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日蓮聖人の本尊観

59川蝉:2002/08/02(金) 15:35
犀角独歩さん、一字三礼さんへ。

寿量品に
「諸の善男子、是の中間に於いて、我然燈仏等と説き、又復、其涅槃に入ると言いき。是の如きは皆方便を以って分別せしなり。」

とあります。
然燈仏の時の行因、然燈仏の時の得記・入涅槃等は方便・仮説したものと言う経文ですね。
これは寿量品以前に説いている釈尊の修行や得果は、方便であったと言う意味があります。
だから方便品に説いてある、無数の諸仏の道法を行じて今度仏になったと言う経説も方便説の仲間に入れられていると云えましょう。
すなわち諸仏の教えを受けて修行したという始成仏の因行をそのまま久遠無始仏に当てはめることはできないのでしょう。

私は宗祖のご理解の通り、寿量品が「三身とも無始の仏であり、諸仏の根本仏である」と説いているものと見る立場です。
無始・根本の仏であるならば、先仏は居ない事になりましょう。
故に寿量品に「久成仏の先仏は居ない、先仏の教えを受けて修行したのではない」と言う明文がなくとも、無始・根本の仏であると義があれば、先仏の教えを受けて修行したのではないと言う文証になると考えるのです。

妙楽大師は「文句記・序品」
に「答う。無教の時、則ち内薫自悟せり」
と言っています。最初の一仏は先仏や先仏の教えが無い場合は内薫自悟すると言う意味だそうです。

興門の要法寺日辰師も「開迹顕本法華二論義得意抄」に
「本果の釈尊昔本因の理即の時、内薫悟教す、その教えとは妙法蓮華経の五字なり」(宗全第三巻347頁)
「本有の法性を或いは妙法蓮華経と言うなり・・本有の法性は本因妙の釈迦の本師なり」(272頁)
と言っています。

両者は宗祖の久成仏観と全同では無いようですが、先仏の教えを受けなくとも、自ら実相を証悟するという考えが有ると云う例として挙げておきます。


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