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日蓮聖人の本尊観

61犀角独歩:2002/08/02(金) 18:08

―59からつづく―

釈尊の本尊観とう当スレッドに立ち戻りますが、川蝉さんがお示しくださるところは、聖人は釈尊を根本仏であると見なすから本尊とすると換言できるのでしょうか。

私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準によるからではないのかと考えています。

娑婆世界で説法教化する釈尊、滅後その娑婆で弘教を託された上行を、そのことが説かれる法華経は、南閻浮提中、この日本有縁の経、仏菩薩として取り定めてのことではないでしょうか。

先の寿量以前の仏と教えは方便であるということで、直ちに疑問が湧くことが、もう一点あります。薬王品第23に

若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即往安樂世界阿彌陀佛大菩薩衆圍繞住處。生蓮華中寶座之上。

という一節です。ここでは安楽世界(極楽)阿弥陀如来が説かれるのであって、もちろん、寿量品以降でもあるわけです。聖人が、この文は知らぬはずはなく、では、この阿弥陀如来を簡んで、久遠釈尊は採るのは、有縁であるからとするのが聖人の教えではないでしょうか。

取要抄にも

有縁の仏と結縁の衆生とは譬へば天月の清水に浮かぶが如し

と、その関係は示されています。

この有縁の仏を釈尊と考えるときに、その他、無数の仏が他土の、その仏と有縁の衆生と共に無数の仏国土もあるのではないでしょうか。

また、この無数の仏も、師仏に随順し妙法蓮華経によって悟る仏であれば、三身相即・無始古仏と見ることは、何等法華経の説相に矛盾しないように思えます。

やや蛇足ですが。

先の内薫自悟における無窮は、時系列での過去への遡及ですが、この場合、無始であれば、その始まりはなく、どこまで過去に遡ったとしても最初の一仏に行き当たらないことになるようにも思えます。ですから、問いにおいて「問若許有最初無教」と、もしも最初に無教ということがあれば、と仮定として問いを立てているのではないでしょうか。

無限・無数は法華経の基底でありながら、有限の五百塵点に釈尊の成道は置かれています。その成道は、正しき蓮華の法によれば因果倶時となり無始古仏と己心に観じると聖人は仰せになられているように思えます。

ただ、いま、ここで記したことは、具に迹に当たったわけではありません。
ご批正をいただければ、有り難く存じます。


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