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日蓮聖人の本尊観
58
:
犀角独歩
:2002/08/02(金) 15:17
> 私のこの意見は「本尊問答抄」を仮に真筆と考えて、そこから読み取れる日蓮聖人の法華経観を推測した上での発言です。日蓮聖人は本門教主釈尊の師を法華経と捉えていらっしゃったのではないか、との推測からの発言でした
なるほど、この“仮定”に基づく、やりとりであるということであれば、川蝉さんの応答も含めて納得はいきます。
> 法華経自身からのものではありません。
仮定に基づく試論であれば、それはわかります。
ただ、やや弁明させていただければ、経・釈・御書の順位は不動であって、殊に経を省いた推論は仏教では無意味です。一字三礼さんに示すまでもありませんが、
普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)等の等覚(とうがく)の菩薩、法門を説き給ふとも経を手ににぎらざらんをば用(もち)ゆべからず。「了義経に依って不了義経に依らざれ」と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明(きゅうめい)して信受すべきこそ候ひ
ぬれ。竜樹菩薩の住毘婆沙(びばしゃ)論に云はく「修多羅(しゅたら)に依らざるは黒論なり、修多羅に依るは白論なり」等云云。天台大師云はく「修多羅と合ふ者は録して之を用(もち)ひ、文無く義無きは信受すべからず」等云云。伝教大師云はく「仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ」等云云。
は仏教を考える上での鉄則です。しかし、中古天台本覚思想などを典型として、法華を止観に劣る下げるなど、釈があたかも経に勝るような風潮をもって仏教は乱れるのでしょう。ここでは経は略され、釈ばかりが一人歩きします。経を略することになずんだ解説は、私は似非仏教と映じます。故に経証を省いた議論には、私は極端な危機意識を感じるのです。
無礼を承知で記せば、近時の論の展開はそのように映じました。
しかし、これは仮定に基づくものであるとのこと、杞憂であったのでしょう。
ご無礼の段、お二人委に陳謝いたしておきます。
> 師無くして教主釈尊が成道されたと言うのであれば、それは独覚としての悟りあり、如來とはならないと思うのです。
これは少し違いませんか。むしろ、法を師として悟ることを独覚というのでしょう。
> 寿量品の「我本行菩薩道」時に無数の諸仏の元で修行したと言うことには繋がらないのではないでしょうか。
私はそのような脈絡で考えています。
また、神力品の直前に説かれる常不軽菩薩は釈尊の前世であるとされ、その時は威音王仏の世とされるわけです。この記述を果たして無視して善いのかと私は考えています。
雑駁な掌握ですが、方便品で無数諸仏の元で道を行じて得たところは諸法実相であり、大通智勝仏の王子とし法華を覆講し、寿量品でその本因を菩薩道であるといい、そして威音仏の世、常不軽の但行礼拝行を一つの脈絡と考えるべきではないのかと私に思えます。
また、久遠一仏に統一することに目を奪われると見えなくなりますが、法華経に無数仏、無数菩薩が大きなファクターとして置かれているのではないでしょうか。六万[シ+亘]河沙の地涌菩薩はよく知るところ、しかるに唱えながら忘れる方便品の無数仏、法師品に
若親近法師 速得菩薩道 随順是師学 得見恒沙仏
という如くです。
> 元々、五百塵点劫と三千塵点劫とは整合性がとれていませんし、また、儀式的な寿量品の四請四誡も前段までの内容の継続では必要の無いものとなるのでは。
上述するとおり、私は整合性が取れていると思います。
三請三誡は、方便品で五千退座もあったことなので、むしろ自然であると思いますが、どうでしょうか。
法華経は無数の仏と無数の菩薩が織りなす壮大な設定であり、その中で釈尊自身の久遠成道を明らかにしていくのではないでしょうか。
聖人はその中で滅後末法の弘教を誓願する故に無数仏の中で久遠教主釈尊一仏を本尊と立てると言われる。しかし、これは先仏がないことを言うものとは私には読めません。単に釈尊が説いたとされる教典中に現れる仏を釈尊一仏に統一するばかりであって、先仏、無数仏を否定しているとは思えません。
> 寿量品に直接の言及が無い以上、本門教主釈尊の初成道の師については、エポケーするしかないのではないしょうか。
この点も先に書いてしまいましたが、私は法華経一巻で見ますから、ぜんぜん判断を中止しないで上述のように考えています。
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