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聖典引用 板

922ハマナス:2012/07/06(金) 22:54:55 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

文明文化のおける見せかけの幸福  (『新版 生活の智慧365章』P.197より)

 物質文明が発達して来るにつれて、人間は幸福になるかと思うと、だんだん人間は噪音
(
そうおん)になやまされることになった。飛行機が発達して速力は迅(はや)くなって
きたけれども、噪音は愈々はげしい。最早、防音設備のない部屋では、静かなる録音が
出来ないようになっている。

 では音速以上の飛行機にのってでも旅行したら、音を彼方へのこして置いて走るから
噪音は聞こえないかと云うと、音の壁を破る時の飛行のショックが大変なものであるし、
他の飛行機からの噪音も聞こえてくるし、自分の起こした噪音は目的地に達して若干時
の後に追いかけて来るから噪音を逃れる道はない。原水爆は論(い)うに及ばず、物質
文明は今や人間に幸福と見せかけて不幸を与えようとしつつある。若しこの文明を霊的に
導きによって調節することがなかったら人類は破滅に近づきつつあるのである。

感謝合掌

923SAKURA:2012/07/06(金) 23:13:59 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

私も、此処で【聖典を投稿…】しましてから、正直!それなりの「精神状態」が、
変わって来ております…。
更に!前以上に【時間管理…】が、大事ですが〜〜〜!!
本日の「雅春先生の言葉」より、改めまして【精神統一は神想観が一番】と、
この思いが〜〜〜痛切に思う次第なのですが???
では「今日の言葉」は〜〜〜〜〜〜〜パラパラ〜♫〜♫〜ごまひらけ〜〜〜

■【幸福を招く365章】
―――――神は貴方に特殊の使命を与え給う―――――

神があなたを地上に遣わし給うたのは、この地上に於て、あなた自身でなければ
出来ない特殊の使命を遂行せしめんがためである。あなた自身が此の特殊の位置を
選んだのではないから、神が特に貴方を選ばれたのであるから、何も貴方自身は
心配することは要らないのである。あなたは他の人のする事で出来ぬ事があるかも
知れないが、またあなたには他の人の出来ぬことで、あなただけに出来る特殊の
使命能力があるのである。「吾に神宿れり、何をか恐れん」と唱えて何事にもでも
邁進せよ。                   
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■【この世に生れて、私にしか“出来ない事”が、ある!!…】
…と、確信して“邁進中”なのですが〜〜〜
帰郷してからの“私”は、此の【邁進中…】が、ぼやけているのでしょうか???
つまり【目標…使命感の位置づけ】と申しましょうか???

■つまり【目標設定…】が、以前と比べますと〜〜〜“変化”しているのに気付きました。
若い時の様に、ひたすら〜がむしゃら〜その様な「精神状態」ではなく、
今日では【唯!神と一体】で、動いている私に気づき出した次第なのですが…?
どんな状況でも?“生かされている〜満たされている〜”でしょうかしら〜〜〜ン!

■悪い時は、何かの“伝言メッセ−ジ”とか思いんす。
神様からの「電話のベル〜♫〜」を、静かに見護っています〜〜〜。必ず!必ず!
私の「潜在意識…」に、届きまして「伝言メッセ−ジ」が入って来るのですもの???
今から、更に【 進 歩 続 行 中 】なのです。

■■今から、【私…SAKURAの使命物語り】が〜〜〜♫〜〜〜
始まる!此処で幕くが〜〜〜開け〜〜〜ごま〜〜〜ひらけ〜〜〜♫〜〜〜

                              再合掌

PS:トキ様へ
この世に、人間の「使命感…」人それぞれでしょうが〜〜〜><
此の事に“気づく人々”は、いかほどなのでしょうか?そして、“行”ずるまで…至る事は、
やはり【持続精神…意識集中】と思います…。この件は?如何でしょうかしら〜〜〜ン!更に!
此の「使命感…」失礼ですが?「トキ様」に於かれましては、どの様にお考えでしょうか??

924a hope:2012/07/07(土) 07:44:30 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

凄い男の顔【後半】


毎日眉を伸ばして、心を愉快に愉快にするようになりましたら、
今まで別所さんに不深切であった人が深切にしてくれるようになりました。

人が自分に不親切だと思っていたが、本当は自分の顔の感じが悪かったのだとわかりました。
自分の顔の感じが悪いのは、いつも不平で暗い思いをしていたからだと判りました。

そして心を明るくして楽天的になるとともに、夜もよく眠れるようになり、
僅か二ヶ月もたたぬうちに神経衰弱が治ってしまいました。
やがて胃病も治る時が来ました。

……ただ眉と眉の間を伸ばすだけで医学で治らなかったこれだけの病気が治った。
むろん、人相もよくなったのです。

そこで考えられたのは眉を展(の)ばす健康法です。
別所さんはこの健康法でどれほど多くの人を救(たす)けたか知れません。

そしてこの健康法でお金を儲けて数十万の資金を造り、
今では精常会という財団法人になっているということです。

もちろん、やがて奥さんのヒステリーも治りましたし、眉を一つ展ばし、
気持ちのよい人間になるだけのことで、こんなに人間は健康にもなれば、運命も開けてくるものです。

皆さんは何よりも人から見て気持ちのよい人間にならねばなりません。

(つづく)

925ハマナス:2012/07/07(土) 22:48:44 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
ありがとうございます。

素晴らしいアイディア (『新版 生活の智慧365章』P.197)

 神が人間に導きを伝える方法には色々の方法ある。先ず「神格の内流」そして其の人
自身が恰も考えるが如く、そのままの状態でスラスラと善き言葉や、よき考えが思い
浮かんで来るのである。そこに何ら不自然な状態はないのに、その湧き出て来た言葉や
アイディアが、「人間たる自分では迚(とて)も考えられないような」高さと格調とを
そなえた妙想であるのに驚くのである。

 下腹から沫が込み上げて来るように声がこみ上げて来て奇想天外な事を話す場合がある。
これは明らかに憑霊(ひょうれい)であり、憑霊が喋るのであるから,二重人格にあらわ
れるのであって、これを天言通とも言う。その憑霊の高さ低さによって宇宙の大神の神意を
伝えるための高級霊の言葉であることもあれば、人間を弄(もてあそ)んで愚弄(ぐろう)
悦ぶ低級な動物霊であることもある。こう云う霊示は常識で判断して審神(さにわ)しなけ
ればならない。

感謝合掌

926SAKURA:2012/07/08(日) 01:16:58 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は【七夕〜☆〜】です…。
私も「心の短冊」を織り込みました…。ウフフ〜〜〜〜〜
今年の「願い事??」は〜〜〜〜何でしょうか??唯今!独身の私、子供のいない大人だけの生活
でも、この“日本の年間行事”〜〜【七夕〜☆〜】何となく〜〜“涼”を呼ぶアクセサリ−として
【七夕かざり〜〜】を……『 心 の 七 夕 』で〜〜〜す。
瞼を閉じて……如何にも夏らしさが……“風情豊かな〜〜行事”ですもの〰〜〜ネ!
では!もう一つの【 七 夕 】は〜〜〜“聖典”での願いを〜〜〜“短冊”に〜〜〜☆〜〜〜

■【幸福を招く365章】
―――――人間の本質は健康である―――――

神の子は、その本質に於て神と同質であり、神の美と健康と一切の宜しさとを
表現せるものであるのである。神の自己表現であるところの自分が不完全であったり、
不健康であったりする筈はないのである。神の完全さはその無限の力をもって、
視えざる世界から絶えず間断なく見える世界へと表現すべく押し迫って来ているので
あるから人間がその力にまかせ切ると不健全などになりようはないのである。
若し神の完全さが人間にあらわれないならば、それは、神に委せ切らず、神の生命
の流れ入るのに素直にならず、我の働きが神の波長に合わなかった結果にほかならない
のであります。我によって「癒(なお)ろう、癒ろう」と力むことは却って神の
癒やす力の流通路を妨げることになるのである。自分を捨てよ「ままよと云う心に
ならねばお陰は得られぬ」と金光教祖もいっている。 
        (谷口雅春著)
                          
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■私も、10年前に大変な“病気…”になりました。その時!「早期発見…」で見つかり、
その時は、物凄〜〜〜く?落ち込み〜〜〜?当に!お先“真っ暗になり”><【暗黒世界突入】
しかも“千葉の行徳(自宅)”に、移り住みましてからの出来事で、丁度“一か月後”の病気でした。

                 <つづく>             NO.1

927SAKURA:2012/07/08(日) 01:18:42 ID:V.pKl3yA
                 <つづく>             NO.2         ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。それでは、
>>926投稿の続きです

■その頃…私は【 信 仰 〜〜〜 真理を求め 〜〜〜 心の旅に 〜〜〜 】

当時!私は【法の華…】に出入りを、何カ月間の間ですが〜〜〜?
朝起きますと“大きなな声”で歌う〜♫〜【般若心経…】をしていましたが〜〜〜
そこに【信仰の出入りをする】までは、きちんと【先祖供養…】をしていましたが〜〜〜><

更に!あるお客様と知り合い、その方の紹介で【創価学会…】に入会しましたが?
お客様が「あれを捨てるよう〜〜に!これを捨てるよう〜〜に!」と、
今まで持っていました【神棚】持って帰られてしまい…振り返りますと…この“出来事”の、
その後に起きたのが“早期発見…病気!”でした。
私は、それで【原因は、父に対しての“先祖供養”が〜〜〜】その様に、考えまして…
それからは、当時は分からずじまいにて“号に従って…学会のお経”を、
皆様も御存じの【法華経…】を、毎朝!!何と“6時から祈り〜〜〜♫〜〜〜日中は、もちろんですが?
毎日の行事「朝晩は祈り…」当時の「創価学会の方の…祈り」は、すごい〜〜〜ですネ!

■それから「創価学会」は、【先祖供養…】に関しまして“重視”していない様に解釈致しましたが…
…私なりに【先祖供養…】しまして〜〜〜
更に【お彼岸・お盆・】必ず!参加して、そこの「会員の方々に必ずしないといけない!!」と、
反対に…【先祖供養…大切さを口酸っぱく…!】言いながら〜〜〜
何年か前でしょうか、当時“私の耳…”が、全く聞こえない状態に陥りまして…
そうなのです〜〜〜ョネ!【補聴器…】を、使用しても“音”そのものが入らずに〜〜〜
ズ〜〜〜ッと欠かさずに【祈り…】に徹していました。
そうこうしています内に【直感にて“神の声”でしょう〜〜補聴器を付けてみなさい!!】
帰宅後、直ぐ【補聴器…】を出して、聞きますと?“音…”が入ります…。かすかな“音…”
それでも…1時間しますと?“音…”が流れてしまうので、聞こえない状態が〜〜〜><
その繰り返し〜〜繰り返し〜〜の日々でしたが…
少しの【お願い…】でしたが、「学会の祈り…」で少しは“成就…”でしたが〜〜〜><
その後【調布…】に移り住み、近くの【本部練成道場の飛田給…】に、
なるべく「早朝行事…」参加をさせて頂きながら〜〜♫〜〜
ある日の“出来事”…【一日中…“補聴器”で聞こえる】状態になり、此処まで回復!!
それからは、もう〜〜〜私は【生長の家…祈り】が〜〜〜

■【創価学会の祈り…】は確かに、それなりに“功徳”があるのでしょうが〜〜〜!
【祈り方…は“神に委ねる”のではなく、「仏様…」を、遠くに置いて?眺めている様な感じです…。
【宇宙…】まで、【祈り〜〜届け〜〜】と云った感じでしょうか〜〜〜???
これが「生長の家」は、【内なる神に〜〜〜】と、此処が違うのです〜〜〜ョネ!私も、もっと!
「神様に甘えて見よう〜〜〜」その様に思います。

■■【ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ…】神様は、遠くではなく、近くにいる
【 私 の 心 = 潜 在 意 識 】なのです〜〜〜ョネ!【 祈 り = 心 】ですネ!
                                 再合掌

トキ様へ:「神に委ねる…!」この事を100%出来るという事は?難し〜〜〜イ!時が〜〜><
どうしても【自我…】に捉われていますと〜〜〜?この事は?どの様に思われますでしょうか?

928a hope:2012/07/08(日) 09:39:06 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方①


昭和のはじめの頃のことです。
東京駅頭(とう)にあった美松(みまつ)というデパートが閉められてその後に、
美松食堂別名「味の美松」といって有名な百貨店全体が食堂になっている店が開かれたことがあります。

あそこの開店最初の支配人に雇われた人に徳山さん(仮名)といわれる人があったのであります。
この徳山さんという人は、生長の家の京都支部をしておられます石川貞子(ていこ)さんの
旧(ふる)くからの馴染みの友達であるのです。

ところが、この徳山さんは同志社出身の方でありまして、今までいろいろな仕事をしてこられた。
或る時には商館の番頭をしてみたり、或る時は落ちぶれて関東煮屋になったり、
或る時は植木屋になったり、色々さまざまな艱苦(かんく)を嘗(な)めてこられた人で、
ほとんど世の中のことは何でも知らぬことはない。

そのくらい何でもできる人であるのに、出世ができないで赤貧(せきひん)洗うがように苦しい生活を送っておられたのです。
そうして奥さんになっておられた方は肺結核になって血を喀(は)いておられたのです。

ところが或る日のこと、その奥さんの所へ生長の家のパンフレットが行ったのです。
その奥さんが生長の家のパンフレットを読んでごらんになると、病本来無しということが悟られて、
今まで血を喀いておられたのが元気を取戻してだんだん健康になって来られたのです。

その時に良人の方の徳山さんも、誰からか生長の家のパンフレットを貰ったのだそうです。
それを読んでみると、これは素晴しい。読むに従って心が引立ってくる。
貧乏に押しつめられて暗い思いで悲観しておられたのが、「大いにやるぞ!」というような勇気が湧いてくるのでした。

読み物ぐらい大切なものはない、読み物の種類によって、悲しくなって死にたくなったり、
嬉しくなって、大いにやるぞ!という勇気が湧いて来たりするのです。

今まで悲観しておられた徳山さんは嬉しくて耐(たま)らない。
そこで「お前これ読んでごらん」と言って奥さんに見せられたのです。

すると、奥さんが、「これなら私も人から貰いまして読みましたら、私はこんなに病気がよくなりました」という話なのです。

(②につづく)

929ハマナス:2012/07/08(日) 23:51:16 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

災いをまぬかれる神示  (『新版 生活の智慧365章』P.198より)

 神事は必ずしも「言語」と云う方法によってのみ伝えられるものではなく、自然に或る行為を
止めたり、しなければならないように、事件が進展して来て、自分の行動が支配されると云う
こともある。

 たとえば、いつも朝寝したことのない人が、その日に限って朝寝をしてしまって、いつも利用
していた省線電車の時間に間に合わないので、やむを得ず他の乗物を利用して出勤したら、あの
乗り遅れた省線電車は衝突して出火し、乗客の殆んど全部が死傷したと云う事件や、その日、木星
号飛行機に乗って大阪へ行く筈になっていたのに、ある事情の突発で木星号にのれなくなって、
飛行機の座席券が無駄になったが、あとから考えて見ると、木星号に乗れないのが幸いだったと
いう話もある。木星号は運転をあやまって三原山に激突して粉砕し、乗客全員は死亡してしまった。
この朝寝や突発の事情が神示である。

感謝合掌

930a hope:2012/07/09(月) 07:10:49 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方②


ところがこの生長の家のパンフレットというのは、
革表紙の『生命の實相』の約二十分の一ほどを分けて一冊のパンフレットにしたものでしたから、
原本の部厚(ぶあつ)い本が欲しくて仕方がないというので一所懸命お金の苦面(くめん)をして、
やっと革表紙の『生命の實相』をお買いになったのであります。

すると革表紙の『生命の實相』の終りのところに「生長の家の歌」といって、
力強い美しい言葉で書き綴った詩をあつめた所があります。

徳山さんは同志社におられた頃から詩の朗詠(ろうえい)が大変好きでありましたが、
毎朝、生長の家の歌の中の「生きた生命」という詩と、
「夢を描け」という詩を読むことが好きで好きで仕方なくなったのです。

読むと力が出てくるのです。

「生きた生命」の方の詩の一部を皆様に御紹介いたしましょう。
皆様もこれをお読みになると勃念(ぼつねん)と勇気が湧いてきて、
明るい人はいよいよ明るく、失意に沈む人も、再びこの世に希望が湧いてくるでしょう。


生きた生命

名乗れ、境遇に屈従(くつじゅう)する卑怯者は誰だ。
誰がわが生命を食べ物でこねあげた塊(かたまり)だと思っているのだ。
生命は蝋(ろう)細工ではないぞ。
石膏(せっこう)細工でもないんだぞ。
おれは旋風(せんぷう)だ。
渦巻(うずまき)だ。
おれは環境を
徐々にわが望みのままに
飴のように
捻(ね)じまげる
俺は宇宙を造った大いなる力と一つの者だ。
おれは空中電気を雷(かみなり)に変じ、
太陽の光を七色の虹に変じ、
真黒な土から燃えるような赤い花を咲かし、
火山を爆発さし、
あの不思議な星雲(せいうん)から、
太陽系を生んだところの大いなる力と一つの者だ。
環境が何だ、
運命が何だ、
おれはおれの好きな時が来れば
鰻(うなぎ)が石垣(いしがき)の間から抜け出すように、
どんなに苦(にが)い運命からでも脱(ぬ)け出すのだ。
…………

(③につづく)

931SAKURA:2012/07/09(月) 21:53:23 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ローマ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

「催眠術…」にかかると…どうなりますか?……いい意味での「催眠術…」は??
それは〜〜〜【幸福切符】です〜〜〜ョネ!しかも【往復…】ですから〜〜^^
しかし「ネガティブな催眠術」は??
当然の事でしょうが〜〜〜【片道切符】ですかしら〜〜〜ン!「催眠術…」も、
中途ではダメです〜〜〜ョネ!…全て【ボディティブな心境で「催眠術…」】でしょうか〜〜〜?
まるで【奥様は魔女???】口を左右に動かしまして、まるで「天使のミカエル」でしょうか?
天使でも「霊媒」にて……のお話が、ありました…。
後に〜〜〜では【幸福の切符】を、手に入れる“近道”は?〜〜〜今から“本”を開きます。
では【幸福を招く365章…】………に乗りましょうか〜〜〜??銀河の彼方へ

■【幸福を招く365章】
――――あなたの意識を高く昇らせよ―――――

あなたの意識を愈々高く昇らせよ。釈迦牟尼世尊の高さまで昇らせよ。
みずから神の子と称したイエス・キリストの高さまで昇らせよ。其処にあなたの内に、
「神」を「仏性(ほとけ)」を見出すであろう。あなたが仮令、如何に病気に
悩まされているかの如く見えようとも、如何に貧苦のどん底にあるが如く見えようとも、
それはただ円月にかかっている雲の形のようなものである。雲の形が如何に暗澹として
見えようとも、円月それ自身は未だ曇ったことがないのである。その如く、如何に
あなたの外見が暗澹として見えようとも、あなたの実の相(すがた)は円満完全であって
病気でも貧乏でもないのである。神があなたのうちにあるのだ。尽十方に満ちわたる
無礙光の資源の出口があなたの内にあるのだ。これを悟れ。
                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今!本を開きますと、出て来ましたところは??「亡き母」が、赤の“ボ−ダ−ライン”を、
ぎっしり引いていました…。
きっと!「白鳩の勉強会…」に、当時参加したのでしょうか〜〜〜??

■さて!どんな状態になりましょうとも「現象=現実」として現われても?
それは、丁度!雲がかかっている“お月様”を見ても〜〜〜
“お月様”が…“おぼろ月”で??見えてしまい、本当の“姿”は、“お月様”はきれいな月なのに、
“おぼろ月”で、現われている!此の“現象=現実世界”に〜〜〜><

■これが、私達の“掴んだ心”なんでしょうか〜〜〜? 是と同じように、
今!“経済〜〜〜が”破綻“してもオカシクないのに〜〜〜
そうなのですョ〜〜〜ネ!周囲の人は?いつものように“買い物”…?購買力ありますモノ??
現状は“経済が成り立っている事”……

■さて〜〜〜現在!【信者が減少している〜〜〜】とか??此の“投稿メッセ−ジ”にて!!
これも“おぼろ月”で、例えたら〜〜〜「新しい信者…」が増える事だけの事?なのでしょうか??
何も変わってないのに、唯一つの事に“焦点”を置き過ぎているだけでは???と思います。
どんな状況でも「現象=現実」で、物事を見るのではなく〜〜〜
私達の【心で実相】を、みつめる!【心…】そうです〜〜ネ!既に【此処に或る心】でしょうか?
【無礙光の資源の出口が、あなたの内にあるのだ。これを悟れ。】これなのです〜〜〜ョネ!!
今は神様に委ねて、前に“心”が向かっています!!
母が……本当に「亡き母」も、大変な時期を乗り越えて、頑張った“姿”が浮かびました。
私も【 実 相 = 心 の 展 開 】で…フル“回転中”で〜〜〜す!!
                                     再合掌

PS:
本日の言葉…“お月さま”に例えて頂きましての「雅春先生」の御指導…!
分かりやすく…私の心に響きましたが…

トキ様は??本日の言葉?どの様に思われましたでしょうか……??
“アドバイス”頂きますと、幸いに思います…。

932ハマナス:2012/07/09(月) 23:38:56 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

夢による視覚的霊示  (『新版 生活の智慧365章』P.199より)

 時として夢などで未来のことを見せられることがある。それは概ね霊示が多いのである。
旧約聖書の最後に収録されてあるダニエル書のある預言の如きは、ダニエルにあらわれたる
夢による霊示であって、しかもその預言は歴史に照らし合わしてみるとき、悉く完全に実現
していると謂われている。

 祈りや精神統一の行事の時にあらわれる視覚的な霊示もある。「黙示録」に記されている
ヨハネの見た異象(まぼろし)の如きはそれであって多くは象徴的な図形をもってあらわれて
来るが、何を象徴した図形であるのか、その解釈は人間知の及ばないところであって、それが
歴史的順序を持ってあらわれて来たときに、成る程、この異象(まぼろし)にあらわれた図形は、
この事件の象徴として預言されていたものであって、既に霊界にはこの事件の原型が存在して
いたものだと云うことが頷(うなず)けるのである。

感謝合掌

933a hope:2012/07/10(火) 07:08:59 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方③


毎日、朗々とした徳山さんのこうした詩の朗読の声が、
朝の澄み切った空気を震わせて響いてきますと、徳山さん自身の魂は振い起つのでした。

「必ず良い運命が来るぞ。『生命の實相』の本の中には、
心に描いて心を明るくして待つものは必ず実現すると書いてあった。」
こう徳山さんは勇み立たずにはいられませんでした。

ところが、徳山さんが心の中に「必ず良いことが来るぞ」と描いていた種は、
とうとう芽を吹き生長する時が来ました。

或る朝、例の通り徳山さんは詩の朗読を終って、貧しい生活のうちにも心だけは勇んで、
奥様も次第に健康になってくるのを喜びながら、フト新聞を開いて御覧になると、
「英語、及(および)独逸(どいつ)語に達者であって、料理店の経営に興味があり、
広告文の上手な人が要る」という、なかなか難しい注文の広告が載っておったのであります。

徳山さんは、これは自分に打ってつけの注文の広告だと思って、
広告の出し主のところへ行ってみると、それは或る口入屋(くちいれや)
【職業をあっせんした業者】から広告をしていたのであります。

その口入屋の主人がいうのに、「もう三十人ばかり、履歴書を持って来た人があって、
今、人数を締切って雇主の方へ連れて行ったからもう駄目です」と言うのです。

しかし徳山さんはそんなことで黙って引きさがるような人でなかった。
と言うのは、徳山さんは『生命の實相』を読んで、「押しの力」の生き方に徹底していられたからです。

生長の家の生き方の中に「思いきりよく、押し強く、勇敢に断行せよ」という一カ条があります。
ちょっとぐらい邪魔者があったからとて退却するようでは何事も成功はできないのであります。
そんな障礙(しょうがい)にも屈せずに勇敢にどこどこまでも進んで行く。
暗いことを考えたり、取越(とりこし)苦労をしたり、心の中でモジャモジャ思いながら引込思案(ひっこみじあん)のようなことはしてはならないのです。

(④につづく)

934ハマナス:2012/07/10(火) 23:50:00 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

予言よりも常識と良心で  (『新版 生活の智慧365章』P.200より)

 予言はそれによって巨利を得るためのものでも、危険をまぬがれるためのものでもないのである。
若し「汝は地震によって圧死する」と云う予言が出たとして、どんな地震にも耐えられる鉄筋コン
クリートの大いなる箱をつくって其の中に生活して圧死をまぬがれたとしたならば、「圧死する」
と云う予言は実現しなかったと云うことになる。すなわち、予言によって予言された事項から免れる
ことができるならば、その予言はあたらない予言だと云う「矛盾したもの」になるのである。だから
予言を当てにして、吉凶禍福の判断によって自己の行動を定めようなどとは考えずに、常識と良心と
によって行動することが、人間として最も健全な生活であると云うことである。

 誰でも何が善であるか、何が悪であるかは常識と良心とでわかるのである。他を侵してはならない。
殺生してはならない。真剣に愛を行じなければならない……等々。

感謝合掌

935SAKURA:2012/07/11(水) 01:03:38 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

ア〜〜〜ッ!今日は遅くなりましたが……やっと!パソコンを開いて……今から
「奇蹟の本」を、開きます……。必ず!「幸福になれる本」です〜〜〜と!
今日は、思ってしまいました。
では!【幸福を引き寄せる…近道】です。その“法則”は?勿論……今から“スタ−ト!!”

■【幸福を招く365章】
―――――人間そのものと不幸とを分離せよ―――――

不幸や病気があらわれてきたときに、何よりも大切なことは、その不幸や病気と、
人間そのもの(自分又は治療してあげる相手の人)とを分離して考えることである。
―――丁度、月と雲とを分離して考えて、「月に決して雲っていないのだ。曇って
いるのは『雲』自身だ」と考えるようにである。そして人間そのものの完全さを
じっと心に見詰めて、病気や不幸の方へは心を向けないで、「私は(又は彼)は現に
幸福だ、私は現に健康だ」と念ずるようにすることである。
そしてその念ずる言葉は、自分から放ったが最後、法則によってまっしぐらに現象の
世界へ向けて、あらわれて行きつつあると信ずるが好いのである。病気や不幸は
造った人間の問題ではない。それは自分の想念の映画に過ぎない。
                         (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「想念の感情」は、全て“心で解析”できる!!此処まで「専門家」は言っておりますが〜〜?
全てに及んダネガティブな気持ちを、ポジティブな明るい気持ちに、振り向ける事です〜〜ョネ?

■病気になった時は、軽い病気なら?
人に甘える事も、出来るぐらいの“気持ちの余裕”が或るのでしょうが……??
ましては?重い病の場合は、“ネガティブな気持ち”に、“心”が向けやすくなりますが〜〜〜><
これも“ボディティブな気持ち”に、“心”を切り替えますと必ず!“病気”も何処かに〜〜〜
飛んで行く〜〜〜♫〜〜〜のでは??と思える様に思いますが?

■これが『経済面…商業』になりますと?中々【現象=現実…】で、物事が簡単には、捉えにくく?
気が付きますと〜〜〜雲が曇ってないのに、曇っていると『断定…』してしまいがちになります。
此処が、実に大事な〜〜“ポイント”です〜〜〜ョネ!
「私は健康だ〜〜!!私は商売繁盛だ〜〜!!…益々!これから好くなる!既に好くなる…!」と、
念じますが……><仮に?“集中”が出来ない時は、
【イメ−ジ=神想観】で〜〜〜「神様」に、委ねる時間を作る方がいいのではと思いますし?
更に【イメ−ジ…】と、同じように、“心の映画館”に入り、既に治った“姿”を【イメ−ジ!】
更に!成功した“姿”を、【イメ−ジ…】

■これは「潜在意識!」に深く〜深く〜入って行く事は?【人間は霊的人間…】ですから、
もう〜〜〜!既に【成就している…】のです〜〜〜ョネ!
【イメ−ジ】でも【霊の世界】に、入っていく様なものですから、「ボディティブな感情」で挑めば、
【全て願いは叶う…!】もちろん“病気”も本来無いモノですから〜〜“消える”訳です〜〜〜ョネ!当に【心 の 法 則】でしょう〜〜〜か??
“心”を常に光明面に〜〜〜抱きます事は【明るい物を引き寄せる…】
つまりは!!!【全 て 叶 う 事】のように思いましたが……(微笑)・・・

■■今日から〜〜〜もっと!もっと!スマイル!!「雲のじゅうたん」は、私の“心”には、
かかっていません〜〜〜ですモノ!!
【いつも〜〜〜私の心は〜〜〜♫〜〜〜“SKY〜〜〜 BLUE〜〜〜〜♫】

                              再合掌

PS;トキ様へ
今日は?こちらの天気は…「ほぼ??晴天」でしたかしら〜〜ン!
■時には???【天気に左右される〜〜〜でしょうか???】
「ポジティブな念=感情」は、法則によりましてそれなりの「光明なる結果」が〜〜〜
此の現象世界に現われますモノ〜〜〜ネ!
今!自分の環境が?状況が?「ネガティブ感情」…に陥りやすい時!この時こそ……
「神様」からの“メッセ−ジ”を、頂きまして「もっと!もっと!良くなるので〜〜〜ワ!」
この様に思えるように、ようやく〜〜〜の思いにて“心のスイッチ”切り替えられるように、
なりましたがz〜〜〜ウフフ!トキ様は?如何でしょうか〜〜〜?

936a hope:2012/07/11(水) 07:34:28 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方④


そこで徳山さんは口入屋(くちいれや)さんが、
「もう締切ってしまったから、駄目だ」と言ったけれども、中々黙って引込んではいないで、
「一体その広告を出した店は何という店ですか」と、どこ迄も押し強く訊いて止まないのです。

そこで、口入屋は仕方なく、「道頓堀の赤玉という一番大きなカフェ―ですよ」と申しました。
徳山さんは得たり賢しと、「道頓堀の赤玉の主人なら僕は知っている。
『文芸春秋』という雑誌に『立志伝中(りっしでんちゅう)の人物である』と褒めておったことがある。
あの男なら、一遍会ってくれたら私を雇ってくれるに違いないから、ぜひ伴(つ)れて往ってくれ」と、
どこどこまでも押しつよく頼みました。

そうして到頭(とうとう)、口入屋を言いまかせて、広告主の東京の店へ連れて行って貰いました。
もう前に連れて行った三十人はみんな同じ部屋に入れられて、何か試験問題の答案を書いているのです。

徳山さんは後から行ったお陰で、別に静かな一つの部屋に入れられて試験問題が出たのです。
前の三十人は、何だかジャズの蓄音機のかかっているガヤガヤした部屋に入れられて答案を書いているから気が散って旨く書けない。
徳山さんは後から行ったお陰で、ジャズも何も聞こえない非常に静かな部屋で思う存分答案を書くことができました。

そしてその成績が素晴らしいので、いっぺんに「味の美松」の支配人に上げられたのです。
「必ず自分には良いことが来るぞ!」と常に自分の心の中に徳山さんは言って聞かせておりましたから、
それがとうとう実現(ほんとうにあらわれた)れたのです。

心に言って聞かせて信じつづけて待っている者は、必ず、それが出て来るのです。
心がすべての造り主であるからです。

(⑤につづく)

937「訊け」管理人:2012/07/11(水) 08:48:04 ID:???
<コメント>

 明日7月12日は、敬愛する榎本恵吾先生ご命日であります。以下謹んで転写させて頂きます。ご文章は「体験談」であります。榎本先生のご指導ぶりがよく、うかがえると思います。


<謹写文 掲載開始>


合掌 ありがとうございます。

 学生の頃、何人かの友人たちと、その頃東京の郊外に住まわれていた榎本先生のお宅に押し掛けて、教えのお話をお聴きしたり、一緒に歌を歌ったりしました。奥様も素晴らしい方で、よくおのろけを聴かされたものでした。宇治に行かれてからはお会いする事もなくなりましたが、書かれているものを読んだり、人から話を聴いたりして懐かしんでおりました。

 最近、榎本先生の素晴らしいご指導を知りました。それは、何度も手術を受けている重い病気の子供があり、その父親が、「こんなに聖経を読み、神想観しているのに、まだよくならないのは、やはり私の業が深いのかと思ったり、娘に神の子の自覚がまだ薄いのかと思ったりして落ち着かず、自分を責めたり、娘を恨めしく思ったりしてしまう。どうしたらいいか」と質問された。すると榎本先生は、

 「娘さんは神の子であり、観世音菩薩ですよ。観世音菩薩というのは、素晴らしい神様ですよ。そんな素晴らしい神様が、自分を――何とかしてその実相が現れますようにと拝む。そんな思いで――拝んでくれなければ現れないということはあり得ないんです。私は別にあなたに拝んで貰わなくともちっとも困りませんよ。自分で現れる力は十分にありますよと、別に喜ばないんですよ。あなたはただ、素晴らしい神様として、娘さんを拝んでいればいいんですよ。娘さんは『私を拝んでほしい』と言っているんです。ただ『素晴らしい神様、有難うございます』と、拝めばいいだけです」

 と指導されたら、それからグングンよくなったそうです。

 榎本先生はまた別のお母さんが、泣きながら電話して来られて、「医者が、あなたの息子は白血病でもう危ないと言われた。どうしたらいいか」と、泣いている。それに対して、

「あなたは今、息子を愛しているが故に泣いている。その愛は尊い。その愛は神様の愛なんです。だから息子さんをただ神様として拝んであげて下さい。それだけでいいんですよ。病気だとかなんだとかではない。ただ神様が神様を拝めばいいんですよ」

 と、このような事を指導された。そしたら後日、「有難うございました。おっしゃった通りにひたすら息子を神様として拝み、自分も神様であるとして拝んでいたら、すっかりよくなりました」と、喜びの電話があったそうです。

 榎本先生は、教えの最後のぎりぎりの所をずっと守り通して来られた先生であったと思います。尤も岳父であられた藤原先生が、「いつもいつもこの心境でいる事は難しい」と笑っていられたとおっしゃり、自由自在に神の子として現世の生活を楽しまれた自由人であられたと思います。 

再拝

<了>

938SAKURA:2012/07/11(水) 18:56:43 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

毎日〜〜「日々の感謝!」をする事で、更に!毎日聖典に“ライティング”します事は?
それだけでも、リズムが出来て来ます〜〜〜ネ!ですから「不思議な現象」かしら〜〜〜ン!
今日も又「テキスト…」を、片手に勉強会です。【神との一体】に〜〜〜では、開きま〜〜す!!
今日の“言葉”を〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜と〜〜♫〜〜♫

■【幸福を招く365章】
―――――「迷い」はどうしたら消えるか―――――
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要らないのである。
それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々大いに「迷う」ばかりである。
「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて、「人間」の本来完全
なる相(すがた)を見詰めるようにすれば好いのである。自分の病気を癒すには、
自分の病気を見詰めないで、自分の実相の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の
病気を治すには、彼の病気を治そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ
彼の完全さを見詰めれば好いのである。全世界の人々が、ただ他の善のみを見詰める
ことにすれば忽ち平和はくるのである。

自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。それは種を蒔くのと同じ
ことである。善き言葉又は善き想念を述べることは、大宇宙の創価力の沃地に、善き種
を蒔く事になるのである。その種を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神に
あるのである。吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張りだそうなどと
考えてはならないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは
神のちからである」と念じて、静かに神に全托せよ。(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「病気…」で例えますと、その人自身が「甘露の法雨」聖経のみしか治らないと〜〜〜
【固定観念…】が、あるのではないかしら〜〜ン!しかも、それで“治った”のですから〜〜〜
益々!【固定観念…】飽和状態の【脳回路…】なのでしょうか…?
■■【こうせねば〜〜〜ならない!!】と同じ事と思います。【限定…】と同様ではないのですか?

■例えば、“モノ”で言いますと、先日“パ−トナ−”の家に行きました…。
彼女の父親は、今でも「圧力鍋」で“ご飯”を炊いています…。前回!彼女の家に行きますと…
なんと〜〜♫〜〜「玄米が30kg…二袋」あり、今迄は、「玄米食」でしたが、
今回“病気”になり、医師の指示にて「白米食」になりましたが〜〜〜><
何と〜〜〜「玄米が○○kg??〜〜も」ありまして、それを見て【精米機】を、買う事を以前より
進めていましたが…本当に何度も!何度も!言っても“受け入れない”ので〜〜〜す。【固定観念】
どうかしますと、まだ〜〜〜〜玄米に???と見えまして、とりあえず【玄米を3kg…】持って帰り、自宅の【精米機】で白米にして、送りましたら〜〜〜もう!!「美味しかった〜〜!」の一言!!
                 <つづく>           NO.1

939SAKURA:2012/07/11(水) 18:58:39 ID:V.pKl3yA
                 <つづく>           NO.2 

>>938投稿より続く
■■>「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて…<、

■その後!!何と〜〜〜何と〜〜〜♫〜〜この「迷い」??本当に!【一転…】でしょうか!!
【精米機…】を、ネットで買って欲しい〜〜〜との“電話”でした…。更に!私は〜〜〜><
「圧力鍋」でご飯を炊いていますから〜〜〜時間のロスが“大変”に思えますので〜〜〜><
「電気釜…」を進めましたが〜〜〜また!いつもの様に【固定観念…】があり受け入れないのです。
“パ−トナ−”の父親にしますと【電気釜より圧力鍋】で炊く方が“オイシイ!と言う【固定観念】
がありますが〜〜〜><“食”しますと、“ご飯”が膨らんでない!さら更に!私にしますと…
“美味しくな〜〜い”のですモノ!−−>
【強硬手段!!】で“パ−トナ−”とまず【電気釜】を購入してから、良くなければ“事務所用”に、思いを胸に〜〜〜♫〜〜〜また【再度!!電気釜】を進めましたら、とりあえず「買入してとの事」
早々“注文”しまして、荷物が来て、再度“パ−トナ−宅”へ…ゴ―サイン!!
次の日に彼女の実家に行きまして【精米機・電気釜の使用方法】を教えて、精米したてのお米で、
ご飯を炊き、一緒に“夕食タイム”しましたら〜〜〜何と“パートナー”の父親は“オイシイ!”と
実に!嬉しそうに〜〜〜“ご飯”を〜〜〜

■その後“パ−トナ−の弟さん”が来て、また【固定観念】があり…また!同じ繰り返しですが?
同じ様に、父親が説明したのかしら〜〜ン!そうしますと“弟さん”も認めてくれて〜〜〜

■その様に【病気…】も【甘露の法雨…】でしか“ダメ”との【固定観念…】がありますと〜〜〜
“病気…”でも治りにくくなりそう〜〜〜なのですが??如何でしょうか??
さて!【新しい聖経】でも、同様な事があり、
■■是は当時の【一般信者】が、これがいいと云った【念の波動の動き】でしょうかと??
私は、それに“気づき”今は【新しい聖経??】を読んでみておりますが〜〜〜?
しかも【仏壇の前…】で読んでいますが?「御先祖様…」も納得している様です。(一言説明して)
これも、読んで行きます内に「良い事」が起きて来ますと〜〜〜!
【蒔いた種の奇蹟…】の始まりになる様にも思います…。
「甘露の法雨」は。実に“素晴らし〜〜〜い!”のですが……><よ〜〜〜く考えて頂きますと!
■■現在【甘露の法雨…拝読】しても、【生長の家…派閥論争】でしょう〜〜〜><
しかも?しかも?【水面下では長〜〜〜い間】ですモノ??
果たして!!【甘露の法雨…功徳?】ありますでしょうか?■神は調和したところにしか…!!

従いまして…現在の私は…「ケ−ス・バイ・ケ−ス」で、【二つの聖経】をして行きます。

■■「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは神のちからである」と
念じて〜〜【静かに神に全托せよ!実行開始!!全開!!START ME  UP! GO…!】

                                     再合掌

PS:トキ様 へ
>自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
善き想いの「想念」は、本当に…「引き寄せの法則」にて…それなりの結果が??
現われるのではないでしょうか?
【新…長編詩?】に【法則…】と云う“言葉…”が、書かれてありましすが…
此の“法則”に準じますと?【善き想念の種…それなりの結果が】と思います…。
そして、現代版の表現で“解釈”しやすいのでは〜〜ないでしょうか?
トキ様は?どの様に感じられますでしょうか【固定観念…】

PPS:更に「電気釜」一つでも選択するにしても?その人の“知識能力”になります〜〜〜ネ!
今回!とても〜良い“買い物”をさせて頂きましたが〜〜〜!! ウフフ“自己満足☆☆☆☆☆”

940うのはな:2012/07/11(水) 20:43:34 ID:gTn97m6I
  今は亡き吉田國太郎講師の逸話から

 ここにはこういう話が書いてあります。七三頁の終りから二行目、
「或る時、私が湯殿へ歯を磨こうと思って、湯殿のタイルの上にある駒下駄の上に
足をおろすと、タイルが濡れていたためにその駒下駄が足をおろした途端に(スパッ)と
辷って、私は湯殿のタイルの上に倒れてしたたか背骨と肘とをそのタイルに打ちつけたことがあります。
そのとき『ひさや』という女中が私の家にいましたが、物音に驚いてとび出して来て、私が倒れているのを
見ると、眼を丸くして、『先生でも辷って転ぶんですか?』と不思議そうな顔をして、唯倒れている私を眺めているだけでした。

 その時のことを、いつだったか吉田國太郎君に話したら、
『先生は辷って転んでいても、辷って転んでなどいないことがわからないのかなア!!』と言われたことがある。
辷って転んでいながら辷っていないのが実相である、というわけであります。

『日常生活の中の真理』仏典篇 P35−36 谷口雅春 先生著

941トキ:2012/07/11(水) 21:45:29 ID:0xHdFJu2
 山ちゃん1952様から、「トキさんは、読解力がない」と言われているトキです。
しかし、SAKURA様に鍛えて頂いているおかげで、相当、向上しました。
ありがとうございます。(笑)

 さて、申し訳ない事に、私は大自然讃歌や観世音菩薩讃歌もパスしている
人間ですが、SAKURA様が新しい「長編詩」から学ばれたとしたら、素晴らしい事です。
 きっと谷口雅宣先生もお喜びだと思います。頑張って下さい。

 甘露の法雨については、谷口雅春先生の講義テープ「甘露の法雨講義」を拝聴される
事をぜひお勧めします。聖経が成立した経過から詳しい意義など、詳細を述べられて
います。

 では、今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

942観覧車:2012/07/11(水) 23:09:30 ID:???

>>941 トキ様
「甘露の法雨講義」は出版停止にならないのでしょうか?
CDのほうを、出版停止にならないうちに購入したいと思います。

943ハマナス:2012/07/11(水) 23:16:40 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。

運命のプラス・マイナス  (『新版 生活の智慧365章』P.201より)

 毎日わたしたちは。自分の運命を自分で造りつつあるのである。自分の生活にプラスを
つけ加えるか、将(はた)またマイナスをつけ加えるかと云うことによって自分自身の
未来の運命を自己決定しつつあるのである。人のためのなることを行えば、自分の運命に
プラスを加えたのである。人のためにならぬことを行えば、自分の運命にマイナスを加え
たのである。このような行動によるプラス・マイナスのほかに、自分の心の明るさ暗さに
よって運命を左右するプラス・マイナスがあるのである。

 常に「明るい心」をもっておれば、「類をもって集る」と云う心の法則にしたがって、
「明るい運命」が自分に集まって来るし、常に「暗い心」を持ちつづけておれば、「暗い
運命」が自分に集まって来るのである。常に私たちは「過去の成績」(業)の中から立上
りつつあるのである。

感謝合掌

944復興G:2012/07/12(木) 00:58:41 ID:84pogn5s

<第4回 WEB誌友会 予告>

・《日時》 7月13日(金)夜 9時30分より
     7月15日(日)夜 11時30分まで(50時間)

・《場所》 WEB誌友会板

・《テキスト》 『生命の實相』第1巻の「實相篇」(光明の真理)【頭注版P41〜】

・《内容》 「物質無」の真理、メタフィジカル・ヒーリング(生長の家の健康学)

――ということになっております。
それで、以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理 第1章・第2章)【頭注版P41〜75】を、13回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。

945復興G:2012/07/12(木) 01:00:02 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト>

 『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(1)

   -----------------------

 《扉裏の言葉》

 自性(じしょう)円満の「生命の実相(ほんとうのすがた)」を大悟すれば、忽然(こつねん)として病自消す。生命はこれ神性そのものにして本来無病なればなり。悟らざるを「迷い」といい「迷い」の相(すがた)を病という。往昔(むかし)、維摩は自ら身に病を現わして「生命の実相」を説明する機縁となせり。病に即して、「生命の実相」の本来無病、無罣礙(けいげ)、自由自在なることを説明し、読んで病の自消する体験によって、自己生命の無病、無罣礙、自由自在なることを自証せしめんとするもの本篇なり。月刊『生長の家』誌に昭和五年より六年にわたりて「メタフィジカル・ヒーリング講座」と題して連載せる、人間更生の真理を一つにまとめたるものにして、本篇の題示はそのころ熊本市松田かね女史が自己が光明に導かれたりとて命名せられたものである。今、松田かね女史の消息を知らないが、なつかしいままに、ここにその名を存する所以(ゆえん)である。
   ---------------------

  第一章 近代科学の空即是色(くうそくぜしき)的展開

 医者を英語でフィジッシャン(physician)といいますが、メタフィジカル・ヒーリングを行なう人はメタ・フィジッシャン(meta-physician)というべきであります。フィジッシャンはフィジックすなわち物質的なものに頼って病を癒そうとする人でありますが、メタフィジカル・ヒーリングを行なう人はメタ・フィジッシャンすなわち哲学者として、物質発生以前の原理の体得者でなければならないのであります。すなわち物質はどうしてこの世にできて来たものであるか。物質というものははたしてわれわれにとって破壊しえないほどの実在性を備えているものであろうか。心と物質との関係はどうであるか。物質というものはわれわれには存在するように見えてはいるが、実はそれは念の影なのではなかろうか。こういう複雑な問題についての根本的理解がないと、肉体という一見物質でできているわれわれのからだに起こる病気の解決が完全に行なわれないのであります。

 昔から心はすべてであって「物質は念の映像」にすぎないという唯心主義の学説と、物質はすべてであって、心というのは物質の化学作用の一種にすぎないという唯物論とが交替にとなえられて、ある時代にはもっぱら唯物論が盛んであるかと思うと、つぎの時代にはその論拠を打ちやぶるいっそう深い唯心論が勃興して来るというふうな順序になっているのであります。

 ところが最近、物質科学の全盛期に達しまして、ここに、はしなくも今まで勿質はどこまで分解しても物質であると考えられていた在来の概念が破壊してしまったのであります。古典物理学において「物質」と名づけたものの概念は、一定の空間的容積を占める形あるものだったが、その物質を取り扱っているはずであった物理学や化学がついに物質とは形のあるものでなく単に一種のエネルギー(生命力)が形にあらわれているものにすぎないというところまで、ほとんど実験的に説明しうるほどに漕ぎつけましたので、在来の唯物論は、物質科学それ自身の手で自壊してしまうことになったのであります。

 精神力で病気を治療するさいに最も邪魔になるのは、病気なるものが動かしえざる物質的根拠をもっているという一般人の信念であって、この信念を根本から打ち破って行かなければ病気の根源を絶滅するということができないのであります。そこで物質とは本来「無」であること、仏教でいえば「色即是空(しきそくぜくう)」すなわち「色(しき)」(物質)とは畢竟(ひっきょう)「空(くう)」であるということ、キリスト教でいえば「すべての物はコトバにて造らる」すなわちコトバ(心の波動)が万物の創造者であるということ、これが根本的にわかって来たときはじめてわれわれは本当に完全なメタ・フィジッシャンすなわち物質にとらわれない哲学者になれるのであります。昔はメタ・フィジッシャンといえば机上で宇宙論や実在論を唱えるだけの哲学者のことを申しましたが「生長の家」の皆さまは「哲学を生きる人」または「哲学を実生活する生活者」という意味でのメタ・フィジッシャンになっていただきたいのであります。
<つづく>

946復興G:2012/07/12(木) 01:04:27 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(2)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(2)

   -----------------------

 さて、皆さまはあの銀砂をちりばめたように輝く無限の虚空を仰いでごらんになったことがありましょう。あの燦めく星と星とのあいだの空間にははたして何が存在するのでありましょうか。地球をとりまいている空気は、地上を距(さ)ればさるほど薄くなって空中へ四、五里ほどの高きもあがって行くならば、そこにはもう空気はないのでありまして、「空中」というのにふさわしくない――そこは真に空っぽで「何もない」というのであります。しかしその「何もない」にもかかわらず天体から来る光の波や電気の波はその「何もない」ところを伝わって来る、だから「何もない」けれども、全然の「無」ではない、何か光とか電気とかを伝えるために何かある。そこで科学者はこの何もないと見えるところのものにエーテルという名称を付して存在を認めたのであります。

 さてこの太陽と地球と、星と星との間の何もない空間には光もないから非常に暗黒であります。温度もないから非常に冷たいのであります。科学者の測定したところによりますと、華氏寒暖計で五百度あまりもこの地上より冷たい(摂氏零下二七三度・絶対温度零度)のであります。われわれが高山へのぼればのぼるほど温度が低くなるのは、この寒冷な真空圏に近づくからであります。
 この空気も何もないところにさえも充ち満ちているエーテルという実質――これが科学者が発見したところの最も根本的な実質であります。このエーテルのうちに結ばれた無数無限の泡、これが電気の本体である電子であって、この電子がいくつも集合して物質はできているのであります。

 科学者はこのエーテルという実質が宇宙のいたるところに充ち満ちていると申しますけれども、エーテルそれ自身はわれわれの眼には見えず、耳には聞こえず、手には触れることができず、ぜんぜん無味で無臭であります。だから、われわれにとっては、エーテルという宇宙存在の根本実質は「無」とか「空」とかいうのが適切であります。そしてこの「空無」から一切の現象が展開してきたので、仏教で説きますところの「空即是色」ということも、「色即是空」ということも科学的に解ってきたのであります。

 ところが、われわれはこの「空」を、否エーテルを、毎日利用して生きているのであります。わたしがここにこんなことを説きはじめましたのも、実はわれわれは眼に見えないものは、たといそれが真実存在であっても存在しないと思ったり、眼に見えるものなら、ほんらい「非存在」のものでも存在しているように信じているーこうしたまちがった信念があるために、人間はないものをあると思って苦しんだり、あるものをないと思ってあせったりして、われとわが心で苦しみの世界を活動写真のように映し出してもがいている――それを救いたい助けたいと思うからであります。最も手近な例でいいますと、ここに空気というものがある。しかしこの空気というもの、それ自体はわれわれの五官ではその存在がわからないのであります。だからわれわれは幼い子供に「空気というものが有る」ということを教えるのになかなか困難を感ずるのであります。空気をおなか一杯に吸いなさい、といっても幼い子供はなかなかそれを吸うすべがわからない。しかし風が吹いて来たといえば子供にもわかる――空気そのものはわからないが、風すなわち空気が「波動」になって来ると誰にもわかる。「波動」は「無」のかたちをした真実存在が、形に化して感覚的事物となって顕われるためにぜひ必要な過程であって、われわれが波動(すなわちリズムまたはコトバ)によって創造活動が展開すると申します真理もこんな点からも理解されるのであります。
<つづく>

947復興G:2012/07/12(木) 01:08:03 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(3)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(3)

   -----------------------

 さて万物創造の最根本の実質として宇宙に一杯に充ち満ちているといわれている「エーテル」の中を、われわれの地球は非常な高速度をもって走っているのであります。空気の中をわれわれが自動車や飛行機に乗って非常な高速度で走りますと、われわれは烈しい風を自分の肌に感じますのですぐ空気の存在がわかるのでありますが、エーテルの中をわれわれが地球に乗せられたまま現に非常な高速度で走っていながらもエーテルの風をわれわれは少しも感ずることができないのであります。エーテルは空気よりもよほど稀薄なものに相違ないから、たとい風が起こっていても微妙な測定機械でも作らなければわからないだろうというので、これを測るための精妙な機械を工夫した科学者もあったのでありますが、結局この地球がどんなに高速力でエーテルの中を疾走してもエーテルは風なんか生じないことが判ったのでありまして、この点、空気などという「すでに造られてしまったもの」とはよほど違う本当の「空無なもの」であります。

 また空気なら、これを紙袋に入れまして、入れた口を密封して、紙袋の外から押えてみますと紙袋がなかなか凹まない、それでなるほど、紙袋の中には空気があるなということがわかるのでありますが、われわれは空気をぬいてエーテルを紙袋に入れ、これを押えてみましても手ごたえを感ずることはないのであります。

 こういうように押えてみても手ごたえがない、その中を地球が太陽の周囲を公転する素晴らしい高速度で走っていても風一つ生じないというのでありますから、このエーテルというものはよほど無礙自在な一定の形にとらわれない実質であるということができるのであります。

 空気はこの点において眼には見えないでも、物質として現われたものでありますから、エーテルとちがってよほど自由な性質が少ないのであります。それは紙袋の中へ入れられて出られなかったり、それはある重さをもっているので、下へ下へと溜っていてわずか地球の表面にあるばかりで、宇宙全体にひろがっていることができない。この空気の目方はと申しますと、一平方尺だけの地上にかかる容積だけで一トンあるということを科学者は測定しているのであります。ところがこのエーテルといえば無際涯の天空高く無限につづいているので、その目方すなわちわれわれが受けている圧力は非常に大きいものだと思われるのでありますが、エーテルはここにもその無礙自在な特性を発揮していて、われわれの測定機にはかからないのであります。ここが面白いところで大自在の大聖者がわれわれの判断の測定にかからないと同様であります。
<つづく>

948復興G:2012/07/12(木) 01:18:31 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(4)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(4)

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 エーテルはこのようにわれわれがその実体を測ってやろうと思うと何もない。しかもそれはわれわれに光と熱とをつたえてくれるのでありまして、それはまた大聖者がとらえどころのない自由な人格でありながら光と熱とをわれわれに与えてくれるようなものであります。たとえば、あなたが今持って来たばかりの火鉢の火に手をかざしますと、手はただちに温(ぬく)みを感ずるのであります。この火は今持って来たばかりですから、手と火鉢との間にある空気はまだ熱くないのであります。それにもかかわらず、われわれが温か味を与えられるというのはエーテルの波動によってわれわれの皮膚の神経細胞が刺激されるからであります。それからまた、われわれは曇り日に戸外を歩いているととつぜん雲がきれると日光が直射して来る。空気の温度は急にそんなに高まらないのに一度にわれわれは熱くなって来たことを皮膚に感ずるのであります。単に感ずるだけではない、長い間、皮膚をそれに晒していると、われわれの皮膚は日やけを生じたりするのであります。このわれわれの皮膚に感ずる熱――温か味はエーテルの波動によって伝えられて来るのであります。日光についていいますと、最初太陽で発生した光の波動は九千三百万マイルの空間を唯の8分間でこのエーテルという実質を伝わってきて、われわれの皮膚に温熱の刺激を与えてくれるのであります。温熱ばかりではありません。われわれはこのエーテルのおかげによって生かされているのでありまして、エーテルがなければわれわれは光も熱も活力も受けることができない。野にも山にもどんな緑の植物も生育することはできない。実に生きとし生けるものは、このエーテルの波動の中から生命力を吸収してそれを蓄え、それによって生活を営んでいるのであります。われわれが日常いただく食物はもちろんのこと、ストーブで燃やす石炭も窯の下で焚く薪も、自動車を走らすガソリンも、すべてこのエーテル波動を吸収して潜在的エネルギーとして蓄えられていたものを再び利用しうるエネルギーの形にし、それを活用して生活しているのでありまして、事々物々エーテルのご厄介にならないではわれわれは生活することができないのであります。

 われわれの皮膚全体はこのエーテル波動に感じやすいのでありますが、特に感じやすい部分は眼でありまして、この眼を通してわれわれは物を見るのであります。といっても実はわれわれはそれが在るとおりに見るのではない。このエーテルという自分自身の本体は眼に見えないところの不可思議霊妙な実体がいろいろに振動している、それをわれわれの心が物の色や形に客観化して見るのであります。

 このようにエーテルという実体はわれわれに光と熱とを与えてくれ、あらゆる生物に生命力を与えてくれ、われわれの眼をひらいて物の色や形の美しさを見せてくれていながら、自分自身の姿を顕わさないのでありますから、人類はながい間、このエーテルという霊妙不可思議体の存在を知らなかったのであります。十九世紀の初めになってその存在にうすうす気づいた先覚者が出てきました。ところが、その後またエーテルの存在を否定する学者が出てきたりしまして、やっと最近になって電気磁気の実験はもちろん、ラジオなどの日常目的にこのエーテル波動を利用する装置が発明せられるようになり、とうていこのエーテルの存在を否定することができなくなったのであります。

 かくのごとくこのエーテルという霊妙な実質の波動によってわれわれは日々生存しなくてはならないエネルギーを供給されているにもかかわらず、人間はついこの間までエーテルなんてものは存在しないと思っていた。なんでも人間というものは、触ることも眼に見ることもできないものは存在しないと考えたがるものであって、無神論、無霊魂論などというものも五官ばかりにたよろうとする、こういう人間の弱点から出発しているのであります。
<つづく>

949復興G:2012/07/12(木) 01:31:36 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(5)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(5)

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 しかし人間の五つの感覚にかからないからとて、事実は事実であって、五官がそれを認める認めないで、事実を変化することはできないのであります。久しいあいだ人間はあの蒼空にきらめく銀砂のような無数の星を別の太陽系の太陽であることを知らなかった。そしてただわれわれの住む地上の付属品であるかのように考えていたのであります。ところで今では小学校の生徒でも多くの星が太陽よりも小さく見えるのは太陽よりもズッと遠いところにあるからだということを知るようになっています。われわれ人間はまだまだ知らねばならないことが多いのであります。存在の神秘は深い。人間はまだまだ心の眼を開く必要がある。諸君がこの『生命の實相』をお読み下さったのは、じゅうらい物質的にのみとらわれていた人間の心の眼を開く先達として、眼に見えないいっそう奥の神秘の世界に炬火をかざして進んで行くべき使命をもっていられるからに相違ないのであります。わが持てるライターは小さくとも、諸君のかざしていられる大小さまざまの炬火に灯を点ずるには役立つだろう。わたしはこの小さなライターをすりつつ、神秘の世界の内陣へと人間が近づいてゆくお手伝いをさせていただこうとこの光明の真理を書いているのであります。

 さて順序として、この霊妙不可見なエーテルという存在について科学者が最近の研究により結論をくだしたところを平易に紹介することにいたします。第一、エーテルは絶対不可分に少しの間隙もなしに続いているのであります。これをエーテルの連続性と申しまして物質には見られない性質であります。物質というものは、大きな塊りはそれだけ大きな距離を隔てて位置を占めており、小さなかたまりはまたそれに比例した割合いで互いに距離を隔ててその位置を占めているのであります。空の星や太陽は非常に大きな物体であるから、それだけ離れている距離も大きいのであって、仮に、われわれが無限の距離まで届く大砲の弾丸をやたらに天空にむけて発射しましても、どの天体にも当らないほどに互いの天体の距離が隔たっているのであります。ケルビン卿の計算したところによりますと、天空に発射した無限距離までとどく弾丸が天体に命中する率は、めったやたらに空中へ発射した猟銃の弾丸が小鳥に命中する率にも等しいということで、もっていかに星その他の天体間の距離が隔たっているかが推測せられるのであります。

 星や太陽などの相互間の距離が隔たっていることは明瞭なことでありますが、われわれが住む地球上の物質分子間の距離も互いに離れていて一つとして密着しているものはないのであります。水を瓶に入れますと、水というものは水面から瓶の底にいたるまでスッカリ続いていて間隙などはないように見えます。ところがこの水に炭酸ガスの圧力を加えながら押し込みますと、水の分量が少しも増えないで炭酸ガスがずんずん水の中へはいってゆく。これがいわゆるラムネやサイダー類の炭酸水であります。こうして炭酸ガスが水の中へはいっても水の分量がふえないのは水の分子と分子との間には、分子の大きさでいうならば、星と星との間ほどの大きな間隙がある、その間隙に炭酸ガスがはいるために、この間隙に余裕がなくならない限りは水の分量はふえないのであります。
<つづく>

950復興G:2012/07/12(木) 01:32:26 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(6)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(6)

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 水の分子と分子とが互いに隔たっていることは解ったが、ガス体の分子と分子との距離はどうであるかといいますと、それは液体の分子と分子との距離よりもいっそうはなれている。ガス体の容積は圧えれば圧えるほど小きくなるというのが物理学上の定則になっていて、この空気なども強烈な圧力を加えると容積が非常に小さくなって、液体空気となってしまうのであります。この圧えると小さくなるというのは、分子と分子との間に隙があるからであって、ちょうどカステラや海綿を圧えると小さくなるのと同じようなわけであります。

 液体やガス体の分子と分子との間が隔たっていることは解ったが、石や金のような固体は圧えてもなかなか小さくならないから、これらの物質分子相互間はそんなに隔たっていないだろうと言われる方があるかもしれません。ところがあにはからんや石や金属の分子などでも、その分子の大きさを標準に比較していうならば、星と星との間に大きな距離があるほどに分子間の距離が互いに隔たっているのであります。もしわれわれが分子の大きさほどの太さの針を作ることができるとすれば、この針で一直線に石なり金(かね)なりを突き通せば、なんの苦もなくずんずんはいっていって、一個の分子にも衝突しないのでありまして、それはちょうど天空に向かって大砲を発射しても星に当たらないほどの割合いだと研究されています。
 ところがこの分子という物はとても小さい。顕微鏡でさえも見ることができない。だから、その分子と分子間の離れている距離もかなり大きいけれどもなかなか見ることはできない。ここにもわれわれの感覚がかなり鈍いものであって、眼に見えないから存在しないなどということが、いかに時代おくれの言葉であるかが解るのであります。

 かくのごとく物質というものは、離ればなれの無数の分子という小粒から成り立っていて、その小粒と小粒とは非常な距離を隔てているのであります。ちょっと考えると、分子と分子とが互いにひっ着いて離れないであってこそ、物質が一定の形を保ちうると考えるでしょう。たとえば煉瓦と煉瓦との間をセメントでぴったりひっ着けてしまってこそ、その煉瓦建築は一定の形を保ちうるのでありましょう。今仮に、煉瓦と煉瓦との間隔が一枚の煉瓦の寸法の何十倍何百倍という距離をへだててその間に何もつめないで煉瓦建ての建物をつくるとしますと、なかなかその煉瓦建ては一定の形をたもってはいられないのであります。しかし分子という小粒の煉瓦で建築きれている物質というこの建築物は、その小粒の煉瓦(分子)同士の距離が、実に驚くべきほど隔たっていながら一定の形をたもっているのであります。するとぜひともこの小粒の煉瓦に比すべき分子と分子との間には、互いに結合するところの何か力がなければならないとはたやすくわれわれの気づくところであります。
<つづく>

951復興G:2012/07/12(木) 01:33:07 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(7)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(7)

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 じっさいこの分子と分子との間には不思議な力が介在しております。凝集力といって、それ以上引きはなすまいとする引力と、斥力といってそれ以上近づけまいとする反発力と、この二つの相反する力があるために、物質を組み立てている分子はそれ以上に相互に近づいて崩れ込むこともできず、さりとてそれ以上相互に離れてバラバラになることもできず、常に一定の形をたもっていることができるようになっているのであります。

 この二つの力は何も小さな物質分子相互間だけに限ったことではなく、太陽や遊星のような大きな天体相互の間にもはたらいているのでありまして、われわれの地球をはじめ、火星や水星や木星等のいろいろの遊星が、常に太陽から一定の距離を隔てながら太陽の周囲を運行していて、むやみに近よることもむやみに離れることもできないことになっているのは、実にこの二つの引きつける力と反発する力とが好い具合の比例ではたらいているからであります。しかもこの引力と斥力とはただ盲目的に働いているのではなく、実に整然とした知恵をもって働いています。それは水晶を六角の結晶体に、雪を美しい花模様に、あらゆる結晶体をそれぞれ独自の形に固めている知恵であります。この知性ある力の背後にはおそらく愛と叡智と生命との根元なる大生命が働いているのでありましょうが、科学者はその研究によってそのハタラキを、星と星との間の空間、分子と分子との間の空間を埋めている何ものかに相違ないと想像して、これにエーテルという名前をつけているのであります。しかし科学者がそれにエーテルという名前をつけたからとて、エーテルは物質的なものだということになる訳はなく、霊妙不可思議な存在たるに変わることはないのであります。エーテルはその中を地球のように高速度で走ってもなんらの抵抗をも感ぜず風も生じないほどに粘着する力のないものであります。しかも諸君が鋼鉄の一片を引きちぎろうとして引きちぎることができないのはこのエーテルが分子を引きつけておく力によるとしますと、実にエーテルというものは強い粘着力をもっているといわねばなりません。それではエーテルというものは、粘着力があるようでないようで実に捕えどころのない、場合にしたがって自由自在な相(すがた)を現ずる実体だといわなければなりません。それは一方にはわれわれに生命力を供給し、われわれの肉体はもちろんすべての物質的存在を場合場合に応じて一定の形態にたもっているところの霊知性でありまして、現代の科学者はこのエーテルという存在の背後にある神秘を解くことによってしだいに生命そのものを解明してゆこうとしつつあるのであります。
<つづく>

952復興G:2012/07/12(木) 01:33:52 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(8)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(8)

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   第二章 「生長の家」の健康学

 現代の「病理学」のみならずおよそ病気についての学問はかの人類をエデンの楽園より追放した「禁断の果実(このみ)」中の一つであります。「悪魔(サタン)」すなわち人間の迷いの心がこの「病理学」という禁断の果実をたべたら、人間は神のような完全な健康になれるだろうと教えたのです。(『創世記』第三章)ところがアダムすなわち「人間」は「病理学」という知恵の果実をたべたためにエデンの楽園から追い出された。人間はほんらい健康で病気になるべきではなかったのに、それからは、刻苦努力して、自分で造った「健康の法則」というものに従わねば健康がたもてぬようになってきたのであります。

 ごらんなさい、野獣には病気はないのであります。野獣は健康法をもっていない。薬をもっていない。それで完全な健康を生まれながらに備えている。けれども野獣をつれてきて、人間界に同居させ動物園なり、牧場なりに放って飼うようにし、人間の思想の雰囲気内に入るようにしておきますと必ず病気になります。獣医がつききりで、野獣が山の中でしたい放題の生活をしていた時分よりも、よほど衛生的規則的に生活させておいてさえも病気になるのであります。これは人間の病的思想――つまりいえば、こうしたら不衛生ではあるまいか、こうしたら病気になりはしないだろうかというような、本来「病気」が存在するということをあらかじめ信じておいて、それを避ける方法ばかりを考えている人間の思想の波動の中に住むから病気になるのであります。

  キリストの超健康法

 この点ではキリストは古今独歩の生命主義者であります。キリストは一度だってひとびとに衛生法や健康法を勧めたことはない。彼は口癖のようになんじの生活のために思い煩うなかれ、何を食らい何を飲まんと思い煩うなかれ、なんじの肉体に何を着んと思い煩うなかれというふうに、衛生のために心を労することにはぜんぜん反対されている。生を衛(まも)るのは人間のこざかしい知恵でできることではなく、生命そのものの自療力であるということをキリストは知っていられたのであります。

 ところが現代の生物学はこのキリストが教えた超健康法とはぜんぜん反対であります。それは宇宙にまず「生命」という偉大なものがあって人間の脳髄や身体の諸機関を作ったということを忘れてしまい、人間の精神力を脳髄の分量で測ろうとしたり、人間の生命力を体重で測ろうとしたりしているのであって、生命とは物質の化学的一作用なりという仮定のもとにあらゆる養生法と治療法とを出発させているのでありますから、物質が生命におよぼす力を非常に恐れている。それでほんらい自発的、能動的、創造的であって物質を支配すべき生命の本性を忘れて、ほんらい無力な他動的受動的な物質の法則の奴隷になろうと努力しているのであります。だから生命はその奔放自在な自己創造的な力を失って、自己萎縮をして、自分が自分で萎縮した程度に応じて物質のまえに無力になっているのであります。だから医学がますます発達し、いろいろの健康法が数えきれぬほど案出され、それによって癒される――あるいは癒されるように見える病気もたくさんあるにもかかわらず、病者の数がずんずんふえてゆきますのは、医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしてしまいますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからであります。
<つづく>

953復興G:2012/07/12(木) 01:34:36 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(9)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(9)

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   肉体は想念(こころ)の影

 人は心であり、物質は心に思い浮べた想念(おもい)が形に化したものでありますから、人の肉体は心で思うとおりになるのであります。心が感じ、はたらき、または、はたらきを停止するのであって、胃が悪いとか、胃が消化不良であるとかいっても、実は胃という物質が悪いのではなく、胃をはたらかせている心が、何かの機会たとえば食い過ぎたとかお腹が冷えたとかいうことを感じ、それでは消化が悪くなるだろうと思い、その心のはたらきが胃の活動を鈍くし、消化液の分泌を悪くしたので、最初は心に起こった「感じ」なり「思い」なりが肉体が実際病気になるまでにまず病気になって肉体の活力を止めてしまうので、昔から病気とは気を病むということだといわれているのはこういう意味であります。

 ところがたいてい誰でも胃が悪いといえば、もともと心が病んでいるのだということを忘れて、「昨日何々を食べたので」とか、「ついお腹を冷したもので」とかいって物質的方面に原因を求め、その治療にも物質的方法を用いようとするのであります。こうしますと、それでたとい病気が一時回復しましても、おおむねそのため将来において病気にかかりやすい素地を養成します。なぜなら、物質的方法によって病気が治ったということから出発して、生命は物質によって生かしも殺しもできるものだという誤れる暗示を受けることになり、自己の生命の霊妙さの自覚が失われてしまうからであります。そのため、常に生活が衛生法にかない、医者よ薬よといっている家庭には病人が絶えないのであります。

 自己の生命の霊妙さの自覚――これすなわち仏教でいえば正等覚(さとり)を得ることであり、キリスト教でいえば神の子としての自覚を得ることであり、古神道でいえば「尊(みこと)」としての大自覚をうることであります。この大自覚に達するのがあらゆる宗教の目的――いな、人間そのものの目的であり、この大自覚に達すれば、自覚した程度にわれわれに宿っている生命力は発現するのでありますから、キリストのように他人の病気を一言でなおしたり、釈迦のようにいろいろの神通力を発揮することもできるわけで、むろん自分が病気で苦しんだり、生活難で苦しんだりするような、不如意不自由な状態は消滅してしまうはずであります。

 一体ぜんたい、われわれが病気のときに生命の大本源であるところの大生命(神)に頼らないということはあやまりであります。われわれが病気のときにも神はわれわれが健康のときと同様に、われわれになくてならぬものを与えたまいます。否、かえってこの時こそ神を信じ、「神において能わざることなし」の大信念をもって、一心に神に縋(すが)れば、神は必ずわれらを癒し給うのであります。

 あらゆる医術、あらゆる健康法にたよってみたが、それではどうすることもできない、病気はますます悪くなるというようなときになって、看護人や病人は「かなわぬときの神だのみ」というわけで、物質的治療を捨てて、大生命の癒力(なおすちから)に頼ってくる人もあります。迷いにとらわれた人間ほどやっかいなものはないのでして、まずあらゆる物質的な治療法をことごとくやってみたのちでないと、「大生命」の方へ心が向いてこないのであります。だから、そうした人間の心の天秤の中では、「生命」というものと「物質」というものとが常につりあいがとれていないで、「物質」ばかりに心の中を占領され、大自在の生命の自覚がないから病気になるのがあたりまえであります、しかしそういう人でも『生命の實相』を読み、自己生命の本然の自由さを自覚せられるようになると、おのずから病気が実際に回復して来るのであります。

 われわれは二つの主に仕えることはできない。「生命」を信じて、物質を奴隷にするか、「物質」を信じて「生命」をそれの奴隷とするかのほかはない。薬物や衛生の奴隷になっているものは、生命の力をますます萎縮させてしまうのであります。薬を用いると、一時は薬に対する信仰から病気がよくなっても、結局はわれわれは大損害をする。すなわち自己の霊的生命の自存力(じぶんでたつちから)をますます弱くし、われわれの修養の根本目的たるものからいよいよ遠ざかってしまうことになるのであります。これは実に惜しみてもなお余りあることであります。
<つづく>

954復興G:2012/07/12(木) 01:35:21 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(10)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(10)

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   病気は無い

 いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、病気は第一義的にいえば本当は存在しない。ただそれはあるように見えているにすぎないのです。それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。「ない」ものをあると思っているから「迷い」なのであります。「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。これをたとえていいますと、「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている光のような、不可思議光(光明生命)であります。それを無色透明の正念(しょうねん)のレンズを透すとただ光輝燦然(こうきさんぜん)たる大生命の肖像(にすがた)ができる。これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります。ただこのわれわれの生命にいろいろの影や不完全な状態があらわれるのは、それにいろいろの迷いの姿を描いた「念(こころ)というフィルム」をあてがうからで、われわれが「念(こころ)しだいでどうでもなる」というのはこのことであります。

 本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、影さえも顕わすことができない。光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。いろいろの病気や、いろいろの苦しみを「人生という映画」にうつし出すことができるのは、病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、この「光」こそ、われわれが大生命からいただいているわれわれの「真生命」なのであります。いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間(リーアル・マン)」であって、この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、なんらの欠点もない。むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。各人の、この「真の人間」を観ることを「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのであります。「生長の家の生き方」に「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは各人に宿っている「真の人間」を礼し拝することをいうのであって、この「真の人間」というものは心でこれを認めれば認めるほど、明らかに形にも顕われてくるのであります。

 つまり「真の人間(リーアル・マン)」を認めるということは、「真の人間」(光明生命)に陰影(かげ)のあるフィルムを当てがわずに、「真の人間」そのものを直接(じか)に見ることになり、したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。
<つづく>

955復興G:2012/07/12(木) 01:36:07 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(11)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(11)

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   「真の人間」を観る修行

 従来から、仏教ではこの「真の人間」を観るということを修行の大目標においていたので、諸種の坐禅観法も要はこの「真の人間」(生命ほんらいの面目)を自覚せしむるにあるのであります。『般若心経』にある観自在菩薩のせられた般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)の修行は、実に徹底した「神想観」の修行であります。観自在菩薩はこの観法においてこの「真の人間」本来の面目が、不生(ふしょう)、不滅、不垢(ふく)、不浄、不増、不減の光明生命であって、これのみが唯一の実在である。したがって、それは病むことも死すこともない。そのほかのものは皆「無明(まよい)」である。病気や死などというものはことごとく「無明(まよい)」であって、存在しない。そしてまたその「無明」というものは、実はほんらい無いものを、有ると思っているからこそ迷いであって「無明」というものも無いのだ。それはただ「明るきが無い」というだけの消極的状態で、闇があるというような積極的な実在ではない。もし「無明」が積極的の力として有るのであれば「無明」を無くするのに骨もおれようが、「無明」はほんらい無いのだから、「真の人間」を自覚しさえすれば、ひとりでに「無明」は消えると観ぜられるのであります。この徹底的な大々的楽天主義が釈迦の説教の骨髄を貫いているのでありまして、仏教をもって厭世(えんせい)教だというのは解釈をまちがえた一知半解の人のいうことであります。

 人間には「真の人間」と、「虚妄(まよい)の人間」との二相(ふたつのすがた)がある。一方は実在であるが、他方は虚妄(まよい)であって、有るようにみえていても、その実は存在しない――仏教は最初からこの真理に出発していたのであったが、キリスト教がこの真理に目覚めてからまだ百年に満たないのであります。それまではイエスの説いた教えも、『創世記』にある宇宙創造説なども本当には理解せられず、「真の創造」と、「まよい」による「仮の創造」とを一緒にしてしまっていたために、一般人は人生の矛盾苦痛悲惨などということを、神の創造の不完全さの責任に帰し、創造神の実在の有無を疑ったり、神の全能力を疑ったり、神の愛の有無を疑ったりしていて、神とは神学者の頭に描かれた、ただの空想だと思われていたのであります。

   クィンビー博士の新治療法

 ところが十九世紀の中頃のこと、米国メイン州ベルファスト市にクィンビー博士(Dr. P. P. Quimby)という催眠術に堪能な人があって、催眠術でいろいろと実験をしているうちに、あまりにもみごとに催眠術の実験ができるものだから、これを病気治療に応用してみようということを思いたったのであります。もっともこれはクィンビー自身が当時医術では治らない病気で長年苦しんでいて、その病気でいつ死ぬかもしれぬと思っていたために、医術で治らない病気を治しうる方法があれば、さっそくやってみたいような気分が動いていたのであります。それで試みに数人の病人に催眠術を施して「なんじは神の子だから病気はない」という暗示を与えてみると、ずいぶん好い成績で治ったのであります。ところが催眠術というものは相手を眠らしてしまってから暗示をかけるのでありますが、自分の病気を治すには、自分を自分で眠らしてから暗示をかけるわけにゆかない。そこでなんとか好い方法はないかとクィンビーは考えだした――それでかれは催眠術というものの精髄は眠らすことにあるのではなく、「暗示」すなわち「言葉の力の応用」にあるということを考えついたのであります。それ以来かれは病人に催眠術をかけることなく単に患者の目を閉じさせておくだけで「暗示」すなわち「言葉」によって病気の観念をとり去ると同時に自己の神性を自覚せしめるようにし、人間は神の子であるから何ものにも支配せられるものではないという強い自覚を吹きこむようにしたのであります。これは催眠術からみれば一大進歩であります。催眠術では、自分自身以外のもの(催眠術家)に支配され征服されるという弱さの自覚から出発して病気が治るのでありますから一時は病気が治ってもこの弱さの自覚が、また次の病気を起こりやすくするのであります。ところが、こんど始めたクィンビーの治療は「人間は何物にも支配されない神の子だ」という自覚を言葉で吹きこんで治すのですから、人間の弱さという方面はスッカリうち消されてしまって、治ったが最後いよいよ自分が強くなり、健康だけにではなく、あらゆる方面に活動力をのばしうる根本的な精神的準備ができることになるのであります。
<つづく>

956復興G:2012/07/12(木) 01:37:05 ID:84pogn5s

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<第4回 WEB誌友会用テキスト(12)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(12)

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 クィンビー博士はこの原理を応用して自分自身の医学的不治症を根治すると共に、数百千の患者を治癒せしめたのであります。クィンビー博士を訪れて治してもらった患者のうちに世界的に有名な人が一人あります。それはメリー・べーカー・エディ夫人(Mrs. Mary Baker Eddy)で後にクリスチャン・サイエンスの創始者となったのであります。

 さて、このクィンビー博士の新治療法はどういうふうにするかといいますと、すこぶる簡単であります。博士の意見にしたがうと、病気というのは迷いの一様式であって、この原因の主なる一つは「病気は物質的原因で起こるという誤れる観念の遺伝」であり、また一部分は、「何か症状を感ずればただちにその病気になっていると思う一般の誤想」に基づくから病気をなおすには、病気の原因であるところのこの遺伝的の迷いを取り去り、そのかわりに、自己本来の面目、すなわち神の子としての完全な自覚を心の中へ「置き換えるようにすればよい」というのであります。それで実際的方法としては、クィンビー博士は患者の額に軽く手を触れてみずから精神を統一し、次のごとく厳かな口調でいうか、念ずるかしたのであります。「聖書にいわずや、神すべての創造(つく)り給いしものをはなはだ善しと観たまえりと。神は人間を神の相(すがた)に作り給いて、これに万物を支配せしめ給うたのである。だからなんじは健全である。神ひとたび善に作りたまえるものは何物の力をもってするも悪に変ずることはできない。神ひとたび健全につくりたまえるなんじは、何物の力をもってするも病に変化することはできない。なんじが今病気であるということは虚妄(こもう)の迷いである。迷いを去れ! 神は今もなお、なんじが健全で完全円満で一切の支配者であるのを観たまうのだ。」

 驚くべき森厳(しんげん)な口調が博士の唇から降りそそぐように患者の耳元に注ぎこまれると、いわゆる不治症といわれたものも、みるみるよくなってキリストの奇蹟もおそらくこのようであろうと思われたといいます。

 耳許(みみもと)でクィンビーがささやいた森厳なこの真理が病を治したのは少しも不思議ではないのであります。

 本来人間の病気を神がつくったものであるならば、人間がどんな方法でもってしても治るはずがないのであります。たまたま人間がなんらかの方法で病気を治すことができるというのは、病気というものの造り主が神でないからであります。ところが、宇宙万物は一元で一切の実在は神によって造られたのでありますから、神によって造られないものは実在しないのであります。「病気とは『無』の別名である」とクリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人が賢くもいっているのは真理であります。

 ここに注目すべきことはクィンビー博士が病気を治療するときに使った「言葉」とさきに述べた『般若心経』の意義とがぴったり符合していることであります。どちらも「真の人間」を自覚せよ、病気などは「無」の別名であるといっているので、仏教とキリスト教とはここにまったく一致することになったのであります。
<つづく>

957復興G:2012/07/12(木) 01:37:58 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(13)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(13)

   -----------------------

   古神道で説く罪の意義

 ここでわれわれ日本人の祖先の宗教たる惟神(かんながら)の道(古神道)ではどういうふうに実在を観ずるかということを述べてみたいのであります。日本人は昔からいっさいの病気は罪穢(けが)れから起こるといって、ツミということとケガレということとを非常に忌みきらっているのであります。言霊学で解しますと、ケガレというのは「気枯(けが)れ」ということであります。「気」とは「霊気」であり、「生気」であり「真理」であり、「生命の実相」であります。仮に「気」が枯れるといいますけれど、われわれに宿っている「生命の実相」そのものは事実においては枯れようはないのでありますから、「生命の実相」が枯れるといいましても、本当は枯れているのではない、ただ枯れたようにみえているのであります。なぜ枯れていないものが枯れたようにみえるかというと、「生命の実相」を「迷い」が包んでいるからであります。実相を「包み」て実相の無礙自在な本性を隠してしまっているのであります。ツミとは、実は「積み」または「包み」という意味で本来あるものの上に、他のものが重なって本来のものの自由を妨げていることをいうのであります。すなわち、日本古神道でいうところのツミとは、要するに仏教でいう「迷い」にほかならないのであります。仏教では、病気になれば『大般若経』を読誦(とくじゅ)して迷いを去り、迷いが去ると障(さわ)りがとれて病気が治ったりするのであります。キリスト教では、前記のクィンビー博士一派やクリスチャン・サイエンス一派では「真理の黙念」ということによって病気を全癒せしめ、病気がほんらい神の創造ではなく、迷い、すなわち「無」の別名であるという証明をするのであります。日本では『天津祝詞(あまつのりと)』をあげたり、身禊(みそぎ)をしたりして、言葉の力と、水にて罪穢れを洗い浄めるという形式による暗示にてツミを去り、気枯れを去って、病気その他の禍(わざわい)を去り、「大生命」すなわち法身(ほっしん)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)の分けみたまとしての完全円満なる「生命の実相」を如実に顕現するのであります。
<つづく>

958復興G:2012/07/12(木) 01:38:50 ID:84pogn5s

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<第4回 WEB誌友会用テキスト(14)>

『生命の實相』 第1巻

  《實相篇(上) 光明の真理》 より(14)

   -----------------------

  生命の実相を自覚すれぱ病気は治る

 このようにどの宗教においても「生命の実相」を自覚するという方法にて病気その他の禍をはらうのであります。だから「生命の実相」を自覚する方法ならば必ずしも何宗派の方式に則らねばならぬということはないのであります。そこに世界の主要宗教は一つの共通の真理――生命の実相は完全円満だという真理を指さしているのであって、伝道者にこの自覚が失われる程度にしたがって、その宗教に生命があるかないかのわかれる所以(ゆえん)があるのであります。「生命の実相」を真に自覚した伝道者が教えを説けば、どの宗教でも生きてきますし、「生命の実相」を自覚しない伝道者が教えを説けば、どんな良い宗教でも生命がなくなるのであります。よく既成宗教はだめだという批評を聞きますが、それは既成宗教がだめなのではない、それを説く人がだめなのであります。

 で、クィンビー博士の言葉の力で「生命の実相」を自覚させられて病気がなおるならば、それとまったく同じ意味の『般若心経』をあげて、病気が治らない理由がないわけであります。なかには、『般若心経』をあげて病気をなおす仏教信者もないことはありませんが、ごく少数である。これは失礼ですが「般若の智慧」によって実相を本当に解する仏徒が少ないからであります。むろん一字一句講義をさせれば、なかなか博学の名僧知識がありますが、たましいの奥底でその知恵がピッタリとは自分のものになっていない人が多いのであります。

 ご承知のとおり『般若心経』はもちろん、『大般若経』でも『涅槃経(ねはんぎょう)』でもなかなか現代語ばなれのした言葉で書いてあります。インドの言葉を支那の言葉に訳して支那の発音のままに棒読みさしてあるのですから、ふつうの日本人がその経を読んでも意味の解りようがないのであります。『仏教大辞典』などと首っ引きして読んでみても、それに説いてある「生命の実相」がなかなかつかめないのであります。

 どんな経典を読んでも「生命の実相」がわからなければ、蓄音器にお経が吹きこんであるのと同じでたいした効能はないのであります。現代人に「生命の実相」を解らすためには、もっと現代的に解りやすく説かねばなりません。「生長の家」はここに使命があるのであります。或る人は「生長の家」をもって、あらゆる宗教を現代化し実生活化したと評されましたし、また或る人は、一切宗教の尖端.をゆくものは「生長の家」であるとも評されました。これらの批評は読む人おのおのの見方にまかせておくとして、月々出ている『生長の家』誌および『生命の實相』を読むだけで病気のなおる人がある事実は何を意味していましょうか。これはこれらの刊行物には現代人にわかりやすい言葉で「生命の実相」が説いてあるからであります。釈迦が説いた真理、キリストが説いた真理、『古事記』や『祝詞(のりと)』にかいてある真理を実に平易にわかりやすく説いてある。それも単に学究的に説いてあるだけでなく一つ一つ日常生活に応用ができ、これによって真理を生活に織り込み、心に光明をたもち、生活に幸福を実現し、肉体を健康化して、わたしのように生まれつき虚弱な肉体であったもので、ふつうの人の二倍以上の仕事をして平然としていることができる方法が説いてあるのであります。わたしが思いますのに月刊の『生長の家』を本当に心読してくだされば、ほとんどどんな病気でも治ります。諸君の知人には何か慢性病で苦しんでいる人はありませんか。そんな人たちに月刊の『生長の家』誌や『生命の實相』の本を読むようにすすめてあげてください。はじめは「本を読むくらいで病気が治れば世の中に医者にかかるものはあるまい」とその人はいわれるかもしれません。しかし、そういう人にこそ強いても読ませてあげてくだされば、後になってきっとその人の病気が治って喜ばれるのであります。

 これ等の刊行物は初めから終りまでただ一つの目的――「真理」すなわち「生命の実相」を説き明かして、これを皆さんが覚ってくだきることによって肉体的にも境遇上にも健康になれるように苦心して編集してあるのです。ひとりびとりに治療法を施しているのでは、なかなか私の身体がなん百あっても世界の一切の病人を救うにはたりないのであります。それでわたしは真理を書いて読んでもらって、自然に読む人の病気が治るということを始めたので、本書もまた、その目的のために編纂されたのであります。

959a hope:2012/07/12(木) 07:51:39 ID:kJvHf4/g
人生読本 谷口雅春先生著

第十三章 詩の朗読による将来の運命の生かし方⑤


徳山さんはルンペンから一躍して、日本一の大きい料理屋の総支配人になったのでした。
また出世するような人は異(ちが)います。

恩を忘れず、感謝の心を失わないのです。
徳山さんは「自分はこの谷口雅春先生の『生命の実相』という本に出遇(であ)ったからこそ、
こういうふうに急に運命がよくなって、一躍こうした高い位置に置かれたのだ。
自分の心に言ってきかせて、自分の心の力でなったようなものだけれども、
心の力の使い方を教えて貰ったのは谷口先生である。一度先生にお会いしてお礼を申したい」
ということをいって私を招待されましたので、或る日私は京都の石川貞子さんと一緒に「味の美松」を訪れました。

徳山さんは、広い「美松」の食堂の南洋風景を真似て棕梠竹(しゅろちく)などを植えた静かな片隅(コーナー)へ
私達を連れて往って、私たちに珍しい料理を御馳走してくださったのち、
「先生、私にあの詩の朗読をさせてください。私は、あの詩を先生の前で歌って先生きいていただきたいのです」と言って、
黒革表紙の聖書型の『生命の實相』の本を披いて、あの「夢を描け」の私の作った詩を私に朗読して聴かせてくださいました。

徳山さんの朗々として澄み切った詩の朗読の声は、南洋の島の一遇かと思われる室(へや)の隅に、
まるで別世界の空気のような韻(ひびき)を立てて広がって行きました。

私は、私の書いた詩がこんなに力強い、そして美しいものであるということを、
徳山さんの朗読によって初めて知らされたのでした。私は恍惚(うっとり)とそれを聴いていました。

皆さんもこれを聴いて希望と勇気を奮い起してください。
徳山さんの歌う声!


夢を描け

若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、
蜃気楼よりも大いなる夢を。
夢はあなたの肉体を超えて虚空(こくう)にひろがり、
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へ
あま翔けらす大いなる翼となるであろう。
…………
あたなの心は夢をえがくことによって
天地をつくった偉大なる心と一つになるのだ。
兄弟よ、
悲しみに打たれるな。
打たれても起き上がれ。
描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。
自分にはまだ偉大な力が残っていると想像せよ。
夢を描くものにとっては
この世界は常に新天新地である。
…………

詩はまだ続くが、ここにはこれだけしか書かない。
詳しく知りたい人は、私の著書『ひかりの語録』
(『生命の實相』愛蔵版では第十巻、頭注版・携帯版では第ニ十巻に収録)を読んでください。
そして言葉の力で心に言ってきかせた通りに運命をよくしていただきたいものです。

(第十三章 終り 次回から、第十四章 表情動作の生かし方 へ)

960「訊け」管理人:2012/07/12(木) 11:47:31 ID:???


 合掌、ありがとうございます。

 さて本日は「榎本恵吾先生のご命日」であります。そこで以下記事を、作成させて頂きました。諸賢に於かれましては、ご高覧頂きたく思う次第であります。

○2012.7.12 「今日も使命は元気です!」――恵吾先生、ご命日に
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65673245.html


 さて榎本先生ですが、幾度となく私を救ってくださいました。

 ・・・・・・あれは信仰5年目を前にした時期でしたがやはり、私はなにか、信仰に対してマンネリ化を覚えていた時期があったように思います。それを救ってくださったのが、恵吾先生でございました。さて、このマンネリ化とはなにか――なにかこう、雅春先生の御本を拝読していても「信じられない」という時期、皆さんにもおありかもしれません。あの頃の私はまさに、そんな時期でした。
 事業経営の世界では現象、これを無視することなど出来ません。そしていつの間にか五官に瞞着されて、自分を見失ってしまうものです。曰く「雅春先生は『気にするな』とおっしゃられるが、実際は・・・」とか、「実相はスゴイんでしょうよ。でもネ、現実はね・・・」とか、そんな屁理屈をこねて仕舞い勝ちな時期、これが私にはありました。恵吾先生に出会う直前の時期がそう、なのでありまして連日、「もっともっと聖典拝読して(=自力で)」「なんとか現象を良くせねば」と、モガイテいた時期だったのです。でも、(聖典誤読の)私がなんとか乗り越えられたのは、榎本恵吾先生のお陰なのでございました。先生は私にこう、言われました――「喜んでいいのですよ!」と。

 「実相は、自分で『出てこよう出てこよう』としているのですよ!」「それくらい素晴らしいのが、『実相』なのですよ!」「実相がそれくらい素晴らしいものじゃなかったら、ウソじゃないですか!?」「雅春先生がただ『実相』とだけ、ご揮毫された意味が解らないでしょう!?」と・・・・いやたしかにそう、書いてありました。『生命の實相』にはそう、書いてあるのです。ですが私は恵吾先生、この方からこんなご指摘を賜るまでこの事実――「実相の素晴らしさ」に気づけずにいたのでした。あの時期、恵吾先生との出会いがなかったらいったい、現在の私はどうなっていただろうか・・・・
 この、恵吾先生との出会いも実相、この有難い真理が自動的に顕現したものだったのでしょう。「実相は、自分で『出てこよう出てこよう』としているのですよ!」「それくらい素晴らしいのが、『実相』なのですよ!」そんな恵吾先生のお気づきに本日も、救われている私です。

 さて、7年前の本日、同先生は卒然として神界へと旅立っていかれました。そこで本日7月12日、皆さまと一緒に恵吾先生のご文章を拝読できましたら、幸いであります。そして、皆で一緒に唱えませんか?「実相は、自分で『出てこよう出てこよう』としているのですよ!」「それくらい素晴らしいのが、『実相』なのですよ!」と。



961 志恩:2012/07/12(木) 12:01:48 ID:.QY5jUA6
訊け管理人様

訊け様ブログに、本日は、榎本恵吾先生の記事を掲載して下さって,ありがとうございます。
よく命日を覚えておられましたね。
あの日から はや7年経ちましたか。合掌

962商人:2012/07/12(木) 12:24:02 ID:TCt66b8E
私の尊敬する訊け管理人様

すばらしい文章をありがとうございます。

 私も小さい会社ですが事業をを預かっております。

私も「なんとか現象を良くせねば」と毎日もがいております。
 神経衰弱になるくらいです。笑
勉強が足りず苦心しております。

そんな時に訊けブログで元気を、いや、パワーをもらいます。

ただ、感謝感謝です。
あまり時間がないので榎本恵吾先生の動画を少し見させていただきますね。

商人

963SAKURA:2012/07/12(木) 13:01:30 ID:4dkLkzV2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

毎日〜〜「日々の感謝!」をする事で、更に!毎日聖典に“ライティング”します事は?
それだけでも、リズムが出来て来ます〜〜〜ネ!ですから「不思議な現象」かしら〜〜〜ン!
今日も又「テキスト…」を、片手に勉強会です。【神との一体】に〜〜〜では、開きま〜〜す!!
今日の“言葉”を〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜ヒラ〜〜と〜〜♫〜〜♫

■【幸福を招く365章】
―――――「迷い」はどうしたら消えるか―――――
心の「迷い」を無くするには、「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要らないのである。
それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって益々大いに「迷う」ばかりである。
「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて、「人間」の本来完全
なる相(すがた)を見詰めるようにすれば好いのである。自分の病気を癒すには、
自分の病気を見詰めないで、自分の実相の完全さを見詰めれば好いのであるし、他の
病気を治すには、彼の病気を治そうとか、病気をどうしようとか思わないで、ただ
彼の完全さを見詰めれば好いのである。全世界の人々が、ただ他の善のみを見詰める
ことにすれば忽ち平和はくるのである。

自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。それは種を蒔くのと同じ
ことである。善き言葉又は善き想念を述べることは、大宇宙の創価力の沃地に、善き種
を蒔く事になるのである。その種を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神に
あるのである。吾々は自分の力で、蒔いた種子から茎や葉を引張りだそうなどと
考えてはならないのである。「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは
神のちからである」と念じて、静かに神に全托せよ。(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「病気…」で例えますと、その人自身が「甘露の法雨」聖経のみしか治らないと〜〜〜
【固定観念…】が、あるのではないかしら〜〜ン!しかも、それで“治った”のですから〜〜〜
益々!【固定観念…】飽和状態の【脳回路…】なのでしょうか…?
■■【こうせねば〜〜〜ならない!!】と同じ事と思います。【限定…】と同様ではないのですか?

■例えば、“モノ”で言いますと、先日“パ−トナ−”の家に行きました…。
彼女の父親は、今でも「圧力鍋」で“ご飯”を炊いています…。前回!彼女の家に行きますと…
なんと〜〜♫〜〜「玄米が30kg…二袋」あり、今迄は、「玄米食」でしたが、
今回“病気”になり、医師の指示にて「白米食」になりましたが〜〜〜><
何と〜〜〜「玄米が○○kg??〜〜も」ありまして、それを見て【精米機】を、買う事を以前より
進めていましたが…本当に何度も!何度も!言っても“受け入れない”ので〜〜〜す。【固定観念】
どうかしますと、まだ〜〜〜〜玄米に???と見えまして、とりあえず【玄米を3kg…】持って
帰り、自宅の【精米機】で白米にして、送りましたら〜〜〜もう!!「美味しかった〜〜!」の一言!
                 <つづく>           NO.1

964SAKURA:2012/07/12(木) 13:03:32 ID:4dkLkzV2
                <つづく>           NO.2 

>>963投稿より続く
■■>「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて…<、

■その後!!何と〜〜〜何と〜〜〜♫〜〜この「迷い」??本当に!【一転…】でしょうか!!
【精米機…】を、ネットで買って欲しい〜〜〜との“電話”でした…。更に!私は〜〜〜><
「圧力鍋」でご飯を炊いていますから〜〜〜時間のロスが“大変”に思えますので〜〜〜><
「電気釜…」を進めましたが〜〜〜また!いつもの様に【固定観念…】があり受け入れないのです。
“パ−トナ−”の父親にしますと【電気釜より圧力鍋】で炊く方が“オイシイ!と言う【固定観念】
がありますが〜〜〜><“食”しますと、“ご飯”が膨らんでない!さら更に!私にしますと…
“美味しくな〜〜い”のですモノ!−−>
【強硬手段!!】で“パ−トナ−”とまず【電気釜】を購入してから、良くなければ“事務所用”に、
思いを胸に〜〜〜♫〜〜〜また【再度!!電気釜】を進めましたら、とりあえず「買入してとの事」
早々“注文”しまして、荷物が来て、再度“パ−トナ−宅”へ…ゴ―サイン!!
次の日に彼女の実家に行きまして【精米機・電気釜の使用方法】を教えて、精米したてのお米で、
ご飯を炊き、一緒に“夕食タイム”しましたら〜〜〜何と“パートナー”の父親は“オイシイ!”と
実に!嬉しそうに〜〜〜“ご飯”を〜〜〜

■その後“パ−トナ−の弟さん”が来て、また【固定観念】があり…また!同じ繰り返しですが?
同じ様に、父親が説明したのかしら〜〜ン!そうしますと“弟さん”も認めてくれて〜〜〜

■その様に【病気…】も【甘露の法雨…】でしか“ダメ”との【固定観念…】がありますと〜〜〜
“病気…”でも治りにくくなりそう〜〜〜なのですが??如何でしょうか??
さて!【新しい聖経】でも、同様な事があり、
■■是は当時の【一般信者】が、これがいいと云った【念の波動の動き】でしょうかと??
私は、それに“気づき”今は【新しい聖経??】を読んでみておりますが〜〜〜?
しかも【仏壇の前…】で読んでいますが?「御先祖様…」も納得している様です。(一言説明して)
これも、読んで行きます内に「良い事」が起きて来ますと〜〜〜!
【蒔いた種の奇蹟…】の始まりになる様にも思います…。
「甘露の法雨」は。実に“素晴らし〜〜〜い!”のですが……><よ〜〜〜く考えて頂きますと!
■■現在【甘露の法雨…拝読】しても、【生長の家…派閥論争】でしょう〜〜〜><
しかも?しかも?【水面下では長〜〜〜い間】ですモノ??
果たして!!【甘露の法雨…功徳?】ありますでしょうか?■神は調和したところにしか…!!

従いまして…現在の私は…「ケ−ス・バイ・ケ−ス」で、【二つの聖経】をして行きます。

■■「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうは神のちからである」と
念じて〜〜【静かに神に全托せよ!実行開始!!全開!!START ME  UP! GO…!】

                                     再合掌

PS:トキ様 へ
>自分が祈る力や、自分の思念力によって不幸や病気を退散せしめようなどと思っては
ならないのである。われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、あとは
神が成就したまうのであると知らなければならないのである。<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
善き想いの「想念」は、本当に…「引き寄せの法則」にて…それなりの結果が??
現われるのではないでしょうか?
【新…長編詩?】に【法則…】と云う“言葉…”が、書かれてありましすが…
此の“法則”に準じますと?【善き想念の種…それなりの結果が】と思います…。
そして、現代版の表現で“解釈”しやすいのでは〜〜ないでしょうか?
トキ様は?どの様に感じられますでしょうか【固定観念…】

PPS:更に「電気釜」一つでも選択するにしても?その人の“知識能力”になります〜〜〜ネ!
今回!とても〜良い“買い物”をさせて頂きましたが〜〜〜!! ウフフ“自己満足☆☆☆☆☆”

965 志恩:2012/07/12(木) 13:10:57 ID:.QY5jUA6
皆様すみません。私も、ここへ 先ほど 会話の書き込みをしてしまいましたが、
ここは、聖典板ですので、
会話は、今後,部屋板の方で、させていただきましょう。
そうでないと、WEB誌友会のために謹写して下さいました復興G様の944~958が、奥へ行って
しまって見えなくなってしまいますので、よろしくお願いします。

966再掲示:2012/07/12(木) 13:15:24 ID:???
雅宣先生の本を読み、祈りのことばを誦えるということは、心のバランスを壊すということになります。なぜか読みたくない、祈りのことばがしっくりしない、そうあなたはまだ正常です。これからは読まないこと、誦えないことが賢明と思われます。しかし、現教団組織にいるとむりでしょうね。もし、「生命の實相」24巻をお持ちでしたら88p〜99pをお読みください。きっとその原因がわかるとおもいます。

「生命の實相」24巻88p〜99pより抜粋
 「現象なしの自覚について」

 「現象はない」という言葉をわたしが使うようになるには霊感的な導きはありますが、わたしとしては人間的にもよほど苦心したのであります。

  かくのごとく「無」の字は竣効を有するので、生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、有効無害の働きをするように、文章中に巧みに他の言葉と混ぜて調合してあるのです。「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、「無」の字、「ない」という言葉を文章全体の中に織り込んであるその織り込み方にあるのであります。
  この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、その同じ眞理が説いてある生長の家では、聖典(生命の實相)を読んだり話を聴いただけで病気が治るのであります。

  近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。
 「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。生長の家と、それらの宗教とどこが違うかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の開放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

967神の子さん:2012/07/12(木) 13:26:27 ID:???
>>思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、
そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために
「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、

心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。>>

能力も霊感もない人が「補強する」とか「ニューバージョン」と言って行っていることはつまり、雅春先生に「茶々」を入れているだけなのです。
くれぐれも体調を崩さないようにおきお付けください。 SAKURAさまへ

968うのはな:2012/07/12(木) 14:44:29 ID:gTn97m6I
 訊け管理人さんのブログでも拒否を表明してきましたが、私は「雅春先生に訊け」
ブログを、昔からこまめに見ているほうではなく、今後も毎日みるとは限りません。

 もしも、私の文の引用や投稿記事の無断転用を発見された方は、こちらまで
通報おねがいします。

969うのはな:2012/07/12(木) 15:39:34 ID:gTn97m6I
 『続 生命医療を求めて』 内科医 内田久子 先生著

 『我が内なる゛自然療能博士』 その一“熱さん、ありがとう”

 私が過去に四十度の高熱が続いた時、往診の先生が解熱剤を注射されると、暫くして、多量の発汗と
共に熱が急降下して三十五度になったのですが、深夜から再び悪寒戦慄がきて四十度に上昇、翌日又注射
されるといったことが何日も繰り返した挙句、とうとう心臓衰弱を起して緊急入院となりました。
意識もうろうとしている私の枕元で、「どこの医者が解熱剤を注射したのだ!熱型をくずすとはけしからん。
熱は出しっぱなしにするのがよいのだ。体が必要にして出している熱を、解熱剤で無理に下げると、心臓を弱らせてしまうから
却って危険なのだ!!」と、どなっておられる院長先生のお声にハッとしたのです。
これは敗血症で重態になった時のことでした。

このことは、私がかつて阪大第二内科へ入局した頃、教授が病棟回診の途中で、
「病気の治癒過程に、必要にして出ている熱を、理由もなく解熱剤で抑えることは、
絶対してはいけない」と、医局員たちに何度もご注意くださったことですが、この時再び耳にし、
改めて「発熱の意義」を自分の苦しい体験を通して知らされたのです。

 後に、肺炎や気管支炎、胆嚢炎その他の感染症で高熱のため入院された患者さんや家族の方々には、
このことをよく説明しますと、それまでの心配や恐怖感が去って、とても安心して過されます。
実際、三十八度以上の熱が出ますと、ビールスや、抗生物質の効かなかった耐性菌でも、この高熱や肋骨炎の胸水のかげも消え、
微熱がいつまでも続くというようなことは全く起りません。
この際、高熱が一日で下がるのではなくて、翌日には又上昇しますが、図1の如く、熱の頂点が前日よりはやや低く、翌々日は又、熱が
上がりますが、前日よりはやや低い、といった様に、「階状下降」の形をとるのが自然解熱の特徴であります。
 中略〜

 手術した後や、脳出血の発作後しばらくして出る熱も同じく「吸収熱」であって、病気や手術した所が順調に治りつつあることを示しています。
入院患者さんには、一応感染予防として抗生物質の点滴注射はしますが、このような理由から解熱剤は一度も使用したことはなく、みなさん順調に回復なさいます。
私達の体にはこのような不可思議な生理作用が様々な形で営まれていますから、発熱の原理も正しく理解していますと、一見悪く見えるような症状でも実は、生体の自然治癒現象の一つで
ありまして、「熱さん、ありがとうございます」と、『我が内なる“自然療能博士”』の妙なる御働きに感謝して、お托せすると、安心して治る迄の時期を待つことが出来ます。

970ハマナス:2012/07/12(木) 23:50:08 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。前線の影響で、九州では、記録的は大雨が降り、全国的に雨になっている
ようで、こちらも方も雨脚が強くなってきました。皆さまの所は、大丈夫ですか。

幸福への精神的導火線  (『新版 生活の智慧365章』P.201より)

 あなたの受くべき運命を「最高」のものとして想像せよ。而してその「最高なるもの」
が自己に近づきつつあると信ぜよ。毎日毎日自分は一層幸福になり、一層健康になり、
一層繁栄に向かいつつあるのだと信ぜよ。この明るい精神の根本的態度があなたを今より
もいっそう幸福に健康に繁栄に導く、精神的導火線を築くことになるのである。毎日毎日
神の最高の智慧が自分をみちびくのであると信ぜよ、かく信ずることによってあなたの
精神は一層多く神の智慧に波長が合い、神の智慧を一層完全に受信することができるので
ある。

 神と自己との分離を想像してはならない。つねに神とつながり、神に護られている自覚
を持っていなければならない。自分自身を自分の想念によって自己縮小してはならない。
常に「自分は神の子である」と云うことを黙念して自覚を強め、もって、自己強化をはかる
べきである。

感謝合掌

971a hope:2012/07/13(金) 09:04:57 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十四章 表情動作の生かし方

動作を丁寧に、表情を深切に


運命をよくするには常に良い言葉を使い、身体の動作を深切丁寧にしなければなりません。
丁寧にお辞儀をしたら損するとか、自分が相手より下のものだと思われて恥ずかしいとか考えるのは間違いです。

世の中の人は、表情や身体の深切丁寧にする人をかえって、「あの人は偉い人だ」と誉めるのです。
これに反して「あいつは馬鹿だ、ろくろく言葉の使い方も知らない、お辞儀をする術(すべ)も知らない」
と言って人から軽蔑せられるのは、言葉の使い方のぞんざいな人や、身体の動作に深切があらわれていない人です。

こんな人の運命はよくなりません。
こんな店員や社員を使っている店や会社は繁盛いたしません。
繁盛するには社員店員の訓練を怠ってはなりません。

(つづく)

972ハマナス:2012/07/14(土) 00:41:32 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
こんばんは。
Web誌友会素晴らしいですね。皆さまのご投稿拝見させて頂いています。

今ある恵みに感謝する  (『新版 生活の智慧365章』P.202より)

 既に求むるものを受けたりと云う信念から衷心(ちゅうしん)からの情熱的な感謝をする
ならば、奇跡的にその求るものを得ることができるものである。「実際に求むるものがまだ
現実にあらわれて来ていないのに感謝出来ません」と言う人が往々にしてあるけれども、
これは大変間違った考え方なのである。

 先ず、既に与えられている無数の恵みについて感謝せよ。空気、日光、住宅、衣類、家族、
食物、健康等既になくてはならぬ多くのものを与えられているのであってその事実に対して
感謝せよ。病人は、「まだ健康を与えられていないのに感謝なんど出来ません」と言うかも
知れないけれども、全身病の人は殆どないのである。肺臓が悪くてもたぶん眼は見えるし、
耳は聞こえるであろう。手足も動くであろう。たとい盲人であっても食物はたべられるで
あろう。感謝すべき点をさがしたら無数にあるのである。感謝すべき点を探し出して感謝せよ。

感謝合掌

973a hope:2012/07/14(土) 07:28:41 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

丁寧な動作の癖をつけるには


子供に限らず、大人でも頭を下げることを屈辱(はずかしいこと)のように思っている方がありますが、
そんな方は一度自分の全身が映る鏡の前に立って、にこやかに微笑して丁寧にお辞儀して鏡の中を御覧なさい。

どのくらい自分が上品に気高く立派に見えましょう。
こんな自分なら尊敬してよいと、我ながら自分が好きになるでしょう。

その次に、今度は、いやいや無理にちょっと頭を下げた時のことを想出(おもいだ)し、
その時の気持ちでぞんざいにちょっと頭を下げて、その映る姿を鏡に映して御覧なさい
―――自分の恰好がどんなに不快な気持ちの悪い様子である事が判りましょう。

我ながら、「こんなキザな格好をする奴は嫌いだなア」とお考えになるでしょう。
あなた自身すら「嫌いだなア」とお考えになるくらいなら、他(ひと)から見たら一層嫌われるにきまっています。
そんな人から嫌われるような店員のいる店は繁昌(はんじょう)しません。

皆さん、「ああ、あの人は上品で気高くて深切だ、尊敬したくなる」
というようなお辞儀の仕方や身体の動作を鏡の前で稽古しておいて、
その気持ちを忘れないで、人を出迎え、物言う時に、その通りに丁寧深切になさいませ。

店主から誉められ、その店は栄え、皆さん自身も出世します。

店でも会社でも自分の家でも同じことです。

善いことをするのは決して恥ずかしい事ではありません。

(つづく)

976うのはな:2012/07/14(土) 14:32:06 ID:gTn97m6I
管理人様

 上記 974、975、今のこの投稿の削除をお願いします。
 お手数かけて申し訳ありません。

 拝

977ハマナス:2012/07/15(日) 00:27:08 ID:Z7K9Z3Eg

神の子のみなさま
ありがとうございます。

神に、家族同僚 等に感謝する (『新版 生活の智慧365章』P.203より)

  身辺の全てのものに感謝すると共にそれらの恵みを与えたまうた神に対して感謝せよ。
「ああ神の造りたまいし此の世界の妙なるかな! 無限の智慧に充たされてあるかな! 
無限の愛に充たされてあるかな! 無限の生命に充たされてあるかな! 無限の供給に
充たされてあるかな! 無限の調和に充たされてあるかな!」と讃嘆の神想観を行うとき
には神に対して最大の感謝を捧げていることになっているのである。また暇がある毎に
「神さま、有りがとうございます。と感謝の言葉を黙念するのもよい。

 神に感謝したならば次に気分の家族、勤め先の先輩同僚その他のメンバー等にも感謝
すべきである。感謝を黙念するだけではなく、言葉にあらわし態度にあらわすときは
周囲と一層調和してよい結果が得られるのである。

感謝合掌

978SAKURA:2012/07/15(日) 03:16:13 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

「WEB誌友会」…いろんな考え方が、あるのです〜〜〜ネ!
どれが“正しい”のかは、それは「神様」だけが、一番ご存じでしょう〜〜〜かと?
今日は、つくづく思いましたが〜〜〜><その中で、やはり【生活に実践をする事!】優先にと!!
「今を活かす事」が、当然「他人を活かす事」と私は、自然に思えるようになりましたら、
別の先生がそのような事をおっしゃっているとの事???でも【私自身の真理…】は、
それも【今を活かす事…】でしょうか〜〜〜♫〜〜〜【活かす=生かす事】です〜〜〜モノ!
では!只今より〜〜〜“今日の項目”を開けます〜♫〜

■【幸福を招く365章】
―――――神の啓示をわれ受けて――――

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、それに従うことによって、
神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、神のみ心を地上に表現することによって、
地上の人類が等しく幸福となり、同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。
この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。「われ神の子なり」の自覚を
中心として、無限の神智は流れ来り、神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動
することが出来るのである。「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、
わが一挙手一投足を導きたまうのである。われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り
来るのである」神想観中に斯くの如く念ぜよ。神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠であれ。
                              (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■神を信じる事は、自分を信じる事…!自分を信じる事は、私の【心の扉…埋蔵の入り口】…
入口は“天国の門”…
神を信じる“心”は、果たして「天国の門も、広き門」なのでしょうか〜〜〜??

■私は「神の子」と〜〜〜自然に自ずと“心”から湧きあがるようです…???

■私の“心”が自ずと“潜在意識”に入って行く過程に於きまして…自ずと【意識…】に、
繋がって行くモノではないでしょうか!!
今日から、もっと“心を強く”鍛えていこうと思います…。
どんな時も、私を起す“原動力”は、【私は神の子ですモノ??】この自覚と…『神との一体感』!
今日から、更に〜〜〜〜〜力強く「実践中」なのです!!
                                  再合掌
PS;トキ様へ
【神想観中「なまくら」である勿れ…】此の言葉…痛烈に“痛い”ですモノ??どうしても、
“意識集中”出来ない様な精神力の時は〜〜〜〜〜><
きっとその時は【天国の門】叩けないのかも知れませ〜〜〜〜〜ンネ!
トキ様は、この事はどの様にお考えでしょうか???“アドバイス”頂けますと幸いです…。

979a hope:2012/07/15(日) 09:53:41 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

玄関番が大切です


玄関番ぐらいだから、出来の悪い人をおいて差支えないと思う人があるかも知れませんが、
会社商店の玄関番に言葉動作の不丁寧な人を置くほど損なことはありません。

会社商店の玄関は人間にすれば顔です。
顔に墨を塗って人に面会する人はないでしょう。

訓練の足りない給仕を玄関に置いて初めての人に会わせるのは、
顔に墨を塗って人に会うのと同じことです。
店の信用を墜(おと)とし、会社の信用を失います。

給仕ぐらいだから、言葉遣いやお辞儀のしようはどうでもよいと思っていてはなりません。
そんなことでは給仕はつとまりません。

私はこれまでいろいろの種類のいわゆる偉い人にも会いましたが、
そんな人ほど言葉が優しく、お辞儀が丁寧です。
なるほど偉くなる人は異(ちが)うものだと感心いたしました。

(つづく)

980a hope:2012/07/16(月) 09:53:50 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

一寸(ちょっと)したことで人間の運が変る


世の中には学問も良くでき、立派な才能を有(も)ちながら、運が悪くて、
勤め先をあちらへ更(かわ)り、こちらへ更り、しまいには落ちぶれて働く先もなくなるような人があります。
そんな人はたいてい、気が短くて、言葉使いに深切がなく、身体(からだ)の動作に礼儀正しさのない人です。

礼儀作法は女だけの習うものではありません。
礼儀作法は男にも必要です。

人間の値打ちを智慧や学問ばかりにあると思うのは間違です。
尚それよりも態度の優美ということは、何よりも必要な人間の値打ちです。

最初はどういう態度が美しいかは、鏡を見て稽古をなさるのもよろしい。
どの程度に微笑する事が相手に気持ちのよい感じを与えるか、
十分研究して置いて相手に快(よ)い気持ちを与える稽古をなさい。

「そんな詰まらないことを研究するよりも、本を読む方が偉くなる」とお考えになるかも知れません。
しかしあなたがいくら偉くなっても、姿態(かおかたち)はあなた自身の玄関のショーウインドウーです。

ショーウインドーが埃(ほこり)だらけでは、いくら家の中に上等の品物があっても、
中まで入って買ってくれないでしょう。
あなたの中味の値打がどれほど偉くても、言葉態度が下手では、その中味は値打ちを出す時が来ないのです。

中味はどんなにおいしい御馳走でも、泥にまみれたら誰でも食べ手がないでしょう。
せっかく立派な才能(ちえちから)をもちながらも、言葉態度に深切丁寧さがなくては、
せっかくのよい御馳走を泥まみれにして出すのも同じことです。

これではどんなに才能ある人でも立身出世はいたしません。
これではどんな中味の立派な店でも会社でも繁昌いたしません。

(つづく)

981a hope:2012/07/16(月) 12:36:23 ID:kJvHf4/g

「罪の自覚と贖罪の観念は人間を不幸に導く」

清貧礼賛の心に密接に関係しているのは、「罪」の観念であります。「罪」は苦しまなければつぐなうことができないというのが人類の通念でありまして、この人類共通観念のために罪を浄(きよ)めるための自己処罰の一方法として、多くの人々の潜在意識は、自己に自己処罰の一形式として貧乏、病気、不幸、災難等を導き出すのであります。

わたしは『生い立ちの記』(本全集第十九・ニ十巻)にありますように、青年時代に大本教にいて、その機関雑誌や機関新聞を編集していたのであります。今は大本教は愛善園といって、生長の家で「万教帰一」という所を、「万教同根」と称し、各宗教と調和していく教えに転向しているようでありますが、当時の大本教は、その教祖の筆先にも「地震雷火の雨ふらしてたいらげるぞよ」とありますように、神さまの気に入らぬもの、罪あるものなどに対してははなはだしい威嚇的な神罰宗教であったのであります。しかもその最後の審判において、罪ある者が地震雷等々の天災地変で皆殺しにされる日、大正十一年五月五日には、すでに‘みろく’の世が来るというので、その直前に罪人一掃的な一大天変地変来るのだという予言になっていました。わたしは目の前数年のうちに迫るこの最後の審判の日に生き残ることができるほどに罪をきよめておきたいと、ある時は断食し、ある時は水行をし、ことさらに貧乏をもとめていましたが、断食や、水行や、貧乏では罪の消える感じはどうしても起こらないのでありました。

一体、罪はどうしたら消えるのであろうか。罪とはいかなるものであろうか。罪の本質やいかんなどと、大本教の神さまによって、日限きって予告された最後の審判の日を前にして、真剣に考えずにはいられなかったのであります。そして遂に神罰の神を否定してしまい、神は愛であり、善であり、すべてのすべてであるから、罪というものを神は造らないのであるから、罪は存在しないのであるという一大真理に到達した結果、今まで罪をつぐなわんがために自分を自縄自縛して苦しまなければならぬというその考えが、潜在意識からのぞかれることになったのであります。その結果「貧乏でないと天国へ行けない」というような潜在意識がわたしの心の中からのぞかれ、わたしはやっと広々とした世界に出たのであります。それとともに、その今まで一文の印税も原稿料もとれなかったその本を十五年も後になって出すと、数十万部も売れて、わたしに無限供給の豊かな生活がじつげんするようになったのであります。……

「頭注版「生命の實相」第8巻P138 3行目より」

982SAKURA:2012/07/16(月) 14:38:10 ID:EUALcDkQ
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

「WEB誌友会」…いろんな考え方が、あるのです〜〜〜ネ!
どれが“正しい”のかは、それは「神様」だけが、一番ご存じでしょう〜〜〜かと?
今日は、つくづく思いましたが〜〜〜><その中で、やはり【生活に実践をする事!】優先にと!!
「今を活かす事」が、当然「他人を活かす事」と私は、自然に思えるようになりましたら、
別の先生がそのような事をおっしゃっているとの事???でも【私自身の真理…】は、
それも【今を活かす事…】でしょうか〜〜〜♫〜〜〜【活かす=生かす事】です〜〜〜モノ!
では!只今より〜〜〜“今日の項目”を開けます〜♫〜

■【幸福を招く365章】
―――――神の啓示をわれ受けて――――

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、それに従うことによって、
神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、神のみ心を地上に表現することによって、
地上の人類が等しく幸福となり、同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。
この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。「われ神の子なり」の自覚を
中心として、無限の神智は流れ来り、神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動
することが出来るのである。「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、
わが一挙手一投足を導きたまうのである。われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り
来るのである」神想観中に斯くの如く念ぜよ。神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠であれ。
                              (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■神を信じる事は、自分を信じる事…!自分を信じる事は、私の【心の扉…埋蔵の入り口】…
入口は“天国の門”…神を信じる“心”は、果たして「天国の門も、広き門」なのでしょうか〜〜〜??

■私は「神の子」と〜〜〜自然に自ずと“心”から湧きあがるようです…???

■私の“心”が自ずと“潜在意識”に入って行く過程に於きまして…自ずと【意識…】に、
繋がって行くモノではないでしょうか!!
今日から、もっと“心を強く”鍛えていこうと思います…。
どんな時も、私を起す“原動力”は、【私は神の子ですモノ??】この自覚と…『神との一体感』!
今日から、更に〜〜〜〜〜力強く「実践中」なのです!!
                                  再合掌
PS;トキ様へ
【神想観中「なまくら」である勿れ…】此の言葉…痛烈に“痛い”ですモノ??どうしても、
“意識集中”出来ない様な精神力の時は〜〜〜〜〜><
きっとその時は【天国の門】叩けないのかも知れませ〜〜〜〜〜ンネ!
トキ様は、この事はどの様にお考えでしょうか???“アドバイス”頂けますと幸いです…。

983SAKURA:2012/07/16(月) 23:40:20 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

天気が不安定です〜〜〜ネ!〜〜〜まるで「私の心模様」かしら〜〜〜ン!
【負ける==>落ち込む==>いろいろの心の葛藤】なのですが〜〜〜><」
も〜〜〜う!此処でおりたら【負け組】と思う前に、そうですョ〜〜〜ネ!
【心を軌道修正!!】“神の声”でしょうか??
私はもっと強い「イメ−ジで投稿」すべきでした…との、思いが致しました。
さて!今日は別の本に致しますので…では!“今日の言葉”より〜〜〜♫

■【幸福生活への招待20章】
第8章   龍宮無限供給の世界に不況はない
―――― 富裕も貧乏もみな心の中にある ―――――

真の裕かさというものは心の中にあるのである。如何に多くの数量の物質又は貨幣を
もっていようとも、尚欠乏しているという“不足”の感じをもっている者は、依然と
して貧乏人である。多く持っても、(富がゆたかに)有っても、尚渇くようにほしがる
人間を仏教では、“餓鬼道”に堕ちたと言うのである。真の意味の富者は、神が一切の
供給の本源であり、その本源は無限であるから、私たちが心の(波)波長をその本源に
同調させるならば、必要に随って必要な供給がその無尽蔵の本源から供給されるもので
あることを知り、それを単に知るだけでなく、それを瞑想すると同時にそれを実行に
移して、その真理を実証しつつある者でなければならないのである。私たちが供給の
現象的な有限のみを見て、「供給は有限である」と想うならば、私たちは自分自身の
想念によって無尽蔵の本源からの供給を阻みつつあるのだと言わなければならない。

                           (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■さて!今から【軌道修正…】です〜〜〜。
あれも欲しい〜〜〜これも欲しい〜〜〜ときりが無いくらい?若い時はありました。
しかしながら、最近は「物の見方」が、変化でしょうか…?
「物を整頓」します時、どうしても“貧乏少”かしら〜〜〜ン!
捨てきれないで“モノ”・思い出ある“モノ”がありますので、躊躇する事が、多々あり、
ゴミ箱行き?ゴミ箱から戻す?この繰り返しでしたでしょう〜〜〜か??
要約!最近“スパッ〜〜ト”ゴミ箱行きに、捨てれるようになりました…。(微笑)

■例えば、若い頃に来た“洋服”とかです。当時は、「極細並み?の細さ」で〜〜〜
そうです〰〜〜ネ!“サイズ”は、今では〜〜〜ピチピチ!ですモノ?
そのような“洋服”を、捨てきれないで、いつかまた〜〜〜との希望を胸に、
その様に“捨てきれないモノ”のでしたが〜〜〜><

■この頃!ポン〜ポン〜と捨てている訳なのですが〜〜〜
そうしますと、「不思議」なのですが?新しい“モノ”が、私の前に飛び込んで来ます。
まるで【小槌を打つ…】ように、ポン〜ポン〜と入ってきますから〜〜〜
但し…【感謝の気持ち】にて、聖経を上げさせて頂きますが…?

■■これも“心”が前向きになりますと〜〜〜そうです〜〜〜ョネ!
“心豊か”になり、新しい“モノ”が引き寄せて来る様なのですが…!
【引き寄せの法則】でしょうか?
いつも〜いつも〜必要に随ってくる様ですが〜〜〜
“心”そのものが前向きに、進むようになりますと、当然“心豊か”な気持ちで…
「心でイメ−ジ」しながら、私の“心”が、自由自在に“心”で描く事によって、
その“想念”が【引き寄せの法則】でしょうか〜〜〜??
私の“想念”をもっと広げていきましょうと〜〜〜そうです〜〜〜ョネ!
そうしないと【前進!!】する事が、できないような気持になりました…!!

                                  再合掌

PS:トキ様 へ
今日は、別の書籍にての抜粋投稿を、させて頂きました。やはり!最終的には、
【心の法則…人生は心で支配せよ(雅春先生の言葉)…心で作る世界(雅宣先生)】
その様に、思いましたが??この点は、どの様に思われますでしょうか?
“アドバイス”頂きますと、幸いに存じます。

984SAKURA:2012/07/16(月) 23:45:01 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
>>978
あわてておりましたので“二重投稿”になっておりました…。
ですから上記ナンバ−“消去”お願いします。お忙しいところ、申し訳ございません。

985ハマナス:2012/07/17(火) 00:24:50 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。
連休中は、皆さまはどのようにお過ごしになられましたか?
web誌友会も大成功のようで、おめでとうございます。

復興G様
膨大な聖典からの謹写に感謝申し上げます。
また、トキ様を初め、ご参加の皆さまも、素晴らしいご投稿をありがとうございました。
じっくりと読み、お勉強させて頂きます。
私は、連休中息子が帰って来たり、お墓参りや、実家に行ったりで、PCの前に座る事が
出来ませんで、失礼致しました。

自己の魂と肉体に感謝する  (『新版 生活の智慧365章』P.204より)

 神に感謝し、神の恵み給うた一切の事物に感謝し、周囲のすべての人々に感謝して
いるけれども、まだその人に感謝することをわすれがちである一人がある。その一人は
「自分自身」である。「自分自身」の魂は神の子として此処に神から与えられた使命
遂行に尊き努力を捧げつつあるのである。此の「自分自身」の魂に感謝を捧げないのは
肉体に対して感謝しないのも片手落ちである。

 例えば「○○○○の魂よ、肉体よ、(○○は自分の姓名を唱える)いつも神から与え
られた尊き使命を忠実に遂行して下さってありがとうございます。」と心で唱え、又は
低声(こごえ)唱えるならば、自分自身の魂も肉体も尊く使命遂行を自覚して、堕落
することもなく、不健康に陥ることもなくなるのである。

感謝合掌

986a hope:2012/07/17(火) 07:20:31 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

「形」と共に「心」を深切にせよ


と言って、言葉態度の美しさは形ばかり真似ても、真似ないよりはよろしいが、
それだけでは本当に言葉態度が良くなりません。

心に気品を持ち、心に優しさを持ち、心に深切を本当に持たないで、言葉や形ばかり真似たのでは、
どうしても嘘らしい空々しさが見え透いて人が感心するものではありません。

何よりも必要なのは本当に深切な心持です。
「あの人に良い思いをさせてあげたい、あの人をよい気持ちにさせてあげたい、
どんな人にも不快な気持ちをさせたくない。」
こういう気持ちを持つように々心掛けておれば自然に言葉態度が優しく深切に、
誰にとっても気持ちよくなれるのです。

(つづく)

987SAKURA:2012/07/17(火) 23:25:17 ID:tB36Kte6
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日は,実に“ いい天気”そのものでした。……今日は、久しぶりに「自宅での仕事」です。
本が“自宅に多量”にあり、調べる事が、私なりに多々ありまして、現在!自宅なんですが〜〜〜?
一冊一冊見て行くうちに「参考…になりそうな言葉」…“ライティング上”がいっぱいワンサカ!
あれも使える〜〜♫〜〜これも使える〜〜♫〜〜と、再現なく“夢…”が広がります〜〜〜?
でも…今は「生長の家…の数々の書籍本」で、前に進む事が出来ますので、それに一杯の私ですが?
では!本当に為になり舞う『心の法則…』……その関連書籍本を、開きま〜〜す。1!2!3!ハイ〜!

■【栄える生活365章】
―――――幸福生活には調和が必要―――――

すべて調和が備わるということが善であり、また人間が幸福になるところの道であるのである。
必要に応じて使える金銭を持つことは幸福であり、それによって人間の自由が確保されるのである。
しかし必要に応じて使える以上の富を持つことは、他の人に嫉妬心を起さしめ、時には盗みの
心すらも起さしめ、盗まれはしないかという心配に始終苦しめられ、税金に攻められて税金対策に
心を悩まされなければならなくなるのである。親切な友人があることは善いことである。
しかしあまり多くの友人が出来てそれらの友人とおつき合いを親密にしなければならないといっても、
どの会合へも皆出る時間がないとすれば、誰かに対して不思議を重ねることになるのである。
重点的につき合って行くことにすれば、重点的に取り扱ってくれなかった友人は失望するか反感を
起すか嫉妬で苦しむか、時には敵に回ることもある。人時処の調和のほかに数量の調和ということも
幸福生活を送るためには必要なのである。神は自己の内に在す“実在”として把握するとき、
あなたの希望は「多分かなえられるであろう」ではなくして「希望は神が植えつけたのであり、既に
実相の世界に於いては叶えられているのである」併し今直ぐそのフイルムを映写機にかけて行動
しないと実現しないのである。されば映画のフイルムの如く吾々が行動を起すとき、既に一齣々々
(ひとこまひとこま)ずつそのフイルムの光景は時間の経過と共に時間空間のスクリ−ンに実現
しつつあるのである。但し、その希望の実現によって他の人が迷惑や損失を被る者を除く。 
 (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■オモシロイで〜〜〜すョネ!
私の知り合いで、当時、かなりの“資産家”の方が、いつも〜いつも〜“お金”を、
抱えて居るので、当に“お金に縛り付けられた生活スタイル”そのものでしたが??
“大金”を持つ事は、その様に?心理的な面からも、そうなるのでしょうか??
               
 <つづく>     No.1

988SAKURA:2012/07/17(火) 23:27:21 ID:tB36Kte6
                  <つづく>          No.2

>>987続き投稿です。

■>必要に応じて使える金銭を持つことは幸福であり、それによって人間の自由が
確保されるのである……<(一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私も、「雅春先生の言葉」…そうです〜〜〜ョネ!当に【うちでの小槌】が〜〜☆
又!ある人は、奥さんが、金使いが荒く全て“通帳をバック”に詰め込んでいる方を見かけました…。
“大金”を作る!これは全く「雅春先生」の“言葉”通りで、お金に悩まされているのです〜〜ネ!
(個人的に、一度は経験したい気持ちも〜〜〜ないではないのですが〜〜〜><)

■ブレイク致しますが!友人関係も“八方美人”は、何も得られないと、良く聞きますが…?
今日の“先生の言葉”で、改めて納得した思いです。有名な「資産家…ダンケネディ」
私の尊敬致します方ですが…「ダン…」は、友人(真の友人)は、5人持てばいい方かと、
言っておりました記憶が?「雅春先生」も、少人数でよいとの事…私も思うのですが??

「講習会の券の購入」を、かなり指示されていた様な記憶があります。
そうです〜〜ョネ!もう、十数年前になりますでしょうか?
【元理事会の方々?】が、活躍されていた頃、かなりの「普及紙・講演券購入」に関し…
今考えますと、無茶苦茶なる“デ−タ−数字”を、一般信者に押し付けていたものと判断します。
【一人の主婦に“100枚”・“50枚”〜〜〜><】何処からの“数字デ−タ−”でしょうか?
やはり!付き合いは“5人〜?人”までが、長〜〜〜く付き合う上では“正解”ですかと
しかも、当時は「毎年…恒例の講習会」でしたもの〜〜〜ネ!

■私が、幼少の頃「生長の家の講習会の券」は、いつも“仏壇に10枚”しか?
おいて、「亡き母」がその後配っていました記憶があります…。
当時の私は“小学校5年”ですが〜〜〜この頃の「雅春先生」は、まだ!
当時の時代背景を含んでの【正確な数字デ−タ−】を、出されていらっしゃいました記憶が?

正直申しまして、「2代目総裁清超先生」から、オカシイ状況かとの記憶が脳裏に、残っています。
ある時、「本部練成道場…飛田給の講習会場」にての“出来事”です…。
そうです〜〜〜ョネ!【誘導尋問…コ−ナ−】にて、当時50代前半の男性が…
此の【講習会券…枚数】に関し、質問されますと…その時の「2代目総裁清澄先生の言葉」は、
『白鳩会長に任せていますから、それが正しいのです…』と、おっしゃいました“言葉…”を、
しっかり記憶しています…。(勿論!“パ−トナ−”筆談にて)
此の時の私の胸の内は、「エ〜〜〜ッ!無責任では?思い切って質問されたのに><
しかも、当時の“白鳩会の指定枚数??”に関して、疑問があるから〜〜〜
勇気を持って質問されたのでは?」正直、私自身の落胆した次第です。」

この“書籍本”に書かれていますのに、
【当時の理事会の方達…】今!あちらサイドに行かれましたの方々は、本当に本を拝読されて
いたのかしら〜〜〜ン???話は戻りまして…今から私も、残された人生を重点的に
『人類光明化…運動』にしぼって行じます!            再合掌
                                    
PS:トキ様へ  
今日の先生の言葉“お金”に関しては、私は一度は“経験〜〜”して見たいです…ネ!ウフフ…
それより「今の私…」は、【心の法則…自由自在に駆使出来る“心”】この事が、一番と!!
トキ様、「本日の言葉」どの様に、受け止められましたでしょうか??

989ハマナス:2012/07/17(火) 23:54:16 ID:0kyCzJg6


神の子のみなさま
こんばんは。

ニセモノは本来ナイ  (『新版 生活の智慧365章』P.205より)

 あなた自身を神の創給(つくり)たまうた其の儘の完全な相(すがた)であるとみとめましょう。
創世記には「神その造りたる全てのものを見給いけるに甚(はなは)だ善かりき」と書かれている
のである。神の創造せられた一切のものは「甚だよし」即ち完全円満であって悪いものは本来無い
のである。悪いものは本来無い以上、悪なる病気や貧乏や戦争などは存在しないのである。これが
事物の実相である。実相は実はスガタであって、実のスガタ以外のものはニセモノだ。ニセモノは
実はスガタの如く「見せかけ」ているだけであるからアルかの如く見えても本来無いのである。

 ではナイものが何故アルかと如くあらわれているかと言えば、それは三界唯心であって、心の
あらわす所であるのである。心で病気をつかんでいる間は病気は消えないし、ソ連とアメリカとが
心で戦争をつかんで準備している間は戦争の危険は消えないのである。

感謝合掌

990神の子さん:2012/07/18(水) 00:46:25 ID:???
SAKURAさん

今度は清超先生とその部下であった理事さんのの批判ですか・・・

貴方のいいかげんな憶測と偏見に満ちた書き込みにはうんざりします。

どうしてここまで生長の家を批判する人が雅宣擁護派?なのか・・・不思議です。

991a hope:2012/07/18(水) 07:14:50 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

電話一つで会社が判る


ある会社へ電話を掛けましたら、小使(こづかい)さんが実にゾンザイな返事をしました。
また次の会社へ電話を掛けたら、その会社の小使いさんはたいへん丁寧深切な言葉で返事をいたしました。

先の会社は「あんな会社は駄目だ」と信用を墜(おと)しました。
後の会社は「小使いさんでさえあれだから、よほど好い会社に違いない」とたいへん信用を博しました。

小使さんだって馬鹿にできません。
小使さんでも本当に立派な小使さんなら、その会社の大変よい広告になります。

毎年広告費に何百万円と支払う会社にとっては、本当によい小使さんなら、
小使さんにだって何百万円の月給を支払っても惜しいことはないのです。
しかし残念ながら、小使さんにそれほどの人がいないので出世しません。

電話で入学願書を出す日をきいたところ、一つの学校は小使さんがゾンザイに返事をしたので、
その学校をやめて、小使さんが深切に返事をした方へ入学願書を出したという話があります。

(つづき)

992トキ:2012/07/18(水) 09:29:48 ID:IVHmm1/Q
 実は、今朝、神想観をしていたときに、以前、やった「両論併記」の投稿を
再開しようと思いました。これはやるとなかなか大変なのですが、同時に板の
雰囲気が変わると思うので、トライしてみます。

 あと、来月始めに、別の板を作ります。

 今はバタバタしているので、後で、再度、投稿いたします。

合掌 ありがとうございます

993ハマナス:2012/07/18(水) 23:31:37 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

平和を祈るための言葉(次の如く繰り返し黙念する)(『新版 生活の智慧365章』P.205)

 「われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。それゆえに全人類は
神に於て完全に平和であり、争いの心はないのである。神は全人類の父でありたまい、すべて
の民族を平和に護りたまうのである。或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、その民族が
幸福になれないなどと云うことはないのである。この真理をさとるとき、世界に平和は来るの
である。われは神人類にこの真理を放送するのである。全人類はこの真理の念送を今受信し
つつあるのである。ケネディもフルシチョフもナセルもドゴールも全ての人類がこの真理を
さとりつつあるのである。神の愛がすべての人類に降りそそがれ、神の平和が地上にあまねく
臨む。すでにみこころは天になるが如く地にも実現したのである。今より後、人類に戦いが
あることなく、悲しみあることなく、地の万民は天の父を仰ぎみて讃嘆するのである。」

感謝合掌

994a hope:2012/07/19(木) 07:53:56 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

或る小使さんの話


或る日、二人の小使さんが早く出勤して雪道の雪をシャベルで搔き分けていました。
それは大変感心なころで、もし社長がそれを見ていたら、その半期の賞与を沢山くれたかも知れません。

しかしその時一人の技術部の社員が出勤して小使さんがその部屋にいないので腹を立てて、
窓から覗いて見ると、そこに小使さんが雪掻をしているので、大声で「オイ!お茶を持って来い」と呶鳴りました。
「ハイ」と言って、小使さんの一人は雪掻を止めてお茶を淹れて持って来ましたが、心の中では不平で堪りません。

それで自分の位置に近い工場の工員たちに会う毎に、
「技術部の社員は学校出だと思って威張っている。人が会社のために雪を搔き分けているのに、
遅くから来て人に茶を淹れろって呶鳴りやがった。雪を分ける方が会社の仕事が、茶を飲むのが会社の仕事か」
と言って不平小言(こごと)を言うようになりました。

弱い者に同情するのが人情です。
工員たちは技術部の技師たちの言う事を諾(き)かなくなり出しました。

何かその技師が工員に言いつけると、工員たちは口の中でブツブツ言って、命令された通りしません。
工員が何かを口の中で言っているかと耳をすましてよく聴くと、
「ヘン、茶を飲むのと仕事をするのとどちらが会社のためか!」と言っていました。

間もなく全行員の同盟休業(ストライキ)が始まりました。
会社は大騒ぎです。世間に対する信用はなくなります。製品は売れなくなります。

元はと言えば、一人の小使さんを軽んじたことから始まったのです。
もし、あの時、あの技術部の社員が、小使さんに、
「君、早くから雪分けしてくれて済まないな、ありがとう。僕もひとつ手伝ってあげようか」
というような気持ちだったら、こんな大騒動は起こらなかったでしょう。

又、もし小使さんが、どんなに上役の社員から言われても不平を言わずに、
何事でもハイハイと柔順にやっていたら、こんな大騒動は起こらなかったでしょう。

深切の心と、善き言葉使いと、この二つが無かったために、この会社は潰れるほどの大騒ぎが起こったのです。
あなたの会社はどうですか。お考えください。

(つづく)

995SAKURA:2012/07/19(木) 21:11:44 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】 で〜〜〜す。

もう“夏の天気?”…昨日より、蒸し暑い〜〜のですが〜〜〜?【エコ運動=消費電力対策】です。
このような“暑いさなか?”に、涼しくなるには〜〜〜><
【心で“クール”な心境に…】つまり、“潜在意識”に深〜〜く!深〜〜く!でしょうか?
でもその前に【右脳=左脳の働き】で、【脳を騙す方法】もあり、一番身近なのは【良書を読む!】
では〜〜〜“心”も涼しくなるもの〜〜は■「幸福を招く365章」を開きま〜〜す。

■【幸福を招く365章】
―――― 心の窓を閉じて自分を護ること―――――

外に寒い風が吹きすさんだり、あまり外に埃が立つときには諸君は窓をしめて、その風や埃が
吹き込まないようにするであろう。それならば、誰かが貴方の心の中に激情の嵐を吹き込ませたり、
怒りや憎しみや悪口雑言の埃を吹きこませたりするときに何故あなたは自分の心の窓をひらいていて、
その嵐で自分の心の中をさわがせたり、吹込んで来る怒りや憎しみの埃だらけの心にしてしまうので
あろうか。人が誰かの悪口を云うときには自分の心の窓を閉じよ。人が汝を悪しざまに云うときには
自分の心の窓を閉じよ。人が病気の話をするときには自分の心の窓を閉じよ。
                                    (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■女性の場合は【井戸端会議】というものが、あります〜〜〜ョネ!
此処!九州は、すご〜〜〜い!この“言葉”につきますかしら〜〜〜ン?その様に思います。

私の「亡き母」は、陰口とか悪口は、殆どない方でしたが、母の友人で、話好きの方がいまして、
必ず!このおばさんは、近所の事を、“根堀り?葉堀り?”話しますので、私も当時は、
よく傍で聞いていますと“ビックリ”するぐらいの【悪口憎怨】に、聴こえるのです。
その時、たまたま、傍にいました私は、直ぐおばさんに対しまして「それ悪口なの?」と聞きますと、
例の如く!このおばさんは「私のモラルでは、悪口では無い!」と言いますが〜〜〜?
当時の私は、高校生でしたので「完璧に悪口になるわ〜〜〜ョ!」と、言いましたが、
おばさんには、通じないのです〜〜〜ョネ!!
こような方を、帰郷しましてから、しばしばみかけますが?
本人が“不利な状況”になりますと、物の見事に“かわすのが上手”なのです〜〜〜かと?
このような感じが「九州の女性の場合」は、通常“頭がいい!あたり前な事!”と表現する様です。
逆に、私の知っております「東京の知人達の場合」は、“バカに等しい”と表現しますが?


でも“例外”がありますでしょうか?
元元元白鳩会長は、どうも聞くところによりますと“九州出身”とか聞いておりましたが?
ですから?この様な一面性は、やはり思い出しますと、ありましたでしょうかと?
【嘘も方便?】

或る時!元?「相愛会長」さんが、私どもに「嘘が多くて困る?」と、おっしゃいましたが…
或る時の「練成会の講演」がありまして、元・「相愛会長の方」が〜〜〜
話の成り行きでしょうか(私も参加しておりましたが)大きな声で、
「教授?教授?って、毎回!毎回!嘘を云うが〜〜〜」そうしますと、今度は、元元元会長は、
私には、京都に弟?がいて、その兄弟が学長…云々…とか??親せきにいますとか??
成り行きが〜〜〜二転三転変わって行くことに〜〜〜><
で…当時は、「どうして、会長にその様な事をおっしゃるのか??」と思い、元?「相愛会長」に
お聞きしますと…色々【真理の話…個人話…も含めetc】を、指導して下さいました。
逆に、その元々元白鳩会長は、元?「相愛会長」悪口???でしたが〜〜〜><
当時は、正直な話、誰を信じたらよいかが、分かりませんでした。
その時の教訓が【お調子のよい人ほど嘘が多い】でしょうかしら〜〜〜ン!その様に判断しましたが?

私の「亡き母」は、いつも、このおばさんの“聞き役”でしたが…
最後に、一言たしなめていました。
【人の話を…“10”聞いて、自分の心は閉じましょう!】という事なのでしょうか?
私も「亡き母」の気持ちが、最近分かる様に、なりだしましたが?
「悪口」・「病気」…etcは、“心の埃”ですから、自分の【心の窓】を、しっかり閉じましょう!!
本日の“言葉”しっかり胸の内に、刻ませて頂きました。ありがとうございます。

                                         再合掌

PS:トキ様もこのような時は、同じように、なされますでしょうか??

996ハマナス:2012/07/19(木) 23:47:22 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

精神の同志を結集しよう  (『新版 生活の智慧365章』P.206より)

 私たち真理の使徒は、大衆が心につかんでいるところの「悪」をありとして雷同的に
みとめてならない。 大衆が心につかんでいるものが如何なるものであるかを知ることは、
医者が患者に対して聴診器を当てるように現状把握として一応それを病気の兆候として
みとめねばならない。人類の争闘精神の具象化現象として世界は戦争の危機に近づきつつ
ある――と云うのは、現象の事実を聴診して所在を明らかにし、その争闘精神を中和する
ために吾らが総力を結集すべき必要がどれほどあるかを明らかにするためには現状把握を
せねばならぬ。

 しかし戦争の危機を、それが現実するまでに精神の世界から抑制するのは宗教人のつと
めである。三界は唯心の現れであるから、若し、戦争を惹き起こす闘争精神の量よりも
戦争を抑制する精神力の結集が足りなければ、戦争の仮想的権限を抑制することができ
ないことになるから吾らは多くの同志を得たいのである。されば現状の危機を把握した
後は心を浄めて「平和を祈るための言葉」にあるが如くいのりましょう。

感謝合掌

997a hope:2012/07/20(金) 07:51:39 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

社員互いに悪口言うな


その社員ばかりが悪いのではありません。
その小使さんも悪いのです。

「一つの会社の空気を悪くするには、ただ一人のブツブツ言う給仕がおれば十分だ」と、
産業能率研究所長の上野陽一氏は言っています。

どんな深切な行いをしても、それを恩に着せがましく、
「私がこんなにしているのに、あいつはこうだ」と、
後から社員の悪口を言うようでは最初から雪道を明けない方がましです。

雪道は明けないでも、放って置けば雪は消えて無くなります。
あとから言う小言(こごと)は絶え間なく降り積って、
ついには会社の信用さえ埋(うず)めてしまうのです。

こんな小使さんは実直でよく働くようでも、言葉で不平を言うから、
結局会社のためになりません。

(つづく)

998うのはな:2012/07/20(金) 18:57:03 ID:gTn97m6I
   錦旗を護る先祖の人々

 神戸で私や清超夫婦と別れた夫は、三日後に大津その他を巡講して帰京された。
先ず巡講先のみやげ話を伺い、その話が一段落すると、三日前の神戸で見聞した事柄に
話題は転じて行った。
 昭和四十六年は夫の實父が帰幽されて満五十年目になるので、五十回忌法要を営むために、
私たち夫婦と清超夫婦と孫の佳世子との五人は、神戸の谷口家の菩提寺願成寺へ行った。
私の夫の誕生日は十一月二十二日であるが、夫の實父の命日は四月二十二日であった。お寺の境内にある墓地には、
谷口家の最も古いお墓が幾つもあったが、その中の一つの墓には元禄六年と記され、十一月二十二日と彫られてあったのを見て、
私は不思議な因縁を感じた。古い墓はみな戒名だけが彫られてあるので、姓も名も判らない。ただ墓石の前に「谷口」と彫られているだけである。
私はこのお寺の墓には何度も詣ったが、亡き姑は誰の墓とも教えて下さらなくて、唯古い先祖の墓だと言われただけであった。
今思うと、姑も余りに古いので誰の墓なのか知らなかったであろう。
しかし、烏原水源池の山の墓地のは、全部誰の墓であるかは判っている。
法要が終って本堂から廣間に移ってお膳についた時、四人の僧と親戚一同は、和やかに箸を動かしながら語り合った。
その時願成寺の住職は、「今から六百年前に、後醍醐天皇を護ろうとして足利尊氏と戦って武将の一人に、谷口泰重という人がありました。
その人が谷口先生の祖先なのです」と言われたので、私たちは驚いて住職の顔を見つめた。
家附きの娘であった姑は、「新田義貞の仲間が戦に敗けて烏原の谷に隠れ住んでいたのが先祖や」と言われただけで、その人の名も知って居られなかったので、
私たちは泰重という名は初耳であった。

願成寺は後醍醐天皇の御代よりもずっと古く、天平時代に名僧行基によって建立された観音寺が、後世法然上人の弟子住蓮坊によって再建されて名を変えたお寺であって、
いろいろの史蹟や文献を持っているので、近年住職を継がれたその人は、預かっている檀家一軒一軒のお墓について、非常な熱意をもって研究して居られることが判った。
「後醍醐天皇は、谷口泰重の忠心を喜ばれて、『菊の御紋章』を用いることを許されたのです。
その証拠がこの寺にあります」と言って、住職は私たちを墓地へ案内して、一つの墓を指し示された。
その墓は、観音開きの扉の右側には、まさしく十六菊御紋章が陰紋として彫られてあった。
寺を去る時、住職は、「これを是非お読み下さい。いろいろ詳しいことが書いてあります」と言って二冊の書物を下さった。
それは『西攝大観』という三百八十ページほどのものが、上巻(金色)下巻(銀巻)となっていて、紫の絹糸で綴じた立派な書物であった。
帰京した私は、翌日からその書物を読み初め、殊に「烏原」や「夢野」など、谷口家ゆかりの地の頃を一心に読んだ。『西攝大観』とは、
神戸を中心に摂津の国の西部の郷土史であって、神代の昔からの伝説や史実を、こと細かに記されてあった。

 中略 「谷口家の祖先は、ただの百姓ではなかったのですよ」
との住職の言葉を思い出しながら、私は嬉しい興奮で胸の熱くなるのを覚えた。
「楠木正成には菊の御紋章の上半分だけ許されたのに、谷口泰重には全部許されたのです。
大した武将だったのですね」
「新田義貞の一門だったと姑は言ってましたが」
「いや、新田義貞より上位の武将なんです」と住職は断固と言われた。私たちは勝手な憶測をしていたことに気づいた。
昔は百姓や町人には名はあったが姓はなかったから、烏原の谷に住んでいるから谷口と姓をつけたのかと思っていたが、さにあらず、
烏原の谷に住む以前から谷口姓を名乗って居られたことが判った。後略〜

『人生の光と影』 谷口輝子 著

999SAKURA:2012/07/20(金) 21:57:12 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

【正しい理念】は、“意識から繋がる心”でしょうか〜〜〜?
つながる“心の電話??”は、【心の旅立ちを本から〜♫〜】始めませんか???
私は、今日も“心の電話”を繋いでいますが〜〜
では!!!繋がる“心”に響く本…【幸福を招く365章】を、開きま〜〜す〜〜☆

■【幸福を招く365章】
――――――神の道を歩む人生は滑らかである―――――

人間は神の子ですから、人の歩く道は神の歩く道であります。だから神の道を
真直に歩かないでは、自動車に撥ねとばされたり、崖から墜落したりいたします。
人に対して悪意をもったり、嫌悪の情を感じたり、素直でなく剛情であったり、
人を憎んで赦すことをしなかったり致しますと、それは神の道から離れて歩いて
いることになるのであります。吾々の歩む人生の行路が滑かでないのは、神の道を
歩いていないからであります。神の道は愛の道、サ−ビスの道、赦しの道、
包容の道、円い道、角のたたない道、人を助ける道、やさしい言葉の道
利己主義でない、霊と法悦の道であります。あなたの生活がこれらの道に乗って
いるか反省してみて下さい。
                        (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「私は神の子」と、毎日云いながらでも【正しい理念】から外れる事が、あります。
それは【法則…】に従ってない場合と、言いますよりは、
私自身の「尺度?固定観念?での捉え方」から、来るものでしょうか??
その様な時に、【アクシデント発生】が、起きるのです〜〜〜ョネ!〜〜〜
相手が、私に対して「反対論」とかの“投稿”・“名指しでの中傷”が来ますと、
ここが“ポイント”でしょうか……???

私の「心の持ち方」の展開が〜〜〜><後での【反省…】も多々ありまして、
勿論!毎日「心で反省会」を、致しておりますが〜〜〜【お祈り】して行きますうちに、
いつも【神と一体…】私の“潜在意識”に繋がりまして…そうなのです〰〜〜ョネ!
【私のベストフレンドは私の神の子】なのです。

この様に……
【潜在意識の奥に神様が要られています…】ので、いつも傍にと?
【my!ベ ス ト フ レ ン ド】です〜〜〜が、もっと深〜〜く
全ての「道のり」ますます滑らかに歩んで行きます事を、毎日「神の子」として、
【イメ−ジトレ−ニング中】なのです? ><
まだ!まだ!足りないようですから?「道のり」いばらなのでしょうかと?
「神の道」を歩んで行きたいですモノ〜〜〜ネ!      

 再合掌
PS;トキ様へ
「神の道」此の“言葉”?私自身の“心”に、自問自答してしまします。

神の道は愛の道
サ−ビスの道
赦しの道
包容の道
円い道
角のたたない道
人を助ける道
やさしい言葉の道
利己主義でない道
霊と法悦の道……etc 

今回「生長の家」本来「人々への救済」と考えますと?複雑な心境ですが?
この点は、どの様に思われますでしょうか?“アドバイス”頂けますと幸いです。

1000ハマナス:2012/07/20(金) 23:36:44 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。
昨日は、日差しが強くて、日傘が手放せない位でしたが、今日は打って変わって
涼しい一日でした。

「今」を祝福しよう  (『新版 生活の智慧365章』P.207より)

 あなたは今日より決して取越苦労も持越苦労もしないように決意したのである。あなたは
全力を“今”に集中して心を動揺せしめることは決してないのである。また起こらないところ
の不幸を、「多分起こるかも知れぬ」と取越苦労をしてみても何の甲斐もないことである。
恐怖のうちに心に描いた状態は最も現実し易いのであるから、恐怖し取越苦労することは決して
あなたの運命を好転せしめる原因とはならないのである。だから、あなたは「今」あなたの働き
の中に、神が働きていたまうことをみなければならないのである。

 あなたは「今」を祝福すべきである。過去はそれが如何に良かったにせよ。また如何に悪か
ったにせよ、それは何らかの体験をプラスにして過ぎ去ったのである。だからそれを歎くことは
不合理であり、ただ感謝して別れればよいのである。

感謝合掌

1001a hope:2012/07/21(土) 08:09:52 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

こんな社員は社の為にならぬ


その社員が一人その部屋にいるだけで、社の空気が悪くなる人があります。
その一人は陰気な暗い顔をした人です。

その一人はブツブツ不平小言を言っている人です。

その一人は上役や同僚の陰口を言う人です。
「これは内証ですよ」と言って仲間の秘密をあちこちに伝え歩く人です。

そんな人でも自分が常に不平小言を言いながら、自分で気づかぬ人があります。

今皆さん、「自分はどうだ?」と考えて御覧なさい。
そして自分にそんな性質があると思ったら直ぐ改めなさい。

(つづく)

1002SAKURA:2012/07/22(日) 00:38:28 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

一週間前は、このような気持が〜〜「ある日!突然!変わる事は?」あります〜〜〜ョネ!
次第に状況判断にて“考え方”が変化しますと、「心の状態も変化」ですから、当たり前でしょうに!
ある人は、以前は、あの様に人をさばいていたのに、今では?その人と組んで仕事を〜〜〜
これは【心の変化】…更に!【魂の進歩】でしょうか???人間関係も【変化進行中】ですから〜〜
まるで「スポ−ツの変化球」でしょうか??私の頑な「心の変化球」を、今から〜〜〜
この“本”で、切り広げていきます???きっと【天国の門…】も、広がる事でしょう!!

では!【心の変化球】は〜〜〜【幸福を招く365章】から〜〜〜投稿とさせて頂きます。
■【幸福を招く365章】
―――――万物に神の祝福の声をきけ―――――

何時、いかなる場合、何が自分を呼びかけて来ても、電話が呼びかけて来ても、
訪問者があらわれて来ても、それに対談する場合には、「神はこの電話(又は人名)を
通して私を祝福したまうのである。そして神の愛わらに流れ入って私を通して此の
人を祝福したまうのである」と念じつつ対話するが好い。見るのも、聞くのも、
それが花であろうとも、音楽であろうとも、「神はこの花を通して(又は音楽を通して)
私を祝福したまうのである。有りがとうございます」と念じつつ、その花を見、音楽を
聴くがよいのである。そして「神の愛われを通してこの花を、この音楽を祝福したまう」
と更に念ずるのである。

                       (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■私も苦手な“課題”がありました…。ある時、仕事関係ですが〜〜〜「嫌な担当者」との応対は
とても神経を使いますが…><
例えば、私自身“重度聴覚障害”との事を“露骨”に相手に伝えますと?ある担当者からは、
かなりの“嫌な発言…”を、露骨に云われましたが…?
その様な担当者がいましたかと思うほど“ビックリ・マ−ク”…
そのような方は、いつも申し訳ないのですが「学歴」が〜〜〜高卒の男性でしたが〜〜〜><
平然と言われて……とにかくも……???

そうです〜〜〜ョネ!私への【負担…料金】を、押さえこまれながらも【我慢…】の一言!
相手のいい所を、探しだしながら〜〜ルンルン〜〜【対話形式】この様に、
「商談話」を進めていきますと、必ずこちらの考え方に目を向けてくれるようです。
今!思いますと、いつも相手が“分る!”“分る!”と、一人で『黙然して交渉』しました…。

やはり!少しは、通じる様ですかしら〜〜〜ン!今は「イメ−ジトレ−ニング」に、入ってから
『交渉…』です。抜群の“効力”ですかしら〜〜〜ン!更に!毎日の「瞑想=神想観」は、
『心の意識開発』に…更に『進歩向上』に繋がりますモノ!

■【神の愛われを通してこのデザイン画を、この洋服のデザインをを祝福したまう…】
ありがとうございます〜〜〜この様に“念じ”ていきます。
                           
                               再合掌

PS:トキ様
トキ様も「絶対絶命」のピンチの場合は、どの様な“言葉”にて?
思念をなさいますでしょうか“アドバイス”頂きますと、幸いなのですが??

1003a hope:2012/07/22(日) 08:18:23 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

大穴よりも小孔(あな)が恐ろしい


自分のものだと思うと一枚の紙でも大切にするくせに、
会社のものだと思うとゾンザイに使って平気でいる人があります。
自分の宅では十ワットの電燈でももったいないといって消して寝る人が、
会社のものだと思うと、百ワットでも二百ワットでも不要になっても点して置く人があります。

自分が金を払わねばならぬから大切にする。
自分が金を払わなくてよいから粗末にする。
こういうやり方の人は出世のできぬ人です。

何でも物を生かして使うようでないとその人は出世しません。
自分の金を払うときにでも入用なら二百ワットの電燈でも使うし、
会社が金を払うときにでも不要なら5ワットの電燈でも無駄にせぬようでないと、
物を生かして使うとは言えません。

時間でもわずかな時間を上手に使って勉強する人は偉くなるし、
花の蜜でもわずかな一滴を集め得る蜜蜂でこそあれほどの蜂蜜を貯え得るのです。

少しだからとて無駄にすることは、思いがけない大きなものを捨てていることがあるものです。
誰でもバケツ一杯の清水は無駄に捨てませんが、バケツに孔が明いていれば、
いつの間にかそのバケツが空になっているものです。

大きな穴より小さな孔が恐ろしいのです。
底ぬけの器には誰でも警戒して水を入れませんが、
小さい漏れのある器には気がつかないで物を入れて、
いつの間にか無くなっていることがあります。

大きな穴より小さい孔が恐ろしいのです。
小さく貯えて大きく使う人が偉くなるのです。

これはお金だけではありませんが、智慧でも同じことです。
毎日怠らず良き本を読んで少しずつ進歩しておいた者が、
イザという時に大きな仕事ができるのです。

(つづく)

1004SAKURA:2012/07/22(日) 14:04:28 ID:V.pKl3yA
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 へ
こんにちは… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

いよいよ〜夏本番〜♫ 季節となって参りました。本日は暦では『大暑…』
観覧者の皆様も、休みの日は、思い思いの時間の過ごし方をなさっていらっしゃいます事と…
今日は、“素敵な言葉”に目がとまり此処に“投稿”の形を、とらせて頂きます。

■■【愛 は 全 て を 癒 や す】 「徳久先生の書物」からの一部抜粋です…。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

日本におけるスタ−・デ−リ−の講演語録は…云々…
谷口先生の著書『愛は刑よりも強し』の12頁に、
「愛は欠点を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に触れることではなかったのである。
愛はその人の傷をやさしく包んでその人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっと愛の心で
眺めやり、これが彼の実相であると、それを心でいたわり育ててやることであったのである。」と
書かれています。生長の家の教えを、人に伝える講師でありながら、まことに批判力が強く、
すぐ心の中で、他を裁いていた私には、このコトバはショックでした。

「そうだ、そうだ、愛を、実践しているつもりでいたのだが、まだまだ、私は愛とはほど遠い
人間であった」と反省しました。
また、同書の16頁に、「人が人の弱点に触れることなく愛すると云うことは最大の愛である」
「人を愛すると云うことは、人を知ると云うことである。
人を知ると云うことは彼を助け、癒すことが出来ると云うことである。かようにして神は、
愛を通してその癒す力を働かせ給うのである」と書かれています。

また『愛は決して失敗はしない。愛は恐怖をかなぐり棄てる。愛は法則を成就するものである。
汝の宗教が正しいか否かのテストは知識や智慧ではない。憎しみにみたされる無神論者も
知識や智慧は持ち得るのであるが、それは真の信仰でも信条でもない。
悪魔でさえも、ある意味では信仰をもち不屈の信条をもっている。然しそれには真の癒しの力も、
聖句を解決する真の力もない。……真の宗教なりや否やの最後のテストは、
彼が愛に満たされた魂を有っているかどうかの問題である。神の愛と人の愛とを持っているか
どうかの問題である。
汝に宿っている神の愛は、神が汝の中に働き給うのである」と書かれています。
…云々…
                  
<つづく>               No.1

1005SAKURA:2012/07/22(日) 14:06:40 ID:V.pKl3yA
               <つづく>               No.2

>>1004続き投稿です。

しかし、伝道とか、愛とかいう問題にぶつかりますと、私はこの『愛は刑よりも強し』を拝読
します。伝道しようとしたスタ−・デ−リ−が、今まで一緒に悪の仲間として、つきあっていた
人々に、キリスト教を伝えるのに、どんな苦労をしているのか、ということを知ることにより、
また新しく伝道の勇気がわいてきます。しかし、彼は何回も何回も、つまずきながら、
ライファ−に教えられて、導かれて、一流の伝道者になってゆくのです。その経過が、
そのままいつわらずに書かれているのが、この『愛は刑よりも強し』です。
…云々…

「多くの宗教の教師は、『自分が他を救う』という高慢になっており、『自分が誰かのために
こんなにはたらいているのに、感謝されない』などと不平に思ったりし勝ちであるが、この書は
そう云う宗教の教師に是非読ましたいし、自分みずから幾度でも読んで反省の資料としたいのである。
ライファ−は又言う。
『愛のない説教は未だ寡って一人の魂を救ったことはないし、これからも決して救い得ないだろう。
人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ』」

ただただ、頭がさがるのみです。もう一度、最後に、
「愛のない説教は未だ寡って一人の魂を救ったことはない」との言葉を、かみしめたいものです。
                                  (抜粋投稿)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■「谷口雅春先生」時代の「徳久本部講師」先生の著書の中からの一部抜粋なのです…。

徳久先生の人格・考え方が…御文章の“言葉”一つ一つから伺えました。驕ることなく常に、
自分の言動に対し、自問自答さまして、謙虚に、そして次なる言動につなげられました事に…
その『人格』が〜〜〜
忘れもしませんが…最初で最後と申しますか?【飛田給練成道場】にて個人的に奉仕に参りました時、
玄関先で“ニッコリ”として見送って下さいました先生は、私達が後ろを何度も〜何度も〜
振り返りましても、其処にたたずんでいて下さいました。

■この中に「本部講師…幹部の方々」が、いらっしゃいますでしょうかと?思います。
この様に「生長の家」は“讃嘆”する事が「雅春先生の人を育てる…」という事でしょうかと、
思います。それは、その人に“自信”というエネルギ―を与えることになります。当然ながら、
それにより、次なるステップに繋がるかと思います。
しかしながら、この『考え』方に、今回そぐわない方たちもいらっしゃいます様で…
唯!そのことを気付きました時点から、次なる”ステップ“へと繋がると思います。
此処で「私…」自身、勉強させて頂きながら、『人格形成…向上』へと、ひたすら歩んで
参りたいと思います。「霊界世界…」いずれ予備軍の私ですもの〜〜〜ネ!

本当に今日の文章から?
『人類を愛し抱擁することによってのみ、君は君の魂を救うことが出来るのだ』…この言葉を、
脳裏に刻みつけ、今後の“言動”に対しまして「責任ある行動」をと、改めて思いました。
そして『今の時点』で気付きを、頂きました事に、感謝申し上げます…。

                                再合掌
PS;トキ様 ヘ
今日の“徳久先生”の文章抜粋…どの様に感じられましたでしょうか?

1006ハマナス:2012/07/22(日) 23:12:30 ID:.wxfb6P6
神の子のみなさま
こんばんは。
今日から、第 八 篇 失敗から立ち上がる道 に入ります。

 繁栄のコツ  (『新版 生活の智慧365章』P.209より)

心の法則によって富もうとする場合、兎もすれば人々は、労少なくして多くの富を得ようと
するような間違いにとらわれることがあるのであるが、心の法則は決してそんな魔術では
ないのである。少なく価を支払ったものは少なく受け取るより仕方がないのが心の法則なの
である。

 いつか短波放送で東京の成田屋と云う店が非常に繁昌しているのを放送記者が訪問して
主人の成田さんにその繁栄のコツと云うようなものを聴いていたが、成田さんは引揚者であり、
最初は微々たる店を開いていたが、繁栄するには良き品を安価に売らねばならないと云うので、
毎日築地の卸売市場へ商品を買いに行くのであったが、都内電車の始発に乗って築地に行って
いたのでは他の商人が安い商品を仕入れてしまった後で、自分の店に安い良品が手に入らない
と云うので、始発電車の二時間前に自転車を自分の足で漕いて築地まで通って安価な良商品を
手に入れて顧客(とくい)にサービスしたと云うことであった。

 ひと以上に親切な努力とサービスとがあってのみ本当の繁栄が得られるのである。繁栄する
店には繁栄する原因があり、つぶれる店にはつぶれる原因があるのである。皆経営する人の心
である。

感謝合掌

1007a hope:2012/07/23(月) 06:59:20 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

一人にでも悪く思われるな


一人の人にでも、「あいつ気にくわぬ」と思われるようになってはなりません。
せっかく、立派な才能を有(も)ちながら、一人の人から「気にくわぬ」と思われているために、
せっかくあの人を部長にしたいと思っても部長にしてあげられないことが度々あります。
これは大変残念なことです。

心は尖っていてよく人と衝突する人は長にはなれません。
そんな人が長になったら、部下の者が不平を言います。
それでは下を治めることができませんから、長にすることができないのであります。

(つづく)

1008SAKURA:2012/07/23(月) 20:36:54 ID:9k1xUNFw
こんばんは…ローマ字(大文字)の
【SAKURA】で〜〜〜す。
ただいま スマートフォンのテストです。
これは大変です〜〜フゥ(T_T)
             再合掌

1009神の子さん:2012/07/23(月) 22:50:31 ID:L/GLhGeg
SAKURAさん、テストは離れ小島板でやってもらえませんか?

1010ハマナス:2012/07/23(月) 23:59:41 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

光明思想は魔術ではない  (『新版 生活の智慧365章』P.210より)

 光明思想は、決して自分の欲する事物を無条件で何でも得られると云う方法を教えるのでは
ないのである。若し人間が自己の欲する事物を無条件で何でも得られると云うことになるならば、
人間は正しい努力を為すことを忘れてしまい、ただ享楽と怠惰と貪欲とを事とする愚かな利己
主義者に成りさがってしまうであろう。

 人間が地上に生れて来たのは、ある条件の下に、その条件に適合しながら困難を克服する努力を
つづけることによって、愛を実現し、自己の品性を陶冶し、自己の能力を開発し、魂を向上せし
めんがための神の御意志によるのである。この神の御意志に反対して、努力もなく、愛もなく、
ただ自分の利己的満足を得んがために、「労せずして効多き方法」を得るために、「心の力」を
うならばそれは、宗教ではなく、魔術になってしまうのである。

感謝合掌

1011a hope:2012/07/24(火) 06:59:35 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

仕事に魂を打込め

遅くまで居残っていたら、残業手当を貰えると思って、
普通の勤務時間中だらだらのろのろ仕事をしていて、
普通の働く時間が終わる頃になると忙しそうに仕事をする人があります。

こういう人は間違った考え方に捉われているのです。
そんな人はだらだらのろのろしていたら自分は得だと思っているかも知れませんが、
一番損をするのは、だらだらのろのろしている本人なのです。

だらだらのろのろしている間に失(な)くなって行きつつあるのは、その人自身の時間なのです。
時間が経つだけその人の死ぬ時が近づいているのです。

生きている限りはだらだらのろのろするものではありません。
本当に勉強したり、仕事をすれば自分が出世し、自分の仕事がいついつまでも残るのです。

私達のした仕事は、どんな仕事でも天地の目に見えないレコードに刻まれて消えるものではありません。

(第十四章 表情動作の生かし方 終り 次回から、第十五章 困難の生かし方へ)

1012ハマナス:2012/07/24(火) 19:14:59 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
今日は、いつもより早くに、“こんばんは”です。

労しただけの功がある (『新版 生活の智慧365章』P.211より)

 併しまた光明思想は、決して「労多くして効少き方法」を教えるのでもないのである。
 世間の多くの人のやり方は、「労多くして効少き方法」をとっているので、「働けど、
働けど、なおわがくらし楽にならざり、じっと手を見る」と云う石川啄木の歌のような
生活に陥っているのである。だから、ひとたび生長の家の「光明思想」に触れると、
「労多くして効少き方法」から、「労しただけの効ある方法」に移るから、非常に能率
高くして、恰も、「労せずして効ある方法」であるかの如き観を呈し、それに眩惑せら
れて、「労せずして効が得られる」と錯覚し、正しき愛に満ちた努力をなすことをわす
れてしまって、しまいに愛行も精進も怠って、「此頃は私には光明思想はきかぬ」などと
愚かなことを言い出すに至るのである。

感謝合掌

1013ハマナス:2012/07/24(火) 19:57:35 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
 ありがとうございます。
毎朝、神想観の前に、『生命の實相』38巻と「光明法語」、「光明道中記」のその日の所を読んでいます。
特に心に残るところがありましたので、謹写させて頂きます。


『生命の實相』第38巻   七 月 二 十 四 日

 瞑目精神を統一して、「神はすべてのすべて……神は全き叡智(みちえ)」と繰り返し繰り返し
念ぜよ。そして宇宙全体は、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、神の智慧充満せり
と観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。
 
神はすべてであり、全てに行きわたって存在する智慧であるならばその智慧の中に没入するとき、
われらは知らないものは一つもないのである。
 
潜在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである.現在意識は「脳髄」と
いう個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに満ちて行きわたれる智慧)の一部が反射し
出されたる反射光に過ぎない。反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識はすべてを知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に
没入し普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。
 
「何でも都合よくゆく」という人は不変の智慧を知らず知らずわがものとしている人である。
 普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、自分自身のみならず、
他をも知らず知らずに動かしつつ、万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

感謝合掌

1014a hope:2012/07/25(水) 07:17:12 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

第十五章 困難の生かし方

苦労は人間を鍛える


困難ということ、「難かしい」ということは、決して不幸なことではありません。
困難が出てくるほど、私達は鍛えられるのです。

正宗の名刀があんなに良い刀であるのは、幾度も、火や水の中をくぐり、
幾度(いくたび)も鉄鎚(てつつい)で擲(なぐ)られ、幾度も打ちのめされてきたからです。

「若い時の苦労は買ってでもせよ」「かわいい子には旅をさせよ」などという諺がありますが、
若くなくてさえさえ苦労は買ってでもする程でないと偉くなれないものです。

若いくせに、自分は貧乏に生まれたから出世ができないとか、
自分は借金があるから偉くなれないとか考えて縮(ちぢ)かんでしまう人がありますが、
英国の小説家サー・ウォルター・スコットは五十五歳の時、六十万ドルの借金を押しつけられたのです。

スコットは、この借金を一銭も残らなくなるまで支払っていまおうと決心しました。
彼は文筆家でありましたから、筆の力でこの六十万ドルという大きなお金を稼ぎだして支払わねばならないのです。

「ヨシ!六十万ドルくらいが何だ!自分は神の子だから支払って見せるぞ!」
この決心が彼に力を与えました。彼は一所懸命書きました。

この決心ができたとき、彼の文章に力が出てきたのです。
彼の文章に油がのってきたのです。
彼は夜も昼も、書いて、書いて、書きまくりました。

とうとう彼は六十万ドルの大きな借金を支払ってしまいました。
そのため、今でもスコツトの名文は有名なので、後々の人々から尊ばれているのです。

(つづく)

1015「訊け」管理人:2012/07/25(水) 11:56:31 ID:???


『常楽への道』(吉田國太郎著)10頁より謹写――

 ある日の記――

 イエス途行くとき、生まれながらの盲人を見給いたれば、弟子たち問いて言う、『ラビ、この人の盲人にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』、イエス答え給う『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業(わざ)の顕れんがためなり』
(つづきhttp://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65676423.html【國太郎先生画像付き】)


<コメント>

 今回上京時に携帯した本は、『常楽への道』(吉田國太郎著)でございました。飛行機の中でも拝読し、山手線や京王線の電車内でも拝読し、ついでに酒席途中にも読みたくなり、トイレに行って拝読しました。さらにはついでに二次会、珍しくこれを断りホテル内、深夜まで読みふけってしまいました。・・・・ところで國太郎先生ですけれども、享年47歳くらいですね。今回あらためて経歴欄なども読んだのですけれども、「この若さでこのような本をお書きになられたのか」と、感嘆すること多々でありました。
 さて今回の上京ですが、特に心に残ったのは以下箇所であります。ブログ記事にもしましたが、「イエス途行くとき、生まれながらの盲人を見給いたれば、弟子たち問いて言う、『ラビ、この人の盲人にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』」――ここが特に印象深かった次第です。

 今回の事業経営者会合ですが、私を含めて参集者、全てがこの弟子の状態です。「先生、この不況は誰の罪によるぞ、政府の罪か、我々の罪か」と言った、嘆息だらけの会合(※)になりました。五官で判断するならばもう、お先真っ暗という感じです。しかし「イエス答え給う『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業(わざ)の顕れんがためなり』」を解釈できる、そんな経営者がいったい何名いるでしょう。この「常楽」の状態さえ実現すれば経営者、意気満々で邁進できると考えます。そのためには『生命の實相』、これを広域流布せねばなりますまい。「この不況ですがこれも、神の救い(=自壊作用)です。神の栄光が顕れようとしている衝動です」そんな解釈を、腑に落ちるところまで納得できれば、常楽の道を歩んでいけることと思います。そしてこのレベルの大不況ですが、これも「神の御業の顕れんがため」と解釈できる真の陽転思考の者、育成が急務と考えます。・・・・ともかくもう、日本の中小企業の7割が「本年8−9月を乗り切れるのか」という状況です。実際前年同月比で雇用者、我が国では30万人減少しています(!)。社会の底は割れております。

 ・・・ちなみに今回上京時、二名の方に『生命の實相』をお勧めして参りました。

追伸

 「本部が解体されるのに、なんで騒がないのか!?」てな苦情が来ているようです。私の返答は本部以外にも解体、「進んでいるもんがあるんだぜ」になろうかと。意味を補足するならば権力闘争、「そんなこと、やってる時間が惜しいのよ」になりましょうか。組織ってそこまで、重要ですか。組織がダメなら聖典、これをマジメに拝読しようではないですか。それなら組織、関係ない話です。
 『生命の實相』ですが、今まで以上に求められている時代、来るでしょう。いやとっくに、来ています。それはそれで悲しい話なのかもしれませんがもう、同胞の苦しみをスルーしている連中、それを「愛国者」と呼称するのは、止めたいものです。日本中が尖閣以上の緊迫感に、晒されているんだぜ?







<註>

※ 嘆息だらけの会合

(出席者談を箇条書きにて)

・ 社会保険機構の横暴甚だしく生活資金、これを強制徴収されホームレス寸前である。
・ 同機構が強制引落を実行したため、決済資金が枯渇。結果的に中国企業に不義理をしたため、命の危険がある。
・ 工場が競売にかけられ、子供の大学進学を断念。
・ 自殺を決行したが未遂に。身体障害者となりますます苦しくなる。
・ 債権回収機構の請求が、熾烈なものになっている。サラ金や闇金などまだ、カワイイものである。
・ 地方自治体レベルでも税徴集が強化されている。夜八時の自宅訪問などザラにある。
・ 子供の進学費用等は無論、生命保険の入金を期待するかのような徴集を、公的機関が行っている。

1016SAKURA:2012/07/25(水) 14:16:14 ID:V.pKl3yA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日は、“積乱雲”も垣間見るぐらい…もう!夏そのものの天気なのです〜〜〜ョネ!
駅周辺を歩いていますと、若者達が、夏休みも入りましたのでしょうか?多く見かけます。
流れも、また一段と変わって来るようですが〜〜〜?こちらも、外に出るのは?「朝・晩」のみ?
暑さも、凌げるようにも?思えますし【心の法則】に従っていけば、必ず!道は開かれる様です!
では、その道は『王道の道』でしょうか…?今から“スタ−ト”です。

■【幸福を招く365章】
―――――諸君よ平和の天使となれ―――――
吾々が神のつくりたまいし完全な世界を見詰める習慣をつけるとき、現象世界に
どんな状態があらわれて来ようとも、もう恐れることはないのである。見せかけの
不幸や、病気や、失敗は、もう決して吾らから魂の平安と調和と幸福とを奪う
ことは出来ないのである。吾々が自分のうちに常に生命を自覚し、すべての出来事
の奥に、摂理の愛の御手があることを知るならば、すべての出来事に平和な、友達に
対するような気持で相対することが出来るのである。どんな事が起こって来ても
平和な心境でいられる人が一人でもあるならばその雰囲気の力で、その周囲の
すべてのものが平和に化せられてしまうのである。わたしは読者のひとりひとりが
其のような人々になって下さることを希わずにはいられないのである。かかる人は
真に平和の天使である。  (雅春先生箸)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■今の現在の状態が、どんなに悪くても、それが「現象としての形」で、眼の前に現れていても…
必ず!道は開かれると思います。…が?そうです!断固として、そう思う次第なのです!!
振り返りますと、若い頃は、とても“無防備な処”が、よかったのでしょうか〜〜〜?
これは、「若さのシンボル」と申しますかしら〜〜〜ン?

30代の頃ですが、仕事で、販売を余儀なくさせられる羽目になりました…。そこは、
或る「デパ−トの催事会場」でした。商品の価格が、全体的に安く抑えて売っています会場で、
当時!その催事場に来店されて来られます「お客様」も、単価優先にての購買が、文字通り
あたり前との考え方が、定着しておりました「催事会場」なのです〜〜〜が??
当時の私は、まだ若く30代の半ば!「私達の商品」は、とても単価が高いのです…。
ほとんどの方は「無理〜〜〜ょ!」との一言であしらわれてしまったのです。
しかしながら、そう言われましても、私は、持ち前の「生長の家…教え」が、脳裏にこびりつき、
そうなのです〰〜〜ョネ!「売れる!売れる!〜〜〜〜〜売れる!」其の思いのみを、考えました。
販売の素人で、しかも「上代が高級品価格」でした…。1日目初めての“スタ−ト”は、
先ずお客様との応対で、売り上げは“ゼロ”ですが〜〜〜><この時に「種まき」という感じで、
宣伝アピ−ルした次第なのです。

或る「お客様」は“90%”と、決めて、最後の決断の一声??〜〜〜><と思いきや…
「又!後で、見合わせます。」と言って、しかも一人の「お客様」応対に3時間位も、要しますから、
なるべく“二人三脚体制”で、繋いでいきます。“聴力”の悪い私は“洋服のコ−ディネ−トとか?”
“オシャレの一言アドバイス!”と、いろいろな話を、持ちだしながら、会話を繋いでいきます…。
その様な日々が、2日続きまして、3日目に入りましてから、一人!二人!と、
「お客様」の購買に繋がり、アッ〜〜〜という間に「売り上げ」が伸びました…。

こうして、振り返りますと、思いますには【心 の 法 則】通りに、今の現状が、どんなに悪く
見える「現象世界」でも、恐れずに“前に進む…心!”“神に全托しまして…ひたすら前に進む心!”
当時の私は、金銭面は【片道切符】ばかりでしたが?
必ず!売れる!売れる!〜〜〜これが“ミソ”でした。これを、思い出しました。…が?
“聴力”が悪い事で、どうしても弱気になりやすいですが〜〜〜><ここを“ポイント”に、
【私は、全てが出来る“最高の持ち主”である。必ず!幸せの幸福切符は、天から舞い降りて来ます】
こう思いながら〜〜〜全て!いつも前進中…!!全ては【心で形成】しますので、
やはり日頃の訓練が大事です〜〜ネ!どんな時も〜どんな時も〜一番良かった事を、思い出しながら、
■【魂 = 心】です〜〜〜ョネ!               再合掌

PS:トキ様 へ…「絶体絶命…追い詰められた“セトギワ”?」この時は、どのような状態に、
自分自身の精神を挑みますか?そして行動は?如何でしょうか…?

1017ハマナス:2012/07/25(水) 19:18:25 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。昨日のつづきです。

『生命の實相』第38巻   七 月 二 十 五 日

今日はさらに、「神はすべてのすべて……神は完き聖愛(みあい)……」と念じよう。そして
すべてのものの内に、宇宙全体の内に神の聖愛の充ち満ちていること、そして自分のうちにも
神の聖愛が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。そして「神の愛に護られ、
生かされ、育てられている」ことを念じよう。

 すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛を観ずる神想観によって消滅してしまうのである。
 すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって完全に消滅したとき、その反映として自分
の家族の精神状態が非常に円満になるものである。そしていっさいが神の聖愛で包まれている
ことを心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などは
かかる心境に達した時、本当に自然に、抑制する必要なく剥落する……。

感謝合掌

1018トキ:2012/07/25(水) 19:48:48 ID:Qab6ammg
>>1015

 会合、大変でしたね。社会保険は、国税の次にきつい扱いを受けるので、大変だと思います。
 本当なら、こういう時期こそ生長の家栄える会が頑張る必要があるのですが。八方ふさがり
だが、天井が空いている。こういう時期こそ、本当の信仰が必要とされるのでしょう。

 この掲示板でも、何かお役に立つ事がないか、虚心に考えたいと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1019ハマナス:2012/07/25(水) 19:51:12 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
ありがとうございます。

自然の法則と心の法則は車の両輪  (『新版 生活の智慧365章』P.211)

此の世界には、その運行を司っている法則がある。その法則を実際に応用することによって、
私たちは労しただけの効果を挙げ、或は価を払っただけの悦びや楽しみを得ることができる。
私たちが法則に順応すれば、法則は私たちに順応してくれるのである。法則には自然科学の
法則と、心の法則とがある。今までは、自然科学の法則だけが重んじられていて、心の法則が
軽んじられていたために、多くの人々は「労多くして、効すくなき生活」を送っていた。

 「自然科学の法則」と、「心の法則」とは車の両輪のようなものである。一方の車輪が欠け
ていると、生活に能率があがらない。科学的に繁栄の法則にかなうような方法を講じても、
心がそれに副わなかったら繁栄はない。滋養物をいくら食っても、心が心配に満たされて
いたら、健康になれないようなものだ。

感謝合掌

1020a hope:2012/07/26(木) 07:22:42 ID:kJvHf4/g

人生読本 谷口雅春先生著

決心ほど強いものはない


皆さん、決心ほど強いものはありません。
「是非やろう」と決心する人は、必ずそれを成し就(と)げる人です。

「やろう」と決心しない人と、困難を恐れる人とは何事も成し就げ得ません。
天下無敵の人となろうと思うならば、成功する事のみを知って、
失敗することを知らない人にならねばなりません。

貧乏になったから失敗したと思うようでは、成功する人ではありません。
借金ができたから失敗したと思うようでは、成功する人ではありません。

スコットのように貧乏になった時に、
「この時こそ!」と決心するような人にならねばなりません。

六十万ドルの借金ができた時に、
「この時こそ!」と渾身の力を揮(ふる)い出し得る人にならねばなりません。

両脚がなくなったら、両脚の切株ででも仕事をする人にならねばなりません。
こんな人にはどんなときにも失敗ということはないのです。
(つづく)

1021ハマナス:2012/07/26(木) 21:23:33 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

行動を伴わねばならない (『新版 生活の智慧365章』P.212)

 「心の法則」は私たちに告げて言う。
 「汝の求むるものをわれは汝に与えるのではない。汝の想念が如何なる波長のものであるかに
随って、その波長に合うものを与えるのである。心暗黒にもてば、われは汝に暗黒を与える。
心を暗黒にもちながら、光明を求めてもわれは光明を汝に与えることはできない。しかし、心を
明るくもっていたならば、労せずして何でも欲するものを現象界に於て得られると思ってならない。
汝にすべてのものが与えられているのは、実相界に於てのことである。その実相界にある無限の
ものを、如何なる形に噴出せしめるかは、汝の心によって、“心の形”の噴出口を如何につくるか
によってきまる。しかしそれだけでは足りないのである。その噴出口から、実相界にある“無限の
もの”を引き出すには、行動を起こさねばならない。」

感謝合掌


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