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日蓮聖人の本尊観
23
:
管理者
:2002/07/30(火) 20:21
89 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 18:45
86 : 犀角独歩 さんへ。
>けれど、私がこの御書がもっともおかしいと思うのは「倶体倶用
>の三身」という考えです。これは初期天台資料はもちろんのこ
>と、聖人の真跡にも見られないからです。
「諸法実相抄」の前半が偽書と指摘される根拠の一つですね。
しかし、『法華経』岩波文庫(上)P336)の注記を提示し
>と方便品の諸法実相に注意を促しています。
>その意味を含めると、該当の『諸法実相抄』の該当文が、むしろ
>聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります。
と云われていまが、どうして「聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります」と云う事になるのか、ちょと意味がつかめません。
問題のある訳語であっても、妙法華経に「諸法実相」とあるのですから、かりに宗祖が「諸法実相」と云う言葉を使ったとしても、仕方のないことではないですか。
>もちろんのこと、諸法実相抄の「倶体倶用の三身」を、真跡であ
>るとして解説されるところは、参考から除外せざるを得ない気持
>ちになります。
それはご自由です。「諸法実相抄」の偽書の疑い濃厚な部分は、強いて資料として使う必要が無いからです。
私は「真跡であるとして解説」したのではなく、日蓮宗的に解釈したわけです。
と云うのは、「諸法実相抄」を親書とし、該当の文を凡夫本仏論や法を偏重する傾向の人に対して、重要御書の義に背かないように解釈して見せるのも、役に立つと思ったからです。
妙楽大師の「金ぺい論」の「衆生は但理、諸仏は事を得」。
玄義釈籖の「三千理に在れば同じく無明と名づけ、三千果成ずれば咸く常楽と称す」(釈籖第七上・全集四巻348頁)。
玄義釈籖の「三千改まること無ければ無明即ち明。三身並びに常なれば倶に体、倶に用なり」(釈籖第七上・全集四巻349頁)。
等の意趣をもって、解釈しているわけです。
>「凡夫=体三身=本仏、釈迦=用三身=迹仏」という用法はない
>という意味です。
もちろんそんな用法はありませんね。
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