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日蓮聖人の本尊観
92
:
犀角独歩
:2002/08/07(水) 12:53
川蝉さん:
いつもながら丁重なご教示をいただきまして、有り難うございます。
お陰様で法華経(原典)、天台、妙楽、そして日蓮の相違点が、やや理解できました。
> 犀角独歩…「久遠釈尊の先仏が居ると思う」・に「私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準による…」…先仏有りとする天台大師と教縁を重視する道暹との見解に似ている…
そうでしたか。意図するところではありませんでした。
> 「法身の要素が加わるから」と云う概念が掴めないので、的はずれな感想かも知れませんが「金光明経文句」の「報身とは、修行の所感なり…強いて無量を名づけて量と為すなり」(孫引き)と云う説明と同じ事を言われているのかなと思いました。
報身者修行之所感也。法華云。久修業所得。涅槃云。大般涅槃修道得故。如如智照如如境。菩提智慧與法性相應相冥。相應者如函蓋相應也。相冥者如水乳相冥也。法身非身非不身。智既應冥亦非身非不身。彊名此智爲報身也。法壽非常非無常。智既應冥亦非常非無常。彊名常爲壽也。法既非量非無量。智既應冥亦非量非無量。彊名無量爲量也。
の箇所ですね。報身とは修行の所感である、菩提の智恵を蓋として、法性の函(はこ)に相応する、味わいのある言葉であると思います。「彊名無量爲量」が内薫自悟にも相通じると思います。
ここは川蝉さんとの違い法華経創作者は三身論を意識していなかったという私見です。久遠仏思想で法華経は構成され、その後の法華経信奉者が三身で解釈し直したという思いがあります。それを「法身の要素が加わる」と記しました。しかし、これは上述の文の如き四門観別してそう考えるというステップを踏むなどという定型的ステップを真面目に踏んだ考えではありません。
> 宗祖は、五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと理解していると、解釈しています。
この宗祖に係る無始のご説明は至当なものであると拝読しました。『一代五時鶏図』にも「久成の三身─応身・報身・法身─無始無終」ということが示されてあります。
やはり、この点を蓮祖の独自性、つまりは法華経創作者、天台との差と見なければいけないのであろうと整理がつきました。もちろん、川蝉さんのお立場ではそれが法華経に説かれるところと判断されることになるのでしょうか。
>三身は「入楞伽経」「金光明最勝王経」「仏地経」「勝マン経」…それらの経が法華経成立以前か同時期の経で有れば、法華経成文化した人達も三身分別の意識があったと推定できますね。
この点はどうでしょうか。私は慎重です。
> 「法華文句・巻第九下」…三身の義は寿量品にあると論じています。
雖不標名而具其義。文云。非如非異非如三界見於三界。此非偏如顯於圓如。即法身如來義也。又云。如來如實知見三界之相。即是如如智稱如如境。一切種智知見即佛眼。此是報身如來義也。又云。或示己身己事。或示他身他事。此即應身如來義也。
この辺を読んでいると、「ははん、三身は法華経にはなかったのだ。天台は苦労して、寿量佛を三身に解釈しているな」と思うわけです。
もっとも宗学で、この点、あるいは引用される記の文の如く、法華経に三身を見ないと成り立ちませんものね。
余談ですが、引用される文句では、ここの三身を「三佛」と言っています。
私は三佛というと過去佛・現在佛・未来佛と即座に思ってしまうので、一身(一佛)に収斂される場合、佛は過去に滅せず、未来も生じないので、なるほど、三佛は三身と読まないと成り立たないのだろうと思いました。
私は三身解釈が、どうも好きになれないので、天台・妙楽は三身にかくも拘らなければならないのか不思議に思ったりします。
天台の三身論に比し、聖人はもっと直感的に久遠五百塵点成道・教主釈尊が全面に出るので、私には馴染みやすいと思えます。もっとも、その久遠釈尊を先の『一代五時鶏図』の如く、無始無終の三身に配する聖人であるのも事実ですが。
聖人から妙楽・天台と時間に逆行しながら法華経に至ると、宗学はすんなり入りますが、法華経から天台・妙楽・日蓮と時系列で読むと、どうも三身解釈その他教学は、すんなり来ません。私は、やはり法華経根本、解釈は二次的というのが性に合うようです。
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