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海のひつじを忘れないようです

1 ◆JrLrwtG8mk:2017/08/19(土) 21:55:33 ID:rN6ohdMg0
紅白作品
微閲覧注意

160名無しさん:2017/08/20(日) 21:53:31 ID:sRmmAC9s0


「モララーは革命政権下において発足された少年治安維持隊の隊長を務め、
 実の両親を含む反乱分子及び不安分子の徹底的な虐殺に加担した」


彼女の陶器のような手が、ぼくの額から後頭部へと回った。

.

161名無しさん:2017/08/20(日) 21:53:53 ID:sRmmAC9s0



「ショボンは不義を働いた父と無関係であることを証明するため、
 母に言われるがまま助けを懇願する父のその肉を貪り食ったわ」


その手がまた、額へともどってくる。

.

162名無しさん:2017/08/20(日) 21:54:19 ID:sRmmAC9s0



「結合双生児として母のほとを破り生まれてきたアニジャとオトジャは、
 癒着していた三人目へと栄養を流さないことによって自分たちだけ生き永らえた」


ぐるぐると、ぐるぐると、彼女の手が後頭部と額への行ったり来たりを繰り返す。

.

163名無しさん:2017/08/20(日) 21:54:43 ID:sRmmAC9s0


「ここにはね、あなたの想像など及びもつかない地獄を生きた子だっているの。
 あなただけが罪を背負って生きているだなんて考え、おこがましいにも程があるわ」


.

164名無しさん:2017/08/20(日) 21:55:28 ID:sRmmAC9s0
話し終えるのと同時、魔女がぼくの頭から手を離した。
ついさっきまで彼女の手が置かれていた場所に触れる。
そこには仄かに残った人が発する熱と、ざらついた感触の、布製の何かが巻かれていた。
何重にも巻かれたそれは、じくじくと痛む額の傷をすっぽりと覆っていた。

道を塞いだ時と同様に、彼女の車輪が器用に旋回する。
そして彼女はそのまま背を向け、その肢体に比して大きめな車椅子を動かし始めた。
まるでいまここで行われたやりとりなど、初めからなかったかのような様子で。
車輪が回る。彼女の背が、ゆっくりと遠ざかる。

「……ここは」

ぼくはつぶやいた。独り言のように、まったく独り言ではない言葉を。
彼女を引き止めたいという、卑劣な下心を込めながら。その目的は果たされた。
彼女はその背を晒したまま、車輪を止めた。

しかしぼくは、その背に視線を預けつつ、言葉を続けることができずにいた。

165名無しさん:2017/08/20(日) 21:55:51 ID:sRmmAC9s0
いまならまだ、引き返せる。
ぼくは魔女の問いに応答していない。

跪けという言葉には従ったものの、それは逃げることができずに
やむを得ず行った緊急手段にすぎない。この額の――手当だって、
彼女が勝手にしたことだ。いまならまだ、そう言い張ることができる。
小旦那様の命令に背いていないと、自分で認めることができる。

お前は、なんだ。

ぼくは、小旦那様のひつじだ。

己が思考も、感情も、必要のない生き物だ。
なにをされようと、何が待ち受けていようと。
黙って、従っていればいいのだ。
ただ、黙って――



――その、はずなのに。
なぜ、どうしてぼくは、ぼくの足は、ここから離れようとしないんだ。
ぼくの目は、彼女の背を見つめているんだ。ぼくの心は、彼女の話に囚われているんだ。

車輪の軋む音が、耳の奥をつついた。
ぼくは叫んでいた。待って、と。明確に、彼女に向かって。
そしてぼくは、禁を破った。

166名無しさん:2017/08/20(日) 21:56:22 ID:sRmmAC9s0




この教会は、罪を忘れてしまう場所なの?


.

167名無しさん:2017/08/20(日) 21:56:46 ID:sRmmAC9s0
初めてここへ来た時に彼女から投げかけられた呪いの言葉。
奇妙に明るく悩みのないこどもたち。そして、そしてなにより
――あの歌うひつじを見ても、動揺しなくなりつつある自分。

違和感はずいぶん前から抱いていた。初めて還泡式に出席したあの日、
突如として出現したひつじを前にしたぼくは、
自分が再び正気を失ってしまうのではないかと危惧した。

けれど結局心配していたような事態にはならず、
冷静とはいえないまでも気を狂わせるような失態を演じる羽目には陥らないで済んだ。

慣れたのかもしれない。ぼくはその時、そう思おうとした。
初めて遭った時の衝撃が強すぎたために、却って耐性ができたのかもしれないと。
それにあの時ひつじは、歌わなかったから。だから平気だったのかもしれない、と。

けれど二回、三回と還泡式を迎え、その度ひつじと再会したぼくは、
ひつじを見ても妙に平然としている自分に疑いを強めていった。
慣れの一言では説明のつかない心の平衡。なんで。どうして。
問いかけても得られない答え。

ぼくは、何かに焦っていたのだろう。
ジョルジュがぼくに怒りをぶつけた時に笑ったのも、きっとそのせいだ。
自分が罰せられるべき存在であると確認できた安心感が、口元を緩めさせた。
すべては正体不明の違和感に振り回されて。

けれど魔女の語りし物語群が、それらの疑問に答えを示した。

168名無しさん:2017/08/20(日) 21:57:18 ID:sRmmAC9s0
彼女の話には奇妙な点が少なくともふたつ、存在していた。
一つ目は、アニジャとオトジャについて。彼女は二人を結合双生児だと言っていた。
ふたつの命、ふたつの魂が、ひとつの肉体に
分かちがたく結合して生まれてきた存在であると。

しかしぼくの知っているアニジャとオトジャは、
よく似た――というより見分けがつかないほどに同一ではあるものの、
その身体は別々の意志で動くふたつの肉体だ。
個性的で、日常的にジョルジュを叩く、ふたつの別個な生命だ。

彼女がうそをついているのだろうか。
あるいはうそとは言わないまでも、何かを勘違いしているのか。
その可能性は、十二分にある。ぼくは車椅子の魔女という人物のことをほとんど知らない。
だから彼女が悪意を持って騙ったとしても、ぼくにはその真偽を判別することはできない。

それでもぼくは、彼女を信じた。

『あなただけが罪を背負って生きているなんて考え、おこがましいにも程がある』と、
真剣に語っていた彼女のことを。

169名無しさん:2017/08/20(日) 21:57:45 ID:sRmmAC9s0
魔女は本当のことを話している。
けれど事実として、アニジャとオトジャは別個の身体を有している。
この二点間に生じた不可解な齟齬。それを埋めるものが、ぼくの得た答えだった。

彼らは、忘れてしまったのだ。自分たちが犯した罪を。
その出所たる、自分たちがひとつの身体を共有する存在であった、という記憶ごと。
そしてそれはきっと、アニジャとオトジャに限った話ではない。

ぼくも。ショボンも。
そして彼女が語ったもう一人の人物も、きっと――。

170名無しさん:2017/08/20(日) 21:58:06 ID:sRmmAC9s0
彼女の話に含まれた奇妙な点のその二つ目。それは、モララーについてだ。
少年治安維持隊の隊長を務め、虐殺を行っていたというモララー。
あの森を越え、他の子と共にこの教会で暮らしていたモララー。


ぼくは、知らなかった。
モララーなんて人物のこと、ぼくは、知らなかった。


けれど彼女は明らかに、ぼくがその、
モララーという人物を知っているというニュアンスで話をしていた。

171名無しさん:2017/08/20(日) 21:58:28 ID:sRmmAC9s0
「還泡式で祝われていた子を、だれか一人でも覚えていて?」

ぼくの疑問を読み取ったかのようにタイミングよく、彼女が問いかけてくる。
ぼくは少し考え、首を振った。背中を向けている彼女に
そのジェスチャーは見えなかっただろうけれど、気配は伝わったらしい。
彼女はぼくの疑問に対する回答を用意してくれていた。新たな疑問を上乗せした上で。

「モララーという生は断絶した。その生きた軌跡、罪の痕跡を含めて。
 ……いえ、違うわね。モララーなんて、“初めからいなかった”」

初めからいなかった。そういう彼女の言葉に、ぼくは困惑する。
これは初めからいない人物の話、いわゆる空想の物語なのか。
そうとは思えない。彼女はその言葉の前に言っていた。モララーという生は断絶した、と。
モララーは確かに存在していた。しかし同時に、初めからいなかった。

この時点ですでに、理解が追いつかない。
だけどぼくはその上にまたひとつ、疑問を浮かべてしまった。
ぼくはモララーを知らない。教会でも、モララーなんて名前を聞いたことはない。
たぶんここにいるこどもの誰一人、知らないのではないだろうか。

いまぼくの眼の前にいる、この魔女を除いて。

172名無しさん:2017/08/20(日) 21:58:56 ID:sRmmAC9s0
なぜ彼女だけが、モララーを知っている――いや、覚えているのだろう。
初めからいない――つまり存在しないはずの人物を、彼女は知っているのだろう。
これらの疑問を、ぼくは直接彼女に投げかけた。
彼女は変わらず背を向けたまま、その怜悧さを感じさせる声で答える。

「ヒントをもらったのよ。ジョルジュから」

「ジョルジュ?」

想定外の名前にぼくは鸚鵡返しする。ジョルジュ。
あのひょうきんで、いつも飛び回っていて、動物の鳴きマネが得意で
――ぼくを嫌った、あの子。とうとつに、軽くなった首のことが気になった。
何もない胸へ手を伸ばし、何もないことを確かめるように、触れる。

「私はあなたを許せそうにない」

彼女の声は抑揚なく感情も希薄だった。
だから一瞬ぼくは、話の文脈が変わっていることに気づかなかった。
とはいえ、それがぼくへ向けられた言葉だと理解しても、大きな違いはない。
彼女は背を向けたままでいる。その顔は見えない。

ぼくは罪人だ。そんなことは、誰に言われるまでもなくぼく自身が一番理解している。
けれど彼女は、ぼくの知るぼくの罪を咎めてはいない。別の何か。
彼女はぼくの犯した別の罪を糾弾していた。
おそらくは、初めて会ったあの時から、ずっと。

でも、ぼくにはわからない。
彼女がぼくの何を糾弾しているのか、ぼくにはわからなかった。


ぼくは、何をした?

173名無しさん:2017/08/20(日) 21:59:24 ID:sRmmAC9s0
「あなたがなぜここへ来たのかは問わない。
 これまで何をし、どう生きてきたのかも話す必要はない。
 けれどひとつだけ、これだけは聞かせなさい」

彼女のトーンは、変わらない。
静かで、怜悧で、綺麗で。彼女は美しかった。人形のような、完成された美しさ。
近寄りがたい美麗。それこそが魔女のイデアなのかもしれない。
この場を支配する彼女は確かに、魔女だった。
魔女の声がこの裏庭へ、抑揚なく響き渡った。



あなたはいまも、ハーモニカを吹きたいと思っているの?



胸へと触れていた手に、力がこもった。
突き立った指が、やわな皮膚を掻きえぐる。けれど痛みは感じなかった。
胸からも指からも、触覚など消え失せていた。

174名無しさん:2017/08/20(日) 21:59:44 ID:sRmmAC9s0
「ぼ、ぼくは……ぼくには、その資格が……」

「曖昧な返答はいらない。私が知りたいのは単純にして明快な一語。
 すなわち『イエス』か『ノー』、これだけ」

ぼくの言葉を彼女はきっぱりと切り捨て、迫る。
『イエス』か『ノー』。その明確にして後戻りのできない一語へと。

「答えなさい。あなたにはその義務がある」

彼女は声を荒げることも、脅しをかけてくることもしなかった。
だけどぼくは、逃げられなかった。
未だ微動だにせぬその背に目を釘付けされて、視線を動かすことすら許されなかった。

のどが乾いていた。
酸素を取り込もうとした口は閉じず、舌は張り付いて回らない。
ただ一語の返答。どんな難解な問よりも答えがたい、その返答。


イエス。
ノー。


――しぃ。


ぼくは、ぼくの答えは――。


.

175名無しさん:2017/08/20(日) 22:00:11 ID:sRmmAC9s0
車輪が、旋回した。
長くその背に隠されていた彼女の顔が、露わとなる。
アイスブルーの瞳がぼくを見上げ、笑いも、怒りもせず、
変わらぬ魔女の表情のまま、彼女は静かに、こう言った。


真実が、あなたを待っている。


.

176名無しさん:2017/08/20(日) 22:00:44 ID:sRmmAC9s0
               3

ここが楽園であるならば。
もう幾度繰り返したかも知れない問が、
飽きることなく俺の思考を巡り廻って食い荒らす。

もうどれだけ経ったのか。ここへ来てから、どれだけ経ったか。
この世界には昼がない。だからといって、
夜の帳が常にその幕を下ろしているわけでもない。

星のない深淵の空。月明かりに包まれた光輝の大地。
通常あるべき法に反した、不変不朽の超常場。ひつじの教会。
おそらくここには、日時の概念も存在しない。
自分がどれだけここにいたか、測る術がここにはない。

あるとすれば、還泡式。

儀礼と稚気の入り乱れる、童子の祭典。
なにもかもが自由に執り行われるこの教会にあって、この祭りだけは特別だった。
普段は飛び跳ね遊んでいる童子も、この祭りの時だけはその準備に精を出した。
そしてその開催は、ある程度の周期を有して繰り返されている
――ように、俺には感じられた。

177名無しさん:2017/08/20(日) 22:01:05 ID:sRmmAC9s0
俺がここへ来てから開かれた還泡式は、三回。
一度目はあいつに任せたが、二度目、三度目は自らの目でその内容を確かめた。
あれは間違いなく、聖別の儀だった。聖なる者に扮し、聖なる者を模倣し、
聖なる者そのものへと変化――いや、同化しようとする儀式。

だれかがそれをさせているのか。もし黒幕なる人物が存在するならば、
なんのためにそれをさせるのか。そしてなにより
――聖化された者たちは、その後どこへ消えたのか。


どうして俺は、そいつらのことを覚えていないのか。



ここが楽園であるならば。
真実を暴かねばならない。光の御座<みくら>の正体を。
一刻も早く。俺を司る根幹が、恒久へと失われてしまう前に。
剥ぎ取らねばならない。光の陰に隠された、その薄布を。その裏に侍するものを。


確かめねばならない。
光が、あいつであるのかを。

178名無しさん:2017/08/20(日) 22:01:33 ID:sRmmAC9s0
思考がぷっつりと途切れた。
視界の端にちらと映った、何かによって。

「おい」
振り返り、声をかけた。
いましがた俺の隣を通りすがったそいつが、肩をびくりと震わせて止まる。
それはジョルジュだった。いつも脳天気に教会中を飛び回っている、あのジョルジュ。

しかしいまは、何か様子がおかしかった。
怯えるような格好で背を丸め、声を掛けて以来固まったまま
けしてこちらを振り向こうとしない。それにその縮こまった両手。
大事な何かを守っているような、あるいは周囲の視線から
遮ろうとしているかのような、その姿勢。

何かを隠しているのか? なぜ? 見られてはマズいものなのか?

ちらりと、ジョルジュの抱えるものを見た気はする。
ただし、確信はない。先程は意識を思考に費やしていたため、
周辺認識に怠りが生じていた。だからこれは、俺の勘違いに過ぎないかもしれない。
しかしもし、それが勘違いでないとしたら。
ジョルジュが隠し持っているものは、あいつの――。


思考が再び断絶された。
とつじょ駆け出したジョルジュによって。

179名無しさん:2017/08/20(日) 22:02:19 ID:sRmmAC9s0
「……くそっ」

慌ててジョルジュの後を追う。なぜ逃げる。何を持っている。
そういった疑問は一度脇に捨て去り、走ることに集中する。
教会の長い廊下は障害物も少なく、走ることに適している。
走ろうと思えば、いくらでも全力を出し切ることができる。

だがそれは、ジョルジュだとて同じ条件。
ジョルジュは交差していた両腕を解き、
隠していたその何かを右手に掴み直した状態でスプリントしていた。

腕の振りも足の振りも無駄が多くでたらめ。
ただがむしゃらなだけな不格好な走り方。
走行における在るべき正しさは、ジョルジュの姿のどこにも見受けられなかった。
が、正しさなどとは無関係に、ジョルジュはとにかく早かった。俺よりも、遥かに早い。

マズい、このままでは逃げられる。
別に追いかける必要などないのではないか。そう諌める自分も確かに存在する。
だが、持ち替えたことでその尻を露わにしたジョルジュの所有物が、
もう一人の自分を一蹴する。間違いない。あれは、あいつのものだ。
銀のハーモニカ。あいつが受け継いだ形見。ひつじの歌声。

そして、楽園の音色。

180名無しさん:2017/08/20(日) 22:02:40 ID:sRmmAC9s0
廊下と隣接する一室から、こどもが一人、飛び出してきた。
間もなく開かれる還泡式の、その準備をしていたのだろう。
ちょっと無理のある量の荷物を何段も抱えて
ふらふらとバランス悪く、さらには前も見えていない。

このまま行けば衝突する。だが止まれば、ジョルジュを逃す。
すでに俺とジョルジュの間には、埋めがたい距離が空いている。
のんびり立ち止まっている猶予はない。

――ならば。

俺は跳んだ。勢いを殺すことなく、前方へと加速したまま跳躍する。
そして空中できりもみ状に回転し、こどもの抱えていた荷物を無造作につかみ、
それをそのまま、回転する勢いに任せて投げつけた。

苦し紛れのこの方策が、予想以上の結果をもたらしてくれた。
慣性に乗って真っ直ぐ正確に飛翔した物体――
実際は飾り付けの造花が詰まったただの箱だった
――を背中に受けたジョルジュは、くぐもった声を上げて前倒しに床へ倒れた。

造花まみれの床でうつぶせに倒れているジョルジュの下へ近づいていく。
ジョルジュは立ち上がりはしなかった。
が、その代わりに最後の抵抗をしていた。
両の腕を再び胸の内に匿い、亀のように身体を丸めた。
う〜う〜と、何事かうなっている。

181名無しさん:2017/08/20(日) 22:03:04 ID:sRmmAC9s0
遠慮はしなかった。
馬乗りの格好で、力と技術を用い甲羅を引き剥がす。
簡単なことだ。そんな仕事には慣れている。
あえなくジョルジュはその抵抗むなしく、頑なに隠そうとしたそれを露わにされた。
やはりそれは、あいつのハーモニカだった。

「盗ったのか?」

ジョルジュは目を合わせようとしなかった。
あらぬ方向を向いて、ぶつぶつと何事かつぶやいている。

「盗ったのか!」

胸ぐらをつかみ、引き寄せる。
ジョルジュが小さく悲鳴を上げた。
目尻からたまった水滴がこぼれ落ちていく。のどを震わせ、しゃくり上げ始める。

「ち、ちがう……」

「違う? 何が違う」

「……」

「答えろ!」

「そこまでになさい」

182名無しさん:2017/08/20(日) 22:03:34 ID:sRmmAC9s0
怒鳴った俺の声に返答を寄越したのは、
目の前で震えるジョルジュではなかった。それは背後から聞こえた。
点と点の上に支えられた車輪の摩擦が立てる、静かな音。
幽鬼のように実存が不確かなその気配とは裏腹に、
屹然とした存在感を放つ少女性を排した声。凍れる蒼き、瞳。

「その子に罪はないわ」

車椅子の、魔女。
そいつが、自身を支える機械の上から、俺を見下ろしていた。

「あいつは、自分から棄てたのよ」

ジョルジュの胸ぐらをつかんだまま、視線だけを魔女へ向ける。
人を惑わす魔女。その指は細長くジョルジュの手の中、
その手中に収められたハーモニカへと向けられている。
乏しいという言葉では表すことの不可能な位相で、不変の表情を貼り付けながら。

183名無しさん:2017/08/20(日) 22:03:58 ID:sRmmAC9s0
「……あいつが、自分から棄てたってのか」

その顔に向かって、俺は問いかける。

「ええ」

変わらぬ顔が、変わらぬ声を発する。

「いらないからくれてやるって、そういうことなのか」

陶器でできた人形のように、生気のない蒼い瞳が瞬きもせず。

「ええ、その通りよ」

「でたらめをいうな!」

「でたらめじゃない!!」

184名無しさん:2017/08/20(日) 22:04:23 ID:sRmmAC9s0
ジョルジュが叫んで割って入った。
胸ぐらをつかんだ腕が、強い力で引っ張られる。
しかしジョルジュは拘束をとこうとしているわけではなく、
ただでたらめにその場で暴れていた。

「ジョルジュのだもん! ギコのじゃないもん!
 その方が喜ぶもん! ママだって喜ぶもん! だって、だって――」


ママが愛してるのは、ジョルジュだもん!

.

185名無しさん:2017/08/20(日) 22:04:44 ID:sRmmAC9s0
ジョルジュが暴れるのを止めた。
あごを上げて、一切の遠慮なく泣いている。
その時にはすでに俺の手も、ジョルジュから離れていた。そして、見つめていた。
その瞬間だけは魔女のこともあいつのことも忘れて、
こどもであることをまるで厭わぬジョルジュの咆哮をただただ見つめてしまった。

「はい、はい、はい、はい!」

妙な拍取りと共に女が一人、この場に飛び込んできた。
両腕をつかまれ、そして、ずいぶん、近い。顔面と顔面が衝突しそうな近さ
――というより実際に、鼻と鼻はすでに触れ合っている。思わず首をのけぞらせた。
適切な距離まで離れた顔に、焦点が合う。見覚えのある顔。踊りの得意な少女。

名前はそう、確か……ハイン。

「みんな仲良くしようぜ、ケンカなんかしてもいいことひとつもないって!」

そういって俺の両腕から手を離したハインは、そのまま俺の髪に何かを差し入れた。
そして俺から離れるとジョルジュの髪にも触れ、
今度は少し離れた位置で俺たちを見下ろしていた魔女の髪にも同様の行為を働いた。

俺を含む三人の頭に、花が咲いていた。
色とりどりの造花の花が、それぞれ一輪ずつ。

186名無しさん:2017/08/20(日) 22:05:05 ID:sRmmAC9s0
「みんなキュートでかわいいじゃんか!
 よーし、お姉ちゃんも負けないぞー!」

言ったきり、ハインは頭の上で幾本も造花を咲かせ始めた。
色も種類も関係なくめちゃくちゃに並べるものだから、調和も何もあったものじゃない。
完成した花畑を見せびらかすように「どうだ!」と言わんばかりの
ポーズを決めていたハインも、周囲の無反応に自信が揺らいだ様子で笑顔をひきつらせる。

「だ、だめ?」

「ハイン……」

いつの間にかハインのそばまで来ていた女――ワタナベといったか――が、
ハインの肩に手をおいて残念そうに首を振っている。
「がーん」とショックを口に出して、ハインが肩を落とした。

「あなたの望みはひつじが知っている」

車椅子の魔女はハインの戯けも意に介した様子なく、
その魔女の風格を保ったまま話しかけてきた。

「私が言えるのは、それだけよ」

俺の返答を待たず、魔女は器用に車輪を旋回させ、
もと来た道を静かにもどっていった。頭に挿した花飾りは、そのままに。

187名無しさん:2017/08/20(日) 22:05:29 ID:sRmmAC9s0
その背を見送り、ついで俺は、周りを見る。
周囲には騒ぎを聞きつけてきた野次馬が、気づかぬ内に集まり輪を描いていた。
中には泣き出しそうに顔を歪めた小さな童もいる。

俺は……ハインが挿した髪飾りを、頭から引き抜いた。
そして床に散らばった造花をまとめ、ジョルジュにぶつけた箱に詰め戻す。
一本、二本と、拾い集める。周囲から遠慮なく投射される視線を感じながら、
それを無視して集めていく。

目につく部分は全部集めた。
俺は身を翻し、歩きだす。その先には、ショボンがいた。
ふらふらになりながら荷物を運んでいたのは、どうやらショボンのようだった。

ショボンの前に立つ。
俺よりも頭ひとつぶんは低いところにあるその顔が、俺を見上げている。
腰をかがめる。視線の高さが揃う。

188名無しさん:2017/08/20(日) 22:05:53 ID:sRmmAC9s0
「悪かった」

その格好のまま俺は、造花の詰まった箱を置いた。
立ち上がる。ショボンの視線が俺を追う。ふたつの視線が交錯する。
先に視線を切ったのは、俺だった。足を踏み出し、そのままショボンの脇を通り過ぎる。

「ぼ、ぼ、ぼ、ぼく! 怖く、なかったよ」

前を行く足が止まった。

「ほ、ほんとだよ」

背中に投げられた声。そして視線。
吃音症の少年が発する精一杯の生を感じた俺は――あやまたず、その場を後にした。


.

189名無しさん:2017/08/20(日) 22:06:16 ID:sRmmAC9s0



「小旦那様」

あいつは裏庭で座っていた。
俺は慌てることも、尻込みすることもせず闊歩し、その隣りに座った。
あいつはさして驚いた様子なく、俺の存在を認めた。

森の木々が風もなくゆらいでいた。
枝葉がこすれ、さらさらと耳に心地の良い音を立てている。
鬱蒼と茂った植物の波は、まるで盾のように森の先を暗闇に染めて覆い隠している。
まるでこここそが世界の果て――あるいは世界とは
ここに在るこの場所だけだと、そう主張するかのように。

「ジョルジュにハーモニカをやったというのは、事実か」

あいつは振り向くこともしなかった。
声も出さず、控えめにただこくんと、首をうなづかせた。
この件はそれでもう、おしまいだった。
これ以上何を聞いても、意味など生まれようもなかったから。

その代わりというわけでもないが俺は、懐からあるものを取り出した。
短刀。刀身に波のような奇妙な紋様が刻印された、彼女の形見。


俺の執着。

190名無しさん:2017/08/20(日) 22:06:37 ID:sRmmAC9s0
「『きみが外から持ち込んだ執着を、一度手放してみることだ。
 それがきっと、遠き海路の第一歩へとつながるだろうから』」

だれに言われたのかどうしても思い出せないその言葉を唱える俺に、
隣に座る顔が困惑した様子を見せる。それは先程発した言葉があまりに
俺らしからぬ口調だったから……というだけの不信ではあるまい。

手の中の短刀。
俺がこいつを常に携帯していることは、こいつも知っている。
誰にも触らせることなく、大切に持ち歩いていることも。
だからこそ驚いたのだろう。そんな『小旦那様』の執着を、
己の手へと握らせてきたことに。

「俺は今日、この世界の真実を暴きに行く」

恐る恐ると言った様子で短刀を握りしめる俺の友に向かって、宣言する。
決着をつけると。そして俺はさらに、友の顔を見ないまま、言葉を続けた。

「ついてきてくれるか?」

「どこまででも」

間を開けぬ返答が、すぐ隣から聞こえた。
しかし俺はどうしても、その答えに喜びを覚えることができなかった。
気づいていたから。お前のその答えは、
友としての返事ではないのだろうなと、気づいていたから。

風のない森が、さやさやとそよいでいた。


.

191名無しさん:2017/08/20(日) 22:07:11 ID:sRmmAC9s0
               四

『異邦に引き摺り落とされし者は、差し出された食饌に手を付けてはならない。
故郷を惜しむ気持ちがあるならば。帰りを待つ人がいるならば』

神話、あるいは民話として、様々な国に類型が伝わっている禁忌を語った物語。
多くは冥府に堕ちた者がその国で作られた料理を食したことで完全なる死者と化し、
生者の世界へ帰れなくなるという結末を迎える。

あいつの国でも、似たようなおとぎ話があったそうだ。
寝入りの悪い夜、子守唄代わりに聞かせてもらったことを覚えている。

なぜ勧められるままに食事など摂ったのだろうなと、確かそう、俺は質問した。
嫌なガキだ。常に満たされて、空腹も知らない。飢餓の苦しみも、
飢えを凌ぐためならうじの集ったパンですら呑み込む人間が
存在しているという現実も想像できなかったクソガキ。

そんなクソガキを相手にした彼女は、怒ることも、嘆くこともしなかった。
ただ、微笑を浮かべていた。微笑を浮かべて、こう、答えたんだ。

きっと、我慢できないくらいおいしそうだったんですよ、と。


.

192名無しさん:2017/08/20(日) 22:07:38 ID:sRmmAC9s0



ひつじの後をつける。
単純にして明快な、それだけの作戦。それが俺の切り札だった。

ここへ来てからいままで、俺は教会中を虱潰しに調査して回った。
部屋の数がいくつ在り、廊下が何本伸びているのかを調べた。
窓が配置される間隔を知り、どこにどんな家具が設置されているのかも記憶している。

階段が何段あるかも答えることができるし、
必要とあらば詳細な間取り図を描くことも可能だ。
調べられるところは余すところなく調べ尽くしたと、自信を持って答えられる。

だが、それでも見つけることはできなかった。
白い扉。牧師が隠れているというその空間。

俺はすでに確信していた。
そこは何も知らないまま、自力で見つけ出すことのできる場所ではないのだと。
それを知る者に、案内させるしか手はないのだと。

白い扉の所在を、こどもたちは誰一人知らないのだという。
しかしだれも知らないはずのその扉の情報を、こどもたちは確かに共有している。
いつか必ずたどり着く地点として。

俺が導き出した結論は、ひつじがこどもを案内しているのではないか、というものだ。
還泡式の主役に選ばれたこどもを、ひつじが白い扉の前まで
連れて行くのではないかと、そう考えたのだ。
還泡式で祝われたこどもをどうしても思い出すことができない理由も、
この一事に関係しているのではないか、と。

193名無しさん:2017/08/20(日) 22:08:04 ID:sRmmAC9s0
これはただの憶測にすぎない。
が、目に見える情報を統合した結果、
最も疑念の集中するポイントがこの還泡式におけるひつじの動向なのだ。

それに、魔女の言葉もある。
『あなたの望みはひつじが知っている』。
うのみにするわけではないが、無視するには示唆に富みすぎている。

もはや進むしか、道はない。

合図を送る。
共謀者からのうなづきを確認した俺は、
賑やかしくはしゃぎまわるこどもたちの群れからそっと離れ、
気づかれないように広間から抜け出した。

還泡式。明確な時間割が決まっているわけではないが、
経験も四回目――そのうちの一回は話を聞いただけだが――となれば、
感覚的にいつ何が起きるかの予測も立つ。
広間から出た俺たちは物陰に身を潜め、その時を待った。

予測は正確だった。
さしたる時間を置くことなく、それは長い長い廊下の先から現れた。
四足の蹄をこっつり、こっつりと鳴らし、俺達の前にその純白の姿を晒した。


歌う、ひつじ。

194名無しさん:2017/08/20(日) 22:08:27 ID:sRmmAC9s0
ひつじに見つからぬよう、さらに用心して身を隠す。
しかしひつじはこちらを一瞥するでもなく広間へと入り、
しばらくして、再びもと来た道をもどり始めた。
その後ろに、ローブをまとったこどもを率いて。
こどもの手に握られたベルが、ちりんと鳴った。

ちらと視線を送る。静かに息を呑む音が聞こえる。

安心しろ。俺はお前を見捨てない。

小声でささやきかける。
困ったように顔をゆがめられたが、取り合わず、俺は物陰から一歩足を踏み出した。
何も言わずとも、後ろから足音がついてくる。
ひつじ、それからロープのこどもは、ゆっくりとしたペースで歩いていた。
気づかれないよう歩調を合わせ、その後を追う。


.

195名無しさん:2017/08/20(日) 22:08:50 ID:sRmmAC9s0



異常には早い段階で気がついた。
ひつじを見失わないよう最小限に首を回して、周囲を確認する。
普段使っている教会の廊下と、一見したところ変わりないように思える。
窓の間隔も一定で、隣接する部屋にも見覚えがある。が、明らかにおかしい。
ぱっとした見た目に問題はない。おかしいのは、間取りだった。

存在しないはずの廊下を、歩いている。

どこだ、ここは。
頭のなかに描いた間取り図と現在地を、なんとか照らし合わそうとする。
しかしどうしても、一致しない。こんな場所は間取りの上には存在しなかった。

勘違いか。それとも見落としか。考えにくい。
調査は入念に、執念深く行った。脳内間取り図と実際の現場の間に齟齬が出ないよう、
シミュレート実験も行った。最終的には完璧な精度を叩き出せるようになった。
ひつじを追うことに意識を割きすぎたか。それも考えにくい。
やつらのペースはゆるやかで、尾行に並行しての思考にもさしたる困難は感じなかった。

すでに異変は起きている。まず、間違いなく。

196名無しさん:2017/08/20(日) 22:09:14 ID:sRmmAC9s0
落ち着け。まだだ、まだ、何かが判明したわけじゃない。
異変が起きている。それは、喜ばしいことだ。それは常ならぬ道、
常ならぬ場所への道程が存在していることの証左に他ならないのだから。
俺の推測が正しかったことの証明に、他ならないのだから。

だが、喜ぶのはまだ早い。
念願を成し遂げるその時まで、
真実を目の当たりにするその時まで、気を緩めている暇はない。

俺の胸よ、心臓よ。だからいまは留まれ。
その期待に膨らむ高鳴りを、いましばらくは鎮めたまえ。

ひつじが角を曲がった。その後を、ローブのこどもが追従する。
さらにその後ろで、俺が一匹と一人の後を追った。角を曲がる。


そこには、だれもいなかった。

197名無しさん:2017/08/20(日) 22:09:41 ID:sRmmAC9s0
思考が止まった。
なんだ、なにが起こった。
辺りを見回す。が、どんなに目を凝らしてもひつじとローブの背中はない。

どういうことだ。確かにあいつらは、この角を曲がったはず。
俺はありえぬ事態に混乱しつつも、何かの間違いかもしれないと振り返り、
いま自分が曲がったばかりの角をもどった。



友の姿も、消えていた。


.

198名無しさん:2017/08/20(日) 22:10:04 ID:sRmmAC9s0
              5

ぼくは走っていた。
逃げるために。
暗闇の下を。
息せき切って。
宛てもなく。
どこまでも。
どこまでも。

どうして逃げるの?

だれかが笑う。笑い声が響く。
わかっている。だれかなんていない。
これはぼくの声だ。笑っているのはぼくだ。笑いながら逃げている。
どうして逃げるのかだって? そんなこと、ぼくにだってわからない。
逃げる必要なんて、どこにもないのだから。

ぼくを追いかけているものが何なのか、ぼくはもう知っている。

199名無しさん:2017/08/20(日) 22:10:34 ID:sRmmAC9s0
足がもつれて、その場に転んだ。受け身を取らずにそのまま、
慣性に任せて地面を転がる。身体のあちこちをしたたか打ちつける。
魔女に巻いてもらった魔力のこもった包帯が、勢いに負けてゆるみ、
額から解けて落ちた。その白い布の上に、赤い染みが広がった。

鼻の奥から、熱いもの垂れ落ちた。
一滴、二滴と落ちる度、染みは増え、拡大していった。

増えていく染みを目掛けて、頭を振り下ろす。
緩衝にはなりえない薄い布をつらぬき、地面と頭とが強く衝突する。
視界が揺れた。空間が歪み、意識が遠のきかけた。

その意識を取り戻すように、もう一度頭を振り下ろす。
衝撃に揺れる頭を、再度打ちつける。何度も、何度でも打ち下ろす。

見てもらうために。

200名無しさん:2017/08/20(日) 22:11:11 ID:sRmmAC9s0
それは、ぼくを見下ろしていた。
それらはぼくを取り囲んでいた。頭を打ちつけるぼくを取り囲んでいた。
悲鳴を上げて額を裂くぼくを取り囲んでいた。
血と涙と吐瀉物にまみれたぼくを取り囲んでいた。

ぼくを取り囲んでいた。



「許して……」
赦さないで。



呼吸ができなくなった。頭が、何かに埋まっていた。
手足の末端に、かゆみとも痺れともつかない強張りが生じる。
眼球が眼窩の奥へと圧迫される。苦しさに身を捩る。

しかし、身体がいうことを利かない。
何かに抑えつけられている。頭をつかまれ、そこへ叩き落されている。

口から、巨大な泡がこぼれだした。

同時に何かが、ぼくの頭をそこから引き抜いた。
気道へと侵入した異物を吐き出そうと、ぼくの身体は意志とは無関係に咳き込みだした。
しばらくそうして咳き込み、ようやく身体がその自由を意識へと明け渡した時には、
ぼくの周りにはもう、だれもいなかった。だれもぼくを取り囲んではいなかった。

人の代わりに、何かが空から降っていた。

201名無しさん:2017/08/20(日) 22:11:35 ID:sRmmAC9s0
ひつじの綿毛。


ふわふわと、薄く発光したそれは、雪のようにも、水滴のようにも
――気泡のようにも、見えた。気泡が地面に着地し、沈んでいった。
暗く、底の見えない地面の下の深淵へと、重く、萎み、光を失い呑み込まれていった。

それはいくつも、いくつも降ってきた。
それが降り注ぐ度、地面に波紋が生じた。
それの光が波紋に伝わり、重なる波紋はやがて道を描き出した。
波紋の道。光の道。その上を、ぼくは歩いた。その先へ、ぼくは進んだ。


そして、ぼくは、出会った。
純白のひつじと出会った。
ひつじは歌っていた。
歌うひつじが、そこにいた。



そこにはぼくの、しぃがいた。


.

202名無しさん:2017/08/20(日) 22:11:59 ID:sRmmAC9s0



幻覚だ。こんなもの、なにもかも幻覚だ。
だがいくら否定しようとも、俺の目が、五感が、脳が、心が、
その光景を、否応なく現実のものと認識していた。目の前の光景。
それは確かに、現実そのものだった。

この場所も、様子をうかがうこの二体の怪物も、
いままさに怪物の仲間入りを果たさんとするその顔も、
俺は、全部、知っている。この光景の、俺は、すべてを、知っている。



通過儀礼。


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203名無しさん:2017/08/20(日) 22:12:39 ID:sRmmAC9s0
まだこどものままであったそいつが震える手で、その刃をつかむ。
こわごわと、両手で握りしめてもなおやまぬ震えを抑えつけながら。
そして、そばへと寄る。四肢を縛り付けられ、台へと寝かされたその女性の前へ。
その決心を待っていたかのように、怪物の一体が、女性の顔にかけられた布を、剥がした。


やめろ。


そいつが息を呑むその瞬間と、“完全に”同調していた。
手の震えが止まらない。そいつのものも、俺のものも、ひどく震えて、動かせない。
手だけではない。肩も、足も、震えて、震えて、動かせない。
動かせなかった。動かすことが、できなかった。

怪物の一体が、そいつの腕を、つかんだ。
そいつの腕をつかんで、その行先を、誘導する。
縛り付けられた女性の、その指先へと、そいつの手が近づく。
その手に持つ刃が、その先端が、触れる。

怪物は、誘導し、支える以上のことはしてこなかった。
ただ、無言で圧を、課せられた義務のその重石を、幼い背中に背負わせた。
これが、お前の儀式だと。お前が呑み込む、生そのものなのだと。
震え、目を閉じていたそいつが――まぶたを、開いた。


やめてくれ。


台の上で、抑えた吐息が、漏れた。

204名無しさん:2017/08/20(日) 22:13:05 ID:sRmmAC9s0
耐えることのできる感触ではなかった。
実際にそいつは、その場で吐き出し始めていた。
しかし怪物は、無言でそいつを監視していた。
励ましも、恫喝もないまま、無言で、ただ見つめていた。

逃げ出すことなど、不可能だった。
儀式を終わらせる。それ以外には。

そいつにはもう、刃を滑らせる以外の選択肢は、なかった。
脂にまみれた刃は、いくらでも交換できるように、いくらでも用意されていた。
どんなに時間をかけようと、どんなに手間をかけようと、問題はひとつもなかった。
すべてはあらかじめ、整えられていた。

ただ、ただ、手を動かした。手を動かすしかなかった。
その度に、少しずつ、少しずつ彼女は、小さくなっていった。
少しずつ、少しずつ彼女は、削られていった。

彼女はもう、人の形を保ってはいなかった。

205名無しさん:2017/08/20(日) 22:13:25 ID:sRmmAC9s0
それでも彼女は生きていた。そのような手順で、刻んでいったから。
まだ、まだ、最後まで、やらなければならなかったから。
彼女に残された部位は少なくとも、まだ、刃を入れられるところは残っていたから。

彼女は、そいつを見ていた。
そいつも、彼女を見ていた。
そいつと、彼女の視線が、その一瞬、交錯した。
交錯したことを、俺は、覚えている。

そして、その後。その直後。
そいつは、俺は、その視線を断ち切るように、刃を、手の中の刃を、
彼女の顔の、切れ長なくぼみの、そこに収まる球体へと、
その中心へと、手を、刃を――。



私だってほんとは、他の誰にも見られたくなんかないんですよ。

206名無しさん:2017/08/20(日) 22:13:58 ID:sRmmAC9s0



それ以上、立っていられなかった。座り込んでいた。
座り込んで、俺は、泣いていた。涙が溢れて溢れて、止まらなかった。
漏れ出る嗚咽を抑えられず、意味をなさないうめきを上げた。
蠕動するのどに爪を立て、激しく、激しく掻き毟っていた。

こんなこと、あの日以来だった。
通過儀礼を果たした、あの日以来だった。
トソンが死んだ、あの日以来だった。


トソンを殺した、あの日以来だった。


トソン。俺には、無理だ。
こんな重たいもの、背負えない。
こんな十字架を背負うなんて、できない。

俺には、無理だ。
無理、なんだ。
すまない。トソン。
すまない――。

.

207名無しさん:2017/08/20(日) 22:14:23 ID:sRmmAC9s0
異音が、俺を現実へと引き戻した。
ちりん、ちりんと、弱々しく鳴り響く金属の音色。
それは俺のすぐそばから聞こえてきた。
のどに突き刺さったゆびを抜き、手探りに辺りを探す。

それはすぐに見つかった。それは、小さなベルだった。
いつかどこかで拾ったベル。だれかの持ち物だったようにも思えるが、
記憶が茫洋とあやふやで、どうしても思い出すことができない。

いや、いま思い出すべきは、そんなことではない。

爪の間にたまった肉と脂の滓をさっと落とし、俺はベルをつまみ上げた。
そして、おぼろげな記憶を頼りに、だれかが、かつて出会った何者かがそうしたように、
立ち上がり、腕を伸ばして、静かにそのベルを振った。
金属の軽く澄んだ音が、空間を震わせて残響した。

音が、返ってきた。
もう一度、振る。音は再び返ってきた。
同じ方向、同じ場所から。俺はベルを鳴らしながら、
一歩一歩、音の返ってくる方角に向かって歩みを進める。
俺の振るうベルの音は、意図せず拍を打ちリズムを刻みだしていた。


その律動に、別の音が乗った。
それは、声だった。それは、歌だった。

208名無しさん:2017/08/20(日) 22:14:47 ID:sRmmAC9s0
歌は俺の向かう、その先から聞こえてきた。
思わず早めそうになる足を、意識的に抑える。


打ち鳴らすベルのリズムが狂わぬよう、慎重に歩む。
音と音との調和が壊れぬよう、注意を払う。


二度と手放さないために。
もう二度と、失わないために。


ああ。いまはもう、はっきり聞こえる。
一日たりとて忘れることのなかった歌声が。


かつて俺を包んでくれた、あの歌声が。
トソンの、歌声が――。



ただいま、トソン。


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209名無しさん:2017/08/20(日) 22:15:20 ID:sRmmAC9s0
              6

しぃは、ひつじだ。
しぃは、歌う。
父に合わせて。
ぼくに合わせて。
歌を、歌う。
曲に合わせて、歌を、歌う。
しぃは、ひつじだ。
しぃは、ひつじだった。


ひつじは歌っていた。人の声で。一人で。
朗々と。ぼくの知っているその曲を。
ぼくの知らないところで。ぼくとは無関係に。ぼく抜きで。


首が、いやに、軽い。
胸の前が、真空の、ようだ。
ぼくは、ひつじに、触れた。
歌うひつじ。真白いひつじ。

その白。
その白い扉。
その白い扉を、くぐる。
歌うひつじを、くぐる。

210名無しさん:2017/08/20(日) 22:15:43 ID:sRmmAC9s0




          海


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211名無しさん:2017/08/20(日) 22:16:22 ID:sRmmAC9s0
海で、満ちていた。
海で満ちた、宇宙だった。


宇宙に、人が、二人いた。
ローブのこども。
光の人。
光の人が、包容していた。
ローブのこどもを、抱きしめていた。
二人はまるで、ひとつだった。
まるで元から、ひとつだった。

212名無しさん:2017/08/20(日) 22:16:45 ID:sRmmAC9s0
ローブのこどもが、こちらに気づいた。
ローブに隠れたその顔が、こちらを見ていた。
フードを脱いだショボンの顔が、こちらを見ていた。
こちらを見て、微笑んだ。


微笑みが、崩れ去った。
泡となって、消え去った。
那由多の気泡が、浮かび上がった。

213名無しさん:2017/08/20(日) 22:17:08 ID:sRmmAC9s0


そこにショボンは、いなかった。
光の人も、いなかった。
極小の光る気泡が。
ショボンだったものが。
光の人だったものが。
合わさって。
分かちがたく。
無量にして。
ひとつの意味となり。
宇宙の。
暗き深淵の。
その彼方へ。
その彼方へと。
沈んで。
沈んで。
沈んで、いった。

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214名無しさん:2017/08/20(日) 22:17:33 ID:sRmmAC9s0



ああ、やはり、そうなのか。


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215名無しさん:2017/08/20(日) 22:18:02 ID:sRmmAC9s0
しぃは、ひつじだ。
しぃは、歌う。
父に合わせて。
ぼくに合わせて。
歌を、歌う。
曲に合わせて、歌を、歌う。


しぃは、ひつじだ。
しぃは、ひつじだった。
しぃは、ひつじじゃなくなった。
しぃは、沈んだ。
しぃは、沈む、気泡になった。
しぃは、気泡になった。


そして、ぼくも。
ぼくも、このまま――。


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216名無しさん:2017/08/20(日) 22:18:29 ID:sRmmAC9s0



何かが、ぼくに、ぶつかった。
何かが、ぼくを、抱きとめた。
何かには、腕が、あった。
何かは、腕を、伸ばしていた。
何かの、指先には、何かが、あった。
小さな、金属の、ベルがあった。


ベルが、鳴った。
ベルが、鳴って。
気泡に、なった。
ベルの、気泡が、沈んでいった。
誰かの、伸ばした、腕を、呑んで。
腕を、伸ばした、誰かを、呑んで。


泡が、泡の群れが、沈んでいった。
沈んでいく、気泡を、ぼくは、眺めた。
ただ、ただ、眺めていた。
ずっと、ずっと、眺めていた――


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217名無しさん:2017/08/20(日) 22:18:54 ID:sRmmAC9s0



気づけばぼくは、廊下に転がっていた。
光の人も、歌うひつじも、そこにはいない。
もはや親しみすら覚え始めている変哲のない教会の廊下で、ぼくは寝転がっていた。

額に手を当てる。痛みはない。
触れて見た限りでは、怪我の一つもない。
気持ち悪さも歪んだ視界も、なにもかも元通りになっていた。
まるで先程までのすべてが、幻であったかのように。

けれどあれは、現実だったはずだ。

水の宇宙で見たもの。感じたもの。思ったこと。
あれは、すべて、現実だった。気泡となった――だれかも、
一つに合わさった光も。最後に、ぼくを抱きとめた、何かも。

218名無しさん:2017/08/20(日) 22:19:18 ID:sRmmAC9s0
その時になってようやくぼくは、すぐそばにだれかが立っていることに気がついた。
その人影は微動だにすることなく、じっと、自分のてのひらを見つめていた。
人影は、小旦那様、その人だった。

「小旦那様……?」

鐘が、響き出した。
教会中に幸いを告げる、その鐘が。
けれど小旦那様は身体を震わせるほどに大きなその鐘の音も聞こえない様子で、
とにかくただじっと、何も持たない自身のてのひらを見つめていた。

空のてのひらを、じっと、じっと――――





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219名無しさん:2017/08/20(日) 22:19:58 ID:sRmmAC9s0



             『三章 踊るひつじ』へつづく


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220名無しさん:2017/08/20(日) 22:20:22 ID:sRmmAC9s0
今日はここまで

221名無しさん:2017/08/21(月) 21:39:21 ID:vG2lH35Y0
                0

「ぼくは罪人なんです」

人から罪の告白を受けるのは、これが二度目だった。
感情を交えず淡々と、事実だけを伝えるまだこどものものであるその口を、
俺は黙って見続けていた。そしてその口が完全に閉じきった後、
俺はかつてのその時と同じ感情を、目の前のこの少年に対しても募らせていた。

お前は何も悪くない。
生まれも、環境も、どこで育ち、どこで暮らし、だれに囲まれ、教わり、
見せられ、聞かされ、感じさせられ、行わせられ――。
全部、お前が選んだわけじゃない。お前に責任なんてない。
お前にそれを押し付けたのは、大人だ。

悪いのは、全部、大人だ。
お前に罪なんか、ないよ。


俺とは違う。

222名無しさん:2017/08/21(月) 21:39:46 ID:vG2lH35Y0



大人。
大人とは、なんなのか。
いつかあいつへ尋ねた問に、未だ答えを見いだせずにいる。
大人。大人とこども。その境界。こどもはいつ、大人になるのか。
年齢で切り替わるのか。世間が認めた時か。それとも自然となるものなのか。
大人はこどもと、何が違うのか。大人はこどもと、同じ人類種なのか。

人は、必ず、大人になるのか。
生きていれば。生きていさえすれば。
生き伸びてしまったならば。

ならば、俺は。
俺は今……どちらなのか。


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223名無しさん:2017/08/21(月) 21:40:18 ID:vG2lH35Y0



「どういうつもりだ」

「……質問の意味がわからんな」

「とぼけるな!」

悠然と構える兄の前に、書類を叩きつける。
派手な音が木製の机から鳴り響いたが、
兄はまるで意に介した様子を見せなかった。
その態度に、興奮が余計に昂ぶる。

「何をそんなに騒ぎ立てている。
 いつも通り、不良品を処分するだけのことじゃないか」

「リストがおかしいと言ってるんだ! オサムにもビロードにも商品価値はある。
 他の奴らも同様だ。結論を下すのは早計に過ぎる!」

「お前、いつから商品を名前で呼ぶようになった?」

一瞬、言葉に詰まった。

「……とにかく、俺は断固反対だ。
 たしかにハンデを背負っているやつらもいるが、屠殺だなんて現実的じゃない。
 最後まで面倒を見てやるべきだ」

「あのハーモニカの小僧もか」

224名無しさん:2017/08/21(月) 21:40:49 ID:vG2lH35Y0
俺は、答えなかった。何も答えず、ただ、兄を睨んでいた。
兄にはそれで十分だった。兄は俺のことを、よく理解していた。

「どうやらお前は、大人になりきれなかったらしい」

兄が立ち上がる。細長く、まだ成長途上な俺より遥かに長身なその身体が、
野生動物のようなしなやかさで伸びた。見下ろしていたはずの頭が、
遥か高いところへと浮かび上がり、見上げなければならなくなる。

「だったらどうする。檻に閉じ込めて、あいつらと一緒に俺のことも陳列するか」

「そんな非合理なことはしない」

精一杯の虚勢はいともたやすくいなされた。
結局のところ、俺と兄との力関係は昔から何も変わっていない。
兄はいつでも、俺を縛り上げ、己の意のままに強制することができる。
父が俺へ、そうしたように。

変わっていない。こどもの頃から、何一つ。

「どうせなら、あれがいいか」

窓辺に立った兄が、窓の外を眺めながらつぶやいた。
俺の位置からでは、兄が具体的に何を見ているのかまではわからない。
しかし、その視線の先に何があるのか、建っているのかは、知っている。

225名無しさん:2017/08/21(月) 21:41:13 ID:vG2lH35Y0
「なんの話だよ」

「お前のお気に入りを使うことにする」

嫌な予感がしていた。兄の視線の先には、
うちの商品――奴隷として売られる予定のこどもたち――を収容している隷舎がある。
隷舎を見て、兄は何かを物色している。思案している。

何を?

予感は、確信へと変わりつつあった。
その確信を払拭しようと叫んだ俺の声は、もうほとんど覇気を失い、悲鳴と化していた。

「だから、なんの――」

「お前にはもう一度、“通過儀礼”を受けてもらう」

トソンの顔が、思い浮かんだ。

歌い、ほほえみ、時には厳しくもあったが、
いつも同じ目線で語り、同じ程度のバカをして、
同じ時間を共有してくれた、トソンの顔。

俺が壊し尽くした、トソンの顔。

226名無しさん:2017/08/21(月) 21:41:36 ID:vG2lH35Y0
「思えば前回の通過儀礼、あれは不完全なものだった。
 あのときの道具は最後まで悲鳴のひとつもあげず、命乞いもしなかった。
 それではダメだ。それでは通過儀礼にならない。あれは、失敗だった」

兄につかみかかっていた――いや、違う。俺は兄に、しがみついていた。
そうしてしがみついていないと、すぐにも崩折れてしまいそうだったから。
そのまま全部、なくしてしまいそうだったから。

俺は、兄を見上げた。かつてこどもだったその人を。
クソガキで、問題ばかり起こして、父を憎みいつか街を出て
一旗揚げてやると気炎を吐いていた、フォックス、その人を。

俺の知っているフォックスは、そこに、いなかった。

「お前は……トソンの犠牲を、なんだと――」

兄が、首を傾げた。



「あれは、そんな名だったか?」


.

227名無しさん:2017/08/21(月) 21:42:00 ID:vG2lH35Y0
兄はまだ何か話していたが、俺にはもう、何も聞こえなくなっていた。
俺はその時、本当の意味で理解した。これが、大人なのだ、と。

大人という、意味。
大人という、実存。
大人という、現象。
そうか。大人とは、大人とは――


罪の継承によって原生せしめ続けるこの現し世の在り方そのもの……なのか。


ならば、この世界は。
ならば、楽園は。
ならば、俺は。
俺は――。


.

228名無しさん:2017/08/21(月) 21:42:33 ID:vG2lH35Y0



「起きろ、――」

星のない曇天の夜の下、ぼくは肩を揺られて目を覚ました。
そこここからかすかな寝息が聞こえてくる。まだ、深夜だ。
起こされたばかりのぼくもまだ眠気が取れず、意識は朦朧としていた。

が、直後。ぼくの曖昧だった意識は、即座に覚醒した。

そこには、小旦那様がいた。片膝をついた格好で、そこにいた。
別におかしなところのない、いつもの、ごく当たり前の小旦那様だった。

全身が、血にまみれていること以外は。

「小旦那様……?」

小旦那様の腕が、ぼくへと伸びていた。
ぼくは差し出されたその手を見て、ついで、逆側の手を見た。
そこには小旦那様がいつも携帯している、奇妙な紋様の浮かぶ短刀が握られている。
いつもは汚れのひとつもない静謐な気配を漂わせているそれが、
いまは、その本来の用途を存分に感じさせる修飾を施されている。赤い、修飾。


その姿は、ぼくが待ち続けていたものに酷似していた。

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229名無しさん:2017/08/21(月) 21:42:56 ID:vG2lH35Y0
迷うことはなかった。ぼくは彼の、血にまみれた手をつかんだ。
少し気難しさを感じさせる彼の顔が、わずかな悲しみを含んで、
その口を静かに、静かに動かした。



――、お前を楽園へ連れて行く。


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230名無しさん:2017/08/21(月) 21:43:27 ID:vG2lH35Y0
           三章 踊るひつじ


               1

「おはよう、ハイン」

「……おはよう、ナベ」

目を覚ましたら、ナベの顔があった。いつもと同じように。
そしてこれもまたいつもと同じように、ナベの指があたしの目元をぬぐった。
その指先に、水滴が付着している。その水滴の曲面に、
丸く歪曲したあたしの顔が映っていた。目元を腫らした、あたしの顔。

「あたし、また、泣いてた?」

「いいんだよ」

ナベの顔がさらに近づく。額が、鼻が接触する。

「あなたが見たのはただの夢。思い出すことなんて、何もない」

231名無しさん:2017/08/21(月) 21:43:51 ID:vG2lH35Y0
ナベが口を開く度、その息遣いが伝わってくる。
それがなんだか幸福なような、さみしいような、たまらない感情を呼び起こす。

私は生きている。ナベは生きている。
そのことが、なんだかとても、胸に来る。

「何もないんだよ……」

ナベの声は、とてもやさしい。暖かくて、心地いい。
そのぬくもりに、おぼろげな夢がさらに薄れた。もう何も覚えてはいない。
自分が何に泣いていたのかも、何を思っていたのかも。

だからきっと、それは思い出す必要がないことなのだろう。
ナベの言うとおり、あたしが見たのはただの夢。遠い、遠い世界のただの夢。

いつか忘れた、夢の足跡。


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232名無しさん:2017/08/21(月) 21:44:13 ID:vG2lH35Y0



「吹けないんだ」

「そんなことない。すぐ上手くなるよ」

「違うんだ」

それは、抑揚のない声だった。

「忘れちゃうんだ」

いつもの彼の声ではなかった。

「ぼくはジョルジュなのに……。みんなに愛されなくちゃ、
 一番愛されてなくちゃ、ママに見てもらえないのに……」

銀のハーモニカに映る彼の顔は、能面のように無表情だった。

「愛されなくちゃ、ジョルジュじゃないのに……」

まるで自分自身を亡失したかのようなジョルジュに対して、
あたしはそれ以上掛ける言葉を見つけられなかった。
そばに座って抱きしめても、ジョルジュは何の反応も示さない。
ただただハーモニカを見つめて、吹けない、吹けないとつぶやいていた。


.

233名無しさん:2017/08/21(月) 21:45:10 ID:vG2lH35Y0
何かがおかしくなっていた。
何も変わっていないはずなのに、何かがずれているような違和感。
座りの悪さに落ち着かず、気持ちが悪く、なのにその正体だけは
どうしてもつかめないもどかしさが、教会中を覆っていた。
ぞわぞわとした不安が背中を這っているかのようだった。

それでもあたしたちには――あたしには、日々を過ごす以外の選択肢はなかった。
日々を過ごす以外のことを考える必要もなかったし、
それがなにより幸せなことだとあたしたちは知っていた。
だってここは、こどもの楽園なのだから。

「そうそう、みんなぴょんぴょんがぐるりるしてて上手だよ〜」

こどもたちの間を巡るナベが、そのよく通る声でみんなを褒めている。
ナベはおっとりとした話し方の割に意外と機敏で、面倒見もいい。
時々擬音語だらけの言葉に首を傾げそうになるけれど、
それもまた、彼女の味だと思う。

あたしたちは毎日こうして、小さな子たちに踊りを教えている。
だれが言い出したのかは忘れてしまったけれど、
あたしとナベのダンスを見て自分も踊ってみたい、
教えてほしいとお願いされたのがきっかけだった――気がする。

あたしも小さい子たちの面倒を見るのは嫌いじゃなかったし、
みんなで踊れる日が来たら素敵だなと思ったので、懇願には快く応じた覚えがある。
それに、自分の踊りに誰かが感動してくれたという事実が、とてもうれしかったから。

234名無しさん:2017/08/21(月) 21:45:42 ID:vG2lH35Y0
「いいよいいよ〜。そこでぱんっぱんっ、ぱぱぱぱっ!」

だからだろうか。日課となったこのレッスンは、
あたしにとって毎日の楽しみになっていた。
つたないながらも一生懸命練習に励むこどもたちを見るのは、
自分の身体を動かすのとはまた異なる赴があった。満ち足りた幸せを感じた。

いつもは、そうだった。

「アニジャ〜、それにオトジャ〜。どうして言うとおりにやってくれないの〜?」

「やらないのではない。できないのだ」

「しないのではない。わからないのだ」

「わからない〜?」

「ナベの言葉は、理解できない」

「ナベの教授は、確知できない」

「む〜?」

「ハインがいい。ハインの教えは、わかりやすい」

「ハインがいい。ハインの手本は、つかみやすい」

「む〜〜〜〜?」

235名無しさん:2017/08/21(月) 21:46:12 ID:vG2lH35Y0
ほほを膨らませたナベが、のんびりした口調とは
相反するずんずんとした大股で近寄ってくる。
そして腰を下ろした格好のあたしの前に立つと、
上半身をひねるようにして覗き込んできた。

「ハ〜インっ。ご指名だよ〜」

むすっとした膨れ顔が、あたしの目の前に現れる。本心ではない。
そういう態度を演じているのだとわかる、本気ではないその顔。
その顔が、あたしを見て、怪訝そうに曇りを帯びる。

「ハイン?」

「……え、あ、ああ、うん」

あたしは慌てて立ち上がる。
なぜだかわからないけれど、ぼんやりと輪郭の崩れたナベの顔から目を背けて。
ナベだけではない。目に映るものすべてが、なんだかぼやっと見えづらかった。
目をこする。視界の異常は、すぐに治った。

「ごめんごめん。あたしってば、ちょっと寝てたみたい」

苦笑いでごまかす。
それでも心配そうにしているナベの肩をぽんぽん叩き、
あたしはアニジャとオトジャの前に躍り出た。

236名無しさん:2017/08/21(月) 21:46:54 ID:vG2lH35Y0
「さ、どこから教えて欲しい?」

「初めから頼む、ハイン先生」

「一から願う、ハイン師匠」

二人の答えに忍び笑いを漏らしたあたしは、
ナベの視線に口を閉じ、ついでにどんっと、胸を叩き、

「お姉ちゃんに任せなさい!」

アニジャとオトジャの前で、ステップを踏み出した。
初歩的で、基本的な足さばき。アニジャとオトジャ、
それに他の子たちもあたしを中心に輪を作って
ふんふんうなづいたり目を輝かせたりしている。
こうして自分の培ってきた技を教えるのは、楽しい。気持ちいい。

そのはずなのに。

237名無しさん:2017/08/21(月) 21:47:26 ID:vG2lH35Y0
何度目だっただろうか。彼らにこのステップを教えるのは。
もうずっと、長いこと、何ヶ月か、それとも何年か。
とにかく長い時間を掛けて、あたしは同じことを、
基礎の基礎となる部分を教えてきた気がする。

けれど彼らは、何も覚えなかった。
ひとつも上達しなかった。不真面目なわけではない。
彼らは真面目に、それに楽しんでこのレッスンに参加している。
心から楽しんでいると、あたしにもわかる。
なのに彼らは、上達しない。成長しない。

どうして?


吹けない、吹けない――。

.

238名無しさん:2017/08/21(月) 21:47:57 ID:vG2lH35Y0
「ハイン!」

叫んで手を伸ばすナベの姿が、斜めに傾いていた。
違う。斜めになっているのは、あたしだ。あたしは倒れかけていた。

いけない、踏ん張らなきゃ。
とっさに足へと力を込め――ようとしたが、それは叶わなかった。


足が、動かない。


そう思った直後、あたしは肩をしたたか地面に打ち付け倒れていた。
みんなの駆け寄ってくるぱたぱたとした足音が、重層的に鳴り響いている。

「ハイン、大丈夫か」

「ハイン、平気か」

心配して掛けてくれた声に、しかしあたしは反応できずにいた。
声そのものは聞こえていたけれど、言葉の意味が脳まで届いてこない。
あたしの意識は、自分の足。動かなかった足に集中していた。
無意識に、手を伸ばしていた。足に、触れていた。

足を、動かせた。

239名無しさん:2017/08/21(月) 21:48:21 ID:vG2lH35Y0
「……ごめん。お姉ちゃん、どじっちった」

ぺろっと舌を出して、茶化したふうに謝罪する。
緊張していた場の空気が、一気に緩和していった。
あたしがナベの手を借りて立ち上がると、
みんなは人騒がせだとか怪我がなくて良かったとか思い思いのことを言いながら、
何事もなかったかのようにあたしの側から離れていった。

「……ちょっと捻ったみたい。医務室に行ってくる」

周りに聞こえないよう、ナベに耳打ちする。
ナベが何かを言おうとしたがそれを指で塞ぎ、さらに言葉を続けた。

「レッスンのつづき、お願いな」

それだけ言って、ナベから離れる。
しばらくは問い詰めるような視線を背中に感じていたけれど、
やがていつもの明るく間延びした声が、部屋の中に響き渡った。
その声に安心して、あたしは部屋を出る。部屋を出て、医務室に向かう。

240名無しさん:2017/08/21(月) 21:48:44 ID:vG2lH35Y0
正直な所、痛みはほとんどなかった。足は普通に動かせたし、
打ち付けた肩も違和感はあるものの放っておけば治る程度のものだ。
それでも部屋を出たのは、なんとなくあの場を離れたくなったから。
そうしないといけない、そんな気がしたから。

それに、医務室に行けばこの捉えがたい気持ちにも
何らかの解決策を得られるような、そんな気もしていた。
医務室には誰かが常駐していた。達観したしゃべり方が特徴的な、
みんなのまとめ役だっただれかが。こどもの心を持ちながら、
大人の知識を用いることのできた何者かが。

おかしな記憶だと思う。
そんな誰かなんて、出会ったこともないはずなのに。
物語の登場人物と混同しているのだろうか。
それとも幻か、単なる記憶違いか。もしくは夢の中の人物だったりして。


それともあたしが、忘れているだけ?

241名無しさん:2017/08/21(月) 21:49:10 ID:vG2lH35Y0
……まさか、ね。
自分で自分の想像を打ち消そうとする。
ありえない、と。ありえない、ありえない。
そう言い聞かせながら、あたしは妙な期待を抑えられずにいた。

その“だれか”は、本当にここにいるんじゃないか。
医務室の扉を開いたら、隅っこに置かれた小さな机に腰掛けたその人物が、
メガネのズレを直しながらこちらへ振り向くのではないか。
その人があたしに、このもやもやを解消する何らかの答えを与えてくれるのではないか――。
そんな想像が、いやに具体的に想起できる。

医務室の扉に手を掛ける。いるわけがない。でも、もしかしたら。
背反するふたつの気持ちにせめぎ合いながら、あたしはとにかく、扉を開いた。
ジョルジュがするように、開け放った扉が壁と衝突するくらい勢い良く。



そこには、ギコがいた。

242名無しさん:2017/08/21(月) 21:49:40 ID:vG2lH35Y0
「……よっ」

軽く手を上げて挨拶したあたしに、ギコが会釈を返す。
あたしはベッドに腰掛けているギコのすぐ隣に、自分も腰を下ろした。
ふたりぶんの重みで沈んだベッドが、中央付近でくの字に曲がる。

「転んだか? ぶつけたか? おねえちゃんが手当しようか?」

覗き込んで、話しかける。ギコは反応しなかった。
うつむいて、どこかここではない虚空に視線を漂わせている。
その胸には、なにもない。本来彼が身につけているはずの楽器は、そこにない。

おかしいといえば、ギコの様子もおかしかった。
元々おとなしい子ではあったけれど、
ちっちゃなこどもたちには好かれていたし、他の子とも普通に交流をしていた。

でも、いまは。彼は自分から孤立しようとしていた。
少なくともあたしには、そう見えた。人を遠ざけて、誰とも触れ合おうとしなかった。
まるで、そう。あの、車椅子の魔女、みたいに。

いったい彼に、何があったのだろう。
存在するべきものの存在しない胸の前を、あたしは見つめる。

243名無しさん:2017/08/21(月) 21:50:06 ID:vG2lH35Y0
「会いに来たんだ」

とうとつな彼の声に、あたしはわずかに驚いた。
驚きながら、彼がせっかく放ってくれたその言葉に応答し、問い返す。

「会いに来たって、だれに?」

「だれか」

だれか。その言葉に、どきりとする。

「だれかって、だれ?」

「……わからない。でもぼくは、その人のことが苦手だった気がする」

「苦手なのに、会いに来たのか?」

「どうして苦手なのか、わかったから」

「……わかった?」

「似ていたんだ。ぼくの、大切な人に。だけど……」

244名無しさん:2017/08/21(月) 21:50:30 ID:vG2lH35Y0
ここまで話して初めて、ギコの顔に表情が現れた。
けれどギコの心中へ浮かんだそれは、決して良い感情ではなかったのだろう。
何かを歯噛みするような苦悶の顔のまま、ギコは目を伏せている。

「その誰かを、思い出せない?」

ギコはうなづかなかった。否定もしなかった。

「あたしもさ、誰かに会おうと思ってここに来たんだ。
 知らないはずなのに、知ってる誰かをさ」

努めて明るく、茶化すように話をする。

「なんだかこれってさ、ジョルジュが鳴き真似する動物みたいだよな。
 ほんとはいないはずなのに、なんだかいるような気がして、
 実はほんとにいたんじゃないかって思い込みそうになるとこなんか、さ」

ギコがあたしを見つめていた。その目はわずかにうるんでいて、
あたしは自分が見当違いのことを言っているとその時ようやく気がついた。

ギコの口が、ためらいがちに、開いた。
ちがう、と。


ギコが、いった。
大切な人が誰だったのか、思い出せないんだ、と。

245名無しさん:2017/08/21(月) 21:51:01 ID:vG2lH35Y0



おねえちゃん――!


.

246名無しさん:2017/08/21(月) 21:52:15 ID:vG2lH35Y0
鈍痛が頭を襲った。頭を抱え、荒い息を吐く。
心臓が早鐘を打ち、皮膚の上にさらに
何層もの皮膚が移植されたかのように重たく鈍い。


なに、これ。
あたし、いま。
なにかが。
みえて――。


身体を押さえて、とにかく波をやり過ごした。
やり過ごして、やり過ごして……そうしてどれだけの時が経ったのか、
鼓動も、呼吸も、いくぶんか静まってきた。深く息を吐いて、呼吸を整える。

247名無しさん:2017/08/21(月) 21:52:49 ID:vG2lH35Y0
隣を見た。そこにはすでに、ギコの姿はなかった。
ギコの姿はなかったが、ギコの座っていた場所に、何かが置かれていた。
それを手に持つ。それは、短刀だった。鞘を抜くと、
奇妙な波模様の浮かぶ刀身が目に映った。
吸い込まれそうなその紋様から目を離し、鞘に収める。

届けなくちゃ。
――届けなくちゃ。

額を抑える。鈍痛が、再び顔を覗かせている。
けれどだいじょうぶ、さっきほどじゃない。立ち上がり、医務室から出る。
ギコがどこへ行ったのか。それはわからなかったけれど、
なぜだか足が勝手に動いていた。進むべき方向を予め、
あたし自身が知っているかのようだった。

あたしは裏庭へと出ていた。
揃えられた石畳の上を歩き、そこで止まらず、ついには下生えへと足を踏み入れる。
先にはもう、森しかなかった。

248名無しさん:2017/08/21(月) 21:53:21 ID:vG2lH35Y0
森。

頭がひどく痛む。
あたしの中の何かが、この先へ進むことを拒んでいる。
絶対に入ってはならないと、警鐘を鳴らしている。

森の向こうへ行ってはいけない。
そう言っていたのは、だれだったっけ。
ナベだった気もするし、ジョルジュだった気もするし、他の誰かであった気もする。

森には、入っちゃ、いけないんだって。

でも。
この先に、いる気がする。
あの人が、いる気がする。


あの人が。


気づけば、森の中にいた。
乱れる呼吸を省みることもなく、あたしは木々を折って前進していた。
前へ、前へと歩を進めていった。そして、あたしは、見つけた。
森の奥へと進むギコと――彼女、車椅子の魔女の姿を、見つけた。


.

249名無しさん:2017/08/21(月) 21:54:18 ID:vG2lH35Y0
               2

「あなたに頼みたいことはひとつだけ。向こうへもどったら、
 このノートに書かれた内容をすべて世間に公表してほしい」

この時をどれだけ待ち侘びたことだろう。

私がここへ来てから、どれだけの月日が過ぎ去ったのか。
長くここに居過ぎたせいで、もはや時間の概念が失せている。
次々と消えていく同胞を横目に、老いる事も成長することもなく、
ただただ書き続けてきた日々。まるでそう、
魔導書をつづることだけに執心した魔女、そのもののように。

魔女と呼ばれた、私。

「この森を抜けたその先に、この幽世と現し世との境界がある。
 あなたが生きるべき現実へと架けられた橋が」

指を差し、彼に進むべき方向を示す。
森は深く暗く、目の前に潜むは闇しかないように思える。
しかしその先には、必ずある。この停滞した死の世界から逃れ、
生へと至るべく開かれた道が。

250名無しさん:2017/08/21(月) 21:54:50 ID:vG2lH35Y0
「ここにいる限り、誰もが同じ末路を辿る。いずれはみんな、泡になる」

ノートを持ったまま静止した彼に声をかける。
彼。彼であって、彼でない少年。幼さを残した顔も、
ほんのりと丸みを帯びた輪郭も、人の良さそうなその目元も、私は全部、知っている。
ずっと、ずうっと見てきたその顔を、私はいまも覚えている。
その声も、その名も、全部、全部。

だから、どうしようもなく、腹が立つ。
あの日交わした約束を、思い出してしまって。

「あなたはハーモニカを吹きたいと言った」

彼と交わした、あの日の約束。

「あの時の覚悟を、うそだとは言わせない」

理解している。この子が彼でないことくらい。
それでも私には許せなかったのだ。この子がこの世界へ来ているという、その事実が。
この子は帰らなければならない。彼のためにも。私にためにも。
……でなければ、私のこれまでが余りにも、余りにも無為になってしまうから。

だというのに、この子は。

251名無しさん:2017/08/21(月) 21:55:22 ID:vG2lH35Y0
「どうして……」

どうしてこの子は、歩きだしては、くれないのか。

「私には時間がない。それにたぶん、あなたにも」

彼の名を、呼ぶ。
彼の服をつかみ、引っ張る。

「いまを逃せば、あなたはきっと忘れてしまう。私の言葉も、私のことも」

彼の足を動かそうと、力を込める。
けれど車椅子の私には――私には、彼を動かすだけの力がない。
彼は大地に根を張ったかのように、動かない。

「その果てに何が待っているのか、それはあなたも見たのでしょう?」

力を込めながら、彼の顔を見上げた。
見上げた彼の顔は、私の顔を見下ろしていた。
何かを問いたげな、いまにも泣き出しそうな、
小さな、ほんの小さなこどもの顔をしていた。

助けを求める顔をしていた。

252名無しさん:2017/08/21(月) 21:55:47 ID:vG2lH35Y0
「なのに、どうして、あなたは……」

「簡単なことだ」

木々のこすれる音が、すぐそばで響いた。
車椅子を旋回させる余裕もなく、首だけで音の聞こえた方へ振り向く。
そこには、人がいた。気配もなく、音もなく、
まるで初めからそこに存在していたかのように突如として出現した少年。


彼の主。小旦那様。
彼の小旦那様が、さざめく森そのもののように、その深く静謐な声を震わせた。


「それがこいつの望みだからだ」
 

.

253名無しさん:2017/08/21(月) 21:56:30 ID:vG2lH35Y0
              3

「ここにいることが、彼の望みだというの?」

「そうだ」

彼の主がどうしてここにいるのか。
私と彼がここへ来ていることを知っていたのか。その方法は定かではない。
けれど理由は明確だ。この男は、彼を連れ戻すためにやってきた。
二度とは戻れぬあの、永久の夢の檻へと連れ戻すために。

彼を見る。不安そうな面持ちで、茫漠とした視線を私たちに向けている。
たぶん、そうなのだ。彼が足を動かさなかった理由。
目の前のこの人物こそが彼の心の拠り所にして
――彼の足をつなぎとめる最終最後の枷、そのもの。

うそよ、と、私は彼の主を否定する。
――私はまだ、諦めてはいない。諦める訳にはいかない。

「彼はハーモニカを吹きたいと言った。その気持ちは本心だったはずよ」

「そこに偽りはない。しかし心とは、単層単色の一枚絵とは違う」

彼の主が、彼の抱える私のノートに触れた。
途端、すべてのノートが一斉に、ひらひらと宙を舞い始めた。
まるで空を泳ぐ羽根のように。魔術が如きその光景に、我を忘れる。

「自我の一片すら残さぬ自己の完全なる消滅。それが“ギコ”の望みだ」

254名無しさん:2017/08/21(月) 21:57:12 ID:vG2lH35Y0
彼の主が口にした“その名”に反応し、現実を思い出す。
可能な限りの敵意を込めて、彼の主を睨みつける。

「彼は“ギコ”じゃない。そんなこと、あなただって知っているはず」

「然り。だがそれ故に苦しむ。背反する願望を御しきれず」

睨みながら私は、違和感を抱いていた。
何かが違う。何かがおかしい、と。

「ギコが本当の意味でギコになること。
 それ以外にこの惑いし魂を救済する術はない」

私は彼らのことを見てきた。
彼らがここへ来てからの短くない時間を、可能な限り観察してきた。
彼らが何を思い、何を悩み、何を求めて行動したのかを詳察してきた。
だから彼のことも、彼の主の人となりもすでに把握している。
彼の、彼の主への依存も、またその逆も。

故に感じる違和感。決定的な、その一事。

「ギコは、ギコなのだ」

彼の主は、彼を、ギコとは呼ばない。
いや、呼べない。本来ならば。

255名無しさん:2017/08/21(月) 21:57:43 ID:vG2lH35Y0
「あなたは、だれなの……?」

腕の内のノートから解放され力なく座り込んだ彼に、彼の主がそっと手を添えた。
二人のその関係はもはや一欠片の対等性も保持してはいなかった。
主と従者のように。父と子のように。守護者と庇護者のように。
そして――羊飼いと、ひつじのように。

この暗がりの森において、彼の主だけがいやにはっきりと、
その存在をこの場に示している。薄い燐光に包まれたその身体が、
暗がりを越えてかくあれとこの三次空間上に立脚している。

だというのにその顔だけが、その顔だけが曖昧に、
曖昧にその詳細をぼやかしていた。まるで、そう、まるであの光輝の塊。

牧師、その人のように――。

「あなたも、“接触”を――」

「お前はなぜ、ここにいる」

256名無しさん:2017/08/21(月) 21:58:38 ID:vG2lH35Y0
「わた、し?」

話の矛先が私へと向けられたことに、狼狽する。
その燐光を放つ指先が、私を捉える。心臓を射抜かれたように、動けなくなる。
視線すらも、動かせない。

「なぜ逃げ出さなかった。なぜ森を越えなかった。なぜ一人でも帰ろうとしなかった。
 ひつじの教会の、その在り方を唾棄しつつ出ていかなかったのはなぜだ。
 時間がなかったからとは言うまい。機会はいくらでもあったはずだ。
 それだけの時を、お前はここで過ごしてきたのだから」

「それは……」

のどが乾いて、声が出せなかった。何も言えなかった。
彼の主の言葉はいちいちもっともで、それ故に私の言葉が入り込む隙間がなかった。
私には、答えられなかった。

「答えられまい。お前には答えられまい。
 心の悲鳴に目を背け、凝り固まった妄念に捕らわれてきたお前には。
 故に代わりに答えよう。お前がここにいた理由。ここから出ていかなかった理由。
 それは――」

 彼の主が次に放つ言葉が、私には聞くまでもなく、わかった。



「誰よりお前が、現実を恐れる“こども”だからだ」


.

257名無しさん:2017/08/21(月) 21:59:17 ID:vG2lH35Y0
「ちがう!」

と、そう叫ぶ他、私にできることはない。
否定しなければ。これだけは絶対に否定しなければ。
だって私はまだ、諦めてはいないのだから。
彼にノートを持ち帰ってもらわなければならないのだから。
彼に元の世界へもどってもらわなければならないのだから。

だから彼に現実を恐れさせるようなことは
――私が現実を恐れているだなんて事実、明かしては、ならない。

ならないのに、彼の主は、追求を止めない。

「ならば答えられるはずだ。表せるはずだ。
 お前が現実を拒絶していないのならば、
 お前の生まれを、お前の父を、お前の母を、お前の半生を、
 お前の拠り所を、お前の罪を、そして――お前の、名を」

血の気が引く。この男は知っている。明らかに。
私の秘密を。ひた隠しに隠してきた、現実の私を。私の現実を。


瞬間、現実を、想起した。

.

258名無しさん:2017/08/21(月) 21:59:37 ID:vG2lH35Y0
「見よ!」

自由を奪われた私の身体が、男の一声によって意志とは無関係に動かされた。
私は振り返り、背後の木々へと目を向けた。

「これこそがお前の、偽らざるお前自身の心象だ!」

木々が、葉が、蔦がみちみちと蠢き、絡み合っていた。
絡みひしめきあったそれは一個の生命のように穴隙なく重なり、
厚く、固く、重く強く痛々しく私の目の前で顕現した。
それは、壁だった。外界を閉ざす、絶対の壁。拒絶の証。


私、そのもの。


「わ、わたし、は……」

違う、私は。
そう言おうとするも、声が出ない。あいつが行使する魔術によって
――ではない。私自身が、声を、殺したのだ。私自身が、もう、認めてしまったのだ。

259名無しさん:2017/08/21(月) 21:59:58 ID:vG2lH35Y0
気づかぬ内に、彼と、目があっていた。彼が私を見ていた。
彼の目に、私はどう映っているだろうか。あの時のままだろうか。
それとも、あの時よりもひどいだろうか。

ああちがう、そうじゃない。彼は彼じゃない。別人だ。そんなこと、わかってるんだ。
彼がここにいるってことは、つまり、そういうことなんだって、わかってるんだ。

それでも、私は。
私は、まだ。
私は、まだ、約束を――

彼が、私を見て、言った。



「きみは、だれなの?」


.


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