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日蓮聖人の本尊観
90
:
川蝉
:2002/08/06(火) 09:07
犀角独歩さんへ。(続きです)
まえにも申しましたが、「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古佛」を私どもの学系では
「我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり。」
と訓みます。
そして、宗祖は、五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと理解していると、解釈しています。
無始を喩えたものと判じる理由は、
「法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身、報身の顕本はとかれず」(開目抄・198頁)
と有ります。
法身は文字通りの無始性の真理(身)です。寿量品は法身だけでなく応身、報身も無始であると顕本したものであると云う意味と受け取ります。報応無始実在顕本説であると受け取ります。
五百塵点劫を無始を喩えたものとしなければ、宗祖のこの言葉は出てこないと見るのです。
また「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具、百界千如、一念三千なるべし。」(開目抄・197頁)の「九界も無始の仏界」の言葉も出てこないと思います。
また、
「法華取要抄」に
「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月万水に浮ぶとは是なり。華厳経の十方台上の毘盧遮那、大日経、金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。」(333頁)
とあります。五百塵点劫が無始を喩えているから、尽十方の諸仏を所従とする根本仏であり、過古仏の多宝仏も所従と言い得るのでしょう。
無始無終の仏ですから、最初成仏の内薫自悟仏だと想定しなくとも良いわけです。
三身は「入楞伽経」「金光明最勝王経」「仏地経」「勝マン経」に言葉は相違があるけれど三身を分別しているとの事です。
それらの経が法華経成立以前か同時期の経で有れば、法華経成文化した人達も三身分別の意識があったと推定できますね。
「法華文句・巻第九下」に
「此の品(寿量品)に三仏の名(法報応)無し、なんぞ此の釈を作すや」との問いを設け
「名は標せずと雖も、而もその義を具す。文に云はく『如に非ず異に非ず、三界の三界を見るが如くに非ず』と、此れ偏如非ずして円如を顕す、即ち法身如来の義なり。
又、云はく『如来は実の如く三界の相を知見したまう』と、即ち是れ如如の智の如如の境に称う一切種智の知なり、見は即ち仏眼なり、此は是れ報身如来の義なり。
また、云はく『或いは已身已事を示し、或いは他身他事を示す』と、此れ即ち応身如来の義なり」
と、三身の義は寿量品にあると論じています。
「法華文句記・釈薬王品」にも、
「具に分別功徳品の中、直ちに此の土を観ずるに四土具足するが如し。故に此の仏身即三身なり」
と述べています。
釈尊所居の娑婆世界は四土が具足している。法身は寂光土、報身は実報土、同居穢土は応身と配当されるから、故に釈尊は三身仏であると云う意味です。
此も三身の義は法華経にもあると云う見解ですね。
宗学では天台大師の「三身の義は寿量品にある」と云う見解を採用しています。
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