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日蓮聖人の本尊観
72
:
川蝉
:2002/08/03(土) 15:06
犀角独歩さんへ。
>無始であるが故に前はない、だから、先仏なしというのは時系列
>ではそうでしょうが、しかし、実際、無始は、そんな元初という
>過去を論じるものなのでしょうか。
難しい時間論は置いて、
宗祖は、無始久遠よりの結縁・教導を理由に、久遠釈尊の教恩の深さを説いていますので、時系列的に久成仏を捉えていると思います。
>蓮華とは、釋籤の如く因果倶時を言うのであり、久遠成道の瞬
>間、蓮華の法として因果倶時を証し、そこでは過現未という因果
>異時の時系列の時間的な束縛は消え去ることを無始と称している
>のではないのかと私は思います。
犀角独歩さんの上の論述をみて、私の勝手な想いですが、ふと
「当体義抄」の
「此釈の意は至理は名なし、聖人理を観じて万物に名を付る時、因果倶時不思議の一法これあり。之を名けて妙法蓮華と為す。此妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減なし。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此法を師と為して修行覚道し給へば、妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり。」(513頁)
の意を今様に言い換えると犀角独歩さんの上の論述のようになるかなと思いました。
そして、さらに「当体義抄」には、
「問ふ、劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫の当初此妙法の当体蓮華を証得して、世世番番に成道を唱へ能証、所証の本理を顕し給へり。」(513頁)
とあるので、「妙因妙果倶時に感得する」という思想には、初めとか衆生教導の長短という時系列的な差別がくっついているように思いました。
>無始とは遠い過去を指すのではなく、成道により過現未を超克
>し、因果倶時たることを標するのであり、その仏はまさに三身相
>即でもあるというのが聖人の考えではないのかと私は考えます。
私は哲学的論述が苦手なので、犀角独歩さんの上の論述をみて、勝手に「始覚は本覚を覚ることであるから始覚即本覚である。本覚は無始の三身仏であるから、始覚は無始の三身仏になること」と云う考えと同趣旨かなと理解してみました。
この理解に基づいて述べますと、それはその通りと思います。
でも、後から始覚した仏と、ずっと遠い遙かな過去に始覚した仏とはともに三身仏と称せられても、衆生教導の長短という時系列的な差別は有ると思うのです。
もし、衆生教導の長短という時系列的な差別をまったく考慮しなかったら、久成釈尊の信仰的有り難さが希薄になってしまうと思います。
>内薫自悟というのは・・・これは無始古仏と特に脈絡があるとは
>思えませんが、如何でしょうか。
先仏を仮定しなければ最初の仏は内薫自悟と云うことになりますね。無始古仏を最初の仏とすれば無始古仏は内薫自悟の仏と云うことになるので、脈絡があろうと思ったわけです。
内薫自悟が語らえれた訳を御存知であったとはとはさすがですね。
ちょっとお断りしておきますが、宗祖は報応無始実在顕本説ですが議論が込み入りすぎるので、天台大師の報身有始の顕本説気味に説明しています。(続く)
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