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日蓮聖人の本尊観

13管理者:2002/07/30(火) 20:15

74 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/27(土) 12:00

→「本迹相対は釈尊の教えである」と言えば、間違いとなるのでしょう。

そういうことですね。

教相判釈のひとつの分け方として、天台が、「迹する所以」を「本」と改めて、本迹判として用いたということですね。

→ただ、いわゆる教相判釈というのは、経典を如何様に見ていくかということですから、解釈法としては、一概に間違いであると断ずる必要はないと思います。
しかし、伝言ゲームではありませんが、教義解釈というものは人を経、時間を経、次々と変化してしまうわけです。ことに原典に当たらず、言葉と受けた説明だけでわかった気になる人の伝言がこれに拍車をかけるのでしょう。
この変化してしまったものの瑕疵は、精査に一括に論ずべきではないと思います。

そうですね。あくまでも原典をペースとして教義解釈があると。二次的情報(解釈書)よりも一次情報(経典)が大事だと。


なお、「「教相判釈」あるいは「教判」なる用語は、和製漢語であり、中国では、かつて「判教」「釈教相」などとさまざまに呼ばれた」とp140に書いてありました。

「教判は、インドにおいては、本来、歴史という縦の時間軸に沿って成立した異なる思想を、

釈尊という個人の一生涯の内部において、整理しようと試みたものであった」とありました。

示唆にとむ考えだと思いました。


75 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/27(土) 12:07

→つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

そのとおりだと思います。本迹判により、迹門の仏、インドにお生まれになられたシャキャムニを迹仏。

本門は、久遠の昔に成仏したという真実を明かした教え、その仏のことを本門の仏→本仏ということになりますね。


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