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日蓮聖人の本尊観

60犀角独歩:2002/08/02(金) 16:36

川蝉さん:

> 寿量品以前に説いている釈尊の修行や得果は、方便であったと言う意味があります

これは典型的な日蓮教学の解釈であることは充分承知しております。
しかし、私は、ここの部分がすんなりとおりません。

寿量以前が方便であれば、諸法実相も方便となってしまいませんか。また、常不軽菩薩品はどうなるのでしょうか。

故に該当部分は、寿量以前ではなく法華以前、権実判を論じていると、考えないと法華経は寿量品以外はすべてが方便になってしまうと感じます。

「三身・無始古仏」は、もちろん、本尊抄の

我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏

を言われているのでしょう。けれど、釈尊が無始古仏であるから、無数仏(先仏)なしとはならないのではないでしょうか。

無始であるが故に前はない、だから、先仏なしというのは時系列ではそうでしょうが、しかし、実際、無始は、そんな元初という過去を論じるものなのでしょうか。

蓮華とは、釋籤の如く因果倶時を言うのであり、久遠成道の瞬間、蓮華の法として因果倶時を証し、そこでは過現未という因果異時の時系列の時間的な束縛は消え去ることを無始と称しているのではないのかと私は思います。

無始とは遠い過去を指すのではなく、成道により過現未を超克し、因果倶時たることを標するのであり、その仏はまさに三身相即でもあるというのが聖人の考えではないのかと私は考えます。

なお、内薫自悟というのは、仏が仏によって悟り、その仏がまた仏によって悟ると順々に過去に遡っていくと窮まりは無い、けれど、仮に窮まりが有るとしたら最初は一仏、無教となる、では、このとき、仏は何によって悟るのかという問いに基づく答えですね。しかし、これは無始古仏と特に脈絡があるとは思えませんが、如何でしょうか。

もちろん、以上のことは、川蝉さんの信奉されることを否定するものではありません。


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