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日蓮聖人の本尊観

63一字三礼:2002/08/02(金) 20:28

犀角独歩さん

>私は法華経一巻で見ますから

法華経を全体で一つとして把握する事は、面白い試みであると思います。

しかし、よく言われる事ですが嘱累品第二十二の終わりで、
爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来たりたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめんとして、是の言を作したまわく、諸仏各所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもう可し。是の語を説きたもう時、十方無量の分身の諸仏の宝樹下の師子座上に坐したまえる者及び多宝仏、竝に上行等の無辺阿僧祇の菩薩大衆、舎利弗等の声聞四衆、及び一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す。
多宝仏及び十方分身の諸仏はのように、各処にお帰りになったはずですが、

薬王菩薩本事品第二十三
多宝如来宝塔の中に於て宿王華菩薩を讃めて言わく、
妙音菩薩品第二十四
時に多宝仏、妙音に告げて言わく、
観世音菩薩普門品第二十五
分って二分と作して一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉る。
そして最後の普賢菩薩勧発品第二十八では、
仏是の経を説きたもう時、普賢等の諸の菩薩・舎利弗等の諸の声聞・及び諸の天・龍・人非人等の一切の大会皆大に歓喜し、仏語を受持して礼を作して去りにき。
多宝如来はお帰りになられておりませんね。というより、この座にいらっしゃらなかったようです。このような不自然な出入りがあります。

また、内容的にも法華経の後半ではでは観音品や陀羅尼品のように唐突に挿入されたような部分もあります。

以上の事からも、法華経はまとまって成立したとは考えにくいので、全体を一部として観る事はむずかしいのではないでしょうか。

日蓮聖人は「本尊抄」で、

答えて曰く、法華経一部八巻二十八品、進んでは前四味、退いては・・・一品ニ半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。

の御文で、三分科経を経判のように用いて、一品ニ半に全仏法の中心を定めておられます。

それこそ伝統的な解釈かもしれませんが、一品ニ半を基軸として、法華経を一部として捉えるというように、中心点を考えなければ全体での把握は難しいのではないでしょうか。


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