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日蓮聖人の本尊観

20管理者:2002/07/30(火) 20:19

84 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 15:18

73 ドプチェク さんへ。:
横から失礼します。

ドプチェクさんは
> 飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきもの>ではないのか?と、漠然と思っている
との事で、「諸法実相抄」の文も、そのように思わしめる、とコメントされたようですね。

凡夫の能力では、真如を直接に、証悟出来るものでないです。そこで、我々が真如を証悟出来るようにと、釈尊が教法を説いてくれたのですから、教法を拠り所にしなければなりませんね。
ドプチェクさんの云われるように、あくまで(教)法が根本ですね。
しかし、教法が根本だからといって、釈尊の教導、加護は必要ないとか、無いだとか云うのであれば、それは極端論ですね。
仏・菩薩の導き、加護があって、はじめて仏道を歩めるものでしょう。昔から仏力・法力・信力の三が合わさって仏道を成就できるものであると云われています。

唱題は釈尊の功徳智慧(因行果徳の二法)を譲り受ける行ですね。唱える南無妙法蓮華経は、喩えると、母親の乳首と吸う行為と考えたら如何でしょうか。吸う行為と乳の出口である乳首が有っても母親自体が居なければ、いくら吸っても乳は出てきませんね。
法としての南無妙法蓮華経が根本だと云って、もし釈尊を必要無しとかといって、軽んじる者は、乳首と吸う行為だけを大事にして、母親自体などはいらないと思う者と同じですね。
唱題を通して釈尊が智慧と功徳が、こちらに心に流れ込んでくると云う事を忘れてはならないと思うのです。

さて「諸法実相抄」ですが
とくに中古天台的表現が見える前部分は偽書を付加したものであろうと学者たちが評しています。後半は宗祖以外には書けない文章だと評しています。
かりに全体が親書としても、前部分は傍系御書と考えるべきであるとされている御書です。

日蓮宗的立場から略釈して見ます。
「答へて云く、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」
これは、地獄界から仏界までの十界は妙法蓮華経のすがたで、天地法界そのものが妙法蓮華経だと云う意味ですね。
仏界まで妙法蓮華経とあるのだから、釈尊も仏界だから妙法蓮華経ですね。

地獄の因を積んで地獄の依正(身体と環境)を得るのも、ないし、成仏の因を積んで仏の依正(身体と環境)を得るのも妙法蓮華経と云う実相の動き(十如因果の動き)そのものです。そこのところを「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」と云うのですね。

妙法蓮華経の実相とは十界互具・互具平等(一念三千)と云うことです。だれでも十界互具の体です。その十界互具の仏界を表に現したのが(発揮したのが)釈尊です。
だから十界互具の実相、妙法蓮華経から現れたところの衆生救済の働き(用)を行うのが釈尊と云う事になります。
そのことを「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」と表現しているのです。
ですから、釈尊が根本教主でないと理解してはいけないのです。
(続く)


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