) 12:06:16

フェイクニュース信じ「安政の大獄」…操られた直弼
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180531-OYT8T50013.html?from=yartcl_awst
読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター 丸山淳一
2018年06月01日 11時50分無断転載禁止

 平清盛、石田三成、そして明智光秀。近年のNHK大河ドラマは、悪役、 敵 かたき 役として名を残した人物の再評価を定番としている。にもかかわらず、現在放送中の『西郷どん』で幕末の大老・井伊 直弼 なおすけ は徹底的に悪者として描かれ、「いい直弼」の顔を見せぬまま死んでしまった。史実をたどると、そのワケと「影の分身」の存在が見えてくる。

最後まで消された「いい直弼」像

 NHK大河ドラマ『西郷どん』の第20回目(5月27日放送)で、佐野史郎さん演じる江戸幕府の大老・井伊直弼なおすけ(1815〜60)が、桜田門外で暗殺された。1963年(昭和38年)に放送された大河ドラマ第1作『花の生涯』の主人公となって以来、直弼は大河ドラマ7作品に登場するが、今回の「佐野直弼」は、最も「悪い直弼」だったように思う。

 直弼が指揮した安政の大獄は死罪8人、遠島・追放・蟄居閉門などの処分者は100人以上にのぼる江戸時代最大の政治弾圧だったから、悪役となるのは仕方ない。だが、ドラマの中で直弼は、西郷吉之助(隆盛)(1828〜77)の寝返りを誘い、13代将軍徳川家定(1824〜58)の遺言をねじ曲げ、次期将軍候補の一橋慶喜よしのぶ(1837〜1913)の暗殺を企てるなど、史実の裏付けのない話にも手を染め、最期は決めゼリフのひとつもなく屍しかばねをさらす。

 これまでの大河ドラマには、日本の未来を見据えて開国を決断し、批判にも信念を曲げずに幕府に忠誠を尽くす「いい直弼」像がどこかにあった。なぜ『西郷どん』は“定石”を取り入れなかったのか。

 それは幕末の動乱を描く対立軸を、これまでの定石だった「開国か攘夷じょういか」という気高い思想対決ではなく、「次の将軍を誰にするか」というドロドロした権力闘争に据えたからではないか。確かに、この方がよほど史実に沿っている。

賄賂、接待、怪文書…国難そっちのけの“仁義なき戦い”

 幕末の動乱は1858年(安政5年)、朝廷が日米修好通商条約の締結を事前に了承(勅許)しなかったあたりから本格化する。だが、当事者たちが実際に条約勅許問題に割いたエネルギーは決して大きくなかった。条約を軽視していたわけではなく、外国人が大嫌いな孝明天皇(1831〜67)が条約を了承するわけがないと思っていたからだ。

 朝廷を説得するため入京した幕府の交渉団は、江戸から3万両の賄賂を持参したとされるが、天皇は先手を打って関白の九条尚忠(1798〜1871)に「今回の条約は大変重要なので、関東からの賄賂は受け取らず、安易に言い分を受け入れないよう」とクギを刺していた。それでも一部の公家は賄賂を懐に入れたが、条約締結には反対し続けた。

 朝廷工作の主眼は早々に家定の後継問題へと移り、慶喜を推す一橋派と紀州藩の徳川慶福よしとみ(1846〜66)を推す南紀派が、有力公家の抱き込みを競った。一橋派の薩摩藩は西郷、福井藩は橋本左内(1834〜59)を諜報工作員として送り込み、南紀派は直弼が送り込んだ彦根藩の長野主膳(1815〜62)が暗躍する。

 賄賂や接待、密書、密告、怪文書が飛び交う朝廷工作は一橋派が優勢だったが、主膳は一発逆転の手を打つ。一橋派がばらまいた怪文書を利用して、ありもしない陰謀話をでっち上げたのだ。

勅書から消された3資格…遺恨残した逆転劇
 主膳は水戸藩が書いたと見られる条約締結に反対する文書を、慶喜の父の徳川斉昭なりあき(1800〜60)が天皇に提出した上奏文だと偽って、「斉昭は攘夷を説くことで朝廷に取り入り、朝廷を慶喜の将軍擁立に利用しようとしている」と関白の九条に吹き込んだ。今でいうフェイク(嘘うそ)ニュースに過ぎないのだが、あわせて贈った賄賂の効果もあって、九条は南紀派に寝返る。主膳はこの陰謀話を江戸の直弼にも報告し、フェイクニュースは江戸城内に拡散した。

 九条は勅書の最終チェックができる「内覧」職を兼ねており、味方につけた効果は絶大だった。一橋派は「次期将軍は年長・英傑・人望ある者が望ましい(=次期将軍は年長の慶喜がよい)」とする勅書を得るところまでこぎつけていたが、九条は勅書を幕府側に交付する直前、独断でこの3つの資格を削った。陰謀で逆転負けを食らった一橋派は、主膳と直弼への恨みを募らせた。

229とはずがたり:2018/09/07(金) 12:06:58

失態隠蔽の「でっち上げ」が大弾圧の火種に
 一方、条約に関する天皇の勅書は、予想通り「御三家などでよく話し合い、慎重にきめるように」という事実上のゼロ回答だった。もはや調印の引き延ばしもできず、幕府は天皇の許しがないまま条約に調印してしまう。直弼は天皇の許しを得るまで調印をさらに延期するよう指示したが、開国派の幕僚に押し切られた。

 当然ながら天皇は激怒し、幕府に抗議の勅書を送った。抗議といっても「御三家・御三卿も一致団結して国難にあたれ」という当たり障さわりのない内容だったが、勅書が幕府だけでなく、御三家代表の水戸藩にも送られたこと、さらに幕府より水戸藩に2日早く出されたことが問題となった。

 元毎日新聞記者で歴史家の松岡英夫さん(1912〜2001)の『安政の大獄--井伊直弼と長野主膳』(中公新書)によると、この時、主膳は勅書が出されたことすら知らなかった。ネタ元の九条は知っていたはずだが、「当たり障りのない内容だし、主膳に伝えるまでもない」と判断したのかも知れない。諜報工作員としては大失態だ。

 焦った主膳は、またしても斉昭の陰謀話をでっちあげた。「水戸への勅書は斉昭が朝廷工作の末に出させた『密勅』なのだ」というフェイクニュースを直弼に送り、失態をごまかそうとしたわけだ。

 主膳の報告を信じた直弼は激怒し、“密勅“関係者の摘発に乗り出した。こうして安政の大獄が始まった。主膳は京都の敵対勢力を一掃する好機ととらえ、直弼に告発を重ねた。捜査の過程で西郷の挙兵計画や、吉田松陰(1830〜59)の老中襲撃計画まで明らかになり、大獄はどんどん拡大した。主膳に「摘発が手ぬるい」と告発された京都町奉行まで更迭され、主膳は「京の大老」と恐れられた。

 直弼は「水戸藩に出した“密勅”を返せ」という命令を朝廷に出させた。納得できない水戸藩士は水戸郊外の長岡宿(茨城県茨城町)に集結し、使者から力ずくで勅書を奪い返そうとしたが失敗。標的を直弼に変える。主膳のフェイクニュースは、主君の命を奪う一因にもなった。

ともに不遇の前半生…恩人を信じた直弼

 主膳は直弼が彦根藩主になる前からの和歌や国学の師で、諜報工作のプロではない。朝廷工作を任されたのも、一時、公家の二条家に仕え、歌会などで公家と面識があるだろうという程度の理由だった。にもかかわらず直弼が主膳の情報を信じたのは、長い不遇時代を支えてくれた恩人だったからだろう。

 直弼は彦根藩主の十四男として生まれ、他藩への養子の口も兄弟に奪われて、「藩主の跡継ぎのそのまた予備要員」として、埋もれ木のように朽ち果てる生涯を覚悟していた。主膳は直弼の屋敷(埋木舎うもれぎのや)をたびたび訪れ、学問という“養分”を注入して心が朽ち果てないよう直弼を支えた。主膳が初めて埋木舎を訪れた時、2人は3夜にわたって語り合い、直弼は主膳を「血縁の兄弟のように思った」と記している。

 一方の主膳も不遇の時代があったようだ。主膳は自身の出自や前半生を直弼にしか明かしていない。以前に「幻の宝刀・蛍丸」で紹介した肥後(熊本県)阿蘇神社の大宮司家に拾われた捨て子だった、という説もある。

 後継ぎと藩主の相次ぐ死で、予期せず彦根藩主となった直弼は、家老の反対を押し切る形で主膳を藩士に取り立てた。血縁の兄弟のように結ばれた2人は不遇からはい上がり、権力の階段を駆け上がっていく。

230とはずがたり:2018/09/07(金) 12:07:08
>>228-230
膨大なエネルギーを浪費…政争の結末は?
 将軍後継争いで対決した一橋派の重鎮2人も、血筋をめぐる因縁を抱えていた。水戸徳川家は、紀伊、尾張両家が受け入れた11代将軍家斉(1773〜1841)の男子を養子に迎えておらず、将軍家の血が入っていない。斉昭はそのおかげで当主になれたのに、子の慶喜を将軍に推した。福井藩主の松平慶永よしなが(春嶽)(1828〜90)は田安家から越前松平家に養子に入ったが、この後に田安家当主は空席となる。養子入りが少しずれていたら、慶永自身が有力な将軍候補になっていた。慶永は「自分は後継争いに口を出す権利がある」と思っていたという。

 血筋が決めた長い順番待ちに耐えた直弼が、血筋を重視して慶福を推したのは分かる気がする。だが、政争に費やした膨大なエネルギーは、結果的に幕府滅亡の足を早めただけだった。慶福は14代将軍家茂となるが、敗れた慶喜もその4年後に将軍後見職に就き、家茂の急死で15代将軍となる。安政の大獄で多くの優秀な人材が失われ、直弼暗殺後、主膳も安政の大獄への批判をかぶる形で逮捕・斬首された。

 ないはずの文書が出てきたと思ったら改ざんされる。「伝聞の伝聞」の文書を見て「ウソをつきました」という文書が出たが、それもウソかも知れない――「森友・加計問題」をめぐる迷走は「深層NEWS」でも何度も取り上げた。「一点の曇りもない」のか「疑惑はますます深まった」のか、1年以上たっても分からない。もううんざりと思う人も多かろう。

 だが、ひとつのフェイクニュースが歴史を動かす一因になった例は、幕末の動乱以外にもたくさんある。うみを出し切るまで見守らないと、膨大なエネルギーを費やした意味がない。

231とはずがたり:2018/12/16(日) 17:22:33
大一大万大吉の意味【旗印】石田三成と石田為久の関係は?(石田為久の墓も)
https://senjp.com/daiichidaiman/
2017/12/07

232とはずがたり:2019/01/18(金) 12:27:05

インドネシア・香料諸島(バンダ諸島)を訪れ、「胡椒 暴虐の世界史」を読で感じることは・・・
https://blogs.yahoo.co.jp/st4974/16328679.html
2015/3/11(水) 午後 6:48

バンダ諸島は古くからスパイス・アイランズ(香料諸島)と呼ばれてきたモルッカ諸島の南部、バンダ海の北東部、セラム島の南100キロほどにあに位置する10の火山性の小さな島々かなるが、ナツメグなどの香辛料が採れるということで欧州の国々によるスパイス戦争の暴虐にさらされた歴史を持つ悲劇の島々でもある。

バンダナイラは赤道直下のぎらぎらと輝く強い日射しに照らされるが、鬱蒼と茂る真っ青な木々の木陰はそよ吹く海風もあり本当に心地よく、子供たちが遊ぶ声が時折聞こえるだけで人かげもまだらな本当に静かな町だ。

こんな静かで穏やかなところで17世紀の初めにオランダにより島民の殆どが虐殺されるような悲劇が起きたとは全く思えない。

バンダナライ島の博物館にその虐殺の状況を描いた1枚の絵が展示されて、しかも日本人がその虐殺を行っているという。

モルッカ諸島/香料諸島
https://www.y-history.net/appendix/wh0901-054.html

東南アジアの諸島部のスラウェシ島東部にある群島。香料諸島とも言われ、丁字などの香辛料が豊富に産する。
 モルッカ諸島(現在はマルク諸島という)は、インドネシアのスラウェシ島とニューギニア島にはさまれた赤道直下の海域に点在する。香辛料の中でも丁子(丁香、クローブのこと)と肉ずく(ナツメグのこと)の原産地でここでしかとれない、貴重な香辛料(香料とも言う)であったので香料諸島(香料と香辛料は厳密には違うが、ここでは香辛料の取れる島という意味で使っている)と言われ、ポルトガルとスペインはいずれもこの地の香辛料の独占を図って競合した。

233とはずがたり:2019/01/18(金) 12:30:04
http://tokada.net/tok.html
TOKADAって?

トカダ(Tokada)社の社名の由来は至って簡単です。東京(Tokyo)の'TO'とインドネシア共和国の首都:ジャカルタ(Jakarata)の'KA'、そして英語でandを意味するインドネシア語の 'DAN' からDAをとって並べました。つまり東京とジャカルタの意味です。この社名には、東アジアに位置する日本の首都東京と、東南アジアで東西に横たわるインドネシア共和国の首都・ジャカルタの二つの大都市を軸(ハブ)に、相互にビジネス(商売)を、心通じる仲間と共に起こそうという私共の願いが込められています。

トカダ(Tokada)社の業務は、真摯な人と人とを繋ぎ仕事を創り出す事です。この事業創造活動をインドネシア在住日本人専門家のネットワークを通じて推進しています。そんな私共は、これからインドネシアへ進出する、或いはインドネシアとの関係を作りたいという会社や個人をご支援致します。ご相談から始まり、必要な段取りの確認、専門家の編成、現地進出という一連の組み立てを致します。

http://tokada.net/mangaku/mg21.html
1 香料諸島のサムライ

234とはずがたり:2019/08/14(水) 17:06:21
好きだったのではない。米本位制とも云うべき経済体制の中で新田開発が進んで米価安の諸色高が進んで米の独歩安だったのだ。今みたいなクソ高い米食わされると自然と消費量減るわ。

こんなに違うの…江戸時代と今の「食文化」を比較してみた
江戸時代の人、白米好きすぎるでしょ。
https://www.buzzfeed.com/jp/mizkangroup/edofood?distro_platform=twitterA
2019/08/01 00:00

235とはずがたり:2019/08/14(水) 17:07:51

やっぱり経済制裁では? 対韓国輸出「適切な管理措置」と言うが…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2019081002000175.html
2019年8月10日

 7月に始まった半導体関連の対韓国輸出の規制強化。元徴用工訴訟問題などへの「経済制裁」だと韓国は猛反発するが、政府は「適切な輸出管理だ」との姿勢を貫く。だが、本当にそうか? 今年1月には自民党の部会で「フッ化水素」の供給を停止せよという声が上がっており、シナリオはできていたとの疑念はぬぐえない。半導体の専門家は、このままでは、日本の産業界にも大打撃があると警告する。 (片山夏子、石井紀代美、大村歩)

236とはずがたり:2019/08/14(水) 17:18:44
貨幣ではなく米を基準とする軍事政権の建前が最期迄徳川幕府を近代国家に脱皮させなかったねえ。。列強への脱皮に成功した明治国家よりも米の呪縛から解き放たれて近代化した徳川政権の方が平和だったかもしれない。その場合の国家像はタイの様な感じ?

諸色
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%89%B2

諸色(しょしき)とは、江戸時代において物価を指した言葉。一般的には米を除いた日常品の価格を指す場合が多い。

物価の高騰を諸色高直(しょしきこうじき)、低落を諸色下直(しょしきげじき)と呼んだ。江戸時代においては米価と諸色は連動すると考えられていたが、米の増産による価格低迷が享保年間には「米価安の諸色高直」の現象を招いた。

米価と諸色のバランスの調整は、いわゆる「三大改革」の一環として必ず取り上げられた問題であった。享保の改革では、米価が下がっているのに諸色が下がらないのは商人たちが不当に利益を得ているからだとして価格引下げを命じている。寛政の改革の際には価格監視を目的として江戸町奉行所の与力・同心と町役人による諸色掛(しょしきがかり)が結成されて幕末まで継続されている。天保の改革においては物価吊り上げの元凶とされた株仲間の解散を行ったが、株仲間がこうした行為を組織ぐるみで行っていたという証拠は無く、却って流通の混乱を生じさせて更なる諸色高直を招いた。なお、当時の大坂町奉行阿部正蔵は幕府に対して「諸藩の専売制」「一部商人の不正取引」「抜売買の横行(正規外の流通ルート)」を諸色高直の原因として対策を上申したが、採用されなかった。更に幕末の開国後の貿易は更なる価格高騰を招いた。そこで慶応年間には生活物資の流通機構を半国営化する「諸色会所」構想が唱えられたが、江戸幕府の滅亡によって実現しなかった。

備考
なお当時の対中国向け貿易において、いわゆる「俵物三品」以外の輸出海産物(昆布、ワカメ、テングサ、スルメ、干物、干貝、鰹節等)を諸色と呼称していた。

237とはずがたり:2019/09/22(日) 22:17:15
https://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/591bf769e0126a1bfd98f8957f1fb882
朝鮮通信使の「鶏泥棒」はぬれぎぬ? 〜「鶏が逃げ、それを捕まえようとした可能性も」ー京都新聞
2010年04月10日 | 支那朝鮮関連

238とはずがたり:2020/07/02(木) 16:43:07
洒落たデザインだ♪

幕末にコレラ流行を予言、不思議な「ヨゲンノトリ」 相次いで商品化され福を呼ぶ
会員限定有料記事 毎日新聞2020年6月25日 11時53分(最終更新 6月25日 12時07分)
https://mainichi.jp/articles/20200625/k00/00m/040/099000c

239とはずがたり:2020/07/08(水) 16:10:02

日本史探険
全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革
歴史 2020.04.14
河合 敦 【Profile】
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/

外交政策:キリシタン迫害と朝鮮出兵
外交政策について秀吉は当初、信長のキリスト教保護政策を継承したが、九州平定後の1587年、肥前国の大名・大村純忠が長崎を教会領としてイエズス会に寄進したり、日本人を海外へ奴隷に売ったり、キリシタンが神社仏閣を破壊している事実を知ると、突如、バテレン追放令を発して宣教師に国外追放を命じた。ただ、法令発布後も南蛮貿易は奨励したので、法令は徹底されず、しばらくすると布教活動が再会された。ところが1596年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が「スペインは領土拡張に宣教師を利用している」と証言したことが秀吉の耳に入ると、宣教師やキリスト教信者26名を捕まえ、翌年、長崎で処刑した(二十六聖人の殉教)。これにより日本とスペインの国交は断絶した。

長崎市内の二十六聖人記念碑(PIXTA)
長崎市内の二十六聖人記念碑(PIXTA)

当時、国内の大名や豪商は、交易のため東南アジアに進出していった。秀吉も1588年に海賊取締令を出し、貿易船の海上通航の安全を図った。ただ、衰退した明国を征服し、日本を中心としたアジアの国際秩序をつくろうと思い描くようになる。そして朝鮮やインドのゴアのポルトガル政庁、フィリピンのスペイン政庁、高山国(台湾)などに朝貢を要求したのである。特に朝鮮に対しては対馬の宗氏を通じ「明国に攻め入るから先導役をつとめよ」と命じた。しかし朝鮮は求めを拒絶。すると1592年、秀吉は15万もの大軍を釜山から上陸させ、朝鮮半島の侵略を開始した(文禄の役)。

当初、日本軍は破竹の勢いて進撃したが、李舜臣率いる朝鮮水軍が亀甲船を駆使して日本軍の補給路を断ち、民衆を中心とした義兵も激しく抵抗するようになった。明の援軍も襲来してきたため、日本軍は苦戦を強いられ、戦線は膠着した。そこでいったん休戦して講和交渉に入るが決裂、1597年、秀吉は再び14万の軍勢を半島に上陸させ、朝鮮南部の占領を企てた(慶長の役)。だが今度も大いに苦戦し、結局、秀吉の死をきっかけに翌年、朝鮮から撤退した。この2度の朝鮮侵略(朝鮮出兵)は朝鮮に多大の損害を与えたが、国内でも莫大な軍事費と兵力を無駄に費やすことになり、豊臣政権を衰退させることになった。

240荷主研究者:2020/11/08(日) 14:00:20

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202010/20201004_15034.html
2020年10月04日日曜日 河北新報
東北大図書館が「狩野文庫」デジタル化 江戸学の宝庫、第1弾232点を公開

デジタル公開された狩野文庫の資料の一つ「四季献立式」

狩野亨吉

 東北大付属図書館は、所蔵する「狩野文庫」の資料約2万点をデジタル公開する。明治期の思想家・教育者狩野亨吉(かのうこうきち)の旧蔵書で、9月24日に第1弾として江戸期を中心とした古典籍232点をネット上で閲覧できるようにした。文庫は「江戸学の宝庫」として国内外の研究者から注目を集めており、デジタル化で閲覧希望者の利便性を高める。

 国文学研究資料館(東京)が運営するウェブサイト「新日本古典籍総合データベース」で公開する。江戸期の季節行事の供え物を描いた「四季献立式」、徳川吉宗の命で編さんされたとされる刀剣カタログ「名物刀剣記」などを画像ファイルで閲覧できる。

 狩野は現在の大館市に生まれ、旧制一高校長などを務めた。旧蔵書は文学や哲学、自然科学など幅広い分野に及び、「古典の百科全書」とも称される。所蔵する東北大図書館には各地から研究者らが訪れていた。

 デジタル化によって、資料の文字を拡大して読むことも可能になった。東北大は2024年度にかけて、狩野文庫の江戸期を中心とした蔵書を順次、画像ファイルを通じて閲覧できるようにする計画だ。

 同図書館は「研究に役立ててもらうとともに、一般市民にも気軽に古典資料に親しんでほしい」とアピールしている。

241とはずがたり:2020/11/23(月) 19:22:54
【戦国こぼれ話】日本人奴隷は世界を駆け回っていた!?あまりに無慈悲な奴隷正当化の論理!
渡邊大門 | 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
11/23(月) 10:05
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20201123-00209166/

242名無しさん:2021/04/03(土) 08:00:14
日本の城郭
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1063013969/415

幻となった不遇の城・江戸城4代天守はなぜ再建されなかったのか?
4/3(土) 6:09配信
サライ.jp

監修・文/菅野俊輔
早稲田大学政治経済学部卒業。江戸文化研究家。早稲田大学エクステンションセンター講師。現在、江戸のくずし字や江戸学など“江戸を楽しむ講座”の講師を務めながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍。主な著書に『図説世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』『古地図と名所図会で味わう 江戸の落語』『江戸の長者番付』(以上、新書、青春出版社)、『書いておぼえる 江戸のくずし字いろは入門』(柏書房)、『江戸っ子が惚れた忠臣蔵』(小学館)などがある。

サライ.jp

243荷主研究者:2021/08/08(日) 14:03:58

https://kahoku.news/articles/20210625khn000002.html
2021年06月25日 06:00 河北新報
奥羽越列藩同盟の拠点「松の井屋敷」跡に案内板 古地図や写真添え解説

設置した案内看板を見る角田さん(左から2人目)ら

 戊辰戦争(1868〜69年)で奥羽越列藩同盟の拠点となった「松の井屋敷」の案内看板が、仙台市青葉区片平1丁目の跡地にお目見えした。県内でレストラン「HACHI」を展開するオールスパイス(仙台市)がグラフィックデザイナーらと製作。同盟で中心的な役割を担った仙台藩の歴史を伝えようと設置した。

 看板は縦80センチ、横140センチの鉄製。奥羽25藩が新政府軍に対抗する「仙台盟約書」を交わし、その後、同盟本部が置かれた松の井屋敷に関し、江戸時代末期の地図や昭和20年代の写真を添えて紹介している。

 5月上旬、跡地に建つマンションの入り口に完成した。オールスパイスが7月、マンション内に本社を移転させるのに合わせた。

 看板製作は、社長の角田秀晴さん(57)=青葉区=が昨年11月、街歩きイベントに参加したことがきっかけ。幕末の絵図に詳しいデザイナーの厚綿広至さん(52)=泉区=が松の井屋敷の説明に「架空案内看板」という解説資料を使ったのを見て、思い付いた。

 本社移転に向け、自社看板の設置費として確保していた30万円を活用。看板に記した解説文は厚綿さんの資料を基に作成し、郷土史家の木村紀夫さん(81)=同=に監修してもらった。

 今月15日に現地であった設置発表会で、角田さんは「戊辰戦争ゆかりの地は市内に点在する。看板を見て、幕末の仙台に関心を持ってほしい」と話した。

244徳川に捨て駒として育成・利用され虫ケラのように射殺された東大出:2024/02/25(日) 14:58:21
〓腹黒い三井財閥と結託して世界大恐慌の最中に旧ソ連共産党の独裁者スターリンの第一次五カ年計画の猿真似をして旧平価での金解禁と『国策デフレ』を強行し、明治維新以降、折角 近代化した資本主義ブルジョア日本経済を故意に ぶっ壊し、内地に非自発的失業者と餓死者を溢れさせた『徳川ゾンビ』の昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)の卒業生。

〓資本主義ブルジョア日本経済を故意に ぶっ壊した金融テロリストの井上準之助や浜口雄幸は『徳川ゾンビ』の昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)において徳川の残党のために『捨て駒』となるべく金融テロリスト(共産主義パルチザン)として育成されたチンピラであった。

〓「(『国策デフレ』を強行した)国賊ポン銀(・財務官僚)を銃殺に処すべし」と明言したノーベル賞経済学者のクルーグマン教授。

〓戊辰戦争で徳川幕府を壊滅させた薩長土肥の明治政府が育成した資本主義ブルジョア日本経済を ぶっ壊す役目を終えるとポンコツ東大卒の金融テロリスト(チンピラ、テロ実行犯、共産主義パルチザン)であった井上準之助や浜口雄幸は虫ケラのように射殺された。

〓井上準之助や浜口雄幸のようなポンコツ東大の卒業生は徳川の残党を首班に戴く共産主義プロレタリア革命政権を樹立するための単なる『捨て駒』である。

〓出鱈目『量的金融緩和』(2001年〜2006年)を含む『国策デフレ』を強行した国賊ポン銀(役員)の内、岩田一政、須田美矢子、植田和男、西村清彦 等は共産主義マルクス経済学の牙城である『徳川ゾンビ』の昌平坂学問所(看板だけ『東大帝国大学』に架け替え)の前教授であった。

〓自分達はマルクス共産主義の牙城と化した昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)において徳川の残党のための捨て駒として育成された金融テロリスト(チンピラ、テロ実行犯、共産主義パルチザン)なのだと全く気付かぬナイーブなポンコツ東大 卒業生。

〓徳川の残党のための捨て駒として育成された金融テロリスト(チンピラ、テロ実行犯、共産主義パルチザン)であるという自覚のない侭、反米・極左のポンコツ東大 卒業生が虫ケラのように射殺されて来た。




〓歯向かうも何も 国家公務員総合職試験に合格した明治大学の荒井退造の学力の方が、不合格だったポンコツ東大法学部の落ちこぼれより上だぜ。




〓そんなに井上準之助や浜口雄幸にようになりたいのか?

〓マルクス共産主義の牙城である昌平坂学問所(看板だけ『東京帝国大学』に架け替え)の卒業生が指導し徳川の残党を首班に戴く共産主義プロレタリア革命政権なんて出来ねえから、『国策デフレ』を強行して金融テロリズムで資本主義ブルジョア日本経済を ぶっ壊そうなどと悪足掻きするのやめろ(笑)


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