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近世日本史スレ

194とはずがたり:2016/05/22(日) 22:49:22
後家好み(=子どもを産める女である事を確認)と云われる程,子孫を着実に増やして親藩を涵養した家康に対して一族少なかった豊臣なんで秀次を殺したのは失策だよなあと俺もかねがね思ってたけど・・。
>史料を丹念に読み込み、関係人物の行動、当時の武士の思考をも考慮すると、「秀吉に秀次を追放・切腹させる意図はなかった」事実が浮かびあがる。
>関白の切腹という前代未聞の大事件に見舞われた豊臣政権は、これ以後、事件の火消しに追われることとなる。この結果、事件を一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げる必要に迫られた政権は、秀次は切腹に値する人物であったと喧伝し、秀次の妻子全員の処刑という悲惨な結末をもって、事件は幕を降ろすのである。

新説!豊臣家を滅ぼした「組織運営」の大失敗
「秀次切腹事件」がターニングポイントだった
http://toyokeizai.net/articles/-/117781
矢部 健太郎 :國學院大學教授 2016年05月22日

老いた豊臣秀吉は愛息秀頼を後継者としたい一心で、〈殺生関白〉の悪名高い甥の秀次に追放・切腹を命じ、その一族を大量処刑した――。史上名高い「豊臣秀次切腹事件」だ。しかし、國學院大學教授の矢部健太郎氏はその通説に疑問を投げかける。『関白秀次の切腹』を著した矢部氏が、通説とは異なる事実とともに、人材マネジメントの重要性を説く。
秀次の切腹は「想定外」だった!

「豊臣秀次切腹事件」とは、文禄4年(1595)7月15日、高野山で起きた豊臣秀次の切腹とその妻子の集団処刑に至る騒動を指す。秀吉から譲られて関白となった甥・秀次は、いわば豊臣政権の2代目であるが、「殺生関白」と呼ばれるほど暴虐な振る舞いが多く、息子・秀頼を後継者にしたい秀吉によって、高野山へ追放、切腹を命じられたという通説が一般的に認識されている。

この事件は朝鮮出兵と並ぶ豊臣秀吉晩年の愚行の代表的事例とされる。織田信長の足軽から天下統一を成し遂げた英雄・秀吉も晩年はもうろくし、みずからの愚行により豊臣政権の寿命を縮めた、というイメージを後世にまで残したのである。

しかし、史料を丹念に読み込み、関係人物の行動、当時の武士の思考をも考慮すると、「秀吉に秀次を追放・切腹させる意図はなかった」事実が浮かびあがる。たとえば、以下の点などである。

①秀吉は秀次に召使いや料理人、番人をつけている

文禄4年7月12日付「秀次高野住山令」で秀吉は高野山に、秀次の身のまわりの世話をする者や料理人をつけるよう命じている。また、秀次の下山や、彼を見舞う者の侵入を見張るための番人を用意するよう、高野山の僧侶たちに命じている。いずれも、秀次をすぐに切腹させるつもりなら必要ない措置である。

②切腹を命じる一次史料が残されていない

「秀次高野住山令」は一次史料に写しが残されているが、秀次に切腹を命じたことを示す一次史料は見つかっておらず、江戸時代に完成した『甫庵太閤記』に形跡が残るのみである。しかも、それは秀吉の時代に作成された文書とは考えられない形式・内容のもので、「偽作」と断定すべきものである。

秀吉という圧倒的な存在感を持つ個人の存在なくして豊臣政権は誕生しえなかった。それは逆に、秀吉の死後に後継者が政権を運営していく場合、数々の困難が予想されることを意味する。そのことを熟知していた秀吉は、政権を永続させるためにある手を打った。豊臣家を「摂関家」にしたのである。

「摂関家」とはその名のとおり、国政を取り仕切る摂政と関白になれる家格のこと。近衛・一条・二条・九条・鷹司の5家のみの、貴族社会の頂点に君臨する、まさに選ばれた家である。秀吉は、近衛家の猶子となることで武家として初めて任官したわけだが、その時の彼は「藤原姓」を名乗ったことになる。その2カ月後、朝廷から新たな武家の本姓として「豊臣姓」を下賜されたことにより、豊臣宗家は「豊臣摂関家」の家格を得たわけである。これにより「位人臣を極めた」秀吉は、個人としてのみならず、豊臣宗家にも絶大な権威を帯びさせることに成功したのである。秀吉は、ようやく手に入れた関白の座を秀次に譲ることで、豊臣家による関白職の独占、そして豊臣政権の正当性を担保しようとした。その秀吉が、みずから関白・秀次を殺したとなれば、それはいわば究極の「自己否定」である。そのようなことが、現実的にありえるだろうか。


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