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日蓮聖人の本尊観

1管理者:2002/07/30(火) 19:07

「オフ会 開催案内」スレッドにおいて、議論が沸騰しています。内容的に、仮に、「日蓮聖人の本尊観」と名前を付けて、別スレッドとして立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。


82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08

すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。

63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。

たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。


95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10

それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。

2管理者:2002/07/30(火) 19:36

63 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/17(水) 23:50

かなり日にちが経ってしまいましたし、それに、本来こちらのスレッドにそぐわないお話なのかもしれませんけれど、少しばかり・・・
61で犀角独歩さんが掲載されました、『宗教の自殺』における梅原猛氏の記述。宗派・教団を問わず、多くの宗教指導者たち一人一人が重要な訓戒として、自らに言い聞かせなければならない事であると思います。また、梅原氏は『仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>』(紀野一義・梅原猛 角川文庫 1997年)の中で、次のような事も述べられています。


 ・・・・・・
 日蓮はしばしば、誇大な言辞を弄した人に考えられる。彼は、はずかし気もなく、「わ
れは日本の柱なり」とか、「われは日本国の大船なり」とか壮語する。しかし、その半面、
彼は「日蓮は日本一のえせ者なり」とかいうのである。私は日蓮のいささか誇大に見える
自己主張の背後にある自己にたいするきびしい問いを忘れてはならないと思うのである。
(P294)
 私は、一度もその信仰がゆるがない信仰者を信ずる気にはなれない。私には真の信仰者
には、いつもおのれに向かっての内的な問いがあるように思われる。おのれの信仰がまち
がいであり、その信仰をおのれにも他人にも命じている自分は一人の詐欺師ではないかと
いう問いがある。「日本一のえせ者」とみずからいう日蓮の中にも、そのような問いがあ
ろう。しかし真の信仰者は同時にそのような疑いを克服する。そして彼はそのような問い
の中に、自己の思想をいっそう深くするのである。
(P295〜296)


いちりんさんが59でおっしゃっています事って、私が所属している某教団(こちらの掲示板は、特定の宗派・教団に対する批判が目的でないので、敢えて名前は挙げませんが)の人たちに、多いようですね。
少なくとも、私の知っているその手の人たちの日蓮聖人の御書や法華経・仏教の解釈の仕方には、どこか浅いところがあるとでも申しましょうか・・・ それのみならず、信仰以外の様々な事柄に対する彼らの考え方に接していても、とにかく表面的な事ばかりを捉えていて、そのもっと奥深いところに存在しているのではないのかと思われる、真実というものを追求しようとなどしない、あまりにも軽い印象を受けてしまうのですけれども・・・
無論、自省とか謙遜とかいった言葉とは無縁なのであり、独善や慢心の類がやたらと目立ちますね。
いったい、どこに目をつけているのか? 日蓮聖人の御書のどこを読んでいるのか? そのように首を傾げざるを得ないのです。もしかすると彼らは、御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか?と、思ってもみるのですが・・・

3管理者:2002/07/30(火) 19:37

64 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 02:16


ドプチェクさん:

> 御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか

まったく、そのとおりでしょう。
御書根本というかけ声は自分たち根本の謂でしかないのでしょう。

結局、信仰者が説明する超越者というのは、その人自身の心象なのではないでしょうか。ここのところ、よく引いている『超能力と霊能者』のなかで高橋紳吾師は

大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
(補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである)P215

と記しています。

シャキャムニの教説は徹底して修道的なものであって、飽くことのない自己否定の積み重ねの末、ニッパーナ(自分自身の一切の考えを吹き消し、消え去ったところを到達点)とするものであるように思えます。それは執着の終着点であり、いわば、自己存在から決別と死の受容が重なり合うところの境地を目指すものであったのだと思うのです。

けれど、いまここで取り沙汰されている仏教といわれるものは、変革の末、(革命といってもよいですが)自分が他よりもこんなに優れて立派なのだというところが終着点になっていますね。人一人の命は地球よりも重いとか、宇宙生命と自分は一体であるとか(梵我一如を仏教と勘違い)、信仰の対象と、その信仰グループ・リーダーがともかく、だれよりもどこよりも、優れて最高、どこにも勝っているとか、そんなことばかりを言い続けているわけです。これは要するに、いかに自分が立派であるか、こんなにすごいのだということを証明するために強迫観念に基づく思いこみと行動である映じます。「超越的な形態をとっていても、もう一人の自分」なのでしょう。

私はここで戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇論といった寛師以降の石山教学を、あるいは生命論と言った創価教学を徹底して批判をしてきました。それは、それを信じる人たちの顰蹙を買うものであり、私が恰も日蓮宗教学の煽動者であるような批判メールを送りつける人もいるのです。けれど、戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇と寛師教学、生命論といった戸田・池田教学はかつての私の補助自我であったことを率直に認め、それを批判すると言うことは、ある面、徹底した自己否定を展開していることを看取している方は少ないのです。永年、積み上げてきた信行学とは、まさに自分自身の投影であるけれど、それを徹底して批正していくなかで見えてくるものは、実はシャキャムニの本来の教説でした。

高橋師が言う「超越者…補助自我…自分を調べる義務は、その個人にある」という点は、たぶん、絶対信仰を反省考証した人は誰しも、同じような思索の道程を辿るのであろうと思います。ドブチェクさんの言説のなかにも、私はそれを感じるのです。

4管理者:2002/07/30(火) 19:38

65 名前: モモ 投稿日: 2002/07/18(木) 03:18

>私はここで戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇論といった寛師以降の石山教学を、あるいは生命論と言った創価教学を徹底して批判をしてきました。それは、それを信じる人たちの顰蹙を買うものであり、私が恰も日蓮宗教学の煽動者であるような批判メールを送りつける人もいるのです。けれど、戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇と寛師教学、生命論といった戸田・池田教学はかつての私の補助自我であったことを率直に認め、それを批判すると言うことは、ある面、徹底した自己否定を展開していることを看取している方は少ないのです。永年、積み上げてきた信行学とは、まさに自分自身の投影であるけれど、それを徹底して批正していくなかで見えてくるものは、実はシャキャムニの本来の教説でした。

非常に重く、かつ明確、簡潔に独歩さんの主張がまとめられていると思います。

私は平成6年の六万総登山ごろから毎月御登山するようにしております。都合で
出来ないときは次の月に2回とか。以来8年なのでもうすぐ100回ぐらいにな
ると思います。子どものときから数えれば100回を超えているかもしれません。
やはり御登山の実感とご利益はありがたいと思うのです。独歩さんも御登山した
回数は何百回もあると思います。きっとそれぐらいになれば独歩さんの境地にた
どり着けるかもしれません。しかし今はやはり大石寺を離れたいとは思いません。

他のページも見てみて、大石寺も宗教社会学の批判によく当てはまっているのに
気がつきました。

5管理者:2002/07/30(火) 19:39

66 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 11:31


モモさん:

> 大石寺を離れたいとは思いません

私は皆さんに石山から離れることを勧めているのではありません。
石山僧俗が聖人の祖意に戻るための努力をすることを勧めているだけです。
石山は目師が丹精された700年来の寺院です。その尊さを思われるのであれば、「世間の物笑いにある今の状況」からの脱却にこそ、精進すべきであると思うのです。

戒壇の本尊はたしかに他に類例を見ない荘厳さで、拝するものをして圧倒して止みません。板に刻まれた曼荼羅の最高傑作と言っても過言ではないでしょう。
御開扉が心を洗われることも、事実でしょう。その他法要の古式豊かな様もまた、心を洗ってくれる演出になっています。そこに感動を覚え、意義を感じ、信仰を見ることは否定のしようもないことであろうと思います。

ただ、そのような儀式、洗心だけで、満足するのではなくて、そこに感動を覚えたならば、その感動をもって社会に帰り、菩薩の道に歩んでください。

石山では供養といい、布施といいませんね。石山には布施がないのです。
布施のその原意を考えると、それは布(し)き施すということです。つまり、金品を仏菩薩・僧に供養することを意味するのではなく、菩薩が、自ら積んだ功徳を自分のためにではなく、他のために使い施すことを意味するものでした。

布施行の恢復こそ、石山の急用の課題であると存じます。それはしかし、石山一宗が、というより、たった独りの僧俗の実践から始まるのではありませんか。その実践をする人が石山の正当性を、身をもって社会に問う尊い独りなのであろうと思います。ここには僧俗の違いなどありません。その布施の実践をなす人が菩薩なのであろうと思うのです。

まことにこの人こそ、神力品に説かれる地涌菩薩の流類なのでしょう。

  日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
  斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
  無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
  是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて
  我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし
  是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん


この人は、たとえ石山に籍を置くものであろうと、社会心理学その他の分析する権威主義的パーソナリティを脱却していくはずですし、科学の厳しい考証にも耐える仏教感を確立していくことでしょう。

6管理者:2002/07/30(火) 19:39

67 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/20(土) 17:48

私もたい石時をやめるやめないは個人の自由だと思う

しかし私は板曼荼羅を聖人の本懐でないと思うようになったし、おにくげなどはおとぎばなしだし

たい石寺の教義のまちがいにこの掲示板で勉強して気づいた以上、お山に登山する意義はみいだせない

7管理者:2002/07/30(火) 19:40

68 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/21(日) 03:47

犀角独歩さん

少し遅くなってしまいましたが、レス、ありがとうございました。
私のような者には、正直、大変難しいお話でございますので、あまり深く理解していないのですけれども・・・(^^;)

まぁ、私自身について申しますなら、知識不足でありながらも、5年位前から自分なりに色々と考えるようになったのです。
私は、創価学会に所属している者なのですが、先ず最初に漠然と疑問を持つようになったのは、宗門と学会の決裂以降、それまで知らなかった(実は知らされていなかった)様々な真実というものに接するようになった事がきっかけとなりました。それまで信じて来た(信じ込まされて来た)多くの事が、実は単なる神話の類でしかなかったりとか。
そして、何よりも私の中で徐々に疑念を生じさせて行った事は、学会が現実に行っている、その甚だしく矛盾した言動の数々なのでした。ご承知のように、宗創対立以降の学会による宗門への批判・攻撃の類は、あまりにも常軌を逸していて、もはや異常としか言いようがなく、彼らのやっている事を見ていると、これが本当に仏教徒・信仰者としての姿なのであろうか?と・・・

そういった微かな疑念を抱き続けていた折、7年前のオウム真理教事件が発端で、世間一般においてマインドコントロールに関する事が頻繁に論じられるようになってから、それまで自身の心の奥底に長年沈殿していたものに、考えを巡らせるようになったのです。そして、その気持ちはますます高まって行き、何かが間違っていると思わざるを得なくなってしまったのでした。その事をかなり深刻に考えていたのが、5年前の春頃でしたね。あの頃の私は、学会の現状にすっかり愛想を尽かしていましたし(正直、馬鹿馬鹿しいという気持ちでした)、かと言って、宗門に関しての悪評をずいぶんと聞かされていましたし(学会の情報が全て正しいなどとは思っていませんが、ただ、一般のマスコミも同様の報道をしていた事がありましたので)、自分はこれから先、いったいどうすればいいのか?と・・・

その頃からでしたね。それまで日蓮仏法に関する書籍と言えば、学会系のものしか読むことなどなかった私が、一般の日蓮関係の書籍に接するようになったのは。
そして、その時期、私が書店でたまたま目にして、かなりの衝撃を受けたのは、多分、ご存知であろうかと思われますけれども、「凡夫本仏論」を主張した松戸行雄氏(元東洋哲学研究所欧州研究部長)の著書なのでした。それまで長年に渡り信じて来た正宗教義である、「日蓮久遠本仏論」を真っ向から否定する松戸氏の主張。あれには、正直、ずいぶんと驚かされましたね。私ごときの者には難し過ぎる内容でございますから、氏の考えがはたして的を射ているのかどうかにつきましては、よくわかりませんが、しかし、あの書に接した事によって、自分の中で、一種のコペルニクス的転換のようなものをもたらしたとでも申しましょうか・・・
最初は、すごくショックな事でありましたけれども、時間が経つにつれ、それまで私自身が頑なに信じていた(実際には、ただの盲信に過ぎませんでしたが)ものが、心の中で徐々に崩れて行きながら、それに代って新しい何かが生じ始めていたのでした。
それ以降、日蓮正宗の教義的な事であるとか、歴史、伝承というような様々な事柄を、自分なりに考えるようになって行ったわけなのです。また、最近は、他の日蓮系宗派・教団等に関しての事にも、関心を抱くようになっています。

お話をして行けば、まだまだ長くなりそうですし、取り敢えず、今日のところは、一応、このあたりにさせていただく事に致します。
大変拙い内容の独り言で、すいませんでした(^^;)。
ただでさえ書き込みが遅い私でありますのに持って来て、ここ最近、何やかんやで書き込みが出来ない事もございますので、その点につきましては、何卒ご了承下さいませ。
それでは、これにて失礼させていただきます。

8管理者:2002/07/30(火) 19:41

69 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/22(月) 17:47


ドプチェクさん:

精神史を拝見し、ご苦労なされたのだと思いました。
私も同じような身とを歩みましたので、大いに感じるいることがありました。

> 松戸行雄氏

凡夫本仏論はしかし、さして真新しいことでもなく、また日蓮系の教義でもありませんね。それでも石山はそれなりの打撃を与えたようでした。また、かつての池田本仏論を遅ればせながら説明するような違和感が私にはあり、読んだころは、本覚の歴史的な整理もついていない頃でしたから、「?」という感じのままで通り過ぎた本でした。

聖人は本迹論を、天台を踏襲して強く用いられていますが、これは仏法教義ではないようです。創価大学の教授の孫引きは情けないのですが、菅野博史師は

本と迹とは、『荘子』に説かれる聖人の具体的な行為を「迹」(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以」(履物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教側で「迹する所以」を「本」と改めたものである。(天台)智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである(『法華経入門』岩波新書 P91)

と指摘しています。つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

なお、凡夫本仏論については執行海秀師は『中古天台教學より日蓮聖人の教學、ヘの思想的展開(1)』のなかで

 一切衆生の本覚無作を顯はすを以て壽量品の所詮であるとし、實修實證の釋尊を離れて無始本覚の本佛を求め、更に本覚無始の衆生を本佛の實體を見るのである。こゝに於て塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。

 従ってその佛身論に於ても、無作三身を強調し、衆生の當體を以て本佛の實體とするのである。そこでかゝる思想を継承した『等海口伝』には、

 圓教三身トハ無作三身也。無作三身トハ始テ修顯シタル三身に非ズ我等身口意ノ三業本來無作トシテ、三身圓満ノ體ナルヲ無作三身ト云也。

といひ、また『文句略大綱私見聞』には

 無作ノ仏ト云ハ何物ゾ、只實迷ノ凡夫也、始テ發心シ初テ修行ヲ立ツ迷を翻テ得悟スル非ズ。只我等衆生無始輪廻ノ間本來常従本佛也。是覚ヲ前ノ實佛と云也。
 
と論じてゐる。かやうに衆生の無作本覚を説くのであるが、その思想の根底をなすものは、汎神論であって、自然界の一切の事物を以て本佛の顯れとも、或は本佛そのものとも見るのである、故に「迷悟分タズ、機法起ラズ、三千有ノ任ナル本地無作ノ實體」といひ、また「五百塵點の迹佛の寿命、森羅萬象の本佛の寿命」とも傳へてゐる。

 要するに中古天台の佛身論は、その無作顯本論よリ導き出された汎神論であって、信仰の圭體性を缺ぎ、無作といふもそれは現象的自然の意であって、そこには人格的価値が含まれてゐない。まえ教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。
 
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

と説明するとおり、日蓮門下の思想と言うより中古天台本覚思想の転訛と見做すべきであると私は考えています。

もっとも、松戸師の書籍をどこぞにしまい忘れて記すところですので、的はずれのところはあるかも知れません。

それにしてもドブチェクさんの精神史には感銘いたすものです。遅筆とのことですが、いつも投稿を楽しみにしております。

9管理者:2002/07/30(火) 19:42

70 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/25(木) 22:40

独歩さん

69について教えて下さい。

聖人は本迹論を、天台を踏襲して強く用いられていますが、これは仏法教義ではないようです。創価大学の教授の孫引きは情けないのですが、菅野博史師は
本と迹とは、『荘子』に説かれる聖人の具体的な行為を「迹」(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以」(履物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教側で「迹する所以」を「本」と改めたものである。(天台)智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである(『法華経入門』岩波新書 P91)
と指摘しています。つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

なるほど。
そうしますといままでの日蓮の教えでもある本迹論というのは間違いであると、そう理解してよいでしようか。



「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」
について、私にはちょっとむずかしいので、もう少し解説していただけないでしょうか。


「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。」
とあります。すみません。ここのところも用語が難しくて解説していただければありがたいです。

本当にすみません。




 
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

と説明するとおり、日蓮門下の思想と言うより中古天台本覚思想の転訛と見做すべきであると私は考えています。

もっとも、松戸師の書籍をどこぞにしまい忘れて記すところですので、的はずれのところはあるかも知れません。

それにしてもドブチェクさんの精神史には感銘いたすものです。遅筆とのことですが、いつも投稿を楽しみにしております。

名前: E-mail(省略可):

10管理者:2002/07/30(火) 19:42

71 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/26(金) 09:58


現時点さん:

> 本迹論というのは間違いである…

「本迹相対は釈尊の教えである」と言えば、間違いとなるのでしょう。
ただ、いわゆる教相判釈というのは、経典を如何様に見ていくかということですから、解釈法としては、一概に間違いであると断ずる必要はないと思います。
しかし、伝言ゲームではありませんが、教義解釈というものは人を経、時間を経、次々と変化してしまうわけです。ことに原典に当たらず、言葉と受けた説明だけでわかった気になる人の伝言がこれに拍車をかけるのでしょう。
この変化してしまったものの瑕疵は、精査に一括に論ずべきではないと思います。


> 「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」

簡潔に論じる能力は持ち合わせませんが、まずここでは「教相・観心」が、どのように使われているのか、次に述べようとしていることは何かを知れば足りると思います。

まず、教相・観心ですが、この二つの勝劣を見る思いが奈辺にひそんでいます。元来、この二つに勝劣などあろうはずはないのですが、中古天台本覚思想では、この二つに優劣をつけようとする思いがあると私には見えます。いわゆる観心主義ということになるでしょうか。いわば教観相対で教相を簡ぶということです。

この優劣相対に従って、ここで論じようとしているのは三千塵点、五百塵点の仏の顕本(教相)より、衆生本覚顕本(観心)のほうが優れているという次の質問に現れる凡本佛迹思想であるということではないでしょうか。凡本佛迹とは今風の言葉で言えば凡夫本仏論ということでしょう。

ここでややこしく感じるのが本迹と教観が錯綜されて使われているためでしょう。

無作事仏>教相・衆生(凡夫)無作本覚>観心と言いながら、今度は凡夫>本門・仏>迹門ともいう点です。


「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。」

これは上記の結論部分で総括した形で、まあ、このようなものが中古天台本覚思想であると執行師はいうわけです。

ただ、ここで理解の困難を来す理由は石山教学では下種本仏・脱益迹仏の相対をいい、脱仏を簡ぶわけですが、しかし、この執行師の説明では、その本仏を教観二門から、さらに二つに分け教相本仏を簡ぶからでしょう。

言葉を整理すれば、「観心主義の自我絶対論に立脚した本仏が絶対=凡夫本仏」であるということでしょう。つまり、仏ではなく衆生なのだと言いたいわけです。
もちろん、こんな考えを天台も、法華経制作者もいだいていたわけはありません。また純天台を標榜した聖人の考えであるはずはありません。

いったいこのような逸脱が、どうして起きてきたのかと言えば、要するに摩訶止観は法華経より優れている、止観が優れていると言うことは釈尊より天台が優れている、天台が優れていると言うことは仏より凡夫が優れているのだという連想ゲームが働いていったからではないでしょうか。そして、つまり、この連想ゲームの結論は遠い釈尊より、いま目の前で止観を説く凡夫のほうが優れていると言いたかったからでしょう。つまり中古天台本覚論を振り回す僧侶は、その“作られた”天台の真の継承者であり、師弟不二であるから天台と等しく尊い、仏より尊いというのが本覚思想が言いたかったことであり、理屈(教相)はそれにあとから作られていくなか、経論より観心(直感)が優れるという説明原理がなされていったのではないでしょうか。また、これは真言密教、即身成仏などと大いに関連すると思われます。

もっとも端的には、恵心流口伝法門において、天台勝釈尊劣、止観勝法華劣などと言われるまでにエスカレートしていくわけです。
このような思想は、殊の外、仙波談林で盛んであって、これを積極的に学び、自宗の教義に取り入れたのが石山教学であるというのが早坂鳳城師、あるいは由比一乗師の指摘でした。

抜書『日蓮本佛論の構造と問題点(1)』−恵心流口伝法門との関係を視点として−
早坂鳳城師
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html

的はずれな部分がありましたら、再度、問うてください。

11管理者:2002/07/30(火) 20:14

72 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/26(金) 11:15

【補】
【71の補足】

無作事仏>教相・衆生(凡夫)無作本覚>観心/凡夫>本門・仏>迹門

で > という記号を使いましたが、これは優>劣と言った具合に左側が優れているような意味でも使われる記号で誤解を真似聞くかもしれません。むしろ、

無作事仏→教相・衆生(凡夫)無作本覚→観心/凡夫→本門・仏→迹門

と矢印で示したほうがよかったと思いました。
ただ、マックで閲覧されている方は「→」は表示されないかもしれません。→は左から右を指す矢印です。語判読ください。

12管理者:2002/07/30(火) 20:14

73 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/27(土) 04:16

犀角独歩さん

ご丁重なレス、ありがとうございました。
毎度の事ながら、超亀レスの私でありまして、すいません。

まぁ、私なんて、そんなに苦労をして来たわけではなく、まだまだ修行が足りないと申しましょうか、あまりにも勉強不足・思慮不足の人間なのでございますから(^^;)、難しい事になるとサッパリなんですけれど、自分なりに少しずつでも何かを掴めて行けたらと思っています。

松戸説についての事は、最近、別の掲示板の方でご紹介された下記のURLを見たのですが、本覚思想と絡め、かなり批判的なご意見が出ていました(ご存知かもしれませんが)。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_07.htm

私には難し過ぎる内容ですので、よくわからないのですけれど、それに致しましても、仏教の本来の考え方・あり方とは、いったいどのようなものなのであろうか?と、考えさせられてしまいます。
私個人は無知でありながらも、仏教というのはキリスト教やイスラム教で説く神のような存在を立てるのではなくして(釈迦本仏・日蓮本仏を問わず、いわゆる久遠本仏思想のような)、飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきものではないのか?と、漠然と思っているのですが・・・
「諸法実相抄」において、

『釈迦・多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ』
『されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ』
『釈迦仏は我ら衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』

等といった記述がございますけれど、しかし、最近、「素朴な疑問」のスレッドでも色々とご意見が交されましたように、あの御書は真偽不明という事なのですから、いったい、どこまで信じたらよいのか?と、思ってみるのです。また、本覚思想の色合いの濃い他の御書にしろ、偽書の疑いがあると、よく言われているようですし(本覚思想について、私はあまり詳しく知らないのですが)、それに、同じ日蓮聖人の記された真書でも、与えた弟子・信徒や、その時々の状況により、結構矛盾していると言えるような内容のものがあるといったお話ですので。たとえ偽書であったとしても、それをあながち否定するべきではないという事ですが、しかし、何だかわからなくなって来ます。

いつもの事ながら、取り止めのないお話で、すいません。
小生、所用の為、書き込みが出来ない事もあるのですけれど、書き込みが遅い癖に、結構他のいくつかの掲示板に関ったりといった具合で、いつも遅れてしまってばかりなのでございます。
どうぞ、その点は、何卒大目に見てやって下さいませ(^.^;)。
それでは、これにて失礼させていただきます。

13管理者:2002/07/30(火) 20:15

74 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/27(土) 12:00

→「本迹相対は釈尊の教えである」と言えば、間違いとなるのでしょう。

そういうことですね。

教相判釈のひとつの分け方として、天台が、「迹する所以」を「本」と改めて、本迹判として用いたということですね。

→ただ、いわゆる教相判釈というのは、経典を如何様に見ていくかということですから、解釈法としては、一概に間違いであると断ずる必要はないと思います。
しかし、伝言ゲームではありませんが、教義解釈というものは人を経、時間を経、次々と変化してしまうわけです。ことに原典に当たらず、言葉と受けた説明だけでわかった気になる人の伝言がこれに拍車をかけるのでしょう。
この変化してしまったものの瑕疵は、精査に一括に論ずべきではないと思います。

そうですね。あくまでも原典をペースとして教義解釈があると。二次的情報(解釈書)よりも一次情報(経典)が大事だと。


なお、「「教相判釈」あるいは「教判」なる用語は、和製漢語であり、中国では、かつて「判教」「釈教相」などとさまざまに呼ばれた」とp140に書いてありました。

「教判は、インドにおいては、本来、歴史という縦の時間軸に沿って成立した異なる思想を、

釈尊という個人の一生涯の内部において、整理しようと試みたものであった」とありました。

示唆にとむ考えだと思いました。


75 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/27(土) 12:07

→つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

そのとおりだと思います。本迹判により、迹門の仏、インドにお生まれになられたシャキャムニを迹仏。

本門は、久遠の昔に成仏したという真実を明かした教え、その仏のことを本門の仏→本仏ということになりますね。

14管理者:2002/07/30(火) 20:15

76 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:25


ドプチェクさん:

松戸さんと本覚批判の「意見」と言うから、何かと思えば渋沢光紀師の秀逸な考察ではないですか。『宗教と科学について−ニューエイジ批判を通しての一考察−』は卓越した総括であると私は感嘆したものでした。

> 飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきものではないのか?と、漠然と思っている

なるほど。

最近、法華思想、もちろん、それを敷衍する日蓮思想にはある一つの過程的な結論に私は落ち着きつつあります。

法華経を一瞥していつも思うことは、記別ばかりがあって、衆生成仏は未来のことと置かれている…、私がもっとも着目する点です。では、法華経の骨子はと言えば救済の実践を誓願する菩薩道を進める教えであるということです。ここでは、その実践を教えることが「法」そのものであるという点です。

しかし、これは「言うは易く行うは難し」でとても誓願実践できることではない、故に仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり、しかし、それをあえて開き示し悟らせ入らしめ、ついに艱難辛苦を偲んで、飽くなき菩薩道を勧めるのが法華経ではないのかと思えます。

このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。

その意味において、一念三千(性格には不可思議境というべきでしょうが)は法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。

しかしながら、菩薩道を誓願実践する行者は、常に久遠釈尊と見え、それを超えません。故に菩薩本仏論は仏恩を忘却した不知恩の結論であると思うのです。

引用される『諸法実相抄』の一節、名文ながら、私には、こんなことは聖人が仰るわけはないと思うのは、そのような理由からです。

15管理者:2002/07/30(火) 20:16

77 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/28(日) 16:36

独歩さん

71 72について

→「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、
 衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」

→「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、
 観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を
 強調するのである。」

おおよそ理解できました。

→「恵心流口伝法門において、天台勝釈尊劣、止観勝法華劣などと言われるまでに
  エスカレートしていくわけです。

  このような思想は、殊の外、仙波談林で盛んであって、これを積極的に学び、
  自宗の教義に取り入れたのが石山教学であるというのが早坂鳳城師、あるいは
  由比一乗師の指摘でした。」

  仙波檀林に学んだ石山僧→ 日時師、日有師 ということでしょうか。

  執行師の「然るに聖人の觀心は本佛の困行果徳の價値體に認め、これを

  信受し渇仰せんとするのである。而して信ずれば信ずるほどその價値は

  無限に擴大せられ、本佛はより明瞭に顯現の相を垂れ、自己はその佛界縁起

  の果海中に浴して感激と、新らしき生命の力が與へられたのである」

  含蓄のある言葉ですね。

  執行師というのは、なかなかのものですね。よくよく理解できたとまで現時点

  で言えませんが、中古天台思想が石山教義に入り込んでいることは重要な点で

  すね。

16管理者:2002/07/30(火) 20:17

78 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/28(日) 21:15

独歩さん

76について

→仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり

 この意味はどういうことでしょうか。
 また、五何法とは辞典を見たのですが載っていなくてわかりませんので
 教えてください。

→このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神
 として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。

 この意味もよく理解できませんでしたので再説願えますでしょうか。


→その意味において、一念三千(正確には不可思議境というべきでしょうが)は
 法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。

 法ではなく、説明原理とは、どのような意味ととればよいでしょうか。


→しかしながら、菩薩道を誓願実践する行者は、常に久遠釈尊と見え、それを超え
 ません。故に菩薩本仏論は仏恩を忘却した不知恩の結論であると思うのです。

 これは、そのとおりだと私も思います。

17管理者:2002/07/30(火) 20:17

79 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 09:38


現時点さん:

> 仙波檀林に学んだ石山僧→ 日時師、日有師

詳しく調べたわけではありませんが、以下の歴代は武蔵仙波と関係しているようです。

時師(6)、阿師(7)、影師(8)、有師(9)、院師(13)

このあと、要山との通用ができ、要山出の歴代が続き、要山教学の影響も受けることになります。その時点でも仙波の影響がなくなったわけではないように見えます。もちろん、寛師教学は仙波口伝法門を批判して自山の優勢を論じるものであったのは周知の事実です。ただ、ここでいう批判とは「天台勝釈尊劣」というとき、それは違う「日蓮勝釈尊劣」である、「止観勝法華劣」というとき「題目勝法華劣」、「天台即自受用」ではなく「日蓮即自受用」という言い換えの意味での批判に過ぎません。

この対比については記述であると思いますが、私のサイトにアップしてある早坂師の整理は参考になります。

抜書『日蓮本佛論の構造と問題点(1)』
−恵心流口伝法門との関係を視点として−
早坂鳳城師
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html

18管理者:2002/07/30(火) 20:18

80 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 10:51


現時点さん:

→仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり

まず「五何法」ですが、これは妙法華の異本である正法華経における十如該当部分の訳に付せられた名前です。
正法華では該当部分は以下のように訳されています。

何等法・云何法・何似法・何相法・何体法

となっています。これは難読でどのように読むか学者によって意見が分かれるようです。岩本裕師の梵本直訳によると

それらの現象が何であるのか、それらの現象がどのようなものであるのか、それらの現象がいかなるものであるのか、それらの現象がいかなる特徴を持っているのか、それらの現象がいかなる本質を持つのか、ということである(『正しい教えの白蓮』P69)

となっています。つまり、正法華のほうがより正確に訳出しているように見えます。
これらの点については坂本幸男師の優れた考察があるのですが、いま見つかりません。追ってアップすることにします。もしかしたら既に以前、アップしてあるかもしれません。

>> このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神
 として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。
> この意味もよく理解できませんでしたので再説願えますでしょうか。

この意味は、たぶん渋沢師の解説をお読みになれば、おわかりになると思います。その文を受けたものです。

やや付言すれば、私は常に仏・法ということを考えてきました。ここで仏だけを取り出すのは素朴な信仰心で、路傍の石仏に手を合わせるのも、ここに含まれるでしょう。しかし、反面、法だけ取り出し、それを説いた仏を考えざれば、それは法偏重であり、仏恩を亡失した不知恩の徒との戒めを遁れられません。

ところで法華経で展開される久遠仏思想は、しかし、その仏は経典中の文言句々、そして、その文字が伝える精神にしか現れません。この点を記したのがご質問のところです。さらに付言すれば、この久遠仏は、しかし、単に文字に現れされる“創作”と見ることは科学的論証としては正しいのだと思います。しかし、法華経を拠り所として生きる行者にとって、この法華経の記述を通して、行者は久遠仏に仏恩を感じ、恭敬の念を抱くことによって歴史上の釈尊をも含めて仏・法の仏と見えているということです。
この行者にとって、釈尊は永遠の存在として実感されることによって行が完結していくということです。法だけであってはならないということです。

>> その意味において、一念三千(正確には不可思議境というべきでしょうが)は法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。
> 法ではなく、説明原理とは、どのような意味ととればよいでしょうか

これは法華経を読む私の実感です。私は聖人の祖意を見いだすために純天台の釈を採ります。しかし、法華経を読むのに、その天台の釈を“地図”とはしません。ただ自分の心で法華経に向かいます。

その結論から言って、法華経は一念三千を法理として説こうとするものではなく、飽くことのない菩薩道を教える経典であると考えるようになりました。しかも、実はこの考えは天台の法華経釈と矛盾しないとも考えるのです。聖人も同様であらせられると拝します。

まず一念三千ということについては何度か記してきたのですが、天台自身、「一念三千」という成句は使わないのであって、このような言葉による固定化を嫌ったのが天台でした。一念三千を成句、法理化したのはむしろ妙楽であると私には思えます。

一念三千と云われるところは止観禅定において己心の中に三千の諸相を明らかに観ていくための手がかりを示すものであって、いわば瞑想の手順を示すものであったのではないでしょうか。止観の中で仏を己心の中に観られることは、つまり、作仏は一切衆生に係る問題であることを意味するのであり、そこから菩薩道の価値が見出せることを意味します。二十四文字の法華経に説かれる「当得作仏」は自身の菩薩道によって成就されることになります。

ところが、天台の時代、判釈の基礎は華厳にあったようで、法を分析記述することが正統な仏教のような背景があったように思えます。そのために肝心の菩薩道より、むしろ、一念三千という止観の観念観法ばかりが取り沙汰されて今に至ってしまったのではないのかと私には思えるのです。すなわち一念三千(と云われるもの)は菩薩道のための説明原理なのであって、真の教法は菩薩道そのものであると私は思っているということです。

19管理者:2002/07/30(火) 20:19

81 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 10:56


―80からつづく―

ただし、では一念三千は法理ではないのかといえば、広義においては、もちろん法に違いないでしょう。それは天台が法華経に法界というとき、十法界をいう如きです。

ただ、私は一念三千に留まるのではなくて、そこから菩薩道に向かうために、一念三千を説明原理、菩薩道を実践論と位置づけるということです。


82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08


すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。

63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。

たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。


83 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 13:31


【79の補足】

石山歴代と仙波の関係を記しましたが、4代道師も、たしか仙波に学んでいたことを思い出しました。ちょっと、いまは資料を思い出せませんが。

20管理者:2002/07/30(火) 20:19

84 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 15:18

73 ドプチェク さんへ。:
横から失礼します。

ドプチェクさんは
> 飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきもの>ではないのか?と、漠然と思っている
との事で、「諸法実相抄」の文も、そのように思わしめる、とコメントされたようですね。

凡夫の能力では、真如を直接に、証悟出来るものでないです。そこで、我々が真如を証悟出来るようにと、釈尊が教法を説いてくれたのですから、教法を拠り所にしなければなりませんね。
ドプチェクさんの云われるように、あくまで(教)法が根本ですね。
しかし、教法が根本だからといって、釈尊の教導、加護は必要ないとか、無いだとか云うのであれば、それは極端論ですね。
仏・菩薩の導き、加護があって、はじめて仏道を歩めるものでしょう。昔から仏力・法力・信力の三が合わさって仏道を成就できるものであると云われています。

唱題は釈尊の功徳智慧(因行果徳の二法)を譲り受ける行ですね。唱える南無妙法蓮華経は、喩えると、母親の乳首と吸う行為と考えたら如何でしょうか。吸う行為と乳の出口である乳首が有っても母親自体が居なければ、いくら吸っても乳は出てきませんね。
法としての南無妙法蓮華経が根本だと云って、もし釈尊を必要無しとかといって、軽んじる者は、乳首と吸う行為だけを大事にして、母親自体などはいらないと思う者と同じですね。
唱題を通して釈尊が智慧と功徳が、こちらに心に流れ込んでくると云う事を忘れてはならないと思うのです。

さて「諸法実相抄」ですが
とくに中古天台的表現が見える前部分は偽書を付加したものであろうと学者たちが評しています。後半は宗祖以外には書けない文章だと評しています。
かりに全体が親書としても、前部分は傍系御書と考えるべきであるとされている御書です。

日蓮宗的立場から略釈して見ます。
「答へて云く、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」
これは、地獄界から仏界までの十界は妙法蓮華経のすがたで、天地法界そのものが妙法蓮華経だと云う意味ですね。
仏界まで妙法蓮華経とあるのだから、釈尊も仏界だから妙法蓮華経ですね。

地獄の因を積んで地獄の依正(身体と環境)を得るのも、ないし、成仏の因を積んで仏の依正(身体と環境)を得るのも妙法蓮華経と云う実相の動き(十如因果の動き)そのものです。そこのところを「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」と云うのですね。

妙法蓮華経の実相とは十界互具・互具平等(一念三千)と云うことです。だれでも十界互具の体です。その十界互具の仏界を表に現したのが(発揮したのが)釈尊です。
だから十界互具の実相、妙法蓮華経から現れたところの衆生救済の働き(用)を行うのが釈尊と云う事になります。
そのことを「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」と表現しているのです。
ですから、釈尊が根本教主でないと理解してはいけないのです。
(続く)

21管理者:2002/07/30(火) 20:20

85 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 15:19

続き。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり」
とは、先学が
「凡夫は迷っていて未だ三身の妙用は起こしていないけれど、理性の本体の三身は衆生に具わっていて滅せず、仏果に到っても増せず。すなわち衆生と仏は一体(生仏一体)であって、仏はこの本体の三身(十界互具の中の仏界)より、迹用を起こして仏となったのであると、凡夫が仏と成れる根拠を強く示す為に体門に約して凡夫を本仏、諸仏を用の迹仏と云われているのである。

本有の妙体(仏界)の隠れると顕れる事について云うと、衆生は隠れているまま、仏はすでに顕出したと云える。
ゆえに衆生は体の三身のみで、用の三身が欠け、仏は用(働き)を完全に現している倶体倶用の仏である。

仏の仏果としての力、救済力は、もともと理性としての本有の体の三身の徳が顕れたものであるので、体に約し理に約し性に約すれば凡夫は本なり体なり性なり、仏は迹なり用なり事なり修なりと云う事がいわれる。故に凡夫が仏に恩を蒙らしむ等とも書かれているのである」
と、的確に説明しています。
「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」
とは、さらに砕いていえば、救われるべき教えを受くべき衆生がいるから仏が救済主・教主と成ることが出来るので、凡夫が居て初めて仏は三徳者の資格があるのだから、「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」と書かれていると受け取っても良いでしょう。
「諸法実相抄」の後半には、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我従久遠来教化是等衆」とは是れなり」(1360頁6行)

「釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。」(1361頁3行)

「信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。」(1361頁11行)

等と有りますし、「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います。

22管理者:2002/07/30(火) 20:20

86 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 15:44


川蝉さんが紹介する『諸法実相抄』一部偽書混入説、なかなか説得力がありますね。
まあ、名文の御書です。捨てがたいですね、確かに。

けれど、私がこの御書がもっともおかしいと思うのは「倶体倶用の三身」という考えです。これは初期天台資料はもちろんのこと、聖人の真跡にも見られないからです。

もう一点、この御書の題名にもなっている「実相」とうい点、これは聖人からも離れ、漢訳仏典の問題点として指摘されているところですが、坂本幸男師は以下のように解説しています。

実相 ―― 梵文には直接、実相の原語に相当するものは見出し得ない。羅什は中論に、tattvasya-laksa-na(真実の特相)、dhrmata(法性)、法華経序品にdyarma-svadhava(法の本質)を実相と訳する外、直接の原典がなくとも、前後の内容から実相の訳語を加えて訳することが屡々ある(「実相」訳語考。白土わか「大谷学報」第37巻第3号参照)。羅什においては、実相は如・法性・実際・空・中道・法身・般若波羅蜜・涅槃と同義語に用いられることがあるが、ここでは、すべての存在のありのままの姿、換言すれば演技を指しているもののようである(『法華経』岩波文庫(上)P336)

と方便品の諸法実相に注意を促しています。

その意味を含めると、該当の『諸法実相抄』の該当文が、むしろ聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります。

もちろんのこと、諸法実相抄の「倶体倶用の三身」を、真跡であるとして解説されるところは、参考から除外せざるを得ない気持ちになります。


87 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 15:49


【86の訂正】

誤)羅什においては、実相は…演技を指している
正)羅什においては、実相は…縁起を指している


88 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 15:58


しつこいですが、86の補足です

「倶体倶用の三身」…初期天台資料…にも見られない

と記したのは倶体倶用の用法がないというのではなく、「凡夫=体三身=本仏、釈迦=用三身=迹仏」という用法はないという意味です。

23管理者:2002/07/30(火) 20:21

89 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 18:45

86 : 犀角独歩 さんへ。

>けれど、私がこの御書がもっともおかしいと思うのは「倶体倶用
>の三身」という考えです。これは初期天台資料はもちろんのこ
>と、聖人の真跡にも見られないからです。

「諸法実相抄」の前半が偽書と指摘される根拠の一つですね。

しかし、『法華経』岩波文庫(上)P336)の注記を提示し
>と方便品の諸法実相に注意を促しています。
>その意味を含めると、該当の『諸法実相抄』の該当文が、むしろ
>聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります。

と云われていまが、どうして「聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります」と云う事になるのか、ちょと意味がつかめません。
問題のある訳語であっても、妙法華経に「諸法実相」とあるのですから、かりに宗祖が「諸法実相」と云う言葉を使ったとしても、仕方のないことではないですか。

>もちろんのこと、諸法実相抄の「倶体倶用の三身」を、真跡であ
>るとして解説されるところは、参考から除外せざるを得ない気持
>ちになります。

それはご自由です。「諸法実相抄」の偽書の疑い濃厚な部分は、強いて資料として使う必要が無いからです。
私は「真跡であるとして解説」したのではなく、日蓮宗的に解釈したわけです。
と云うのは、「諸法実相抄」を親書とし、該当の文を凡夫本仏論や法を偏重する傾向の人に対して、重要御書の義に背かないように解釈して見せるのも、役に立つと思ったからです。

妙楽大師の「金ぺい論」の「衆生は但理、諸仏は事を得」。
玄義釈籖の「三千理に在れば同じく無明と名づけ、三千果成ずれば咸く常楽と称す」(釈籖第七上・全集四巻348頁)。
玄義釈籖の「三千改まること無ければ無明即ち明。三身並びに常なれば倶に体、倶に用なり」(釈籖第七上・全集四巻349頁)。
等の意趣をもって、解釈しているわけです。

>「凡夫=体三身=本仏、釈迦=用三身=迹仏」という用法はない
>という意味です。

もちろんそんな用法はありませんね。

24管理者:2002/07/30(火) 20:22

90 名前: 一字三礼 投稿日: 2002/07/30(火) 10:09

横レス、失礼します。

川蝉さん
>85
>「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います。

たしかに「諸法実相抄」はそのようによめますが。

では、同じく真筆の無い「本尊問答抄」ではどうでしょうか。

「末代悪世の凡夫は何物を以って本尊と定むべきや。答えて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。」
「私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。」
「此等の経文、仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神なり。」

この御書では、釈尊本尊を否定するばかりではなく、「法華勝釈尊劣」を明言しております。
この御書についての、川蝉さんの仰る“重要御書の義に背かないような、日蓮宗的な解釈をぜひお願いします。
この質問は決して揚げ足取りと目的としたようなものではありません。
私がこの「本尊問答抄」と他の重要御書との整合性を掴みかねている為、御教示いただければ、と考えた次第です。

25管理者:2002/07/30(火) 20:22

91 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 11:53


川蝉さん:

> 「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います

ということは、日蓮宗的に読んだ“先哲”の解釈に基づき、「重要御書の義に背かないように解釈して見せるのも、役に立つ」ということですが、それによって実際の意味するところと違う解釈になってしまうのではないでしょうか。

もちろん、仰るように日蓮宗的に読めば、そうなるのはわからなくもありませんが、それなら、いっそ凡夫本仏論で解釈したほうが原意に添っているのではないでしょうか。

同抄の

凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり

は、「凡夫は体の三身で本仏、仏は用の三身で迹仏」と記されているのですから、字句どおりということでしょう。それを「いや、これはそうじゃなくて、こういう風に考えれば日蓮宗の教義に合う」などとする解釈は、意味はなさない以上に、私には無意味に思えます。

結局のところ、諸法実相抄は本仏=体=凡夫=妙法蓮華経、迹仏=用=釈迦・他宝という真跡に見られない教義を展開していることを素直に認めれば、事足りることです。

また、後半部を挙げて、「釈尊久遠の弟子」という言葉があるから仏用迹仏を言うものではないというのは前半偽書挿入・後半真筆という先の指摘がぜんぜん生かされていないのではないでしょうか。

だいたい、川蝉さんが言う先哲というのは何宗のどなたのことを指しているのですか。
試みに原文を読んでみたいので発言者とその記述が載っている書をご紹介いただけませんか。

26管理者:2002/07/30(火) 20:23

92 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/30(火) 15:16

91 :犀角独歩さんへ。

私が先に、「諸法実相抄」についての、先学の説明と紹介したのは、ピタカ刊「日蓮聖人遺文全集講義」の第十二巻8頁以降です。清水龍山・中谷良英の両師が担当しています。
あと、平凡社刊・小林一郎著「日蓮上人遺文大講座」の第九巻の369頁に「諸法実相抄」の講義があります。
新版は日新出版より出されています。

あと私は見ていないので、確かなことは云えませんが、日本仏書刊行会刊の「日蓮聖人御遺文講義全十九巻」の中でも、恐らく講義されていると思います。
身延大・立正大系統の宗学を学んだ人は、私の解説と、ほぼ似たように解説すると思います。

犀角独歩さんは、お知り合いの日蓮宗の僧侶の方が居られるようなので、その方にも聞いて見られたらいかがですか。

>それを「いや、これはそうじゃなくて、こういう風に考えれば日
>蓮宗の教義に合う」などとする解釈は、意味はなさない以上に、
>私には無意味に思えます。

これは考え方の違いですね。
偽書の疑いがあっても、重要御書に基づいて読むことは大事だと思います。大石寺流に読む人が居る以上、その解釈が重要御書の義と違うという事を指摘する意味でも、無意味とは思えません。

>また、後半部を挙げて、「釈尊久遠の弟子」という言葉があるか
>ら仏用迹仏を言うものではないというのは前半偽書挿入・後半真
>筆という先の指摘がぜんぜん生かされていないのではないでしょ
>うか。

云わんとされていることがちょっと分かりません。

27管理者:2002/07/30(火) 20:24

93 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/30(火) 15:50

90 : 一字三礼 さんへ。

「諸仏の師とする所は、いわゆる法なり」と涅槃経(巻第四・四相品第七の上)にあります。
天台大師は
「十如、(十二)因縁・・等なり、是れ諸仏の師とする所」(玄義第二)
と、諸仏が師とする法とは、境妙としての真如実相のことであると云っています。

諸仏は実相の理に基づいて修行して智妙(仏智)を得て仏になったと云うことです。
実相がなければ仏は生じないのと云う事ですね。この関係を「法は能生、仏は所生」と云うのでしょう。

菩薩が先仏の教えによって仏に成った場合は、直接に境妙としての真如実相に基づいて妙智を得たのとは、すこし違いがありますが、この関係も「法は能生、仏は所生」と云えます。

また「至理玄微にして、智に非らずんば顕わるることなし」(玄義巻第三)とありまして、仏は実相を悟り、教法を説くのですから「仏は能覚、法は所覚」とも「仏は能説、法は所説」という関係もあります。

このように、法と仏の勝劣(能所)は視点の置き方で変わるので、確定的には勝劣(能所)は断定できないものです。

仏の妙智は実相を内容とします。「境妙なるを以ての故に、智もまた随って妙なり」(玄義巻第二)と云う所です。
ゆえに仏の妙智(証悟)と実相(法)とは同じなので「法仏不二」と云うのです。
また、妙法蓮華経と云う証悟・教法は、仏の実質的な内容なので、「法仏不二」と云えます。

「三身即一」の仏の妙智(仏智)も境智冥合の証悟です。妙法蓮華の境妙を証悟した妙法蓮華と云う妙智です。
その妙智を説くのが教法としての妙法蓮華経です。
ゆえに、「三身即一」の仏の妙智(仏)と教法(法)とは「法仏不二」という関係と云うことになります。

「法の裏は仏、仏の裏は法」と考えて、法を面としていても内実は仏であり、仏を面にしている場合でも内実は法であるとします。

「法華経の題目を以て本尊とすべし。」
の題目は、単なる理法でも無く、久遠本仏の覚法・本門の肝心・神力別付の要法であって、「法の裏は仏」と云う面が裏に有ると見るわけです。

本尊抄で「その本尊の為体・・」と大曼荼羅の様式を述べる文段の結びに
「此等の仏をば正像に造り画けども、未だ寿量の仏ましまさず。末法に来入して、始めて此の仏像出現せしむ可きか。」
とあり、同抄の終わり部分にも
「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊を此の国に立つべし。」
とあり、仏本尊の形を示しています。

大曼荼羅本尊も、その内容・実質は本門の釈尊であるから、このように示しているのでしょう。
(続く)

28管理者:2002/07/30(火) 20:24

94 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/30(火) 15:50

一字三礼 さんへ。
(続きです)

「本尊問答抄」はやはり大曼荼羅本尊を本尊としていますね。本尊抄に準じて、大曼荼羅本尊も、その内容・実質は本門の釈尊であると云うお考えのもとに論述されていると理解すべきですね。

「本尊問答抄」は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。

宗祖にとっては、法華経の題目は法華経の肝心であり、久遠釈尊の証悟でありまから、法華経の題目=釈尊でありましょう。

ですから、「本尊問答抄」は、
>この御書では、釈尊本尊を否定するばかりではなく、「法華勝釈
>尊劣」を明言しております。

と云って「法本尊正当説」であると単純には断定できないのです。こんなところで如何でしょうか。

29管理者:2002/07/30(火) 20:25

95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10

犀角独歩さん 川蝉さん

貴重な、と申しましょうか、正直、私にとりましては大変難しい内容なのですけれども、ご意見・ご教示、ありがとうございました。

何だか私のような者には、ずいぶんと難しいお話になって来ましたねぇ・・・
「法偏重」ですか・・・ そうなってしまったなら、それは慢心を生み出す、単なる自己満足に過ぎないものであって、もはや仏教でないという事になるのでしょうか・・・
確かに、日蓮聖人は御書のあちらこちらで、教主釈尊・釈迦仏といった表現を用いられて、尊崇される事を述べられていますよね。「釈尊御領観」というのがありますし。
もしかすると、「法偏重」というのは、日蓮聖人が批判されました禅宗のそれに共通した面がございますのでしょうか?
う〜ん・・・ 私自身の仏教に対する捉え方そのものが間違っていると申しましょうか、肝心な事がわかっていない、考え直さなければいけないのではないのか?と、思っています。
すいません。こんな何もわかっていない無知な人間による幼稚な戯言でありまして。
皆様方のご意見を拝見させていただきながら、色々と勉強させてもらいたく思います。

それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。

30管理者:2002/07/30(火) 20:26

96 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 18:45


川蝉さん:

ご紹介有り難うございました。

> これは考え方の違いですね。

考えの違いは全くその通りです。
ここは当初より「聖人の祖意を考える」ことを大きなテーマとしてやってきたわけです。ですから、七百年来、糊塗された化粧の面を読みたいという意図ではありません。ただし、日蓮宗では、どう読んでいるのか、一瞥するのは無意味ではないのは事実でしょう。

けれど、なにより諸法実相抄が偽書か否かということを明らかに見るほうが先決です。
ですから、真偽未決のものを恰も真筆のように語られる解釈には抵抗があるということです。

それは川蝉さんの考えとは全く違います。ご指摘のとおりです。

> 云わんとされていることがちょっと分かりません

ご理解いただく必要は全くありませんが、仮に諸法実相抄が前半が偽書、後半が真書であるということになれば、、それは要するに別の書、別の人によって書かれたものであるということを意味します。ですから、「前半で凡夫体本仏(偽)と書いてあるけれど、後半では凡夫を釈尊久遠弟子(真)と書いてあるから、諸法実相抄が凡夫本仏論の書とは言い難い」などという説明は成り立たないと記したのです。

つまり偽書部分では凡夫本仏で、後半真書部分では久遠釈尊という、全く別の書が一つのものと“誤解”されていることまず指摘されるべきであるという思いがあります。

ですから、一書全体を、聖人の真筆として解釈する上述の日蓮宗解釈では、この点が不明であるから初学を惑わす危険があると思いました。そして、偽書部分を日蓮宗的に解釈すると、途端に凡夫本仏という骨子が消え去ることになるのかという疑問もあるわけです。
まず解釈してしまう前に真偽を考えることが先決ではないのか、それが「聖人の祖意」を知る一歩であるという考えです。しかし、これは私の思いであって、もちろん川蝉さんとは、まったく関係のないことです。

けれど、石山義を「日蓮代聖人已来の伝統法義」と騙されてきた私たちにとっては、真跡に現れる思想で、偽書を真偽考証を告げないで解釈されてしまう危険度が意識しておきたいわけです。

また、日蓮宗の近代の解釈が直ちに日蓮の祖意をよく表すものであると短絡しないように努めたいと、私は思っています。知りたいのは、日蓮宗の時代時代で為されてきた先哲と言われる人の解釈ではなく、聖人の祖意、真実の御立法門であるということです。

31管理者:2002/07/30(火) 20:26

97 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 18:53


ドブチェクさん:

私は当初、示された松戸さんが、なぜ凡夫本仏論を今更言い出したのかという点に絞って論が進めば、宗創の作為は闡明になると思って応じました。しかし、たしかに全然違う、方向に進んでしまいました。

なんだか難しい議論は、わかりづらくなるということなのでざっくばらんに記せば、松戸さんの凡夫本仏論でいう凡夫とは池田さんのことを代表して言っているのではないのかという危惧を感じるわけです。

そして、もう一つ、法が大切だという言い方は宗門やら、戒壇の本尊ではない、日蓮でもない法なのだと言いたいのではないのかと危惧しているわけです。

つまり、「池田さんと法があればよい」、松戸さんがこねくり回して論じるけれど、これがぶっちゃけたところ、本音ではないのかという危惧です。

要するに「冗談じゃない」ということです。この危惧を渋沢師も同様に懐かれているとも拝察しています。

以上の私の危惧をドブチェクさんは、どう思われますか。

32犀角独歩:2002/07/30(火) 21:37

○日蓮宗教学、日蓮宗的ということについて


少し自省も含めて整理します。

私は「日蓮宗の」という表現を使用しましたが、これは実に不適切でした。
そもそも日蓮宗とは明治9年(1876)に始めて公称されたものであり、それ以前に、この名前はありませんでした。
また、現在で言えば、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺など、興門派のなかでも日蓮宗を呼称する寺院はあるわけです。

大石寺の場合、その教学とは寛師の整理大成をもって大石寺教学ということができます。では、今で言う日蓮宗に全体を統一する日蓮宗教学というものがあるかと言えば、そうは言い難いわけです、上述の寺院を見てもわかるとおり、日蓮本仏論の要所であった寺院すら日蓮宗というわけですから。

たしかに明治の始めの輝師、戦前の田中智学師は大きな存在ではありますが、では、この2人の教学をして日蓮宗教学と言うかと言えば、そうとも言えません。私は日蓮宗教学などと評するべき、確定した教学は存在しないと思っています。また、これは日蓮宗各派の方々にとっても、なんら批判ではなく、実情をそのまま示したものであると理解されるところであろうかと思います。

その延長から言えば、「日蓮宗的」という表現も、曖昧模糊とした感を否めないと思うのです。

以上のことから、日蓮宗教学、あるいは日蓮宗的という表現を私は使わないことにします。

いちおう、このスレッドにいちばん関係していると思えますので、こちらに投稿させていただきました。

33一字三礼:2002/07/30(火) 22:20

川蝉さん

諸説を引いての丁寧な御教示、ありがとうございます。

>諸仏が師とする法とは、境妙としての真如実相のことであると云っています。
>仏は実相を悟り、教法を説くのですから「仏は能覚、法は所覚」とも「仏は能説、法は所説」という関係もあります。

ということは仏の説いた教法とは、そのまま境妙としての真如実相のことであると考えてよろしいのでしょうか。

下世話な表現を借りれば、“鶏が先か、卵が先か”のようですね。「法仏不二」あまり聞きなれない用語でした。

しかし、法華経寿量品の教主釈尊とは、その以前、我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか。私は、言わば本初仏的な特質を寿命無量と著わされているのだと考えます。
先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか。

ゆえに、御文の通り、
「其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。」というのは解かり易いのです。拘ってはいないのですが、すごく富士派っぽいですね。

また、本尊抄の「その本尊の為体・・八年の間但八品に限る。」までは大曼荼羅の相貌解説。
「正像二千年の間は・・此の仏像出現せしむべきか」は仏像史的視点を借りての寿量仏像の末法出現の必然。
前半、大曼荼羅の説明と、後半の寿量の仏像とは、直接繋げて考えるべきではないのでは。

>「本尊問答抄」は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。

非常に理解し易く、納得できます。

色々書いてしまいましたが、本尊となると必要以上に複雑で、頭がストライキを起こしそうになります。
私は所詮「仏法とは生き方」と理解しておりますので、仏道修行上で“仏を観る”と言う事は即ち“道を知る”と言う事と同じである、と考えております。
「法仏不二」、そうなのかもしれませんね。

34顕正居士:2002/07/31(水) 10:19
本尊問答抄

この抄の「法華経の題目を本尊とすべし」は容易に会通できない断定であると
考えます。名のある著者が矛盾した主張を行うことはないはずで、そう見える
場合は、1-全体が別人の著書、2-その部分が誰かの改竄、3-本人の思想の変化
と推理される。本人の思想の変化もあるから、原版や写本が幾年のものか明確
にしなければならない。文献批判(テキスト・クリティーク)といい、西欧の
聖書研究において発明され、以後、人文科学の基礎の方法になった。漢訳仏教
の会通(えつう)は根本思想を異にする経や論さえ整合させようとし、結果は
甲というも是、甲にあらずというも是、自分の主張内容の滅却に到っている。

1-本尊問答抄には真蹟はないが、日興写本等があり、真蹟に順じられる。諸本
の文の異同はわからない。
2-法本尊説、すなわち久遠実成の釈尊を本尊としないひと達の論拠になった。
たとえば、「富士一跡門徒存知の事」
『日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊
と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと』

35顕正居士:2002/07/31(水) 11:44
早坂鳳城師の河口慧海批判

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_170.htm

慧海の「日蓮宗の本尊論批判」に対する批判である。早坂師が引用する慧海の
文章は小生には妥当にみえる。
1-この宗の本尊について一定して確定する事は不可能である
2-宗祖は内心には釈尊を本尊とせられたように見える
3-題目を唱ふることは、久遠塵點劫古昔の釈迦牟尼佛を念ずることとなるので
あって、妙法蓮華経と言う題目が即ち根本的釈尊の名であると言うのである
しかし
4-南無妙法蓮華経とは、その法本尊に礼拝帰命することとしているが、この
主張は経典そのものと、妙法そのものとを混同している
5-経典の題目を以って、本佛とも本尊ともすることの出来ないことは、あたか
も薬の効能書の見出しを以って、薬と同一視出来ない事と同じことである
6-久遠の佛を特に尊いものとして、本尊とすることの無意義なことは判然と
したであろう

早坂師の批判はほぼ的を得ていない。たとえば、
「日本という言葉の中に、日本六十余洲もしくは、四十八都道府県の全てが
含まれるが如くである」
日本という言葉の中に包摂されるのは、六十余洲の名前であって内容でない。
妙法蓮華経の場合はさらにあてはまらない。法華経に仏教のあらゆる法の名が
出ているわけでない。

甲も是、甲にあらざるも是、故に甲あるいは非甲なりというは非の論理間違い
であるが。慧海に対して「久末一双不知の論。法華経経意不知の論。久遠弁別
不知の論」をいう無学にはあきれた。

36川蝉:2002/07/31(水) 12:00
33 一字三礼 さんへ。

>ということは仏の説いた教法とは、そのまま境妙としての真如実
>相のことであると考えてよろしいのでしょうか。

境智冥合したのが仏智ですね。境妙をそのまま覚知したと云う関係ですね。この点では、境妙=智妙(仏智)といっても良いのでしょうね。
教法というと、仏智を衆生に教えるための法となりますから、教乗化された境妙、あるいは教乗化された智妙(仏智)と云えるのでしょうね。

>下世話な表現を借りれば、“鶏が先か、卵が先か”のようです
>ね。

ほんとにそんな感じですね。

>しかし、法華経寿量品の教主釈尊とは、その以前、我本行菩薩道
>の時に先仏は想定されないのではないでしょうか。・・
>先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実
>相・法となるのではないでしょうか。

その通りですね。
わたしが「菩薩が先仏の教えによって仏に成った場合は、直接に境妙としての真如実相に基づいて妙智を得たのとは、すこし違いがあり」と書いたのは、仏に教化を受ける菩薩と違い、久遠本仏は諸法実相・法に基づいて準じて、言葉を換えれば師として成道した考えるべきだと云う意味です。

>「其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総
>じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て
>本尊とするなり。」というのは解かり易いのです。拘ってはいな
>いのですが、すごく富士派っぽいですね。

法本尊論者の強い文証となっていますね。
上の文の直ぐ後に
「仏は身なり、法華経は神なり。しかれば則ち木像画像の開眼供養はただ法華経にかぎるべし」
とあるので、釈尊の神(証悟)は法華経なりと云う事ですから、法仏不二の意があり、法華経で開眼すべしとあるので、法本尊一辺倒でない意がありますね。

>前半、大曼荼羅の説明と、後半の寿量の仏像とは、直接繋げて考
>えるべきではないのでは。

観心本尊抄を見ると、久遠釈尊の一念三千の世界、言い換えれば正報・依報すなわち身土を表したのが大曼荼羅ですね。
ですから実質は久遠釈尊と云えますね。
久遠釈尊を仏像として表す場合は一尊四士とするわけですから、
「直接繋げて考え」て良いと思うのです。

>色々書いてしまいましたが、本尊となると必要以上に複雑で、頭
>がストライキを起こしそうになります。

私もそうです。

>私は所詮「仏法とは生き方」と理解しておりますので、仏道修行
>上で“仏を観る”と言う事は即ち“道を知る”と言う事と同じで
>ある、と考えております。
>「法仏不二」、そうなのかもしれませんね。

「仏法とは生き方と理解しております」
私たちが、真実の生き方を出来るように、教えるために釈尊は教法を説かれたのですから、一字三礼 さんの云われる通りですね。
仏道を歩めば歩むほど、ますます仏祖三宝の有り難さの実感が深まって行くものだと思っています。

37犀角独歩:2002/07/31(水) 17:55

ここのところ、「法仏不二」なることが、あたかも聖人の教えの如き、展開になっていますが、本当なのでしょうか。

真跡で見る限り「法仏不二」なる成句の使用は見られません。本尊観として、聖人がこれを意識していたのでしょうか。

試みに初期天台資料、並びに妙法華を検索したところ、涅槃經疏.如來性品に以下のような記述が1カ所だけ見られます。

更釋不依之意。於佛性中有法僧二寶者。非但已成之佛。佛性之中具有法僧。只當成佛亦具二性即佛法。“法佛不二”即是僧寶。身既具三何須依於別體三寶。
(訓読はしません。必要がある方は国訳を当たってください)

しかしこれは三宝についての述べています。

このような用法である法仏不二が、どうして「仏の妙智(証悟)と実相(法)とは同じなので『法仏不二』と云う」となってしまうのか、理解に苦しみます。また、これが恰も日蓮の本尊観の如き論じられていくことに違和感を感じます。

また、実相については、漢訳の問題点を挙げる坂本幸男師の諸説は既に示しましたが、仮に聖人が、この語を使用したから是とするにしても諸法実相とは「諸法“の”実相」と訓じられるのであって、諸法=実相というのは厳格には違うと思えます。

法仏不二と日蓮聖人の本尊観を結んでしまうのは短絡であると思います。

38犀角独歩:2002/07/31(水) 20:41

―37につづく―


ケチをつけるばかりみたいで申し訳ないのですが、

> 仏の妙智(仏)と教法(法)とは「法仏不二」

の法仏不二ではなく、前段部もなんだかよくわかりません。
仏の妙智、つまり知恵が仏というのもなんだかわかりませんが、それとは別にまた教法が法で法仏不二というのは、意味がわかりません。

> 題目は、単なる“理法”でも無く、久遠本仏の“覚法”・本門の肝心・神力別付の“要法”

ということは、つまり理法に対するのが覚法・要法だということでしょうか。
そもそも、この理法というのは、何を根拠にした成句なのでしょうか。もちろん、聖人の真跡には見られません。

また、理法は教法に対するように使われているように見え(あくまで見えるということです)仮にそうであるとすると、法には理と教があるということなのでしょうか。これはまた何を根拠にするものでしょうか。法に対するのが仏というのは判りますが、その法に理と教を立てる根拠を知りません。

理に対するのであれば「事」でしょうし、教法とはそもそも、教と法のことではないのでしょうか。

> 妙法蓮華経の実相

この妙法蓮華経の実相というのはいったい何なのでしょうか。

> 仏の妙智(証悟)と実相(法)とは同じなので「法仏不二」と云う

実相が法なのだそうですが、どうもこの説明も意味がわかりません。

そもそも諸法実相ということに関する基本的な部分が説明されていない様に思えるわけです。

諸法実相は羅什訳妙法華の

諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

であることは今更断ることもないでしょう。
これは「諸法実相(とは)いわゆる諸法の十如」と言う文なので、ここでいう諸法とは十法界を意味するわけでしょう。つまり「諸法の十如」とは換言すれば「十界の十如」、ですから、百法界を意味しているとするのが取りあえずの説明ならば、まだ判ります。しかし、「仏の妙智(証悟)と実相(法)とは同じなので「法仏不二」」というわけです。

しかし、それは単なる数取りではなくて玄義には

豈非圓教菩薩從初發心。得諸法實相。具一切佛法。
唯佛與佛乃能究盡諸法實相者。即是妙覺位也。
唯佛與佛乃能究盡諸法實相。即是法身。

というのでしょう。この玄義の文と違わないのでしょうか。円教の菩薩は諸法実相を得て、一切の仏法を具す。これは妙覚の位である、法身であるともいうところです。およそ法仏不二?を釈しているとは思えません。

取り留めなく、書いていますが、どうも、説明の根拠がよくわからないわけです。

39犀角独歩:2002/08/01(木) 00:11

顕正居士さん:

お示しいただくところは非常に暗喩的で、凡人には理解できません。
お考えとして、『本尊問答抄』は真書なのでしょうか、それとも偽書なのでしょうか。

40犀角独歩:2002/08/01(木) 05:46

―38からつづく―

聖人の本尊観とは、やや論点がずれますが、釈尊の久遠成道について、釈尊は無仏の時に諸法実相・法?を元にして成道したのだというの、ここのところの展開になっています。
私はこのような展開は法華経の教説と著しく相違するものだと感じます。

そもそも久遠成道を証すのは寿量品なのであって、方便品諸法実相によって成道したというのは教説に相違しています。

殊に諸法実相による成道?が無仏の時というのは方便品の記述に添いません。

方便品には

仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり…本無数の仏に従って具足して諸道を行じたまえり

とあり、ここに明瞭に「仏と仏」と仏は複数形で示されています。そして、世雄偈に入って「無数の仏に従って」という言うのです。

仮に諸法実相によって、釈尊が成道したとしても、この段階で無数の仏に従ったことが明記されています。

第一、諸法実相は成道の本因ではないはずです。本因は、あくまで寿量品に入って初めて説かれる「我本業菩薩道」以外にあり得ません。方便品と整合性を考えれば、この菩薩道は無数の仏に従った菩薩道でなければならないはずです。成道の本因をこのように法華経全体の記述とも矛盾していません。

法華経、あるいは天台学、日蓮教説の“解釈”に釈尊はもっとも最初に成道した最初仏のように扱おうとする傾向はあります。しかし、これは大日経第三の「我一切本初」ということの対抗意識から、何が何でも釈尊を最初仏に据えたい恣意的解釈としか見えません。

もちろん、大日如来が本初であるということを指示するわけではありませんが、最初仏・根本仏に仕立てるのに「諸法実相」を持ち出すことは、甚だ不可ではないでしょうか。

41犀角独歩:2002/08/01(木) 05:50

【40の訂正】

誤)成道の本因をこのように法華経全体の記述とも矛盾していません。
正)成道の本因をこのように無数の仏に従った菩薩道とすることは法華経全体の記述とも矛盾していません。

42顕正居士:2002/08/01(木) 08:17
独歩さん。

日興、日源写本があるのだから真書でしょう。しかしこれらの写本がなければ
確実に偽書説が出るような内容でもあります。
仏本尊の立場からいえば、法華経の題目が本尊になるはずがない。法華経の題
は法華経でなく、法華経また妙法を説いた経であって妙法それ自体ではない。
さらに一切を出生する一法の思想は法華経にないし、天台にもない。それは
別教の思想である。法華経、天台の妙法は空性自体であって、真如縁起の真如
ではない。
したがって法華経の題目が本尊になるとすれば、当体蓮華、心性蓮華の説に
拠っている場合である。心蓮台に住する本覚仏は単体無用の理即仏でなくて
倶体倶用の仏であり、名は妙法蓮華であり、久遠の古仏自体であるから。

本尊問答抄は日蓮自身の思想の変化であると考えるほかないとおもう。
その場合、「当体義抄」、「総勘文抄」等は偽書であっても、宗祖晩年の思想
の延長上に作られた可能性が出て来ます。

43犀角独歩:2002/08/01(木) 11:17

顕正居士さん:

早々のご教示有り難うございます。
真書であり、聖人の思想変遷ですか。
考えさせられる解答でした。

私は生来、興師の門でしたから、本弟子六人の中でも、やはり興師への思いが一際強いのです。しかし、興師写本、或いは代筆とされるものの中で、どうにも聖人の考えであると思えないと考えてきたものの一つに、本尊問答抄の題目本尊があり、もう一つに日蓮上行論があります。

重須後期にこれらの考えになったろうとは想像していましたが、聖人ご自身の考えとは、他の真跡に照らして、どうしても思えないできたのです。

故に、口に出すことは控えてきましたが、これらを記した書は、もしや興師が聖人の名に仮託したものであるのだろうかと疑ってきました。

しかし、顕正居士さんの解答を拝見し、ひとまず興師への疑いは引っ込め、聖人の思想変遷の可能性も考えてみる気になりました。


有り難うございました。

44川蝉:2002/08/01(木) 13:39
37 ・38 : 犀角独歩 さんへ。

「法華玄義巻第二上」に
「境妙なるを以ての故に、智も亦随って妙なり。・・函蓋相称い、境智不可思議なり。故に智妙と称す。」
とあります。

「法華文句巻第八下・釈見宝塔品」に
「境智既に会すれば、則ち大報円満す」
とあります。
文の意を、達意的に云えば、境妙と合致し成仏した、境妙を証悟したのが智妙と言い得ましょう。
そこで私は
「こうした境智の関係を、境智一如とか不二とか表現するわけです。境智冥合したのが仏智ですね。境妙をそのまま覚知したと云う関係ですね。この点では、境妙=智妙(仏智)といっても良いのでしょうね。」
と表現したのです。
この表現がおかしいと思われるなら、これまた考え方の違いですから仕方有りませんね。

「木絵二像開眼之事」に
「仏の御意あらわれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」(469頁・真蹟曾存)
とあります。

「四條金吾殿御返事」に
「其中法華経は釈迦如来の書顕して、此御音を文字と成給ふ。仏の御心はこの文字に備れり。たとへば種子と苗と、草と稲とはかはれども心はたがはず、釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一也。然ば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。」(1122頁・興師写本)
とあります。

「祈祷抄」
「而りといへども御悟をば法華経と説きをかせ給へば、此の経の文字即ち釈迦如来の御魂なり。一一の文字は仏の御魂なれば」
(1346頁・真蹟曾存)

「観心本尊抄」に
「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於いては」
とあります。(釈尊の真の仏智が妙法五字と云うことを意味している文ですね。)
以上の諸文からも、法華経・南無妙法蓮華経の五字は釈尊の心(妙智)を顕すと云えますね。

ここから、妙法五字と仏智は同じと云う事になり、さらに、仏の裏は法、法の裏は仏と云う言葉や法仏不二とか云う言葉が出てくるのです。
この概念があって、始めて法本尊論的表現の文と人本尊論的表現の文との会通が出来るのですから、本尊論上、大事な概念だと思います。これを短絡だと思われるのであれば、これまた考え方の違いで仕方有りませんね。

>仏の妙智、つまり知恵が仏というのもなんだかわかりませんが、
>それとは別にまた教法が法で法仏不二というのは、意味がわかり
>ません。

「但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にはあらず」(木絵二像開眼之事・468頁)
ともありますね。仏の仏たるゆえんは妙智(もちろん大慈悲を有する仏智)と云えましょう。ですから妙智(仏智)=仏と言い得ましょう。これも、そう思われないと云うので有れば、考えの違いで仕方有りませんね。(続く)

45川蝉:2002/08/01(木) 13:40
(続きです)
>教法が法で法仏不二というのは、意味がわかりません。

上記の説明を良く読んで下さい。
> 題目は、単なる“理法”でも無く、久遠本仏の“覚法”・本門の肝心・神力別付の“要法”

>つまり理法に対するのが覚法・要法だということでしょうか。
>そもそも、この理法というのは、何を根拠にした成句なのでしょ
>うか。もちろん、聖人の真跡には見られません。

「理法に対するのが覚法・要法だという」ことでは有りません。
理法(真如・実相)を証悟したのが覚法(妙智・仏智)で、衆生をして仏の証悟を覚らしめんとして、説かれたのが教法、また、五字の要法と云う関係です。

理法とは理・法性・真如・実相等を指して使って使用しました。
聖人の真跡には見られなくても使って悪いことはないと思いますが。

>、法には理と教があるということなのでしょうか。これはまた何
>を根拠にするものでしょうか。
>法に対するのが仏というのは判りますが、その法に理と教を立て
>る根拠を知りません。
>理に対するのであれば「事」でしょうし、教法とはそもそも、教
>と法のことではないのでしょうか。

犀角独歩さんは「教法は教えと法のこと」と理解しているようですが、わたしは、教法とは「教え」「経説・経法(経典)」と云う概念で使用しています。この使い方いけないですか。

「法華玄義・巻第七下」
にある「理教本迹」を御存知でなかったですか。所謂、六重本迹の説明がありますね。
そこに「理教に本迹を明かさば」とあります。「理教」と云う言葉はあるのです。
玄義の文はすこし難しいので、「法華文句・巻第三下」の説明を挙げておきます。
「理教とは、前の理事を総じて皆名づけて理となす。・・諸仏は之を体して、聖と成ることを得たまえり。聖とは正実なり。己が法を以て、下衆生に被らしめんと欲して、理に因りて教を設く。・・教に非ざれば以て理を顕すこと無く、理を顕すは教に由る」
と理と教の関係を述べています。

是が念頭にあって書いたものです。ですからこれが根拠ですね。

>この妙法蓮華経の実相というのはいったい何なのでしょうか。

私は仏に成っていないので、説明は出来ません。
いわば、仏が覚った実相は妙法蓮華経と表せるものと考えて、私が「妙法蓮華経の実相」と書いたと理解して下さい。

「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵。文に云はく、是の法は示すべからず、世間の相常住なり。三世の如来の証得したまう所なり」
(法華玄義・譚玄本序)
や、
「仏の所見を取りて実相の正体となす。」(玄義巻第一上)
等の文が念頭に有ったわけです。(続く)

46川蝉:2002/08/01(木) 13:41
(続きです)
>実相が法なのだそうですが、どうもこの説明も意味がわかりませ
>ん。

「先に正因縁の法を観ず」(玄義巻第一下)
とありますね。正因縁とは実相の別名と云えましょう。それを法と表現しています。
故に、私は、説明の便宜上、法と配当したものです。

> そもそも諸法実相ということに関する基本的な部分が説明されて>いない様に思えるわけです。

仕方ないでしょう。実相論を述べたコメントではなく、法本尊、人本尊が主なる話題でしたから。
この後、犀角独歩さんが玄義の文を提示して質問しておりますが、上記の私のコメントを読めば、お答えする必要がない質問であることがわかりましょう。

一字三礼さんへのコメントは、
要するに、妙法蓮華経は釈尊の証悟・御意であるのだから、単なる法ではなく、その裏は釈尊である。故に「本尊問答抄」を根拠に単なる法本尊であると決めつけるのは、偏りすぎた本尊観であると云う事を説明したものなのです。

47犀角独歩:2002/08/01(木) 14:39

川蝉さん:

解説有り難うございます。
考えの違いは大いにあるようです。致し方ない、仰るとおりでしょう。

「法」という言葉の使いように大きな差があることはわかりました。

なお、理教本迹を私が知らないと決めつけていますが、そうではありません。
私が申し上げたのは、この理を法、理法ということに違和感があると申し上げているのです。理法という語が聖人の使用がない、ないが使用していることは記されていますね。その川蝉さんの使用に出会したわけですから、違和感を懐いたということです。

川蝉さんには関係のないことですが、この「理法」という語は、実は創価学会のなかで多く散見できます。「生命の理法」とは池田さんのかつての口癖でした。まあ、そんなことからも、生理的不快感が伴うために、要らぬ違和感を提示することになったのかもしれません。

なお、一字三礼さんに宛てた結論は、そのとおりであろうと思います。
法仏不二の使用は、しかし、馴染めません。

48求道:2002/08/01(木) 14:46
川蝉さん 御意です。日蓮聖人が自ら、人本尊と法本尊の会通をされているのに、
これを無視する末代門下は一体何なのかと考えさせられます。また、諸法実相が
一切の法(存在・自己・世間・宇宙)の真実の在りよう(実相)であるのは基本
中の基本でありましょう。釈尊によって法華経に説かれたその哲学を天台大師や
日蓮聖人が論じているのに、これを哲学的に読むことなく神秘的に読もうとする
がために、訳の分からなぬ崇拝信仰が出てきます。これらの人は、崇拝信仰は方
便であって、真実を明かしたものではないとの理解に至りにくいものです。理法
を説けば教法・経典であるのも当然のこと。皆さんには、日蓮教学を狭学のとこ
ろからではなく、仏教の大観から深いところに入って頂きたいものですね。

49犀角独歩:2002/08/01(木) 15:19

求道さん:

> 一切の法(存在・自己・世間・宇宙)の真実の在りよう(実相)であるのは基本中の基本でありましょう。

存在・自己・世間・宇宙が一切の法であるとも、実相が真実のありようであるとも、それが基本中の基本であるとは全然知りませんでした。
そんなこと、どこに書いてあるんですか。

> 釈尊によって法華経に説かれたその哲学を天台大師や日蓮聖人が論じている

天台や、聖人は哲学を説いていたのですか。

> 神秘的に読もうとするがために、訳の分からなぬ崇拝信仰が出てきます

まあ言いたいことはわかりますが、たとえば英語圏では妙法は mystic law です。これを直訳すれば「神秘的な法則」となります。日蓮の教えから神秘性は除外視できないのではないでしょうか。

もっとも、過度の神秘性は、やはりいけませんでしょうから、この部分については、まあ賛成しないわけではありません。

> 仏教の大観

個人の過大な思い込みでないことが必要でしょうね。

こんな同意を川蝉さんにしても、困るんじゃないですか。
それとも川蝉さんの関係の方ですか?

50川蝉:2002/08/01(木) 15:22
40 : 犀角独歩 さんへ。

>聖人の本尊観とは、やや論点がずれますが、釈尊の久遠成道につ
>いて、釈尊は無仏の時に諸法実相・法?を元にして成道したのだ
>というの、ここのところの展開になっています。
>私はこのような展開は法華経の教説と著しく相違するものだと感
>じます。
>そもそも久遠成道を証すのは寿量品なのであって、方便品諸法実
>相によって成道したというのは教説に相違しています。

久遠成道にしろ始成成仏にしろ実相を証悟しない仏なんてありませんね。
先仏の教を受けて覚ろうが、先仏の教えを受けないで覚ろうが、実相を証悟しない仏はあり得ませんね。

>殊に諸法実相による成道?が無仏の時というのは方便品の記述に
>添いません。

だれが、方便品に於いて、先仏の教えを受けないで実相を覚って仏になったと述べているなどと言いましたか。

方便品だけではなく、天台大師も「法華文句巻第一上」に
「久遠に菩薩の道を行ぜし時、先仏の法華経を宣揚したまいし」
とありますから、久成釈尊も先仏の教えを受けて菩薩道を行じ成道したと説明しています。
そして他仏とその分身の有ることを述べています。

宗祖の久遠本仏観と大きな違いのあるところです。
宗祖は無始久遠仏とし、三世十方の諸仏を無始の釈尊の分身であるとし、諸仏を久成釈尊一仏に統一しています。

「法華経の方便品に云く「我始坐道場」等を、一言に大虚妄なりとやぶるもん(文)なり。此過去常顕るゝ時諸仏皆釈尊の分身なり。」(開目抄)

「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月万水に浮ぶとは是なり」(法華取要抄)
と有りますね。
ですから、久成釈尊と別存在の先仏を仮定していないのでは。

道理上、久成釈尊は実相を師として証悟した(実相を自ら覚った)と言うことになりますね。「我本業菩薩道」については、難しい議論がなされていますが、それは差し置いて、単純に、実相を覚る過程を「我本業菩薩道」と言っているのだと、一応解釈しておきましょう。

>第一、諸法実相は成道の本因ではないはずです。本因は、あくま
>で寿量品に入って初めて説かれる「我本業菩薩道」以外にあり得
>ません。方便品と整合性を考えれば、この菩薩道は無数の仏に従
>った菩薩道でなければならないはずです。成道の本因をこのよう
>に法華経全体の記述とも矛盾していません。

と言うと、犀角独歩さんは、天台大師と同じく久成釈尊も他仏たる先仏の教えをうけて実相を証悟したと言う考えのようですね。

諸仏を久成釈尊一仏に統一していると見る宗祖の久成釈尊観を
「これは大日経第三の「我一切本初」ということの対抗意識から、何が何でも釈尊を最初仏に据えたい恣意的解釈としか見えません」と見るのですか。

>最初仏・根本仏に仕立てるのに「諸法実相」を持ち出すことは、
>甚だ不可ではないでしょうか。

反対に、別仏たる先仏をたてないで、実相証得を持ち出すことの方が、最初仏・根本仏に仕立てるのに、極めて必要な事と言えましょう。

51犀角独歩:2002/08/01(木) 16:14

川蝉さん:


> だれが、方便品に於いて、先仏の教えを受けないで実相を覚って仏になったと述べているなどと言いましたか。

などと息巻いていますが、
一字三礼さんの
>> 先仏は想定されないのではないでしょうか。
という問いに
> その通りですね。
と答えていませんでしたか。

> 実相を証悟しない仏なんてありませんね

私が、実相を証悟しない仏なんて記しましたか。「乃能究尽。諸法実相。」とあることを示しています。

私は方便品の「唯仏与仏」「本従無数仏」の文について言っているのです。ここでいう仏は無数の仏がいることが書かれている点を言ったのは、本従無数仏に続く文が「具足行諸道」と続くからです。しかもこの時点で天台、聖人の教えには立ち入ってもいません。

なお、実相については、川蝉さんが記す法・実相は多岐に亘る。けれども、方便品・諸法実相でいわれる諸“法”“実相”については

諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

これは「諸法実相(とは)いわゆる諸法の十如」と言う文なので、ここでいう諸法とは十法界を意味するわけでしょう。つまり「諸法の十如」とは換言すれば「十界の十如」、ですから、百法界を意味している

として、方便品で言えば諸法とは十法界、実相とは十如ということになるのではないのかと記したわけです。

これらの指摘とはまったく違うことを答えています。
考えの違いと言うより、こちらが書いたことに反論することばかりに気が行ってしまっているのではないですか。残念ですね。

52顕正居士:2002/08/01(木) 19:17
教法、理法、実相、人法不二

1-教法、理法は漢訳仏教の言葉であり、たとえば
「法宝の中に於て其れ四種有り、一には教法、二には理法、三には行法、
四には果法」(心地観経)
"DHARMA"には存在、現象、教説、法律の意味があり、「諸法」は「もろもろの
存在、現象」であり、「教法」は音声や文字(という存在、現象)をいう。
*「声・名・句・文を名づけて教法と為し、有(漏)無(漏)の諸法を名づけて
理法と為す」(同経)
2-実相
"TA"(ター)は「であること」をいい、「性」と訳す。DHARMATA=存在、現象
の本質=法性=諸法実相。「諸法の実相」で、「諸法が(そのまま)実相」
の意味ではない。もろもろの現象の本質、不変の実体は存在せず、縁起生で
あり、"TA"(実相)はないというのが大乗仏教の基本であるから。ただし、
「諸法が(そのまま)実相」(一色一香中道に非ざること無し)は一法から
諸法が生じるのでなくて、或る存在、現象をそのまま宇宙の中心にとっても
かまわない、縁起が成り立つ意味で、個々の存在者にいくらか全体のコピー
があるような近代の思想はおいて、湛然の華厳教学摂取の成果とおもえる。
3-人法不二
人(プドガラ)・法(ダルマ)ともにその本質はないと大乗仏教はいうから
人は無だが法は有る(我空法有)の場合に発生する、教はあるが証する人が
いない問題はないことを人法不二というようである。法仏不二とか人法一箇
は蔵経に(ほぼ)ない別の思想におもえる。

53一字三礼:2002/08/01(木) 19:53

犀角独歩さん
川蝉さん

今までのところ、大変に興味深い論議を拝見させていただいております。

始まりは私の発てた、川蝉さんに対する質問からの発展のようですね。

もし、このままお二人が続けられるのでしたら、論点を絞るなりしていただければ、私としても読みやすいのですが。

しかし、ここでいき過ぎた論争になる事は、私にとっても不本意です。仏法に関しては、博識なお二人です。私ごときでは僭越かもしれませんが、どうかもう少し穏やかにお願いしたいと思います。

54犀角独歩:2002/08/01(木) 20:30

顕正居士さん:

いつもながら、適切なご説明有り難うございます。

理法という成句が心地観経にあったことは正直知りませんでした。
また、これが法宝を四つに分けるものであれば、記述は四分類で為すべきであろうとも思いました。

実相については、先に引いた坂本師の指摘、また岩本師が梵本直訳に該当部を「現象」と訳していた意味が理解できました。

人法がこのように立つことも、非常に簡潔な整理で理解できました。

有り難うございました。

55犀角独歩:2002/08/01(木) 21:10

一字三礼さん:

ご指摘は拝受しました。
まあ、議論を絞るとすれば、法華経に出る「無数仏をどう考えるか」ということでしょう。これはつまり、一字三礼さんが

> 我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか
> 先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか

という問いとたしかに関連します。

しかし、私はこの一字三礼さんの考えには反対であると申し上げたわけです。
その理由は先にも挙げた無数仏という点にあります。
先にも挙げましたが、補足してもう一度挙げれば

・仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ
・本無数の仏に従って 具足して諸道を行じたまえり

というからです。しかし、一字三礼さんは、先仏はいないとし、菩薩道修行の師を諸法実相・法であるといいます。

諸法実相については先に記したとおりで、これを百法界とするのが台釈であると私は思います。(実相を法と見ることにはやや躊躇がありますが)しかし、これは仏と仏(複数)が究尽したところというのですから、一字三礼さんの考えは二重の意味で違っている見えます。一つは先仏がいないのではなく、百千万億無数の諸仏が説かれていること、二つには諸法実相は菩薩が知るところではなく仏が究尽することということです。

たぶん、一字三礼さんが先仏がいないと想定されるのは、川蝉も挙げる取要抄の文の如く蓮祖が考えていたという前提を重んじられるからでしょう。

ついでに記せば、川蝉さんが「天台大師と同じく久成釈尊も他仏たる先仏の教えをうけて実相を証悟したと言う考え」と評しましたが、これは違います。正確に言えば、法華経方便品の文のように、ということです。

法華経は根本です。ですから、その根本に「仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法」「本従無数仏 具足行諸道」と記されている以上、そこで台釈など持ち出す必要はないはずです。もし先仏はなく諸法実相を師としたというのであれば、そのことを示す「法華経の経文」を引けば、すべてが事足りるからです。その経典を出さず、釈を引き、御書を引くことは、私には本末転倒と映じるのです。(これには川蝉さんは異論はあるでしょう)

いずれにしても、一字三礼さんが立てられた「先仏なし、菩薩道の師は諸法実相が師」を証明する経典を挙げることで、この議論は畢るわけです。これが私の考えです。

一字三礼さんは、該当する経文を思いつかれますか。私は思いつきません。ですから、天台が、日蓮が、ということではなく、法華経には釈尊成道以前に先仏なし、諸法実相・師という思想はないのであろうと思うわけです。

しかし、その次の段階で、天台の展開は、日蓮の展開は、となれば、これはまた違う問題であるという点が曖昧であったために、一字三礼さんにご心配をかけるような議論になってしまったのでしょう。

以上、記したことにつき、一字三礼さんが根拠とされた経文があれば、ぜひともご開示ください。

56犀角独歩:2002/08/01(木) 23:05

【55の訂正】

・敬称を落としました。訂正し、慎んでお詫び申し上げます。

誤)川蝉も挙げる取要抄の文
正)川蝉さんも挙げる取要抄の文

57一字三礼:2002/08/02(金) 14:30

犀角独歩さん:

≫我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか
≫ 先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか。

私のこの意見は「本尊問答抄」を仮に真筆と考えて、そこから読み取れる日蓮聖人の法華経観を推測した上での発言です。日蓮聖人は本門教主釈尊の師を法華経と捉えていらっしゃったのではないか、との推測からの発言でした。
法華経自身からのものではありません。

>いずれにしても、一字三礼さんが立てられた「先仏なし、菩薩道の師は諸法実相が師」を証明する経典を挙げることで、この議論は畢るわけです。これが私の考えです。

朝に夕に読誦しておりますが、寿量品には「我本行菩薩道」の師についての言及はありません。
「先仏なし、菩薩道の師は諸法実相が師」の結論は早計であり、少し乱暴だったかもしれません。
しかし、師無くして教主釈尊が成道されたと言うのであれば、それは独覚としての悟りあり、如來とはならないと思うのです。

>法華経に出る「無数仏をどう考えるか」ということ

先に「諸法実相」の文を「我本行菩薩道」と絡めて記してしまったのは私ですが、この方便品の
>・仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ
>・本無数の仏に従って 具足して諸道を行じたまえり
は寿量品の「我本行菩薩道」時に無数の諸仏の元で修行したと言うことには繋がらないのではないでしょうか。

元々、五百塵点劫と三千塵点劫とは整合性がとれていませんし、また、儀式的な寿量品の四請四誡も前段までの内容の継続では必要の無いものとなるのでは。

寿量品に直接の言及が無い以上、本門教主釈尊の初成道の師については、エポケーするしかないのではないしょうか。

58犀角独歩:2002/08/02(金) 15:17
> 私のこの意見は「本尊問答抄」を仮に真筆と考えて、そこから読み取れる日蓮聖人の法華経観を推測した上での発言です。日蓮聖人は本門教主釈尊の師を法華経と捉えていらっしゃったのではないか、との推測からの発言でした

なるほど、この“仮定”に基づく、やりとりであるということであれば、川蝉さんの応答も含めて納得はいきます。

> 法華経自身からのものではありません。

仮定に基づく試論であれば、それはわかります。

ただ、やや弁明させていただければ、経・釈・御書の順位は不動であって、殊に経を省いた推論は仏教では無意味です。一字三礼さんに示すまでもありませんが、

普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)等の等覚(とうがく)の菩薩、法門を説き給ふとも経を手ににぎらざらんをば用(もち)ゆべからず。「了義経に依って不了義経に依らざれ」と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明(きゅうめい)して信受すべきこそ候ひ
ぬれ。竜樹菩薩の住毘婆沙(びばしゃ)論に云はく「修多羅(しゅたら)に依らざるは黒論なり、修多羅に依るは白論なり」等云云。天台大師云はく「修多羅と合ふ者は録して之を用(もち)ひ、文無く義無きは信受すべからず」等云云。伝教大師云はく「仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ」等云云。

は仏教を考える上での鉄則です。しかし、中古天台本覚思想などを典型として、法華を止観に劣る下げるなど、釈があたかも経に勝るような風潮をもって仏教は乱れるのでしょう。ここでは経は略され、釈ばかりが一人歩きします。経を略することになずんだ解説は、私は似非仏教と映じます。故に経証を省いた議論には、私は極端な危機意識を感じるのです。

無礼を承知で記せば、近時の論の展開はそのように映じました。
しかし、これは仮定に基づくものであるとのこと、杞憂であったのでしょう。
ご無礼の段、お二人委に陳謝いたしておきます。

> 師無くして教主釈尊が成道されたと言うのであれば、それは独覚としての悟りあり、如來とはならないと思うのです。

これは少し違いませんか。むしろ、法を師として悟ることを独覚というのでしょう。

> 寿量品の「我本行菩薩道」時に無数の諸仏の元で修行したと言うことには繋がらないのではないでしょうか。

私はそのような脈絡で考えています。
また、神力品の直前に説かれる常不軽菩薩は釈尊の前世であるとされ、その時は威音王仏の世とされるわけです。この記述を果たして無視して善いのかと私は考えています。
雑駁な掌握ですが、方便品で無数諸仏の元で道を行じて得たところは諸法実相であり、大通智勝仏の王子とし法華を覆講し、寿量品でその本因を菩薩道であるといい、そして威音仏の世、常不軽の但行礼拝行を一つの脈絡と考えるべきではないのかと私に思えます。

また、久遠一仏に統一することに目を奪われると見えなくなりますが、法華経に無数仏、無数菩薩が大きなファクターとして置かれているのではないでしょうか。六万[シ+亘]河沙の地涌菩薩はよく知るところ、しかるに唱えながら忘れる方便品の無数仏、法師品に

若親近法師 速得菩薩道 随順是師学 得見恒沙仏

という如くです。

> 元々、五百塵点劫と三千塵点劫とは整合性がとれていませんし、また、儀式的な寿量品の四請四誡も前段までの内容の継続では必要の無いものとなるのでは。

上述するとおり、私は整合性が取れていると思います。
三請三誡は、方便品で五千退座もあったことなので、むしろ自然であると思いますが、どうでしょうか。

法華経は無数の仏と無数の菩薩が織りなす壮大な設定であり、その中で釈尊自身の久遠成道を明らかにしていくのではないでしょうか。

聖人はその中で滅後末法の弘教を誓願する故に無数仏の中で久遠教主釈尊一仏を本尊と立てると言われる。しかし、これは先仏がないことを言うものとは私には読めません。単に釈尊が説いたとされる教典中に現れる仏を釈尊一仏に統一するばかりであって、先仏、無数仏を否定しているとは思えません。

> 寿量品に直接の言及が無い以上、本門教主釈尊の初成道の師については、エポケーするしかないのではないしょうか。

この点も先に書いてしまいましたが、私は法華経一巻で見ますから、ぜんぜん判断を中止しないで上述のように考えています。

59川蝉:2002/08/02(金) 15:35
犀角独歩さん、一字三礼さんへ。

寿量品に
「諸の善男子、是の中間に於いて、我然燈仏等と説き、又復、其涅槃に入ると言いき。是の如きは皆方便を以って分別せしなり。」

とあります。
然燈仏の時の行因、然燈仏の時の得記・入涅槃等は方便・仮説したものと言う経文ですね。
これは寿量品以前に説いている釈尊の修行や得果は、方便であったと言う意味があります。
だから方便品に説いてある、無数の諸仏の道法を行じて今度仏になったと言う経説も方便説の仲間に入れられていると云えましょう。
すなわち諸仏の教えを受けて修行したという始成仏の因行をそのまま久遠無始仏に当てはめることはできないのでしょう。

私は宗祖のご理解の通り、寿量品が「三身とも無始の仏であり、諸仏の根本仏である」と説いているものと見る立場です。
無始・根本の仏であるならば、先仏は居ない事になりましょう。
故に寿量品に「久成仏の先仏は居ない、先仏の教えを受けて修行したのではない」と言う明文がなくとも、無始・根本の仏であると義があれば、先仏の教えを受けて修行したのではないと言う文証になると考えるのです。

妙楽大師は「文句記・序品」
に「答う。無教の時、則ち内薫自悟せり」
と言っています。最初の一仏は先仏や先仏の教えが無い場合は内薫自悟すると言う意味だそうです。

興門の要法寺日辰師も「開迹顕本法華二論義得意抄」に
「本果の釈尊昔本因の理即の時、内薫悟教す、その教えとは妙法蓮華経の五字なり」(宗全第三巻347頁)
「本有の法性を或いは妙法蓮華経と言うなり・・本有の法性は本因妙の釈迦の本師なり」(272頁)
と言っています。

両者は宗祖の久成仏観と全同では無いようですが、先仏の教えを受けなくとも、自ら実相を証悟するという考えが有ると云う例として挙げておきます。

60犀角独歩:2002/08/02(金) 16:36

川蝉さん:

> 寿量品以前に説いている釈尊の修行や得果は、方便であったと言う意味があります

これは典型的な日蓮教学の解釈であることは充分承知しております。
しかし、私は、ここの部分がすんなりとおりません。

寿量以前が方便であれば、諸法実相も方便となってしまいませんか。また、常不軽菩薩品はどうなるのでしょうか。

故に該当部分は、寿量以前ではなく法華以前、権実判を論じていると、考えないと法華経は寿量品以外はすべてが方便になってしまうと感じます。

「三身・無始古仏」は、もちろん、本尊抄の

我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏

を言われているのでしょう。けれど、釈尊が無始古仏であるから、無数仏(先仏)なしとはならないのではないでしょうか。

無始であるが故に前はない、だから、先仏なしというのは時系列ではそうでしょうが、しかし、実際、無始は、そんな元初という過去を論じるものなのでしょうか。

蓮華とは、釋籤の如く因果倶時を言うのであり、久遠成道の瞬間、蓮華の法として因果倶時を証し、そこでは過現未という因果異時の時系列の時間的な束縛は消え去ることを無始と称しているのではないのかと私は思います。

無始とは遠い過去を指すのではなく、成道により過現未を超克し、因果倶時たることを標するのであり、その仏はまさに三身相即でもあるというのが聖人の考えではないのかと私は考えます。

なお、内薫自悟というのは、仏が仏によって悟り、その仏がまた仏によって悟ると順々に過去に遡っていくと窮まりは無い、けれど、仮に窮まりが有るとしたら最初は一仏、無教となる、では、このとき、仏は何によって悟るのかという問いに基づく答えですね。しかし、これは無始古仏と特に脈絡があるとは思えませんが、如何でしょうか。

もちろん、以上のことは、川蝉さんの信奉されることを否定するものではありません。

61犀角独歩:2002/08/02(金) 18:08

―59からつづく―

釈尊の本尊観とう当スレッドに立ち戻りますが、川蝉さんがお示しくださるところは、聖人は釈尊を根本仏であると見なすから本尊とすると換言できるのでしょうか。

私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準によるからではないのかと考えています。

娑婆世界で説法教化する釈尊、滅後その娑婆で弘教を託された上行を、そのことが説かれる法華経は、南閻浮提中、この日本有縁の経、仏菩薩として取り定めてのことではないでしょうか。

先の寿量以前の仏と教えは方便であるということで、直ちに疑問が湧くことが、もう一点あります。薬王品第23に

若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即往安樂世界阿彌陀佛大菩薩衆圍繞住處。生蓮華中寶座之上。

という一節です。ここでは安楽世界(極楽)阿弥陀如来が説かれるのであって、もちろん、寿量品以降でもあるわけです。聖人が、この文は知らぬはずはなく、では、この阿弥陀如来を簡んで、久遠釈尊は採るのは、有縁であるからとするのが聖人の教えではないでしょうか。

取要抄にも

有縁の仏と結縁の衆生とは譬へば天月の清水に浮かぶが如し

と、その関係は示されています。

この有縁の仏を釈尊と考えるときに、その他、無数の仏が他土の、その仏と有縁の衆生と共に無数の仏国土もあるのではないでしょうか。

また、この無数の仏も、師仏に随順し妙法蓮華経によって悟る仏であれば、三身相即・無始古仏と見ることは、何等法華経の説相に矛盾しないように思えます。

やや蛇足ですが。

先の内薫自悟における無窮は、時系列での過去への遡及ですが、この場合、無始であれば、その始まりはなく、どこまで過去に遡ったとしても最初の一仏に行き当たらないことになるようにも思えます。ですから、問いにおいて「問若許有最初無教」と、もしも最初に無教ということがあれば、と仮定として問いを立てているのではないでしょうか。

無限・無数は法華経の基底でありながら、有限の五百塵点に釈尊の成道は置かれています。その成道は、正しき蓮華の法によれば因果倶時となり無始古仏と己心に観じると聖人は仰せになられているように思えます。

ただ、いま、ここで記したことは、具に迹に当たったわけではありません。
ご批正をいただければ、有り難く存じます。

62犀角独歩:2002/08/02(金) 18:09

また、間違えてしまいました。
61は60からのつづきです。

63一字三礼:2002/08/02(金) 20:28

犀角独歩さん

>私は法華経一巻で見ますから

法華経を全体で一つとして把握する事は、面白い試みであると思います。

しかし、よく言われる事ですが嘱累品第二十二の終わりで、
爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来たりたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめんとして、是の言を作したまわく、諸仏各所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもう可し。是の語を説きたもう時、十方無量の分身の諸仏の宝樹下の師子座上に坐したまえる者及び多宝仏、竝に上行等の無辺阿僧祇の菩薩大衆、舎利弗等の声聞四衆、及び一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す。
多宝仏及び十方分身の諸仏はのように、各処にお帰りになったはずですが、

薬王菩薩本事品第二十三
多宝如来宝塔の中に於て宿王華菩薩を讃めて言わく、
妙音菩薩品第二十四
時に多宝仏、妙音に告げて言わく、
観世音菩薩普門品第二十五
分って二分と作して一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉る。
そして最後の普賢菩薩勧発品第二十八では、
仏是の経を説きたもう時、普賢等の諸の菩薩・舎利弗等の諸の声聞・及び諸の天・龍・人非人等の一切の大会皆大に歓喜し、仏語を受持して礼を作して去りにき。
多宝如来はお帰りになられておりませんね。というより、この座にいらっしゃらなかったようです。このような不自然な出入りがあります。

また、内容的にも法華経の後半ではでは観音品や陀羅尼品のように唐突に挿入されたような部分もあります。

以上の事からも、法華経はまとまって成立したとは考えにくいので、全体を一部として観る事はむずかしいのではないでしょうか。

日蓮聖人は「本尊抄」で、

答えて曰く、法華経一部八巻二十八品、進んでは前四味、退いては・・・一品ニ半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。

の御文で、三分科経を経判のように用いて、一品ニ半に全仏法の中心を定めておられます。

それこそ伝統的な解釈かもしれませんが、一品ニ半を基軸として、法華経を一部として捉えるというように、中心点を考えなければ全体での把握は難しいのではないでしょうか。

64犀角独歩:2002/08/02(金) 22:26

一字三礼さん:

> 法華経はまとまって成立したとは考えにくいので、全体を一部として観る事はむずかしいのではないでしょうか

この問いは成立史的に言えばもっともです。
指摘のとおり、法華経を通読すると、いわゆる寄せ集めというか、前後の脈絡、その他に整合性のないところが気になるところとなります。

28品、初期は27品で、まとめられる以前は他の断片が発見され、実際は30品以上あったという指摘もあります。詳しくは法華経成立史学によるところでしょう。

また、たしかに、ご指摘の聖人の一品二半を言うもありますが、しかし、たとえば「「妙法華経乃至皆是真実」というもあり、この場合、一品二半に限って妙法蓮華経と言っているとは考えがたいですね。なにより、

天台の云はく「稽首(けいしゅ)妙法蓮華経、一帙(ちつ)八軸四七品、六万九千三八四、一々文々是真仏、真仏説法利衆生」等と書かれて候。

というもあるわけです。この点はどうお考えになりますか。

私が法華経全体から見ると言うとき、別段、天台釈も、聖人御立法門を肯定するために言っているわけではありません。虚心坦懐に28品に“まとめられている”法華経に何が書かれているのか、という意味で全体を通じて整合性を得ることを考えているだけです。

実際は、その品の並びが間違っている可能性も、また、全く関係のない制作経典が一本化された可能性も、もちろん、視野に入れてのことです。

第一、一品二半にかかる主張は聖人の主張なのであって、法華経28品にまとめた“意志”とは関係のないことでしょう。

法華経を読むのに、私は天台も、聖人も参考にしていません。
法華経から、天台、天台から日蓮と読んでいっています。しかし、一字三礼さんは日蓮から天台、天台から法華経と、読んでいっているのではないでしょうか。

アプローチの違いから生じる見解の相違を理解した上で、議論しないとまた噛み合わなくなるでしょう。

65犀角独歩:2002/08/02(金) 22:44

―64からつづき―

> 一品ニ半を基軸として、法華経を一部として捉えるというように、中心点を考えなければ全体での把握は難しいのではないでしょうか

ということですが、この点について、申し上げれば、法華経を通読してみても、聖人のこのご指摘を待たなくとも、自ずと、そうなろうかと思います。

むしろ、私が、寿量品以前を方便と切り捨てないのも、ここを中心に全体を一経と読もうとするからに他なりません。

66一字三礼:2002/08/03(土) 00:32

犀角独歩さん

なるほど、龍樹の大論、世親の法華論その他、道生の因門・果門、天台の一念三千や三身説と様々な教理の鎧を法華経からとりあえず外して。

その上で、虚心に法華経一部そのままを読んで、その法華経製作者達(?)の意思を探ろうという事ですね。

全然、関係ないツブヤキのようなものですが。

私が昔、御書も三大部もろくに読んでないで、始めて法華経を読んだ時に、万善同帰や仏法究極の経などとは思わず、密教的なイメージと“この経は、仏法の原点回帰を目指しているんだな”との印象を受け、部派の一説部からの発展かと考えたりもしました。

また、その時はいろいろな経典の中心・要所だけ集めた本が図書館にあり、十地経や十住心品など読んでいたので、単純に比較して法華経独自の修行法は“室座衣の三軌を自行化他の心構えにして、法華経の五種を勧めること”
にあるのではないかと探ったりしていました。

67犀角独歩:2002/08/03(土) 00:55

一字三礼さん:

> 法華経独自の修行法は“室座衣の三軌を自行化他の心構えにして、法華経の五種を勧めること”にあるのではないかと探った


この結論は「すごい!」の一言に尽きます。
私は大いに賛成です。
すばらしい感性だと思います。

68現時点:2002/08/03(土) 07:44
独歩さん

本尊問答抄について 少々

浅井要麟師は「日蓮教学の研究」で、p138に「聖人は自ら建立された本尊の実体を説明して、本尊抄、報恩抄、開目抄等には「寿量品の仏」といい、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」等といって、明らかに人格的仏陀として解説されている。

しかるに本尊問答抄には徹頭徹尾「法華経の題目をもって本尊となすべし」といい、明確に法格的本尊なることを断言されている。

p117で「優陀師は、この背反関係について、対告衆である浄顕坊、その機いまだ生しきがゆえに、ただ権実相対の一辺を示して、真言諸家の本尊を破し、通途の天台法華の法相を述べたまう。要するに浄顕坊に対する誘引の意図に成ったものという会通できある。」

「私はその会通上の理論においてにわかに首肯しがたいものである。
浄顕坊は機根未熟なりといわれるが、これより先建治2年には同じ浄顕坊に対して報恩抄を送られている事実がある。その中に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と、明らかに聖人本懐の本尊観が指示されているのである。それより3年後に同じ浄顕坊に送られた本尊問答抄において、機根未熟のゆえに法本尊観を説かれたとは領解に苦しまざるを得ないのである。」

とあります。ご参考まで。

本尊問答抄について  小林是恭師 大崎学報
「本尊問答抄にはその筆述の年次が記されていない。先師の所説は概略以下のごとくだ。
建治元年7月13日  久遠成院日親の本尊相承抄 本尊論資料2の18
弘安元年       諸註書、諸目録、諸板本
弘安5年       日尊写本奥書=日蓮宗年表  常師筆跡
縮冊遺文の本抄末に岩本実相寺に正応3年(聖人滅後9年)7月15日に転写したという  日源
日興上人の写本が重須本門寺にあるという

69川蝉:2002/08/03(土) 08:46
60 : 犀角独歩 さんへ。

涌出寿量の二品以外においては、始成仏であるとしているが、実は久成の仏であったのだと云うのが寿量顕本ですね。
「開目抄」に
「迹門方便品は一念三千、二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえども、いまだ発迹顕本せざればまこと(実)の一念三千もあらはれず」(197頁)
と有ります。この意は、「寿量顕本によって無始の仏界が顕れなければ、真の十界互具・一念三千は成立しない」と云うことです。
「方便品で成立する十界互具・一念三千は不完全なものである」と云うことですから、方便品の諸法実相は未完成の実相観と云うことでしょうか。

常不軽菩薩品は会通が難しい問題ですね。
私はあまり難しく考えないで、久成仏が威音王仏として現れ、その像末に、今度は常不軽菩薩の姿をとって衆生を教導したものと、設定されているのであろうと、考えています。

勝呂信静師は大東出版社刊「法華経の成立と思想」において
「釈尊の本生としての菩薩時代を説明する必要が生じたのであろうということは、一応考えられることである。しかし威音王仏の世というように時代が規定されているから、この点は久遠実成の思想と調和せず、矛盾するということになろう。・・・方便品において退席した増上慢の四衆にたいする授記成仏はどのようになっているのかということが古来から問題とされているが、不軽菩薩品はその解答に当たるものであるまいか。もちろん増上慢の人物も異なれば時代や情況の設定も相違する。しかし、法華経作者にとって、こうした整合性は敢えて考慮に価しないことであったのあるまいか。要するに諸品の経説の積み重ねによって、全体として統一的な思想を表現するというのが法華経の立場であると考えられるのである」(321頁)
と仏教学の立場から言及しています。宗学的見方と観点が異なりますがご参考までに紹介しました。

あとの話題は、これまた難しい問題ですね。間を見て書きなるべく早くコメントします。

70犀角独歩:2002/08/03(土) 09:32

現時点さん:

本尊問答抄に関する有意義な概略、有り難うございました。
参考になりました。

本尊問答抄、不可思議な書ですね。
この書は本当に大きな謎です。

この件については昨年の11月頃、問答名人さんなどとも「富士大石寺の歴史」のスレッドで盛んに議論したものでした。

私は個人的には人本尊・法本尊という立て分けは大嫌いです。理由は至って簡単で、日蓮本仏、板曼荼羅法本尊に騙されてきたからです。

日本仏教に限って言えば、法を本尊だ等というのは、どうも真言ばりのイメージがつきまといます。本尊は釈尊に限るという思いがあります。

また、題目本尊=法本尊という等式もまた短絡ではないかという思いもあります。

顕正居士さんのご指摘もありました。少し考えてみようと思います。

71犀角独歩:2002/08/03(土) 09:48

69 川蝉さん:

> 常不軽菩薩品…久成仏が威音王仏として現れ、その像末に、今度は常不軽菩薩の姿をとって衆生を教導

なるほど。こういうふうにも考えられますね。
ここでは仏菩薩一体、釈尊上行一体論のようなコンセプトが生きることになりますね。

勝呂師の説もなるほどと思いました。

> 宗学的見方と観点が異なります

そうでしょうね。
宗学との溝が埋まることを期待しています。
これからの宗学は、ここもポイントになってくるのでしょうね。

> あとの話題…間を見て書きなるべく早くコメント

有り難うございます。
楽しみにお待ちしています。

72川蝉:2002/08/03(土) 15:06
犀角独歩さんへ。

>無始であるが故に前はない、だから、先仏なしというのは時系列
>ではそうでしょうが、しかし、実際、無始は、そんな元初という
>過去を論じるものなのでしょうか。

難しい時間論は置いて、
宗祖は、無始久遠よりの結縁・教導を理由に、久遠釈尊の教恩の深さを説いていますので、時系列的に久成仏を捉えていると思います。

>蓮華とは、釋籤の如く因果倶時を言うのであり、久遠成道の瞬
>間、蓮華の法として因果倶時を証し、そこでは過現未という因果
>異時の時系列の時間的な束縛は消え去ることを無始と称している
>のではないのかと私は思います。

犀角独歩さんの上の論述をみて、私の勝手な想いですが、ふと
「当体義抄」の
「此釈の意は至理は名なし、聖人理を観じて万物に名を付る時、因果倶時不思議の一法これあり。之を名けて妙法蓮華と為す。此妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減なし。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此法を師と為して修行覚道し給へば、妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり。」(513頁)
の意を今様に言い換えると犀角独歩さんの上の論述のようになるかなと思いました。
そして、さらに「当体義抄」には、
「問ふ、劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫の当初此妙法の当体蓮華を証得して、世世番番に成道を唱へ能証、所証の本理を顕し給へり。」(513頁)
とあるので、「妙因妙果倶時に感得する」という思想には、初めとか衆生教導の長短という時系列的な差別がくっついているように思いました。

>無始とは遠い過去を指すのではなく、成道により過現未を超克
>し、因果倶時たることを標するのであり、その仏はまさに三身相
>即でもあるというのが聖人の考えではないのかと私は考えます。

私は哲学的論述が苦手なので、犀角独歩さんの上の論述をみて、勝手に「始覚は本覚を覚ることであるから始覚即本覚である。本覚は無始の三身仏であるから、始覚は無始の三身仏になること」と云う考えと同趣旨かなと理解してみました。
この理解に基づいて述べますと、それはその通りと思います。
でも、後から始覚した仏と、ずっと遠い遙かな過去に始覚した仏とはともに三身仏と称せられても、衆生教導の長短という時系列的な差別は有ると思うのです。

もし、衆生教導の長短という時系列的な差別をまったく考慮しなかったら、久成釈尊の信仰的有り難さが希薄になってしまうと思います。

>内薫自悟というのは・・・これは無始古仏と特に脈絡があるとは
>思えませんが、如何でしょうか。

先仏を仮定しなければ最初の仏は内薫自悟と云うことになりますね。無始古仏を最初の仏とすれば無始古仏は内薫自悟の仏と云うことになるので、脈絡があろうと思ったわけです。
内薫自悟が語らえれた訳を御存知であったとはとはさすがですね。
ちょっとお断りしておきますが、宗祖は報応無始実在顕本説ですが議論が込み入りすぎるので、天台大師の報身有始の顕本説気味に説明しています。(続く)

73川蝉:2002/08/03(土) 15:08
61 : 犀角独歩 さんへ。(続きです)

>私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準による
>からではないのかと考えています。

宝塔品で空間的に久遠釈尊に諸仏を統一し、寿量品において時間的に諸仏を統一し、久遠釈尊が根本仏であるとしています。
と同時に、久遠の昔より娑婆世界にあって教導し続けている仏であるとしています。そこで本尊とするのです。犀角独歩さんの云うように「有縁という基準」も重要条件です。

薬王品の「即往安樂世界阿彌陀佛」について、
法華経受持の功徳様々有る中に、安樂世界阿彌陀佛の浄土に往生できる功徳も有るという事ですね。
ここの安楽世界(極楽)阿弥陀如来は釈尊の分身仏と見るわけです。浄土経所説の安楽世界(極楽)阿弥陀如来とは解釈しないのです。
「法華文句記・釈薬王品」に
「此の中に、ただ得聞是経如説修行と云う、即ち浄土の因なり。
更に観経等を指すべからず。
問う、如何が修行する。
答う、既に如説修行と云う、即ち経に依って行を立つ。具に分別功徳品の中、直ちに此の土を観ずるに四土具足するが如し」

と有るに従って、ここに云う安楽世界(極楽)とは、通一仏土の娑婆世界に接せられた分添の浄土(一部分にある浄土)もしくは此の土に即しての凡聖同居の浄土の事であると解釈しています。

阿弥陀仏も久成釈尊の分身とするのですから、阿弥陀仏もその本地は久成釈尊すなわち三身相即・無始古仏であるわけですね。
安楽世界で阿弥陀仏が開迹顕本すれば「我は久成三身具足の古仏である」と名乗るのでしょうね。

>この有縁の仏を釈尊と考えるときに、その他、無数の仏が他土
>の、その仏と有縁の衆生と共に無数の仏国土もあるのではないで
>しょうか。

他仏の浄土も、寿量品の開顕統一の経説に基づいて、安楽世界(極楽)阿弥陀如来を解釈したように、解釈するのです。

>無限・無数は法華経の基底でありながら、有限の五百塵点に釈尊
>の成道は置かれています。その成道は、正しき蓮華の法によれば
>因果倶時となり無始古仏と己心に観じると聖人は仰せになられて
>いるように思えます。

身延大・立正大・本化妙宗系統では、
「我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり。」
の文に由って、五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと解釈しています。

十界互具ですから、仏界である無始の古仏は当然私たちの己心に具している事になりますね。
その己心の仏界を顕すには唱題受持(三業受持)が条件となるわけですね。

内薫自悟の事ですが、研究者によれば、天台宗に於いて、仮設か実説かで意見が分かれているそうです。
知礼・源清・安然・光謙が実説と見、道暹・円仁・証真・痴空が仮設としているとのことです。
田村完爾教授が
「先述の如く日蓮は久遠仏釈尊の下に三世十方の諸仏を統一せしめるので、久遠本仏釈尊の前に先仏を立てることはしない。従って日蓮は智邈を信奉するが、諸仏展転説を採用せず、湛然の内薫自悟仏にも触れない」(大崎学報156号18頁)
とありました。
内薫自悟仏を提示しましたが、ちょと不適切であったでしょうか。

74犀角独歩:2002/08/03(土) 17:14

川蝉さん:

非常に丁重なご教示、有り難うございます。

ここら辺までくると、面白くてわくわくします、こういう書き方は不遜でしょうが。
やはり、教学は本当に興味が尽きません。

私は当体義抄の該当部分は、私の最たる攻撃対象なのですが、ここに似ていると指摘され、ちょっと戸惑いました(笑)

> 報応無始実在顕本説

恐縮ですが、この点を少しご教示いただけませんか。

> 法華文句記・釈薬王品…阿弥陀

この古典的な解釈は理解しているつもりなのです。
ただ、この点も言葉足らずでしたが、阿弥陀経その他も羅什の訳するところなので、妙楽のこの釈に従うのは躊躇があるのです。

> 本化妙宗…五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと解釈

こう読むことは自然であることは百も承知なのです。
しかし、書くまでもないことですが、五百塵点は法華経にあっても、無始についての記述はないわけです。悩むわけです。

> 内薫自悟仏を提示しましたが、ちょと不適切

いえ、不適切ということはないのです。ただ、無始では無窮ということですから、そうなると最初の一仏に行き当たりようがないという思いがあるだけです。
思弁的に試論すれば、こうなるとは思います。

75顕正居士:2002/08/03(土) 18:09
寿量品の仏は元初仏か?

というと、元初仏ではないとわたしはおもいます。仏教は時間にはじまりが
ない(無始)とかんがえます。ですから無始の仏とか無始の無明といっても
時間のはじめをいうのでなく、おもいつく限りさかのぼった時のことである。
だから五百塵点と無始は同じであるが、それが時間のはじまりではないから
久遠成道以前に釈迦菩薩の時代もあり、先仏もおられたはずである。時間の
先後は因果で決まるから、あまりに遠い時間や空間の事は娑婆世界にとって
先でも後でもいっしょである。久遠成道の後にも釈迦菩薩として示現すると
かんがえてもよいし、本行菩薩道の時のこととかんがえてもよいのである。
娑婆世界に因果の関係があることを有縁というのだから、極楽世界において
の有縁はまた別であろう。これらのことがらは今のわれわれには架空である
が、古人は時間にはじまりがないと信じ、極楽世界も実在すると信じていた
から、古典を読む際に、古人になったつもりで考えてみるのは有益である。

『初發心に成佛し、妙覺地に成佛す。無量百千萬億度作佛せる菩薩あり』
(正法眼蔵・諸法実相の巻)
http://www.shomonji.or.jp/zazen/genzou43g.htm

76犀角独歩:2002/08/03(土) 19:06

川蝉さんのご説明も、もちろん、否定するものではありませんが、顕正居士さんに「寿量品の仏は元初仏か?というと、元初仏ではないとわたしはおもいます」と記していただくと、安心します。

もし聖人の「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古佛」の一節がなかったら、まったく素直に私も、そう考えます。もっとも聖人のこの一節があっても、法華経を通読する限りでは、やはり、五百塵点成道の仏で、それ以前の無数仏ありというほうが納得できます。

実は、この無始古仏は旧スレッドの「六巻抄」などで、けっこう話し合ったのですが、やはり、無始、有限で水を分けたいきさつがあります。今回は、さらに、いわゆる元初仏かどうか、つまり先仏がいたか否かという視点も加わることになりました。

川蝉さんが提示してくださった内薫自悟は説明として、わかるのですが、どうも、私はこれをもってくると逆になってしまう気がするわけです。

というのは過去に遡っていって、ついに一番最初に突き当たると言うことでは始めが有ることになり、無始の説明原理にならないと思えるからです。

結局、「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古佛」の古典的な訓読は違うのではないのかと疑うことにより整合性を考えたのが前回のことでした。

「我等が己心の釈尊は五百塵点にして、乃至、三身を顕わす所は無始古仏也」

ではないのかと考えたわけです。

つまり五百塵点の成道は有限であるけれど、今度はその仏を三身というところから見れば法身の要素が加わるから無始と見ていくことになるのではないのかということです。

それでは結局、無始の仏ということだろうと言われそうですが、寿量釈尊と、三身無始は観点が違うように見えるわけです。

元来、法華経は私は三身説に拠っていないと私には見えます。その意味では「我等己心釈尊五百塵」は、すんなりそのとおりであると思います。しかし、天台に拠る聖人は、当然、三身をもって捌くでしょうから「所顕三身無始古佛」という観点が加えざるを得ないことになるように思えます。しかし、単純に法華経だけに拠れば、この後半は、やはり疑義とならざるを得ません。

もちろん、これと先仏の有無は問題が別と言えます。

なお、もう一点、この無始にも関連しますが、私は父子一体、仏菩薩一体的な展開は、法華経の原文そのものからは、どうも馴染めません。

釈尊と上行は実は同一であるという考え方です。この考えが延長されれば、上行と目される日蓮は釈尊と言うことになり、これでは寛師の日蓮本仏論と変わらないことになってしまいます。

『寛記雑々事』に「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」という短文が伝わります。

撰時抄下卅に云く、此の三の大事は日蓮が申したるには非ず。只偏に釈迦如来の御神の我身に入り替らせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法花経の一念三千と申す大事の法門は是れなり。
乙御前抄十四廿に云く、鳩摩羅えん三蔵と申せし人は、木像の釈迦を負はせ給ひて候ひしぞかし。日蓮が頭には、大覚世尊かはらせ給ひぬ。昔と今と一同なり文。寺泊抄十七九に云く、過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は未来の不軽品なるべし。其の時は日蓮は不軽菩薩となるべし文。佐渡御抄十七廿五に云く、日蓮は過去の不軽の如く、当世の諸人は彼の軽毀の四衆の如し。人は替れども同じく是れ一なり。父母を殺すは人異なれども同じく無間地獄に落つ。いかなれば不軽の因を行ずる日蓮一人釈迦仏とならざるべき、又彼の諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや文。経に云く、不軽菩薩豈異人ならんや。我身是なり。同地獄抄十九四十三に一代の肝心○不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしは何なる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐、人の振舞にて候ひけるぞ文。釈尊出世の本懐は事の一念三千なり、故に人の振舞と云ふなり。

どうもここら辺になってくると、単純に法華経だけを読んで原意を見る視点からは、案外、興門と他門と紙一重まで近づくという印象を懐くわけです。

77ドプチェク:2002/08/04(日) 01:21
犀角独歩さん

毎度の事ながら、遅くなりまして申し訳ございません。

松戸説に関しましては、私の場合、犀角独歩さんと少し(かなり?)違った見方をしているのです。
確かに松戸氏は自著の中で、学会擁護的なスタンスにより、宗門の権威主義的な体質を批判されていますし、それに、池田SGI会長(名誉会長)を尊敬する記述もされていますね。しかし、氏の宗門に対しての批判内容に接していますと、それは、僧俗という違いこそあれ、そっくりそのまま、学会の体質に当てはまっているところが、大いにあるとしか思えないのです。
はたして松戸氏自身の意図が、どうであったのかはわかりませんけれど、ただ、氏が宗門の体質を批判をして行くなら、それは、必然的に学会の体質批判へと繋がってしまう事になるのではないかと思います。
氏は自著において、真偽不明の御書を引用し説明しているという問題がありますし、また、私には難しい内容ですので、凡夫本仏論の正否につきましてはわかりません。それでも、たとえ松戸説自体が間違っているにせよ、氏が問題提起として取り上げている意見にだけは、耳を傾け考えて行くべきではないのかと思うのです。
いつの頃からか私は、日蓮正宗・創価学会・顕正会等といった富士門流の各宗派・教団が、何故どこも極端に排他的で攻撃的な傾向にあり、独善的・権威主義的な体質を生み出してしまうのか?と、漠然と思うようになりました。それぞれの歴史的なものや指導法等、様々な事と関りがあるのかもしれませんが、しかし、もしかすると松戸氏が指摘されているように、日蓮正宗の教義自体に何らかの欠陥があったりとか、あるいは、その解釈の仕方に誤ったところがあるのでは?とも・・・ 難しい事は、よくわかりませんけれど。
ところで、宗門は松戸説に批判的な考えのようですが、それは、学会側も基本的に同様でないのかと思われます。松戸氏が最初の書物を著されて、すでに10年になるにも関らず、学会は未だに黙殺の姿勢を執り続けていますから。それと、少し前に某掲示板で、松戸氏が、東洋哲学研究所欧州研究部長の役職を解任されたというお話もお聞き致しました。その理由が、氏の発表した凡夫本仏論にあったのかどうかにつきましては、わかりませんけれど。
まぁ、私が今、松戸説に対して思っています事は、だいたい、そのようなところなんです。

78無徳:2002/08/04(日) 03:00
皆さん今晩は:

 皆さんの教学力の凄さを思い知らされています。
なんとも、私のような無知を託つ人間にとっては論議に参加することが躊躇わ
れます。

 しかし、何とか少しは棹をさしたいと思い、少々皆さんと違った角度から牽
強付会を承知で論議に参加させていただきます。

 岩波の仏教辞典によると『久遠』とは『永遠』と同義として扱われています。
更に『永遠』の項を見ると、宗教においては大別して永遠なる概念については
三つの様式に類型化できるとして、一つは莫大な数量の神話的時間を象徴する
為と、二つ目は円還的に回帰する無際限の時間を意味するものとして、更に三
つ目は時間を超越する無限性ないし無時間性を示すものとして永遠なる概念が
使われているとして、仏教においてもこれらの三つの様式に対応する時間論が
併存しているとされています。

 そして、インドにおいては第一の類型として、莫大な時間を表す概念として
『劫』『劫波』『永劫』なる思想があり、更に、第二の類型として世界は『成・
住・壊・空』という四劫を絶えることなく繰り返して経歴するという円還的な
思想もあり、これを人間に当て嵌めると『輪廻』思想になるとしています。そ
して第三の類型として、この輪廻からの離脱を『解脱』として理想化し、生死
輪廻を超越する無時間性が立ち現れ、いわゆる『空』なる概念として結実した
としています。

 いったい、法華経の作者は如何なる時間概念を所有していたのでしょうか?
更には日蓮大聖人は『久遠』や『無始』なる時間的概念をどのような位相で捉
えておられたのでしょう?

 当然ながら仏教においては時計が指し示す物理的な時間とは違った、人間の
心的領域に属するものとして、心的世界の流転変化の位相を時間として位置付
けているものと私は考えています。

 したがって、『劫』『劫波』『永劫』や『成・住・壊・空』なる概念を宇宙論的
に解釈することも出来ますが、私はあくまで人間の認識(意識)の成せる業とし
て理解しています。それでは単なる唯識論ではないかと言われそうですがそのこ
とを否定しようとは思いません。(続く)

79無徳:2002/08/04(日) 03:02
(続き) 
 
 吉本隆明の影響ではありますが、私は仏教の説く内実を『心的現象論』と
して理解しています。もし人間の心的世界に影響を与える外的要因としての
自然や物質的な関わりを導入するとしたら、それは疎外論としての位相にお
いて可能となるであろうと考えています。

 それは、人間が意識なるものを獲得した根本原因を自然からの疎外として
理解すると分かり易いからです。人間は自然から採集する果実や動物を食し
て生を営んでいる頃、つまりは人間自身が自然そのものとして存在し、未だ
自然を対象として認識する必要性さえなかった頃と言い換えても良いと思い
ます。(考えてみれば未だ人間とは言えない状態とも言えましょうか?)

 ところが人間が次第に数を増し共同体を形成する頃になると、自然と同化
しているだけですまなくなり、共同体の中での人間同士の意志の疎通や一つ
の共同体が他の共同体と情報を交換せざるを得ない状況が生まれると、加速
度的に人間は自然からの疎外体として存在せざるを得なくなります。

 そのことは人間が意志の疎通や情報のやりとりの手段として言語を獲得す
ることになり、ますます自然からの疎外体となっていかざるを得ず。そのこ
とが更に人間が複雑な意識を獲得する要因となり、それと共に不安や恐れを
も感じざるを得なくなってしまったと考えられます

そして、その不安や恐れがやがて宗教を必要とする程に増幅して、ますま
す人間は自然からの疎外を深めてしまったとさえ言えると思います。しかし
人間はやがてその疎外の打ち消しとしての宗教を模索し始めます。

 その疎外の打ち消しとしての宗教として仏教は大きな意味を持っているの
ではないかと私は考えています。『久遠』や『無始』(人間が自然からの疎外
体となっていない頃)なる概念やまた『悟り』や『成仏』(疎外の打ち消し)
更には『凡夫』(人間が自然からの疎外体となっていない状態)や『仏』(疎
外の打ち消し完了の状態)と言った概念も人間にとって自然からの疎外の打
ち消しと言った位相で捉え直すことも可能であろうと思います。

 皆さんの論議の位相とはかけ離れたものとなってしまいましたが、仏教の
指し示す一面と捉えていただければ幸いです。   無徳

80犀角独歩:2002/08/04(日) 04:00

77 ドブチェクさん:

参考になりました。また、思い当たることも何点かありました。
なるほど。少し私の見方は石山よりの穿った見方であったかも知れません。
創価学会の友人から「松戸さんは宗門に言寄せて、創価学会と池田先生をこすってるんだよ」と囁かれたことがありました。しかし、その時は石山教学部関係者が、松戸氏に眉をひそめていたのを目の当たりにしたあとのことで、「そんなものかな。だって東洋学術研究所だろ」と思ったのです。しかし、ドブチェクさんの書き込みを拝見し、少し視点が変わりました。有り難うございました。

81犀角独歩:2002/08/04(日) 04:04

> 76

自己レスですが、

> 川蝉さんのご説明も、もちろん、否定するものではありませんが…

という、この書き方、どうも言表から見ると、川蝉さんを軽視しているように、あとから読み直して感じました。けっして、そのような意味ではありません。

しかし、万が一、不快なところがございましたら、陳謝いたします。

82犀角独歩:2002/08/04(日) 04:16

無徳さん:

面白いですね、今回の書き込み。
久遠と永遠が同義ですか。この場合、無始とはどうでしょうか。同じになるのでしょうか。

私はどうしても始覚、有限に拘るのです。無始にしてしまうと、たとえば地涌を初発心の弟子にしたときまで無始の中にとけ込んでしまうなどの不都合が生じることになるからです。

インド人の劫などという長遠の時間感覚は、しかし、心的現象としてとらえるより、もっと現実的であったのではないのかと、私には思えます。というのは、彼らの生活・人生がカーストという身分制度に束縛されていたからです。これは心的現象と言うより、身体的現象としてとらえられていたのではないのか、と感じます。

しかし、聖人をはじめとする日本人のほうは、吉本氏のいうような心的現象として、久遠などをとらえていたのではないだろうか、と私には思えます。

ただ、これは中村元師のインド人と日本人の思惟の比較研究を意識したものではないので、いささか当てずっぽうの発言なのですが。

実は始覚・本覚などと言った問題も、提示された久遠その他のとらえ方のギャップも一因をなしているように思えます。

なお、それとは別に生仏を“疎外”をもって見ていく視点、何か無徳さんのこころの一面を見るようで興味が惹かれました。

83いちりん:2002/08/04(日) 14:45
特定の「本尊」などというものが、必要なんでしょうか。

あるいは、「間違った本尊」とか、「正しい本尊」というものが、あるのかないのか。

日蓮さんは、伊豆流罪のときに海中から出現した釈迦仏を拝んでいたわけですよね。
そうして、佐渡以降は、自らが書き表した文字曼荼羅を本尊として拝んでいたのでしょう。

天台や最澄などは、特定の仏像などということは、なかったことでしょう。
いわば修行のあり方によって、本尊は、ばらばらと。(まあ、念持仏というのはあったでしょうが)

龍樹や世親が本尊を拝んでいたのかどうか。まあ、釈迦仏を拝んでいたかもしれません。

そもそも、ブッダは、本尊などというものに対して、拝んでいたのかどうか。
当時は、仏像や曼陀羅など、あるはずもなく、ブッダがなにか特定の対象に向かって拝んでいたなどとは、考えられませんよね。原始仏典には、○○を拝めなどということばはありませんし。

84顕正居士:2002/08/04(日) 15:14
本因妙思想

現時点さんの引く望月師の本因妙思想の批評であるが、本覚思想と本因妙思想
を対比する観点が未だ構想されなかったのでしょう。本覚思想はすでに明治に
島地大等が日本仏教のクライマックスと述べたが、人口への膾炙は田村芳朗の
以後であり、本因妙思想は富士宗学要集発刊以前には資料が少なかったから。

「全体、この本因妙の思想はよく考えて見るのに、本因妙ということだけでは
ほとんど意義がない。何のために一生懸命で言うのかわからない」

わたしは本覚思想を日蓮的にアレンジしたのが本因妙思想であるとおもう。
本覚思想は如来蔵とか仏性という仏の素(もと)が衆生にあって、大乗経には
荒唐無稽なおとぎ話が多いが、それは比喩として衆生の心にある本覚の仏を
示すのだと考える。中国人や日本人はインド人のように輪廻転生を信じない
から、三阿僧祗劫の成仏でなく、即身成仏かせいぜい来世成仏(極楽往生)を
いう必要がある。菩薩の位に52もあるのはおとぎ話である、6つくらいでいい。
と示した天台大師が観行即であるから、それ以上は架空、理即か名字即かの
問題になる。名字即は菩提心をはじめて発(おこ)す意味である。中古天台の
理即成仏に対して名字成仏を唱える本覚思想が本因妙思想といえ、教義の内容
はほぼ変わらないけれど、日蓮が名字成仏を体現した人であったと日蓮宗徒は
考えるのである。

*名字即は菩提心をはじめて発(おこ)す意味であるから、御義口伝にいうよう
に、日蓮に相対すれば、妙名を唱えるのみの弟子檀那は理即である。

85犀角独歩:2002/08/04(日) 16:01
> 83

この点は、私も全く同感です。

さらに天台以降のことについて、書いてみます。

以前にも記したのですが、初期天台資料を調べてみると、直ちに気付くのですが、「本尊」という言葉は一度も出てこないのです。

私は、これには多少なりとも驚かされました。

たぶん本尊とは儒家の概念であろうと想像しています。
そして、ここで並行するのが神座(いはい)ではないのかという想像も立つわけです。
神座の神は神様というより、たましいと読むほうが、より意味は取れるのだと思います。神座はたましいのよりしろですから、有る意味、祠とか、社、ご神体なんかとも同様の意義を持つのではないでしょうか。

つまり、たましい(志、精神=より精錬されたたましい=心=意)が宿る神座が、もっと具体的に尊敬する対象などと、刻まれたものが、本尊の原型ではなかったのでしょうか。
神(たましい)は、日本仏教では「法」に包摂されていった。
この尊敬する対象とたましい(法)が分化して人法本尊に転訛していったのではないのかという想像もつきます。

いわば聖人が言う本尊というのは、こんな時代背景、儒・外・内、さらに神(日本古来の信仰)が集合する日本型仏教の、熟爛期で、では「本尊とは何か、天台・法華宗に確たる本尊を据えるとしたら何か」を考えていったのが日蓮ではなかったのかと、私は想像するわけです。

また、その本尊観は、たとえば天台の止観を述べるように、あるいは法華経について語るように、と既定の事実を論じるものではなく、日蓮の試論であり、実体験のなかで考え続けられ、その“進行形”のなかで、日蓮は、その生涯を終えたのではないのか、と私には思えるわけです。

簡単に言えば、日蓮は本尊観を完成しないで終えたと言うことです。
それが現在に至るまで日蓮門下全般が既定化された本尊観を持たないことからも窺えます。

この未完成の本尊論の進行形を引き継ぎ、教学的に整理発展させようと最初に取り組んだのが、実は興師とその門下であったのではないでしょうか。

そして、そのきっかけは、聖人所持の一体像を失ったことに機縁があるようにも思えます。この機縁に基づくために、興師直下の重須の檀林教学は、容易く曼荼羅正意に向かったのではないでしょうか。

これはしかし、聖人の結論したことでもなく、また天台、さらにシャキャムニに由来することでもなかったのであろうと思います。

私は、個人的には聖人は、曼荼羅と仏像の両立論者であったと思っています。また、この二つは、元より、役割が別であったのではないかとも思うわけです。仏像は釈尊を形に刻み恭敬尊敬するため、曼荼羅は日蓮己心の「釈尊の心」を弟子檀那に観せるため…、うまく言葉では表せないのですが、そんな相違があるように思えます。

その二つは択一されるものではないと思えます。仏像は曼荼羅と図示するところを包摂するし、反対に曼荼羅も仏像と表現される釈尊が包摂されるという関係にあるように思うからです。

86犀角独歩:2002/08/05(月) 00:44

顕正居士さん:

> 本覚思想を日蓮的にアレンジしたのが本因妙思想

この簡潔な一言、私などは「そうではないのかな?」と思いながら、口に出す勇気はありませんでした。やはり、そのように考えてよいのかと安堵したような気持ちになりました。

87ワラシナ:2002/08/05(月) 23:14
独歩さんへ
no76
>内薫自悟は説明として、わかるのですが、どうも、私はこれをもってくると逆になってしまう気がするわけです。
というのは過去に遡っていって、ついに一番最初に突き当たると言うことでは始めが有ることになり、無始の説明原理にならないと思えるからです。

との事ですが、私もそう考えました。日蓮宗祖もそのお考えであったと思います。
だから内薫自悟仏説は採用されなかった。
それでは、本尊抄ではどういうなぞ解きが行われているのだろうか、と次に考えました。
そして、日蓮本佛論がそのなぞ解きの解法だと考えるに至りました。

私も田村論文を勉強して二三度読んだのですが、宗祖の示されたお考えがわかりませんでした。

ところで、本当に田村先生は、宗学研究の王道をいくような研鑚態度なんですね。三大部の解読を徹底的に
丁寧にやる、その結果がそのままで、「印佛研」「宗教研究」などに立派な論文発表になっている。

88犀角独歩:2002/08/06(火) 00:07

87 ワラシナさん:

ワラシナさんからレスがいただけるなんて、涙が出るほど、嬉しく思います。
私をネットの重要性を教えてくださった大恩人です。感謝しています。

そうですか。ワラシナさんも内薫自悟について、そのようにお考えになっていらっしゃいましたか。

お示しの田村師のこと、少しお示しいただけませんか。私も大いに啓発を受けた碩学の一人ですが、ワラシナさんの慧眼から、どのようにお考えになっているのか、私のみならず、皆さんの参考にもなると思います。

ぜひ、お願いいたします。

89川蝉:2002/08/06(火) 09:06
犀角独歩さんへ。

天台大師は「法華文句巻第一上」に
「久遠に菩薩の道を行ぜし時、先仏の法華経を宣揚したまいし」
とありますから、久成釈尊も先仏の教えを受けて菩薩道を行じ成道したと説明しています。
数え切れない数々の先仏から久遠本仏釈尊へ、法華経の証悟が次から次にと伝えられてきた、と云う思想です。
寿量本仏は三身相即の仏とは云いながら、報身は有始としているのです。
そこで、妙楽大師が、
「問う。無窮に堕することを恐れて唯だ釈迦を論ぜり。今は諸仏展転して教えを禀くることを論ぜんと欲す。終に一仏、初めに在って教無きこと有って、無教を本と為さば、何ぞ無窮有らんや。もし有窮を許さば無因の過に堕せん。」(釈序品)
(先仏のまたその先仏と限りが無くなるので、釈迦仏の教導のみ論じている。諸仏展転と云うことであると、最初の仏の時には、先仏の教えが無かったことになろう。
最初の仏が有るとすれば、無窮でなくなるが、その場合、教えに基づいて修行したと云う因行がないので無因と過と云う非難が生じてくる)
と問題を提示して
「最初、無教の時の仏は内薫自悟するのである」
と答えているのですね。
報身有始仏とすると先仏が想定され、そうすると、内薫自悟の最初仏を想定される事にもなりますね。

妙楽大師の後輩と云う道暹が、「文句輔正記」に、
「釈尊は先仏の教を禀けざるに非ず。今日の化を受るは且く釈尊に窮まれり、其の観解を増して実利を獲る為に何の過あらん」
と輔釈しているとのことです。
おおよその意味は
「釈尊が先仏の教化を受けようが、今日、釈尊の教化を受ける我々には関係ない。我々の修行成就の為には、無窮か有窮かの問題は関係ない」
と云う意味でしょう。娑婆世界の衆生との釈尊の教縁を重視して今日の教導主は釈尊であると云う意向が見えますね。

犀角独歩さんが、「久遠釈尊の先仏が居ると思う」並びに「私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準によるからではないのかと考えています」
と云う見解は、先仏有りとする天台大師と教縁を重視する道暹との見解に似ていると思いました。

>つまり五百塵点の成道は有限であるけれど、今度はその仏を三身
>というところから見れば法身の要素が加わるから無始と見ていく
>ことになるのではないのかということです。

「法身の要素が加わるから」と云う概念が掴めないので、的はずれな感想かも知れませんが「金光明経文句」の
「報身とは、修行の所感なり、法華に云はく、久しく業を修して得る所なりと、涅槃に云はく、大般涅槃は道を修して得る故にと、如如の智、如如の境を照らし、菩提の智慧法性と相応し相冥す、相応とは、函蓋相応するが如く、相冥とは、水乳相冥するが如きなり、法身は身に非ず不身に非ず、智すでに応冥す、亦、身に非ず不身に非ず、強いて此の智を名づけて報身となすなり。
法寿常に非ず、無常に非ず、智すでに応冥す、亦非常非無常なり、強いて常を名づけて寿と為すなり、法すでに量に非ず、無量に非ず、智すでに応冥す、また量に非ず、無量に非ず、強いて無量を名づけて量と為すなり」(孫引き)
と云う説明と同じ事を言われているのかなと思いました。

しかし、「五百塵点の成道は有限」と云うことは、報身に初めありと云う事ですし、やはり五百塵点前の先仏が居たという立場ですと、根本仏と云う概念が希薄になると思うのです。(続く)

90川蝉:2002/08/06(火) 09:07
犀角独歩さんへ。(続きです)
まえにも申しましたが、「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古佛」を私どもの学系では
「我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり。」
と訓みます。
そして、宗祖は、五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと理解していると、解釈しています。
無始を喩えたものと判じる理由は、
「法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身、報身の顕本はとかれず」(開目抄・198頁)
と有ります。
法身は文字通りの無始性の真理(身)です。寿量品は法身だけでなく応身、報身も無始であると顕本したものであると云う意味と受け取ります。報応無始実在顕本説であると受け取ります。
五百塵点劫を無始を喩えたものとしなければ、宗祖のこの言葉は出てこないと見るのです。

また「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具、百界千如、一念三千なるべし。」(開目抄・197頁)の「九界も無始の仏界」の言葉も出てこないと思います。
また、
「法華取要抄」に
「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月万水に浮ぶとは是なり。華厳経の十方台上の毘盧遮那、大日経、金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。」(333頁)
とあります。五百塵点劫が無始を喩えているから、尽十方の諸仏を所従とする根本仏であり、過古仏の多宝仏も所従と言い得るのでしょう。
無始無終の仏ですから、最初成仏の内薫自悟仏だと想定しなくとも良いわけです。

三身は「入楞伽経」「金光明最勝王経」「仏地経」「勝マン経」に言葉は相違があるけれど三身を分別しているとの事です。
それらの経が法華経成立以前か同時期の経で有れば、法華経成文化した人達も三身分別の意識があったと推定できますね。

「法華文句・巻第九下」に
「此の品(寿量品)に三仏の名(法報応)無し、なんぞ此の釈を作すや」との問いを設け
「名は標せずと雖も、而もその義を具す。文に云はく『如に非ず異に非ず、三界の三界を見るが如くに非ず』と、此れ偏如非ずして円如を顕す、即ち法身如来の義なり。
又、云はく『如来は実の如く三界の相を知見したまう』と、即ち是れ如如の智の如如の境に称う一切種智の知なり、見は即ち仏眼なり、此は是れ報身如来の義なり。
また、云はく『或いは已身已事を示し、或いは他身他事を示す』と、此れ即ち応身如来の義なり」
と、三身の義は寿量品にあると論じています。

「法華文句記・釈薬王品」にも、
「具に分別功徳品の中、直ちに此の土を観ずるに四土具足するが如し。故に此の仏身即三身なり」
と述べています。
釈尊所居の娑婆世界は四土が具足している。法身は寂光土、報身は実報土、同居穢土は応身と配当されるから、故に釈尊は三身仏であると云う意味です。
此も三身の義は法華経にもあると云う見解ですね。
宗学では天台大師の「三身の義は寿量品にある」と云う見解を採用しています。

91いちりん:2002/08/06(火) 10:01

田村芳朗先生の著作は、すばらしいですよね。
たんなる学者の論文じゃなくて、わたしには、生きている、響いてくるものがあります。
『法華経』(中公新書)と『日蓮』(NHKブックス)は、お薦め。
あと、難しいけど、『天台本覚論』(岩波書店の日本思想体系)のなかの「天台本覚思想概説」とか。

92犀角独歩:2002/08/07(水) 12:53

川蝉さん:

いつもながら丁重なご教示をいただきまして、有り難うございます。
お陰様で法華経(原典)、天台、妙楽、そして日蓮の相違点が、やや理解できました。

> 犀角独歩…「久遠釈尊の先仏が居ると思う」・に「私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準による…」…先仏有りとする天台大師と教縁を重視する道暹との見解に似ている…

そうでしたか。意図するところではありませんでした。

> 「法身の要素が加わるから」と云う概念が掴めないので、的はずれな感想かも知れませんが「金光明経文句」の「報身とは、修行の所感なり…強いて無量を名づけて量と為すなり」(孫引き)と云う説明と同じ事を言われているのかなと思いました。

報身者修行之所感也。法華云。久修業所得。涅槃云。大般涅槃修道得故。如如智照如如境。菩提智慧與法性相應相冥。相應者如函蓋相應也。相冥者如水乳相冥也。法身非身非不身。智既應冥亦非身非不身。彊名此智爲報身也。法壽非常非無常。智既應冥亦非常非無常。彊名常爲壽也。法既非量非無量。智既應冥亦非量非無量。彊名無量爲量也。

の箇所ですね。報身とは修行の所感である、菩提の智恵を蓋として、法性の函(はこ)に相応する、味わいのある言葉であると思います。「彊名無量爲量」が内薫自悟にも相通じると思います。

ここは川蝉さんとの違い法華経創作者は三身論を意識していなかったという私見です。久遠仏思想で法華経は構成され、その後の法華経信奉者が三身で解釈し直したという思いがあります。それを「法身の要素が加わる」と記しました。しかし、これは上述の文の如き四門観別してそう考えるというステップを踏むなどという定型的ステップを真面目に踏んだ考えではありません。

> 宗祖は、五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと理解していると、解釈しています。

この宗祖に係る無始のご説明は至当なものであると拝読しました。『一代五時鶏図』にも「久成の三身─応身・報身・法身─無始無終」ということが示されてあります。
やはり、この点を蓮祖の独自性、つまりは法華経創作者、天台との差と見なければいけないのであろうと整理がつきました。もちろん、川蝉さんのお立場ではそれが法華経に説かれるところと判断されることになるのでしょうか。

>三身は「入楞伽経」「金光明最勝王経」「仏地経」「勝マン経」…それらの経が法華経成立以前か同時期の経で有れば、法華経成文化した人達も三身分別の意識があったと推定できますね。

この点はどうでしょうか。私は慎重です。

> 「法華文句・巻第九下」…三身の義は寿量品にあると論じています。

雖不標名而具其義。文云。非如非異非如三界見於三界。此非偏如顯於圓如。即法身如來義也。又云。如來如實知見三界之相。即是如如智稱如如境。一切種智知見即佛眼。此是報身如來義也。又云。或示己身己事。或示他身他事。此即應身如來義也。

この辺を読んでいると、「ははん、三身は法華経にはなかったのだ。天台は苦労して、寿量佛を三身に解釈しているな」と思うわけです。

もっとも宗学で、この点、あるいは引用される記の文の如く、法華経に三身を見ないと成り立ちませんものね。

余談ですが、引用される文句では、ここの三身を「三佛」と言っています。
私は三佛というと過去佛・現在佛・未来佛と即座に思ってしまうので、一身(一佛)に収斂される場合、佛は過去に滅せず、未来も生じないので、なるほど、三佛は三身と読まないと成り立たないのだろうと思いました。

私は三身解釈が、どうも好きになれないので、天台・妙楽は三身にかくも拘らなければならないのか不思議に思ったりします。

天台の三身論に比し、聖人はもっと直感的に久遠五百塵点成道・教主釈尊が全面に出るので、私には馴染みやすいと思えます。もっとも、その久遠釈尊を先の『一代五時鶏図』の如く、無始無終の三身に配する聖人であるのも事実ですが。

聖人から妙楽・天台と時間に逆行しながら法華経に至ると、宗学はすんなり入りますが、法華経から天台・妙楽・日蓮と時系列で読むと、どうも三身解釈その他教学は、すんなり来ません。私は、やはり法華経根本、解釈は二次的というのが性に合うようです。

93ドプチェク:2002/08/07(水) 23:14
犀角独歩さん

教学力が欠如していて、仏教の何たるかがわかっていない私なのですけれども、しかしながら、松戸氏の提言には少なからず影響を受けたと思っています。わからないなりにでも、一時期はかなり松戸説寄りの考えになっていましたが、しかし、前述致しましたように、偽書絡みの問題等で、「?」と思うようになりました。

それでも、私個人が氏の著書により大きく見方が変って行った、その最たるものは、教義的な解釈に関してよりか、むしろ、宗祖日蓮聖人に対する捉え方という面においての事なのでございます。
釈迦本仏論・日蓮本仏論・凡夫本仏論に関係なくして、聖人を宗祖としてのみならず、一人の血の通った生身の人間として見て行けるようになったといったところなのです。

私は学会を通してしか、宗祖に関する事を教えてもらえませんでしたので、正宗寺院や法華講・顕正会・正信会等では、どうであるのか存じません。ただ、学会の指導や書籍に記されている宗祖についてのお話に接している限り、はっきり申しますと、少なくとも私自身の中では、日蓮聖人の“顔”がまったく見えて来なかったのでした。何か宗祖という人物は、人間ではなく、顔を持たない蝋人形か彫像のような冷たいイメージであるとか、あるいは、機械かロボットのようでもあったり、もしくは、キリスト教やイスラム教で説く全知全能の神のような遥か遠く手の届かない存在であるとか、まるで実態の掴めぬそれ・・・

無論、私自身の不勉強ゆえの無知とも関係していた事は否めません。また、昔の私は、誰かに言われたのかどうかわかりませんけれど、日蓮関係の書籍ではあっても、学会や正宗関係以外のものはご法度であるといったような考えを、いつのまにか抱いていたのです(もしかすると学会員の中には、「信心がおかしくなる」とか何とか言って、そういう偏狭な考えでいる人間が、実際に存在するのかもしれませんが)。
しかし、5年前、学会や正宗における現実の有様に対して、かなりの疑問を抱くようになっていた私は、それまで決して目を通そうとなどしなかった、一般の日蓮関係の書籍に接するようになったのでした。そうして行くうち、たまたま書店で松戸氏の書籍にも遭遇したわけです。

一般の書籍や松戸氏の著書を学会系の書籍と対比しての、私の個人的な感想を述べさせていただきますなら、先ず何よりも、前者の方が後者のそれより、宗祖の人間性にスポットを当てているものが圧倒的に多かったという事。
どうも、学会系の書籍に接している限り、宗祖をあまりにも神格化してしまっていて、人間としての側面にほとんど触れられていないといったところが、正直な感想なのです。何かにつけ、宗祖を完全無欠な存在として捉えている為、まるでSFにでも登場するヒーローのようなイメージが湧き起ってしまい、更にそれだけならまだしも、ともすれば血も涙もない人間にさえ思えて来る事が多々ございましたね。当時の国家権力であった鎌倉幕府に立ち向って、他宗を攻撃し、数々の迫害にも屈しないで勇猛果敢に闘ったという、そんな剛毅で過激な宗祖のイメージが先行するばかりで、その内面に厳然と存在していた筈である、一人の人間としての様々な葛藤・苦悩・怒り・悲しみ・慈愛・憐憫の情などといったものが、ほとんど感じられなかったのです。そこにあるものは、どこか冷たくて、あまりにも無味乾燥で非人間的という、私が長年に渡り感じて来た学会の現実を象徴しているかのようなそれでしたね。
対する一般の書籍や松戸氏の著書においては、むしろ、宗祖を血の通った一人の人間として捉える事が多く、それらに接するようになって、私の中の日蓮像はかなり大きく変貌して行った、それだけは間違いないと確信しています。

教義的な事が大事であるのは当然ですが、それと同時に、宗祖の人間としての側面にも光を当てて行かなければ、何か大切なものが見失われてしまうのではないのか?と、私は思っているのです。そうして行かないと、私が現実に目にして来た学会のようになってしまうのではないのか?と・・・

長々と独り勝手な事ばかりを述べさせていただきまして、すいませんでした。

94犀角独歩:2002/08/08(木) 06:19

ドブチェクさん:

> 宗祖の人間としての側面にも光を当てて行かなければ、何か大切なものが見失われてしまうのではないのか

まったく同感です。
私は、日蓮は凡夫、行いとしての菩薩という感じでとらえています。聖人であると思っています。

凡夫といっても常人にない精神力、その反面、涙もろく、戒に反する飲酒(おんじゅ)も嗜む大胆さ、権威を畏れない剛胆さなど、魅力溢れる存在であると思っています。

「常人にない」というのはけっして超人化したりするのではなく、あの極寒の佐渡で、食にも事欠く中で開観両抄を著すなど、やはり、すごいなあと思いますね。

誰であったか忘れましたが、かなり書の達つ方が、本尊抄の真筆を見て、あの長文で書損もなく、なにより字の調子に最後まで乱れがないのを見、驚嘆している文章を読んだことがあります。日蓮信者でも何でもない方であったと記憶しています。

日蓮を本仏にまで祭り上げたり、唯一絶対を鼓舞するのは、日蓮に対する信仰と言うより、日蓮の権威を上げれば上げるほど、自分たちの権威も上がるという作為に眼が行き、どうもこれらの考えは教義云々を別にしても納得できません。

そんなことから、ドブチェクさんの聖人観の変遷はわかる気がします。
まあ、そんななかで松戸さんの著述がドブチェクさんの精神史の変遷に果たした役割もわかるところはありますよ。

95いちりん:2002/08/08(木) 21:47
>日蓮を本仏にまで祭り上げたり、唯一絶対を鼓舞するのは、日蓮に対する信仰と言うより、日蓮の権威を上げれば上げるほど、自分たちの権威も上がるという作為に眼が行き、どうもこれらの考えは教義云々を別にしても納得できません。

まったく同感です。
「自分たちの権威付け」のために、つまり「自分たちの都合」のために、日蓮さんを本仏というキング・オブ・キングスにしてしまったのだと思います。
そされは、日蓮さんを慕うという気持は、二の次であったかもしれませんです。

ただ、悲しいかな大乗仏教が、お釈迦さまを神格化して、お釈迦さまの人間的な要素を排除してスーパースター・ブッダに仕立て上げてきたわけで、これも自分たちの都合で、権威付けで行ってきたのかもしれませんですね。

そうして、もしや日蓮さんの心のなかにも、久遠の本仏という偉大な存在をうち立てて、それに連なる自らの位置づけを権威づけようとした可能性もなくもないかなあと、思ったりします。

96いちりん:2002/08/08(木) 21:55
 お釈迦さまという方は、誰の権威も借りずに、自分の言葉で語ったろうと思いますね。

やれ過去仏がこうであった、やれ聖典にはこう書かれてある、やれ偉大な先人がこういっている。故に、わたしは正しいのだ、正統なのだ、、みたいなことは、言う必要がなかった。正しさなど証明する必要もなかった。

だって、ほんとうに自らが悟って、わかってしまったから、自分以外の人がこんなこと言ってたよ、あんなこと言ってたよ、なあんて言いたくもなかったことでしょう。

お釈迦さまは、なんの外のものからの引用も必要なく、自分の内側から、自分の体験から、自分のつかんだものを、自分の言葉で、語ったことでしょう。。

真理をほんとうに体現してしまえば、自分を証明する必要もなく、ただただ、自らをあらわしていけば、それがそのまま真理の言葉となる。そう思いますね。

わかってない人ほど、つかんでない人ほど、自分を証明しようとしてしまう。そして、「偉大な」先人、「偉大な」聖典を引用して、その「偉大な」存在につらなる自分を主張しようとすると、思ってもみたり。。

97求道:2002/08/09(金) 23:38
五百塵点劫というのは、果徳に因行を具足するの意。菩薩行(因行)に記別(果徳)が与えられるのは、因行に果徳を具足するの意。そういう基本的な法華哲学を理解していないと不毛な議論の繰り返しになり、他の人に誤解を与えますよ。

98犀角独歩:2002/08/10(土) 00:08

求道さん:

仏教哲学ってなんですか。
そんなものないでしょう。

99犀角独歩:2002/08/10(土) 00:13

あっと、間違えました。法華哲学でしたね。
で、それって何ですか?

100求道:2002/08/11(日) 09:55
> そんなものないでしょう。で、それって何ですか?

表面上に囚われる人は、皆こういう言い方になります。そういった人は、自分の
見たもの知ったものにも囚われます。それが人の愚かなところであり、カルト系
に填る信仰者の多くもそうです。これも阿含部にあるような譬え話ですね。


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