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日蓮聖人の本尊観

40犀角独歩:2002/08/01(木) 05:46

―38からつづく―

聖人の本尊観とは、やや論点がずれますが、釈尊の久遠成道について、釈尊は無仏の時に諸法実相・法?を元にして成道したのだというの、ここのところの展開になっています。
私はこのような展開は法華経の教説と著しく相違するものだと感じます。

そもそも久遠成道を証すのは寿量品なのであって、方便品諸法実相によって成道したというのは教説に相違しています。

殊に諸法実相による成道?が無仏の時というのは方便品の記述に添いません。

方便品には

仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり…本無数の仏に従って具足して諸道を行じたまえり

とあり、ここに明瞭に「仏と仏」と仏は複数形で示されています。そして、世雄偈に入って「無数の仏に従って」という言うのです。

仮に諸法実相によって、釈尊が成道したとしても、この段階で無数の仏に従ったことが明記されています。

第一、諸法実相は成道の本因ではないはずです。本因は、あくまで寿量品に入って初めて説かれる「我本業菩薩道」以外にあり得ません。方便品と整合性を考えれば、この菩薩道は無数の仏に従った菩薩道でなければならないはずです。成道の本因をこのように法華経全体の記述とも矛盾していません。

法華経、あるいは天台学、日蓮教説の“解釈”に釈尊はもっとも最初に成道した最初仏のように扱おうとする傾向はあります。しかし、これは大日経第三の「我一切本初」ということの対抗意識から、何が何でも釈尊を最初仏に据えたい恣意的解釈としか見えません。

もちろん、大日如来が本初であるということを指示するわけではありませんが、最初仏・根本仏に仕立てるのに「諸法実相」を持ち出すことは、甚だ不可ではないでしょうか。


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