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日蓮聖人の本尊観
36
:
川蝉
:2002/07/31(水) 12:00
33 一字三礼 さんへ。
>ということは仏の説いた教法とは、そのまま境妙としての真如実
>相のことであると考えてよろしいのでしょうか。
境智冥合したのが仏智ですね。境妙をそのまま覚知したと云う関係ですね。この点では、境妙=智妙(仏智)といっても良いのでしょうね。
教法というと、仏智を衆生に教えるための法となりますから、教乗化された境妙、あるいは教乗化された智妙(仏智)と云えるのでしょうね。
>下世話な表現を借りれば、“鶏が先か、卵が先か”のようです
>ね。
ほんとにそんな感じですね。
>しかし、法華経寿量品の教主釈尊とは、その以前、我本行菩薩道
>の時に先仏は想定されないのではないでしょうか。・・
>先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実
>相・法となるのではないでしょうか。
その通りですね。
わたしが「菩薩が先仏の教えによって仏に成った場合は、直接に境妙としての真如実相に基づいて妙智を得たのとは、すこし違いがあり」と書いたのは、仏に教化を受ける菩薩と違い、久遠本仏は諸法実相・法に基づいて準じて、言葉を換えれば師として成道した考えるべきだと云う意味です。
>「其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総
>じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て
>本尊とするなり。」というのは解かり易いのです。拘ってはいな
>いのですが、すごく富士派っぽいですね。
法本尊論者の強い文証となっていますね。
上の文の直ぐ後に
「仏は身なり、法華経は神なり。しかれば則ち木像画像の開眼供養はただ法華経にかぎるべし」
とあるので、釈尊の神(証悟)は法華経なりと云う事ですから、法仏不二の意があり、法華経で開眼すべしとあるので、法本尊一辺倒でない意がありますね。
>前半、大曼荼羅の説明と、後半の寿量の仏像とは、直接繋げて考
>えるべきではないのでは。
観心本尊抄を見ると、久遠釈尊の一念三千の世界、言い換えれば正報・依報すなわち身土を表したのが大曼荼羅ですね。
ですから実質は久遠釈尊と云えますね。
久遠釈尊を仏像として表す場合は一尊四士とするわけですから、
「直接繋げて考え」て良いと思うのです。
>色々書いてしまいましたが、本尊となると必要以上に複雑で、頭
>がストライキを起こしそうになります。
私もそうです。
>私は所詮「仏法とは生き方」と理解しておりますので、仏道修行
>上で“仏を観る”と言う事は即ち“道を知る”と言う事と同じで
>ある、と考えております。
>「法仏不二」、そうなのかもしれませんね。
「仏法とは生き方と理解しております」
私たちが、真実の生き方を出来るように、教えるために釈尊は教法を説かれたのですから、一字三礼 さんの云われる通りですね。
仏道を歩めば歩むほど、ますます仏祖三宝の有り難さの実感が深まって行くものだと思っています。
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