したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日蓮聖人の本尊観

73川蝉:2002/08/03(土) 15:08
61 : 犀角独歩 さんへ。(続きです)

>私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準による
>からではないのかと考えています。

宝塔品で空間的に久遠釈尊に諸仏を統一し、寿量品において時間的に諸仏を統一し、久遠釈尊が根本仏であるとしています。
と同時に、久遠の昔より娑婆世界にあって教導し続けている仏であるとしています。そこで本尊とするのです。犀角独歩さんの云うように「有縁という基準」も重要条件です。

薬王品の「即往安樂世界阿彌陀佛」について、
法華経受持の功徳様々有る中に、安樂世界阿彌陀佛の浄土に往生できる功徳も有るという事ですね。
ここの安楽世界(極楽)阿弥陀如来は釈尊の分身仏と見るわけです。浄土経所説の安楽世界(極楽)阿弥陀如来とは解釈しないのです。
「法華文句記・釈薬王品」に
「此の中に、ただ得聞是経如説修行と云う、即ち浄土の因なり。
更に観経等を指すべからず。
問う、如何が修行する。
答う、既に如説修行と云う、即ち経に依って行を立つ。具に分別功徳品の中、直ちに此の土を観ずるに四土具足するが如し」

と有るに従って、ここに云う安楽世界(極楽)とは、通一仏土の娑婆世界に接せられた分添の浄土(一部分にある浄土)もしくは此の土に即しての凡聖同居の浄土の事であると解釈しています。

阿弥陀仏も久成釈尊の分身とするのですから、阿弥陀仏もその本地は久成釈尊すなわち三身相即・無始古仏であるわけですね。
安楽世界で阿弥陀仏が開迹顕本すれば「我は久成三身具足の古仏である」と名乗るのでしょうね。

>この有縁の仏を釈尊と考えるときに、その他、無数の仏が他土
>の、その仏と有縁の衆生と共に無数の仏国土もあるのではないで
>しょうか。

他仏の浄土も、寿量品の開顕統一の経説に基づいて、安楽世界(極楽)阿弥陀如来を解釈したように、解釈するのです。

>無限・無数は法華経の基底でありながら、有限の五百塵点に釈尊
>の成道は置かれています。その成道は、正しき蓮華の法によれば
>因果倶時となり無始古仏と己心に観じると聖人は仰せになられて
>いるように思えます。

身延大・立正大・本化妙宗系統では、
「我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり。」
の文に由って、五百塵点劫は有限の実数ではなく、無始を喩えたものと解釈しています。

十界互具ですから、仏界である無始の古仏は当然私たちの己心に具している事になりますね。
その己心の仏界を顕すには唱題受持(三業受持)が条件となるわけですね。

内薫自悟の事ですが、研究者によれば、天台宗に於いて、仮設か実説かで意見が分かれているそうです。
知礼・源清・安然・光謙が実説と見、道暹・円仁・証真・痴空が仮設としているとのことです。
田村完爾教授が
「先述の如く日蓮は久遠仏釈尊の下に三世十方の諸仏を統一せしめるので、久遠本仏釈尊の前に先仏を立てることはしない。従って日蓮は智邈を信奉するが、諸仏展転説を採用せず、湛然の内薫自悟仏にも触れない」(大崎学報156号18頁)
とありました。
内薫自悟仏を提示しましたが、ちょと不適切であったでしょうか。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板