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日蓮聖人の本尊観

55犀角独歩:2002/08/01(木) 21:10

一字三礼さん:

ご指摘は拝受しました。
まあ、議論を絞るとすれば、法華経に出る「無数仏をどう考えるか」ということでしょう。これはつまり、一字三礼さんが

> 我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか
> 先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか

という問いとたしかに関連します。

しかし、私はこの一字三礼さんの考えには反対であると申し上げたわけです。
その理由は先にも挙げた無数仏という点にあります。
先にも挙げましたが、補足してもう一度挙げれば

・仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ
・本無数の仏に従って 具足して諸道を行じたまえり

というからです。しかし、一字三礼さんは、先仏はいないとし、菩薩道修行の師を諸法実相・法であるといいます。

諸法実相については先に記したとおりで、これを百法界とするのが台釈であると私は思います。(実相を法と見ることにはやや躊躇がありますが)しかし、これは仏と仏(複数)が究尽したところというのですから、一字三礼さんの考えは二重の意味で違っている見えます。一つは先仏がいないのではなく、百千万億無数の諸仏が説かれていること、二つには諸法実相は菩薩が知るところではなく仏が究尽することということです。

たぶん、一字三礼さんが先仏がいないと想定されるのは、川蝉も挙げる取要抄の文の如く蓮祖が考えていたという前提を重んじられるからでしょう。

ついでに記せば、川蝉さんが「天台大師と同じく久成釈尊も他仏たる先仏の教えをうけて実相を証悟したと言う考え」と評しましたが、これは違います。正確に言えば、法華経方便品の文のように、ということです。

法華経は根本です。ですから、その根本に「仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法」「本従無数仏 具足行諸道」と記されている以上、そこで台釈など持ち出す必要はないはずです。もし先仏はなく諸法実相を師としたというのであれば、そのことを示す「法華経の経文」を引けば、すべてが事足りるからです。その経典を出さず、釈を引き、御書を引くことは、私には本末転倒と映じるのです。(これには川蝉さんは異論はあるでしょう)

いずれにしても、一字三礼さんが立てられた「先仏なし、菩薩道の師は諸法実相が師」を証明する経典を挙げることで、この議論は畢るわけです。これが私の考えです。

一字三礼さんは、該当する経文を思いつかれますか。私は思いつきません。ですから、天台が、日蓮が、ということではなく、法華経には釈尊成道以前に先仏なし、諸法実相・師という思想はないのであろうと思うわけです。

しかし、その次の段階で、天台の展開は、日蓮の展開は、となれば、これはまた違う問題であるという点が曖昧であったために、一字三礼さんにご心配をかけるような議論になってしまったのでしょう。

以上、記したことにつき、一字三礼さんが根拠とされた経文があれば、ぜひともご開示ください。


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