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日蓮聖人の本尊観

57一字三礼:2002/08/02(金) 14:30

犀角独歩さん:

≫我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか
≫ 先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか。

私のこの意見は「本尊問答抄」を仮に真筆と考えて、そこから読み取れる日蓮聖人の法華経観を推測した上での発言です。日蓮聖人は本門教主釈尊の師を法華経と捉えていらっしゃったのではないか、との推測からの発言でした。
法華経自身からのものではありません。

>いずれにしても、一字三礼さんが立てられた「先仏なし、菩薩道の師は諸法実相が師」を証明する経典を挙げることで、この議論は畢るわけです。これが私の考えです。

朝に夕に読誦しておりますが、寿量品には「我本行菩薩道」の師についての言及はありません。
「先仏なし、菩薩道の師は諸法実相が師」の結論は早計であり、少し乱暴だったかもしれません。
しかし、師無くして教主釈尊が成道されたと言うのであれば、それは独覚としての悟りあり、如來とはならないと思うのです。

>法華経に出る「無数仏をどう考えるか」ということ

先に「諸法実相」の文を「我本行菩薩道」と絡めて記してしまったのは私ですが、この方便品の
>・仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ
>・本無数の仏に従って 具足して諸道を行じたまえり
は寿量品の「我本行菩薩道」時に無数の諸仏の元で修行したと言うことには繋がらないのではないでしょうか。

元々、五百塵点劫と三千塵点劫とは整合性がとれていませんし、また、儀式的な寿量品の四請四誡も前段までの内容の継続では必要の無いものとなるのでは。

寿量品に直接の言及が無い以上、本門教主釈尊の初成道の師については、エポケーするしかないのではないしょうか。


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