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日蓮聖人の本尊観

9管理者:2002/07/30(火) 19:42

70 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/25(木) 22:40

独歩さん

69について教えて下さい。

聖人は本迹論を、天台を踏襲して強く用いられていますが、これは仏法教義ではないようです。創価大学の教授の孫引きは情けないのですが、菅野博史師は
本と迹とは、『荘子』に説かれる聖人の具体的な行為を「迹」(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以」(履物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教側で「迹する所以」を「本」と改めたものである。(天台)智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである(『法華経入門』岩波新書 P91)
と指摘しています。つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

なるほど。
そうしますといままでの日蓮の教えでもある本迹論というのは間違いであると、そう理解してよいでしようか。



「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」
について、私にはちょっとむずかしいので、もう少し解説していただけないでしょうか。


「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。」
とあります。すみません。ここのところも用語が難しくて解説していただければありがたいです。

本当にすみません。




 
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

と説明するとおり、日蓮門下の思想と言うより中古天台本覚思想の転訛と見做すべきであると私は考えています。

もっとも、松戸師の書籍をどこぞにしまい忘れて記すところですので、的はずれのところはあるかも知れません。

それにしてもドブチェクさんの精神史には感銘いたすものです。遅筆とのことですが、いつも投稿を楽しみにしております。

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