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日蓮聖人の本尊観
93
:
ドプチェク
:2002/08/07(水) 23:14
犀角独歩さん
教学力が欠如していて、仏教の何たるかがわかっていない私なのですけれども、しかしながら、松戸氏の提言には少なからず影響を受けたと思っています。わからないなりにでも、一時期はかなり松戸説寄りの考えになっていましたが、しかし、前述致しましたように、偽書絡みの問題等で、「?」と思うようになりました。
それでも、私個人が氏の著書により大きく見方が変って行った、その最たるものは、教義的な解釈に関してよりか、むしろ、宗祖日蓮聖人に対する捉え方という面においての事なのでございます。
釈迦本仏論・日蓮本仏論・凡夫本仏論に関係なくして、聖人を宗祖としてのみならず、一人の血の通った生身の人間として見て行けるようになったといったところなのです。
私は学会を通してしか、宗祖に関する事を教えてもらえませんでしたので、正宗寺院や法華講・顕正会・正信会等では、どうであるのか存じません。ただ、学会の指導や書籍に記されている宗祖についてのお話に接している限り、はっきり申しますと、少なくとも私自身の中では、日蓮聖人の“顔”がまったく見えて来なかったのでした。何か宗祖という人物は、人間ではなく、顔を持たない蝋人形か彫像のような冷たいイメージであるとか、あるいは、機械かロボットのようでもあったり、もしくは、キリスト教やイスラム教で説く全知全能の神のような遥か遠く手の届かない存在であるとか、まるで実態の掴めぬそれ・・・
無論、私自身の不勉強ゆえの無知とも関係していた事は否めません。また、昔の私は、誰かに言われたのかどうかわかりませんけれど、日蓮関係の書籍ではあっても、学会や正宗関係以外のものはご法度であるといったような考えを、いつのまにか抱いていたのです(もしかすると学会員の中には、「信心がおかしくなる」とか何とか言って、そういう偏狭な考えでいる人間が、実際に存在するのかもしれませんが)。
しかし、5年前、学会や正宗における現実の有様に対して、かなりの疑問を抱くようになっていた私は、それまで決して目を通そうとなどしなかった、一般の日蓮関係の書籍に接するようになったのでした。そうして行くうち、たまたま書店で松戸氏の書籍にも遭遇したわけです。
一般の書籍や松戸氏の著書を学会系の書籍と対比しての、私の個人的な感想を述べさせていただきますなら、先ず何よりも、前者の方が後者のそれより、宗祖の人間性にスポットを当てているものが圧倒的に多かったという事。
どうも、学会系の書籍に接している限り、宗祖をあまりにも神格化してしまっていて、人間としての側面にほとんど触れられていないといったところが、正直な感想なのです。何かにつけ、宗祖を完全無欠な存在として捉えている為、まるでSFにでも登場するヒーローのようなイメージが湧き起ってしまい、更にそれだけならまだしも、ともすれば血も涙もない人間にさえ思えて来る事が多々ございましたね。当時の国家権力であった鎌倉幕府に立ち向って、他宗を攻撃し、数々の迫害にも屈しないで勇猛果敢に闘ったという、そんな剛毅で過激な宗祖のイメージが先行するばかりで、その内面に厳然と存在していた筈である、一人の人間としての様々な葛藤・苦悩・怒り・悲しみ・慈愛・憐憫の情などといったものが、ほとんど感じられなかったのです。そこにあるものは、どこか冷たくて、あまりにも無味乾燥で非人間的という、私が長年に渡り感じて来た学会の現実を象徴しているかのようなそれでしたね。
対する一般の書籍や松戸氏の著書においては、むしろ、宗祖を血の通った一人の人間として捉える事が多く、それらに接するようになって、私の中の日蓮像はかなり大きく変貌して行った、それだけは間違いないと確信しています。
教義的な事が大事であるのは当然ですが、それと同時に、宗祖の人間としての側面にも光を当てて行かなければ、何か大切なものが見失われてしまうのではないのか?と、私は思っているのです。そうして行かないと、私が現実に目にして来た学会のようになってしまうのではないのか?と・・・
長々と独り勝手な事ばかりを述べさせていただきまして、すいませんでした。
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