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日蓮聖人の本尊観

82犀角独歩:2002/08/04(日) 04:16

無徳さん:

面白いですね、今回の書き込み。
久遠と永遠が同義ですか。この場合、無始とはどうでしょうか。同じになるのでしょうか。

私はどうしても始覚、有限に拘るのです。無始にしてしまうと、たとえば地涌を初発心の弟子にしたときまで無始の中にとけ込んでしまうなどの不都合が生じることになるからです。

インド人の劫などという長遠の時間感覚は、しかし、心的現象としてとらえるより、もっと現実的であったのではないのかと、私には思えます。というのは、彼らの生活・人生がカーストという身分制度に束縛されていたからです。これは心的現象と言うより、身体的現象としてとらえられていたのではないのか、と感じます。

しかし、聖人をはじめとする日本人のほうは、吉本氏のいうような心的現象として、久遠などをとらえていたのではないだろうか、と私には思えます。

ただ、これは中村元師のインド人と日本人の思惟の比較研究を意識したものではないので、いささか当てずっぽうの発言なのですが。

実は始覚・本覚などと言った問題も、提示された久遠その他のとらえ方のギャップも一因をなしているように思えます。

なお、それとは別に生仏を“疎外”をもって見ていく視点、何か無徳さんのこころの一面を見るようで興味が惹かれました。


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